2010年4月3日土曜日

本当の神学校

Sugar:
今日それでも通常の出勤なんですか!
世間はきびしい。ホンとにホンとにご苦労様です。
そんな中でも昨晩 相模原さんと交わりを持たれたとか。
(実は夕べ 私も彼のために祈っていたのです。)
でもあなた方には キリストの命と愛の吸引があるのだから、
そうせざるを得なかったはずですよ。
それこそ「エクレシアの生活」ではないでしょうか。

大越さん:
F市に小さな集まりが出現したことを聞きました。
すばらしいですね。
そのような命の現れ出ることを 祈りたいと思います。

Sugar:
すばらしい、
言われるように 結果としてこういう現象が「現れ出た」のですね。
どうすれば そうなるのか、問題はそこです。それは絶対にいわゆる
奉仕や伝道活動などの「この世の物理法則」からではなかったのです。
一言で言えば、「主の十字架と彼らの信仰」から自然に流れ出た、
ということですが、この二つの中身はあまりに深くて重い。

大越さん:
相模原さんは今、仕事を通しても、
主の対処を受けているようです。これまでになく厳しい環境におかれ、
自分の無力を痛感していると話してくれました。

Sugar:
そういうこと(十字架と信仰)を今 皆さんは一面、この時空内の
どこにでも建っている「本当の神学校」で日々 あまくない実地訓練を
通して学んでいるわけです。その上、その神学校が建っている 
この世の大親分は強大な神の敵ですから大変です。
さて、今日の授業はどんなものでしょうか。

2010年4月2日金曜日

今日は・・

山は暖かな春の雨、
(でも我孫子の方 今日は嵐だとか・・)
これでは午後の いつもの山歩きも出来ないのかな、
これはチトさびしい。

工事は、と言うと 今のところ・・
・風呂のカーテンを4センチ長くすること
・村の木工さんに頼んで ピアノコーナーの「簡単モールディング」
用の細い棒をたくさん切ってもらうこと、
・南デッキの透明(とうめい)屋根の修理
・防腐のため 外南面に白いトタンを張ること
・東そと に作った足場の撤去(てっきょ)等
が待っているのですが
以上は全部マイナーな作業であって
この他に 本来の工事があるわけです。

しかし、
「言うはやすく 行なうは難(かた)し」で、
やはりこの小屋、いつになっても完成と言うことは
あり得ないのでしょう。でもまたそれもいい、と。

2010年4月1日木曜日

昼下がりのフクロウ

きのう、午後三時前か 毎日の小さな山歩きの道すがら
中村さんの雑木林で 遠くフクロウを聞きました。
しばらくぶりでしたね、フクロウの声、嬉しかった。
(私はこの鳥が好きなのです)

それにしても、
雲の向こうに 月のようなぼんやりした太陽がのぞく昼下がり 
あの夜の鳥、フクロウが鳴くとはネ。

それから 
きのうはウグイスの「初なき」もありました。
この辺は春になると ウグイスがやたらに多いのです。
三月すえ、今時が彼らの初なきなんですね。
ところが まだまだホーホケキョにはならない、その半分くらいかな、
でもこの時期としては結構じょうずな歌いっぷりでした。

お便り感謝

お元気そうで、うれしいです。
私も元気です。

今特に
「悪霊との戦い」について目が開かれそうなので 
とてもワクワクしています。私達は
日常生活のささいな場面の中で、
悪霊の仕業(しわざ)を見抜き、彼らに
屈服(くっぷく)しない「私の霊・態度」がとても重要です。
それは正に、霊対霊の戦い、
私の霊と彼らの霊とのバトル、格闘(かくとう)となるでしょう。

キリスト者は
自分の意志までも放棄(ほうき)し「神に総てをあけわたす」
という美しい表現によって、知らず知らずの内に
悪霊にまで自分の内面を開放してしまうことが多いようです。
それは無数の「超自然的な生き物達」に対して自分を
全く無防備(むぼうび)にしてしまうことです。

私達は 神によって自分に与えられた人の意志を
十分に用いる必要があります。自分の意志を機能(きのう)させ、
環境と感覚の中の「悪霊からのいつわり」をはねつけ
断固(だんこ)神の御心のみを選び取らねばなりません。
「神に従いなさい、そして悪魔に立ち向かいなさい」(ヤコブ4の7)
「神より生まれたる者は おのれ自らを守る」(Ⅰヨハネ5の18、永井訳)

この点に関しては 20世紀初頭(しょとう)の
ペンルイス姉妹のメッセージが参考になります。

2010年3月31日水曜日

近況です

昨日 入山しました。
19日に夏タイヤに交換してしまったのは やむを得ないとして
何と24日の夕方から、またまた
雪が降り続くらしいことが判明、急遽(きゅうきょ)24日朝
下山したのでした。(本来は26日の下山、夏タイヤでは危険です)

