*二種類の「~のために」「~を通して」*
さて結論的に言うならば確かに、キリスト者が「ある者(物)のために」
「あるものを通して」神を愛するのであるならば 神を純粋に真実に
愛することなど到底不可能である、と言うことが出来ます。私達は
ただ単純に「神ご自身のために」「神ご自身を通して」「神そのものを」
愛することが出来るだけです。
これは神たる方の願いであり、また当然の要求なのです。
愛に関して、神が私達に求めておられる最重要点はその純度です。
神に対する価値ある愛は 先ず第一にその純度にあります。それは
100パーセントの純度であるべきですが、実はそれは初心者にも
十分可能であるはずです。(それを現実性のない「高度なキリスト教」
であるなどとするのは間違いです。後日この説明も必要となるでしょう)
方や 神に対する愛の「強さや深さ」は、その信者の信仰の程度に応じて
成長して行くのですから、それには「ある一定期間」を要するのは
やむを得ないことでしょう。神はそのことは十分にご存知です。
しかしあなたが、万事につけ、注意深く「神への愛の純度」を高く保つ
ことに忠実であるならば、その結果としてあなたの信仰と命の成長は、
とても健全なものになることは明らかです。それは命における霊的天的な
自然現象であるからです。実はそこにだけ、即ち「主に対する純粋な愛が
存在する所」にだけ、命の自然で健康な成長が期待できるのです。
*
・「神に対する愛」の純度を獲得するために、
実際的な十字架を自分の魂に適用すること、
(色々な愛を掴んでしまうのは魂ですから)
・次に生活の種々の場面で注意深く(目を覚まして)
その純度を維持すること、
それだけが私達の日々の責務です。
☆
青いリンゴの実はとても小さく固いのです。
まだ食べるには早すぎるでしょう。
それでも
リンゴであるその純度は間違いなく100%です。
だから、それは必ず
「あの天の忠実なる農夫の手入れ」によって
美しくおいしい果実へと成長するでしょう。
それは、神と人との大きな喜びとなるためです。
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