愛なる神は、
キリスト者の愛してやまない者、物、事を奪い取られる、
というのは本当です。
何故でしょうか。それは
信者の「永遠の益や福祉」のためであり、それは
信者がかつて「神に自分の総てを献げた」と言う献身を根拠として
行なわれるのです。神は「私の一切をあなたに委ねます」と言う
私の一つの祈りを忘れることはありません。
例えば、神は
「私が愛する者」の心そのものに変化を与えてしまうか、
またある環境を起こし、私にその対象を もはや愛させないように
してしまわれます。
また、私の愛する者が遠い旅に出てしまうか、
或いは この世を去るという環境を許されるかも知れません。
いずれにしろ 神に対するあなたの献身が本物であるならば、
神はそれに応じて「あなたの総てのもの」を剥奪しにかかられるのです。
そして遂に残るは「ただ神ご自身だけ」にしてしまわれます。あなたに
敢えて神が許される状況の中には あなたに近づく死という可能性さえ
あるかも知れません。いずれにしろ、神は時間の中でそれを必ず実行
されます。それはただひたすら「永遠という範囲を人生のスパンとする
あなた」の真の益のためです。
従ってあなたは 何もそのような可能性を漠然と待つ必要はありません。
あなたが「天国の故に、霊的な生活を奪い取りたい」のであるならば、
一刻も早く「あなたに親しいもの」総てを自ら進んで捨て去る方が
はるかによいのです。
あなたは今の時(肉体と時間に留まっている時)を生かして用いる
必要があるのです。なぜなら今は悪い時代であるからです。
それは「神の御こころと願望」を、更新された人の自由意志を用いて
自ら選び取る という人間最高の行為に繋がるのです。そのように、
確かにキリスト者の真の賢さは 総てを捨て去るまでの時間の長短に
現れる、とも言えるでしょう。(エペソ5の14~18)
いずれにしろ神は必ず ご自身を愛する者の心に、ご自身以外の一切を
放棄するようにと、忍耐強く働き続けられます。私達の中の霊の命でさえも
私達の愛の対象が「神と何か」へと分割され、また「さ迷う」ことを許され
ません。私達の視界の焦点は あたかも「あの鳩の目」(雅歌4の1)
のように、単一にキリストの上にのみ焦点づけられるべきです。
所が多くの場合 私の生来の愛は 動機において間違い、過剰において
間違い、目標において間違うものですが、何とそれらは神にとっては
汚れとさえ映っているのです。事実神の目から見るとき 私の自己から
出てくる「私起源の愛情」は総て 私の憎しみと同じように
汚れていると言わなければならないのです。
☆ ☆
「あなたの宝のある所に、あなたの心もあります。・・
もしもあなたの目が単一(ダービー訳)ならば、
あなたの全身が明るいのです。」(マタイ6の21、22)
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