更にまずかったのは ノートパソコンを小屋に忘れたことでした。それで
昨日 小屋に帰るまでメールもブログも完全休止状態であったのです。

寒い三月はもうたくさんですね。春は今か今かという時期になると
寒さが思わせぶりに居座(いすわ)るのはちょっとツライ。
これは「三月だ 春が来たぞ」と 寒さへの覚悟(かくご)も同時に
脱(ぬ)ぎ捨ててしまったからでしょうね。

でも今日からは気温も上向くとか、
春の遅い阿武隈なればこそ、
こんどこそ暖かい四月を期待しているのですが・・

2010年3月23日火曜日

ある手紙から

兄弟、兄弟の状況のために祈っています。
さて、
この道は「今日の」イエスご自身ですから イエスの敵が黙(だま)って
この道を見ているはずはありません。かならず攻撃(こうげき)して来ます。
それは避(さ)けることが出来ません。

敵の攻撃はおもに 私達の思いや感情に対してです。
そして敵の手段(しゅだん)は二つ、ウソと死です。
彼のウソは いろいろな情報(じょうほう)を通して日夜 たくみに
私達の思いや感情にむかって送られますから 目を覚ましていなければ 
見分けがむずかしいです。その結果、敵の死が機能(きのう)して、
私達を「神と交わり」から切り離すように働きます。
「神からの切り離し」こそ敵からの死の働きです。

この敵に対抗するには 
黙示録12章11節にあるように 子羊の血と証の言葉による
以外にありません。キリスト者がよく失敗することをみこして神は 
前もって子羊の血を用意されました。ですから、私達が敵に対して常に 
この血を示さなければ、それは全く宝のもちぐされです。

また証の言葉とは神の真理のことばです。
私達は 真理のことばを声に出して敵の顔にぶつけてやるべきです。
彼らは神のことばには とても弱いのです。なぜなら
神のことばこそが本当で、敵の仕業(しわざ)はすべてウソであるからです。

当たり前ですが、ウソは真理に対しては みるかげもありません。
それは実に はかなく、つかの間の朝のキリのようなものであり、 
事実とは名ばかりの 死に満ちた「ある事実」に過ぎないからです。
それを敢(あ)えて「劣った事実」と言ってもいいでしょう。

神のことばは 私達神の子は
①今 イエスと一つである、イエスの中にある、と断言し それゆえに 
②今や 天に座している とさえ言っています。それに反し
敵どもは ヘビ達の様に地をはいまわり、日夜いたるところで
ウソと死の毒をまき散らしているだけです。それは何と下等なことでしょう。

ほかにも聖書は 私達の方が 敵のウソに対してはるかに
優位(ゆうい)である と断言する多くの真理のことばで満ちています。
私達は神の敵に対し生活の中でいつも この神の真理、
「はるかに優(すぐ)れた事実」を大いに活用するべきです。

2010年3月22日月曜日

混合栓(せん)完成、そして・・

イヤーついさきほど 午前10時、
浴室の新しい混合栓の取り付けがようやく完成しました!
今晩から ようやくお風呂に入れます。

きのう「わけは無い」と作業に取りかかったのはいいが
何と 壁に接合する偏心管(へんしんかん)に入れる「コア」という
小さな部品が見当たらないではありませんか。これは大変、
コアがなければ、混合栓はものの役には立ちません。

メーカーが入れ忘れた可能性はゼロに近いので 私がどこかに紛失
(ふんしつ)したに違いありません。ここにあるか、あそこかと家中 
捜しに捜し もしかして 大きな掃除機に吸い込んだかなと、掃除機の中の
ゴミの中までも捜したのでしたが、どうしても見つかりません。
しかしまあ こういうときは アキラメも肝心(かんじん)、明日メーカーに
注文すればいいや と夕方近くになってようやく別の作業を始めたのでした。

*
ところがです、夜 奇妙(きみょう)なことが起こりました。
夕食を居間のテーブルですまし、さあロフトの自室に戻(もど)ろう
とイスから立ち上がって 何心なく視線を下におろすと 広い居間の
木の床の「正にど真ん中に」そのコアが転がっているではありませんか!

これにはビックリ、何これ!です。
世間の表現をかりれば、正にキツネに・・とでも言うしかありません。
コアがどうして「その時になって」初めてそこに現れたのか、全く
説明がつかないのです。ある想定をしてみようと思っても 
そもそもその想定が困難です。

なぜかというと 広々とした居間の中央は この小屋の中で最も
異物(いぶつ)が際立(きわだ)つ場所であるし、朝から必死にコアを
捜しに捜していた間じゅう、そして夕食のしたくのときも、食事の前も 
かなりの時間 私はそこにいたのに コアのカゲは全くなかったからです。
「ものかげ」から出てきた、のではありません、居間の床のど真ん中にです。
そこは その部品が忽然(こつぜん)と現れるにしては 最も現れ
にくい場所であると「私には」思われるのですが・・

