人の生活における「感情のありさま」を観察すればするほど、
感情と言うものはひどく揺れ動くものであり、そんなに信頼出来る
ものではないことが分かるでしょう。
もし信者が霊に従って生きるのではなく、そのような感情に従って
生きるのなら、彼の生活も波のように揺れ動いてしまうのは当然です。
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だから多くの信者は自分の生活を嘆いています。彼らの生活の姿は
あまりにも不安定過ぎるからです。ある時は、まるで第三の天にいる
かのようで、彼は喜びに溢れ、人生の一切を超越しています。ところが、
間もなくすると、彼はひどく意気消沈し、その有様は全く普通の人と
変わらないようになってしまいます。要するに、彼のクリスチャン
生活は激しく上がったり下がったりを繰り返しているのです。
しかしよく見ると、そのように彼を激変させるほど、外面的に何か
重大なことが起こったわけではないようです。実はホンの少し、
自分の意に反することが彼に臨んだだけで、そのような激しい
変化を招いてしまっている、というのが実情です。
このような現象は、彼が感情に支配されていると言う明確な事実を
示しております。彼は決して「霊に支配されている」と言うことは
出来ません。彼においては、明らかに感情が、その生活の大きな要素
となっているのです。要するに感情が彼を日々揺れ動かしているのです。
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何故でしょう。一言で言えば、彼自身がまだ、真に十字架にもたらされた
ことがないからです。その結果、彼の霊が聖霊によって強められて
いないからです。言い換えれば、彼の霊は依然として弱いのです。ですから
彼の霊が彼の全存在を支配することなど到底出来ません。故に、彼が感情
に打ち勝つことが出来ないのは当然です。それはまた、彼の魂の中の感情
の命が、彼の中で第一次的な地位を占めているからだとも言えましょう。
もしも、感情の地位が彼の全存在の中で第二次的になるならば、
彼の感情は霊の支配下に置かれることになります。もし彼が聖霊によって
自分の感情の命を十字架につけ、総ての事柄で聖霊を主とすることが
出来るなら、彼は初めて、激しくアップダウンする
クリスチャン生活から免れることが出来るでしょう。
(先人の言葉より)
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