私達はともにこれから
主の十字架の死のパワーを見せていただこうと思っています。
すべての取り扱いは結局のところ、私たちが世にあって主を知ること、
そして、主の御愛を本当に知ることの幸いにあずかり 主の御からだ為の
器となるために 妨げになっているものを処理することが目的なのでしょう。
つまり、「神が神である」ことを私たちが学ぶためのお取り扱いですね。
主に明け渡した者達に対しては、決して敵も大きなことはできません。
いや、敵がすることは「主の御手の中で都合の良い道具となる」
だけですね。
苦しいことを経る中で「感情や体の反応」を客観的に見て、それなりに
対処することもできるようになって来て 翻弄されることが少なくなり、
とても楽になりました。
世の暗闇の中で 私たちは神を知り、感謝し、主そのものである
平安、喜びを享受しつつ、真に主に寄り頼み、主を礼拝する者と
なって行く。求める者は皆その過程にあるのでしょうね。
元気な人たちを羨ましいとは思いますが、でも、もっと素晴らしい
ものを知り味わう機会を与えられていることを感謝しています。
読むことも、PCの前に座っていることも
あまり簡単ではなくなってきています。
これからは ますますそうでしょう。
でも主は真実であり、十分です。
主の愛を心から感謝します。
3 件のコメント:
アーメンです。日々自分の十字架を負うということの意味とは何でしょうか?
ちょっと無機的な説明になりますが、通常5W1Hで考えてみると分かりやすいのでこれを用いて説明します。5W1Hとは、when,where,who,what,why,howです。
①when:日々、いつでも
②where:どこでも
③who:自分が
④what:ここが重要です。何を自分の十字架に付けるか?ここを多くの人が誤解しているのではないでしょうか?多くの人は、苦しい状況、苦しい感情を十字架につけると思っていますがそうではありません。正確にいえば、苦しい状況に反応している「自己」を十字架に付けるのです。苦しい状況、感情を十字架に付け、キリストの十字架の死の効力により、その苦しい状況、苦しい感情を和らげたり、消し去ったり、いい方向に持っていくためではありません。その状況に反応して、感情に支配されている「自己」を十字架に付けるのです。結局同じではないかと思われますが、天と地の差がここにはあります。神が苦しい状況をお与えになるのは、あくまでも手段であって、その苦しい状況に反応している自己⇒①自己のために ②自己の力によって ③自己にしたがって この三つを死に追いやりたいのです。
⑤why:神の命、永遠を現しだすために(神が望んでいるのはただこの一点だけです)
⑥how:日々自分の十字架を負い、その十字架に付けた「自己」をキリストの十字架の死の効力を通して砕き、死に追いやることによって
以上です。
ただ、ただ、アーメン!
私のブログでもこの「あるメールより」を掲載させていただきました。
事後報告ですみません。
ハイ、大丈夫です。
了解いたしました。
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