しかし、事実は事実、皆さんはこのような時、
どのような推理(すいり)をされるのでしょうか。

浮遊(ふゆう)する魂

死んだわが子の「永遠の福祉(ふくし)」を思い、
既にわが子が生前、神(それは永遠そのものです)に触(ふ)れたと
思われる形跡(けいせき)によって慰(なぐさ)めを得るのは 
決して悪いことではありません。

しかし、それは 
ある危険と背中合わせの あやうい私の姿であることも知るべきです。
なぜなら、そのような時、まかり間違えば、私の魂は
「ある種の甘い感傷(かんしょう)を伴(とも)なった 深く暗い切なさ」
の中をどこまでも浮遊し続ける状態に陥(おちい)る
かも知れないからです。

「浮遊する魂」は要注意です。それこそ正に この世のものです!
それは この世界の詩人にとっては 格好(かっこう)の材料を
提供してくれるのかも知れませんが、キリスト者にとっては不健全です。

なぜなら そのような時、私は「神のことを思わずに ただ
人のことを思っている」からです。(マタイ16の23)この箇所で
取り扱われているテーマは「人の幸福対十字架(神の御心)」でした。
荒野の中を浮遊したがる私の魂は 常に直ちに あの「一点キリスト」
と言うポイントに付着(ふちゃく)着陸させられなければならない筈です。

ああ、神よ ごめんなさい。今しがた私は
あなたのことを思わずに、人のことばかり思っていました。
でも今私は「人の幸せ」でなく「あなたの願い、あなたの幸福」を思います。
あなたの願い、それは、あろうことか、
人の子をして まずは十字架に向かわせることでした。
だから今私の唯一の願いも 十字架に向かわれたあの神の子と
一つになること、それ以外にはあり得ないはずです。
だから主よ私にも今 ただその道を取ることを願わせて下さい。

息子のことをあまりに思い過ぎた時、次の瞬間 神がこの祈りを
常に私に与え続けて下さったこと、過ぐる一年 私にとって
これ以上の尊い時間は 他にはあり得なかったのではなかろうか、
と思っております。

*
「私の福音に言う通り、ダビデの子孫として生まれ、死者の中から
よみがえったイエスキリストを、いつも思っていなさい。」
(Ⅱテモテ2の8)
 

2010年3月21日日曜日

大きな喜び

間もなく4月18日が来ます。
それは去年ジュンが他界した日です。

最近 ゆえあって過去の自分の日記を ひもといているのですが、
04年4月19日から24日まで ジュンが山に来ているのです。

その23日の私の日記に 私が大そう喜んだ記述が出て来ました: 
今日ジュンとよい交わりがあった、彼が言った、
「お父さん、10年来の霧が晴れてきたよ」と。

一年が経過しても 私が彼を思い出さない日はありません。
しかしキリスト者の親として 最後に思うことは ただ彼の
「永遠の福祉」のことです。それと比べたら 彼が仮に この世で
どんな大成功をおさめたとしても それは決して
私の真の喜びとはなり得ないでしょう。

たとえ彼が生前、主と触れた数秒間であったとしても 
そのホンのわずかの形跡(けいせき)でさえ、
私の大きな喜びとなるのです。

ある祈り(4)

昨日 最新の情報(じょうほう)が入りました。
何と あのB姉妹が この12日に退院していたのです。
そのさい 医師は家族に「臓器(ぞうき)は変形し、胃も働いて
いない。あと半年、あるいは一年か、二年でしょう」と
言ったそうです。しかし、一月末、その医師が「今日か あす、
長くてあと三日」と断言したことを
思えば この退院でさえ ウソのような話です。

ところが、せっかく自宅療養に入ったものの、Bさんは 強い
抗がん剤のためか、それからの数日、家族が「ボケが始まったの
かしら」と心配するくらいの困った状況が続いていたのです。 
Bさんは怒りっぽく、何を言っているかも分かりません。
(抗がん剤はいつ始めたのでしょう。)

しかし18日のことです。
A姉妹は眠られないままに 終夜(しゅうや)とりなしの祈りを
したと言います。そして よく19日、ついこの金曜日の朝の
ことです。BさんからAさんに突然 電話があったのです。

「Aさん、分かる?私だよ。昨日まで、頭がボーッとしてたのよ。
でもけさ、スッキリしちゃった。昨日までは背中も痛く 
大変だったんだけど今日はどこも痛くないのよ」それから二時間
あまりもの間、電話は すばらしい 主にある交わりへと
進んで行ったと言うのです。

2010年3月20日土曜日

ある質問(2)

AとBはどちらも事実であるという点では 全く違いはないのですが、
その二つの事実は「等級(とうきゅう)的には」大きな相違があります。
(このことは 以前にも書いたようです)すなわち
Aはとても優(すぐ)れた事実であるのに反し、Bは劣(おと)った事実です。

「私達がすでに罪に対して死んだ」というのはきわめて優位(ゆうい)な
事実ですが、キリスト者の生活においてさえも「不品行、汚れ、情欲、
悪い欲、むさぼり」が生きている、という明らかな事実Bは、
しかしながら、「劣った事実」です。

