信者はキリスト者の最高の生活が「人の本分」と矛盾するものでは
ないことを知るべきです。ローマ書、コロサイ書、エペソ書の後ろの方
を読むとき、キリスト者は「人の本分」を果たさなければならない
ことが分かります。
キリスト者のあるべき生活は、決して限られた場所と時間に限定される
ものではありません。それはいつでも、どこででも十分に表現される
べきです。従ってここだけは神にいてもらいたくない「私だけの場所や
また時間」などあるべきでありませんし、また神の前では比較的低劣な
時間帯などもある筈がありません。家事を行うことと、メッセージを
すること、祈ること、病床に伏していなければならないことの間に全く
何の優劣もないのです。キリストの命は、ありとあらゆる私達
キリスト者の生活を通して表現されなければなりません。
現在おかれている私の立場と状況に対する不満(この状況では 本分を
果たすことができないとする不満)は、実は私達が「感情の生活」を
している結果です。私達が反抗する理由は「私が願っている私の幸い」が、
この状況においては得られそうもないと思うからです。しかし本来、
キリスト者の生活は決して「自分の幸い」のためではありません。
それでは何故 私達は幸いを求めるのでしょうか。なぜなら、私達が
陥りがちな「私の感覚主導の生活」は、私に与えられた本分を重んじ
なくてもよいからです。しかし信仰の生活はそうではありません。
神に対する私達の愛は、私達の友人(周囲にいる人々)や敵に対して、
私の本分を捨てるように求める筈はありません。もし私達が
総ての事柄で、総ての時間、神と結合しているなら、あらゆる人に
対する私の本分が何であるのか、どのようにして彼らを助けるべきか
を知っている筈です。
*
Sugar 私見:
7/10の続きです。これは感情についての総論ではなく、
そのもとの1項目、「感覚の生活」の一部です。先回、うっかり
この部分の紹介を忘れてしまったのです。
2 件のコメント:
とてもスッキリしまし。パウロでしたっけ、「わたしは貧しくても、豊かでも、あらゆる状況に対処するすべを知っている」と言うようなことを言っていましたよね。八方ふさがりのようでも、主によって希望にあふれることは可能であると知っています。重荷はもう重くなく、主への感謝があるばかりです。世の人はそんな私を「天然」と思うかもしれません。天然、ハレルヤ!です。
天然ですか?私にはそうは見えませんが。
私はこれから、家庭での分を果たすために
芝刈りをします。外は暑いんですけどね。
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