2009年7月6日月曜日

冷静さの性質

ここで私達は、ある点に注意しなければなりません。
もしも、ある人の感情が静かで冷静でありさえすれば、彼は霊の
支配下に入り、彼は霊的になったと言えるのでしょうか。
当然そうではありません。この時 重要なのは、彼の冷静さは
一体どんな性質のものか、と言うことです。

あるキリスト者が、もしも感情の高ぶりによって手痛い失敗を
すると、きっと彼はその感情を抑圧しようとするでしょう。そして
もしも何とかそれに成功したと思うならば、或いは
「私は冷静になった、だから霊的になったのかな」と
思うかも知れません。しかしこれは明らかに誤解です。

また感情の高ぶりの後、そこに一種の反作用が生じ、
感情の自然現象として、その後 冷静さが生じることがあります。
しかし当然、これも霊性ではなく単なる感情の別の面が現れた
に過ぎません。


以上のような魂から生じる冷静さは、彼をしてむしろ、神のことについて
興味を失わせ、他のキリスト者への愛を減少させ、或いは交わりを慕わなく
させることに繋がるのです。或いは彼は冷静になったのではなく、
単に冷たくなっただけなのかも知れません。そうであれば、これは彼に
とってはむしろ後退です。正常なキリスト者が「真の情熱」を
失うことなどある筈がないのです。

大切なことは、今存在している冷静さが、彼の魂が真に
十字架によって取り扱われた結果であるかどうか、と言うことです。


Sugar 私見:
神はいかなる「よきもの」でさえも「生来の人」を源とする
一切に反対されます。それこそキリストの十字架が主張することに
他なりません。「キリストの十字架は旧創造の一切を含む」と言う
「聖書における最大の神の宣告」は、私達一人一人に極めて重く鋭い
チャレンジを投げかけていると言わなければなりません。私達は、
しかしそれを「神の過酷さ」として感じるのでしょうか、それとも
喜びの中で「キリスト者への福音」として信じ受け入れるのでしょうか。


先人は「実際的な日々の十字架の適用」については、別の箇所で
極めて詳細に論じております。この言わば「キリスト者の為の
感情論」は、従って、彼が既に述べた「実際的な十字架の適用」に
関する読者の「真の知識」を前提としていると言えるでしょう。

しかし、先人のどんなメッセージを見ても、十字架への言及を伴わない
ケースはとても少ないのです。何故なら十字架の適用の範囲は広範囲に
渡る上に、その一つ一つが極めて深いものであるからであり、また
総ての聖書の項目の根底には必ず十字架が横たわっているからです。
従ってこれから このシリーズの随所にも十字架への言及が現れて
来ざるを得ないと思われます。(ただしこの「感情シリーズ」を私が
いつまで続けることが出来るかは定かではありませんが・・)

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