しかし その事実が劣性(れっせい)の事実であるから いい加減(かげん)
でよろしいと言うことは絶対にありません。むしろキリスト者は B現象が
もともと はかなく劣った事実であることを、情欲をいとも簡単に殺すこと
によって身をもって証明しなければならないのです。すなわち私達は 
Aの事実がBの事実に対して 圧倒的に優位である証明をするのです。
そこにこそ今 キリスト者が地上におかれている一つの大きな意義がある
と言えるでしょう。

その目的のために何と 事実Bは 敢(あ)えて神によって今現在 
取っておかれている、と言えるのです。なぜ、事実Bがあるのか、
それは Aの事実の優位性(ゆういせい)を かつては罪深かった
キリスト者が自分の「汚れを容易(ようい)に殺す」ことによって証明し、
「私は罪に対して死んだ」という事実Aを クリアに引き立たせるためです。
(これは以前書いた「コントラスト」の意味です)それは 神の敵を 私達
乳飲み子のような弱い者を用いて はずかしめる という 
今の時代における神のとても大切な目的でもあるのです。

その結果 わき上がる私達の賛美は 敵を静め
神のとりでさえも建設することになるでしょう。(詩篇8の2、原文)

*
この話題に関連して 他にいくつかの大切な真理が
言及(げんきゅう)されなければならないと思っております。

2010年3月19日金曜日

春のあわ雪、なごり雪

きのう午後からしんしんとして降り続いた雪が
今日の朝、阿武隈の森を、朝日に輝く銀世界に変えました。
それはそれはミゴトな光景でした。未明 あれは
確かに10センチはあったはず、
ところが、春の強い陽光に見る間にとかされ、午後1時には 
「エッあの大雪は今いずこ」なのです。
阿武隈山中 正に春の淡雪、なごり雪ですね。

前に書いた風呂の混合栓とりかえ工事ですが、
何と新しい製品の構造上 壁の穴あけを別の場所に
し直さなければならないのです。本当にヤレヤレです。
そのために その穴あけ用のドリル(直径26ミリ)をコメリで
調達しなければなりません。

ついでに、冬タイヤを夏タイヤにかえましょう。
というわけで、これから船引の街まででかけるのです。
それでは 行ってきます。

2010年3月17日水曜日

ブジ山に着きました

さきほど、
ちょうど日没(ぼつ)ころだったでしょう、ブジ小屋に着きました。
暗くなる前でよかったです。寒くて真っ暗な小屋に一人着いて
電気のスイッチを手探(さぐ)りするなどは 
あまり愉快(ゆかい)なものではありません。

地震ですか?着いてすぐ見てみると、
被害(ひがい)かなと言えそうなことは ロフトのタナの上においた
酢(す)のビンが一個床に転がっていただけ。
下手するとストーブの煙突が曲がってやしないかな、
等と思ったのでしたが、
この被害ゼロは やはり嬉しいことでした。

このあたりの地層は深く厚い岩盤(がんばん)でおおわれているから、
地震には強い筈、という話は聞いたことがあります、
真偽(しんぎ)のほどは分かりませんが・・

2月25日の「陽子さんの証し」の続きになりますが、 
陽子さんから
「ハレルヤ!
主人が、アンパンを食べたいと
言う程に癒(いや)やされています。
神様は凄いです。」
というメールが入っていました。
主に感謝です。

下山は1週間後、26日となるでしょう。

2010年3月16日火曜日

ある質問(1)

パウロはコロサイ3の5で、
「地上のからだの諸部分、すなわち 不品行、汚れ、情欲、悪い欲、
そしてむさぼりを殺してしまいなさい。」と言っています。
キリスト者は そのような「罪に対して死んだ」(ローマ6の2等)
はずなのになぜ また殺す必要があるのですか?

私の答え:
「私達が死んだ」と言う事実は 
①「永遠において」また
②「キリストの中において」です。

これを簡単に「霊的に死んだ」のであり、肉体的には
生きているのだ と説明しても間違いとは言えません。
ただそれだけでは 多くの人は「分かったようで
分からないなー」という感想を抱(いだ)くことでしょう。

いずれにしろ 神にとっては
「万物の死」は確定的絶対的な事実(真理)です。
これを仮にAとします。

しかし、今私達が存在するこの時空の中においては
「私達は死んだ」ようには見えません。私達は明らかに生きています。
これも確かに事実です。これをBとします。

今、私達の目の前に「神のことば」と「目に見える明らかな状況」
という完全に対立する二つが置かれています。
このAとBは正に真逆(まぎゃく)の光景です。
この矛盾(むじゅん)?を私達はどう解決すればよいのでしょうか。

2010年3月15日月曜日

近況です

このところしばらく 連日あれやこれやあり、
ゆっくりパソコンに向かう余裕(よゆう)がありませんでした。
リタイヤして年月がたつと 一日にたくさんのことを
こなす気力に欠けて来ます。これも年のせいなのでしょうか。

