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ここで彼が強烈に訴えていることを 容易に受け入れるキリスト者は
むしろ少ないでしょう。多くの人はむしろ ある種の抵抗を感じざるを
得ないのではないでしょうか。
しかしながら確かに私達は 例えば「聖書にそって」作られた「イエスの
物語」に人が感動すれば、その感動と感覚は必ず「神からである」などとは
決して言えないことを知っています。神により頼むことなど全く無く、
単にこの世の興行目的の為に、極めて美しく作られたキリストストーリーが
「人々の魂」を揺り動かすことは十分あり得ることです。何故ならそれは
人々の魂の感動を獲得すると言う唯一のターゲットの下に、これまた
あらゆる人の魂の力を総動員して作られたものであるからです。
その点にこそ その「キリストストーリー」の根源があるのです。今日の
世相の中で、人々の求めるものはひたすら「魂の感動」です。それ故に当然
人々は真にキリストを愛したからではなく、唯「自分の魂の感動」を得た
ので涙さえ流すのです。その感動の根源は正に人の魂です。従ってその
ような感動の中に、人の命に永遠的な影響を与え得る天の要素が
皆無であることは全く論を待たないのです。
従って事の要点、総ての重要なポイントは それらのものの「根、源」に
あります。「神ご自身と復活のキリスト」と言う唯一の源から発しない、
いかなるものも 神が評価なさることは決してありません。
それが「この神」の極めてユニークで決して譲ることのない特徴です。
そして「キリストの復活以外の一切のもの」に対する神の絶対的な評価が
「あの死罪」だったのです。従ってそれら総ては イエスキリストの中で
死ななければなりません。イエスの十字架とは旧創造の「総ての物、者、
事」に対する神の絶対的な否定であり、復活とは 神の唯一の絶対的な
肯定です。即ち 死を完全に撃破したものだけを神は肯定されたのです。
それが復活のキリストです。従って「私達の神への愛」を含め、あらゆる
ものが 唯復活のキリストからのみ発せられなければならないのです。
今その復活の主なるキリスト御自身が 私達の霊の中におられるとは
何たる事実でしょう!従って私達の「神の器としての魂の感情」はその
霊への完全な服従のもとで、真の神の愛を流し出す可能性があるのです。
1 件のコメント:
『これがそうです!あなたが自己と長い間言ってきたものはまさにこれです。わたしが十字架に付けなさいといっている自己はまさにこれです。あなたは肉に関してまことしやかに軽率に語ってきました。これが肉です!わたしが憎むものはこれです。わたしが忌み嫌うものはまさにこれです!』
このような神の照らしと、啓示がありますように。アーメン。
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