私達は決して「自分で神を愛することが出来る」などと思うべきでは
ありません。生来の私達には本来 神を愛する「真の愛」の
持ち合わせはありません。主は「人の自己」から出て来たものであれば
それがいかなるものであっても否定されます。神は 私起源であると言う
理由の故に「私の美しく見える主に対する愛」でさえ
受け入れることが出来ないのです。
しかしもし私達が 主に対して愛を全く持たない、と言うのであれば
神は当然 悲しまれます。しかしながらこの他に、私達の主をことのほか
悲しませる理由があり得るのです。
それは私達が主を「人の魂で」愛することです。
もし信者が魂の力で主を愛するなら、それは主を喜ばせることはあり得
ません。信者の愛は、主を愛すると言う目的のためでさえも
「完全に霊の支配の下に」いなければならないのです。
今日 あまりにも多くのキリスト者が「この世的な愛」によって、即ち
「魂からの愛」によって主を愛しています。真に「神の愛によって」
主を愛するのを見ることはとてもまれです。
これは実際にはどのような意味でしょうか。
今日、多くの人々は「人の心で」神の事柄を受け入れています。彼らは
父なる神の愛について語ります。彼らは主を「愛する主よ」と呼びます。
そして主の苦難を記念します。このようにする時、彼らの心は喜びに
満たされ主の愛に「感動」します。
彼らは、この感覚は「主からである」と確信します。ある者は 主の
十字架を思うとき、涙を抑えることが出来ません。それを見ると私達は
彼らには主イエスに対する言い尽くせない燃える愛があると思うでしょう。
しかし、非常に確かなことは
そのような感覚は「彼らの命」をすぐに「ケロリとして」素通りしてしまう
ことです。その跡に何も残るものはありません。そこには「永遠的天的な
要素」を彼らに与えるものは全くありません。それはまるで
「跡を残さないで」海を行く船のようです。一体、これはどのような
愛なのでしょうか。その愛の根源はどこにあるのでしょうか。
このような愛の源は決して「永遠からのもの」ではありません。それは
「人の自己を幸いにする愛」であることには間違いありません。しかし
それは決して「真に神を愛する愛」ではあり得ません。
それではそのような時、彼らが愛している本当の対象は何なのでしょうか。
それは、彼らが自己の魂で感じる「幸いな感覚」です。彼らは 主の苦難を
外側から見て感動するのですが、そこには非常に大切な事実が欠けている
のです。それは、そのような愛においては、内側にある真理は「彼の命」に
霊的ないかなる影響も与えることが出来ない、と言うことです。
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