11日には 何十年ぶりに秋田のいとこと板橋で会いました。
既に数年前に他界された秋田本荘高校の恩師(おんし)のことなどを
聞きました。私の中には いまだにサッソウと教壇(きょうだん)に立つ
若き向山先生の面影(おもかげ)しかありません。私も来年には70才、
それもむりからぬこととは知りながら・・。

おとといはケンの病院に行ってきました。今回の入院は長引いて
います。あまり楽観(らっかん)は出来ないのではないだろうか、と
思わざるを得ません。(希望的な観測だけでは だめということ)

きのう午後5時 福島県浜通りに大きな地震がありました。
あちこち どうも地震が多いですね。
けさ 小屋の隣の農家のハルお婆(ばあ)さんに電話で聞いてみたら
都路(みやこじ)は大したことはなかったとのことでした。
これには一安心です。

それにしても 地球に直接接しておらず、ツリーハウスに近い
(この意味お分かりでしょうか)あの山小屋は
地震になるとハデにゆれるのです。壁に立てかけただけの
大きなミラーが倒れていなければ、よいのですが・・

明日か、あさって山に向かうかもしれません。
今年は冬が長かったような印象(いんしょう)がありますが、
皆さんはどう感じられたのでしょうか。
今年は小屋から わりと近くにある「三春の滝桜」を見に行く
ことが出来るかな。

しばらく山の三月を楽しんで来ます。

2010年3月6日土曜日

ある祈り(3)

以上のように 去年の秋以来、
彼女の体の状態は死に向かって急激(きゅうげき)に悪化し、
家族や周囲の人々も その大変な渦(うず)に巻(ま)き
こまれて行きました。

ところが 
ここに一つの特異(とくい)な事実を指摘(してき)しなければ
なりません。それは 以上のような大変な病気の悪化にも
かかわらず、姉妹自身においては、全く恐怖(きょうふ)や
おびえ、うろたえなどがなく、秋以来のいかなる時点においても 
あたかもガンとは無関係であるかのような不思議な精神状態を 
一貫(いっかん)して持続(じぞく)していたと言うのです。

*
さて、あの1月28日を境(さかい)にして 
彼女の病に「不思議な」状況が現れ始めたのです。
・その一両日後:
恐らく、B姉妹の死を 知らされるであろうという電話で A姉妹が
告げられたことは、何と死去どころか、患者は小康(しょうこう)
状態にまで回復していたこと。
(A姉妹はこれを奇跡のように感じた。)
・2月上旬:
A姉妹が二回 お見舞いに行った頃
患者(かんじゃ)は顔色もよく、ヨーグルトを食べ、イチゴも
食べたいと所望(しょもう)したこと。
・3月2日:
Bさんは何と大部屋に移されていたこと。

ただし、この大部屋に移されたとは 一体どんな意味なのか、
今はA姉妹にも私にも分かりません。
これから どういう展開がB姉妹を待っているのか、
今のところ それも分かりません。

*
最後に 以下は 
ガンを告知された頃、B姉妹が見舞いのA姉妹に語った言葉です:
「Aさん、私ガンだったのよ、でもね、おかしいくらい、全然
恐ろしくないのよ。それに胸のこの辺に 
何かあったかい所があるのよね。」

☆
Sugar 的解釈:
これは「御心の只中にあるキリスト者」の姿(強さ)
ではないかと思っております。

2010年3月5日金曜日

ある祈り(2)

B姉妹は それからの治療のために当然 さまざまな検査を
しなければなりませんでした。しかし姉妹の実際の病状には
実に容易(ようい)ならざるものがあったのです。

今年に入り状況は更に深刻(しんこく)になり始めました。
ガンが急激(きゅうげき)に進行して行ったからです。
ガンの組織(そしき)は複数の臓器(ぞうき)の間に深く入り
こんでいました。口からの食事はできず、体重は激減
(げきげん)しました。 そして 手術は到底(とうてい)
不可能、抗がん剤も放射線
(ほうしゃせん)も 全く効果がないことが判明しました。

遂に医師は 余命は今年6月までであると言ったのです。
これを知ったA姉妹は それを告げた懇意(こんい)のB姉妹の
家族と電話口で泣きました。(しかし そのA姉妹の祈りには 
どこかに平安を感じるものがあったと言います)所が状況は 
更にその上を行くように、深刻(しんこく)の度を加えて
行きました。その頃病状は正に「加速度的に」
悪化して行ったようです。

遂に病院は この患者(かんじゃ)への対応を いつでも直ちに
することが出来るようにと 特別にBさんを 看護士達の目が常時
(じようじ)届く場所(EU室?)に移しました。
これが1月28日のことです。

本人の意識はもはやなく、医師は家族に対し 今日が「その日」
かも知れない、もったとしても、あと三日である趣旨(しゅし)
を告げたのです。家族は親戚(しんせき)を病院に呼ぶ手配をし、
葬儀(そうぎ)の段取(だんどり)りのことまで
考え始めたと言います。

2010年3月4日木曜日

十字架を経(へ)ていない霊は危険です

よく「教会」や本で言われる、御霊によって歩むというのも、
結局は十字架と復活が無ければ
絵空事(えそらごと)の様な気がしますがどうでしょうか。

*
言われるとおりです。父なる神は
御子キリストの「十字架と聖霊の一つ」
の中で働かれるのであり、
聖霊と十字架を切り離すことは全く不可能です。
(以上の中に「三で一の神」の一つの働きが見られます)

すなわち、
①十字架は人を復活のなかの聖霊に導き、
②その聖霊は間違いなく再度 人を十字架にもたらすのです。
神は この①②による「上下の循環(じゅんかん)」によってだけ、
人に対する働きかけをしているのであり、例外はあり得ません。

もしも今日 この循環の外にある「超自然的な不思議」がある
とすれば それは聖霊ではない「別の霊」の働きによるものです。
人が真に死(十字架)を経過(けいか)したかどうかは その働きが
聖霊か悪霊かの識別(しきべつ)に有効(ゆうこう)です。

人の耳目(じもく)をひきつけ「感動」させる
不思議な能力、未来の予知、いやし、夢、幻、恍惚感(こうこつかん)、
熱狂、「第三の天」の超越(ちょうえつ)した経験、さまざまな
パフォーマンス、ある種の霊のバプテスマ等「光の天使」の働きのように
見える現象(げんしょう)に キリスト者は十分警戒(けいかい)するべき
であり、私達はそのような経験を あまり有難(ありがた)がる
べきではありません。なぜなら それらの不思議は
悪霊達にも十分可能であるからです。

間違いなく
この傾向(けいこう)は今後 徐々にエスカレートし そのターゲットは
むしろ真のキリスト者達に向けられるでしょう。今もう始まっている
その巧妙(こうみょう)な「だまし」は 反キリストの「よみがえり」等を
最終章とし、そのピークの雰囲気(ふんいき)の中で、全世界はこぞって
「物を言う彼の偶像」をさえ 伏(ふ)し拝むでしょう。(黙示録13章)

私達は今シッカリと、ただ十字架の中にふみ留(とど)まり、今
既に始まっているこのような暗黒の潮流(ちょうりゅう)に抵抗して
立ち上がるべきです。確かに 私達を守るただ一つの神の
備(そな)えは キリストの十字架以外にはあり得ないからです。

2010年3月3日水曜日

ある祈り(1)

キリスト者のあり方は、先ずは一人が
「独立的に」シッカリ神と相対(あいたい)するすることです。
これが基本中の基本です。
そのことを土台として次に キリスト者が神からいただいた
同じ尊い命のゆえに 彼は自然に 他のキリスト者との交わりを
求めることになります。もしその食欲がないとするならば、それは
深刻(しんこく)な霊的病の兆候(ちょうこう)かも知れません。

この2、3人での交わりや祈りは 
「神の働きor 動きの基点、原点」となります。それが聖書に
「2、3人という単位」が数多く記されている理由です。

さて
以上のことに目が開かれた都内に住む姉妹Aさんは 
一人のクリスチャンBさんを見出しました。
この比較的年配の姉妹Bさんは、不思議にも その頃から
急速に 聖書の基本的な真理に目が開かれ始めたのです。
その結果B姉妹は それまでの「人間に依存(いぞん)する信仰」
から 神に依存する「人から独立した信仰」へと変えられた
のです。Bさんはよく「皆さん このことが分かると
楽になるのに」と言われておりました。
このBさんに起こった変化は本当に目を見はる出来事でした。

そのようにして この二人は
神の働き、動きのための「一ユニット」として 喜びの内に
歩み始めたのです。それはホンの去年、
初秋のころの出来事でした。

ところが何とその時既に Bさんの体は
きわめて重いガンに犯されていたのです。

*
ここで言う「神の働きor 動き」とは「神の命の流れ出」
のことです。もしそこに本物の命があれば、その命は決して
停滞(ていたい)したりよどんだりすることがなく、必ず外に
流れ出るでしょう。それが聖書に水の流れ、また河や川が多く
記されている理由です。
(水をためこむ池でなく川です)そして水の流れには必ず
「無理のない自然な美しさ」があるはずです。命の基本的な
表現は「自然さと美しさ」であるからです。

2010年3月2日火曜日

あるシナリオ(2)

さあ そのような祈りをしていたら、ある日ある時「それらしき
チャンス」が突然(とつぜん)訪れたのです。その時あなたは 
これは主がアレンジされた状況(じょうきょう)であるとすぐに分かり
ました。ですから このチャンスを逃(のが)すわけには行きません。
あなたは遂(つい)にミスターKに話を切り出すのです、
「ミスターK、私は実はクリスチャンです・・」と。

①その結果しかし、仮(かり)に
ミスターKが 何らかの理由で怒りだし、そのよく日から
あなたをあなたの部署(ぶしょ)内で いじめ迫害(はくがい)し始め、
遂にはクビにしたとしても それはそれですばらしい
ことではないでしょうか。

なぜなら、
・一面、あなたはミスターKを愛し、彼の「永遠の福祉(ふくし)」
をねがい、彼の益のために、キリストを紹介(しょうかい)しようと
したからです。しかし、実はもう一面が必要です。
それは
・あなたの行動が 生まれながらのあなたから出た 
単なる人の熱心さからの「伝道」でないことです。

すなわち、あなたは先ずは何よりも神の御心を尊重(そんちょう)し、
その御心の中で導かれ、そして 忍耐(にんたい)の中で神が動かれるのを
待った結果 神ご自身がその状況(じょうきょう)を「創造」され、そして 
それに呼応(こおう)することによって あなたは初めて行動したのです。

もしもそうであったとすれば、今回のあなたの行為は100%
「神から」であったことが分かります。そのように
神の前において さきほどの条件(愛と御心)を経過(けいか)した
行動こそが「人がなし得る最高の行い」と言えるのではないでしょうか。
なぜなら、そこには既(すで)に あなたの隠(かく)された
十字架(すなわち あなたの死)さえあるからです。

もしもその結果、それがあなたに対する迫害(はくがい)であったとしても
それは 神とあなたにとって 大いなる益(えき)であり、何らの損失
(そんしつ)ではないはずです。(それは1%も「肉のかり取り」では
ありません。)それこそは 真の「あなたとキリストの」十字架です。
だからこそ、イエス様も言われたのです・・

「私のために」ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしない
ことで悪口雑言(あっこうぞうごん)を言われたりするとき、
あなたがたは幸いです。喜びなさい、喜びおどりなさい。天において 
あなたがたの報(むく)いは大きいのだから。(マタイ5の11、12)

*
私の個人的な感じでは、彼が怒りだす可能性(かのうせい)は
とても低い のではないかと思います。

2010年3月1日月曜日

あるシナリオ(1)

あなたの上司ミスターKは そうとう難(むずか)しい人です。
あなたは彼の下で 大変な毎日を送り、日々あなたは
絶望(ぜつぼう)しそうになっています。
しかし、確かに言えることが一つあります。それは あなたを
ミスターKのもとに連れて行ったのは主であった、と言うことです。

ミスターKは今 ひどく追いつめられ、彼のプロジェクトは
存亡(そんぼう)の危機(きき)にあります。聞くところによると、
あなたがキリスト者であるとも知らず、ミスターKは「冗談(じょうだん)
めかして」よく「神様、助けてください」などと言っているとか・・。

そこで私は一つのシナリオを思いついたのです。
今 実はミスターKの心は どうしても 神を受け入れなければ
ならないくらいに追いつめられている、今がチャンス。これは実は
主が彼のために準備された環境(かんきょう)です。

ですから、あなたは今 祈りによって準備しなければなりません。
すなわち、
主よ、ミスターKにキリストを紹介(しょうかい)するチャンスを
私のために作って下さい、いや「創造して」下さい!

それだけでなく、
私が「むりなく、自然に」 ミスターKに その話を切り出せる
場と雰囲気(ふんいき)をあなたが「私にもハッキリ分かるように」
演出(えんしゅつ)してください。
もしあなたがそうして下さらないのであれば、私は語りません。
私は「取ってつけたようなこと」はしたくありません。
私は総てを自然に美しく行いたいのです。そうでなければ、
語る責任は私にはありませんから!

礼拝は行為でなく 霊の態度・状態です(2)

*父が求めておられる礼拝*

それでは、
幾つかの「異種類の礼拝」を見てみましょう。 
①悪霊達による礼拝(マルコ5の6、ヤコブ2の19) 
何とサタンの手下・悪霊達も真の神キリストを礼拝するのです!
②イスラム教徒の礼拝 ③ユダヤ教徒の礼拝
④「命の書」(黙示録20の12)にその名を記されていない、
即ち 実のところは救われていない「キリスト教徒」の礼拝 
⑤大艱難時代に 天使によって宣べられる「永遠の福音」を聞いて 
殺されることもいとわず「獣」(けもの・反キリスト)を拝むことを
拒否し、真の神を拝む人々の礼拝(黙示録14の6、7)です。

以上5種類の礼拝はおもに「絶対者である神の裁きを恐れるので
何とか神をなだめようとする」行為であるとも言えるでしょう。

以上の5者の中では⑤がベストであり、それは神が是認(ぜにん)される
礼拝です。なぜなら その礼拝者達は神によって「ある救い」の中へと
もたらされるからです。(しかし恐ろしいことに①から④の礼拝を
神は決して是認されることはなく、また
神のいかなる救いとも関係がありません)

しかし、聖書によると この⑤の礼拝者達とて 神聖な命をいただき
「神の子達」とされるわけではありません。その礼拝でさえ
「霊の中のキリストによる礼拝」とは異なります。従ってこの「ベストな
礼拝」もあの「父が求めておられる礼拝」には該当(がいとう)しません。

従って
真の礼拝、父が求めておられる礼拝とは 神と人にとって
実に貴重なものであり、それは「神の裁きを恐れ 神を伏(ふ)し拝む行為」
を遥(はる)かに超(こ)えたものであるはずです。

私達は①から④の礼拝を見て、自らを慰(なぐさ)め、
彼らと同類の礼拝を捧げるべきではありません。私達の礼拝は
完全にあくまで「霊と真」によらなければならないのです。

礼拝は行為でなく 霊の態度・状態です(1)

*父が求めておられる礼拝*

「この山でも エルサレムでもなく・・
真の礼拝者達が・・霊と真によって礼拝する時・・今がその時です。
父はこのような人々を礼拝者として求めておられる」(ヨハネ4の23)

キリストによると、
キリスト者の礼拝は「霊と真(真実)」によらなければなりません。
ところが人に真実はなく、真実とは実はキリストです。
ですから、「礼拝する要素」は人の霊の中の復活されたキリストです。
従って「キリストと一つにされた人の霊」を用いずして
礼拝をすることは不可能です。

キリストは今日復活の中にあるのであり 時空を越えます。
ですから「真の礼拝」は「場所と時間を定めた
ある方式や行為(こうい)」ではありません。そうではなく
礼拝は 神に対する「霊の ある態度や状態」です。

従って体のある行為によって「礼拝を済(す)ませ」たり
「礼拝を守ったり」することは不可能です。少なくも
それらは、今日父が求めておられる礼拝ではありません。

それでは そのような「世に言う礼拝」とは一体何なのでしょう。
それは いわば「異種類の礼拝」とでも言うべきであろうと
私は考えております。

そうです、「異種類の礼拝」というものがあるのです。 
その礼拝は決して 異なる神や悪霊を拝む礼拝ではありません。
人々がその礼拝を評価する理由は それが「絶対的な唯一の神」を
拝する「厳粛(げんしゅく)で立派な」行為であるからです。
しかし、問題は 神ご自身も そのような礼拝行為を真に
評価されるであろうか、と言うことです。

2010年2月26日金曜日

真理とその実行への門

黙示録3の7、8の「閉じられたら 誰も開くことが
出来ない・・門・・」とは 
どんな時の事を言われているのでしょう。

*
ここの段落(だんらく)は「フィラデルヒヤにある教会」への神の御ことば
です。この教会は19世紀初頭(しょとう)から イギリスで開始された
比較的正しい教会(キリスト者達)です。主は その「フィラデルヒヤ
にある教会」を強く擁護(ようご)して この言葉を語られたのです。

開いたり閉じたりされる絶対的(ぜったいてき)なお方はイエス様です。
イエスキリストは この教会に対して 聖書の「真理とその実行」への
門を広く開かれました。しかし、他に対しては その門はかたく
閉ざされました。これは厳粛(げんしゅく)な事実です。

私達も今 この御ことばから警告(けいこく)を受けるべきです。
私達は このフィラデルヒヤの教会の実際にならい、
真理とその実行への門が 神によって自分達に開かれるには 
どうであるべきか、を真剣に追い求め また、その門が
閉じられてしまう条件を 自分の上に作らないように細心(さいしん)の
注意を払(はら)わなければなりません。

実は今日、私達が恩恵(おんけい)にあずかっている多くの
貴重な真理は 彼らの努力と発見、そしてその実行による
ところが大きいのです。
しかし何故か現在 彼らの本を 日本のキリスト教の本屋で探すのは
相当むずかしいことです。これは日本のキリスト者達にとって
大きな悲劇ではないでしょうか。
従って私達は今日「奪(うば)うようにしてまでも」その諸真理を
学ぼうとする強い願いを持たなければならないはずです。

2010年2月25日木曜日

陽子さんの証し

陽子さんは 
最近よく私のブログにコメントを寄せて下さる 
とても明るい姉妹です。
その清純朴訥(ぼくとつ)な信仰は 
私達を大いに励(はげ)ましてくれるものがあります。

ある老人施設で そのケアを受けていた陽子さんのご主人は、
突然 その脳内がとても重篤(じゅうとく)な状態に陥
(おちい)り、即刻(そっこく)病院に搬送(はんそう)
されたのです。その時点(じてん)では「どうしたらいいか
分からない」といった雰囲気(ふんいき)を 
彼女のメールから私は感じさせられました。

ところが・・
その後の姉妹のメールです:

主に感謝します。
主人は 何と来週そうそう「日の出紫苑」に戻ることが
出来るようです。主人は 奇跡的な早さで癒やされたのです。

今回私は 
主人の大変な病気によって とても大切なものを知ることが
出来ました。それは、神様の栄光を現すには
「常に 神様を目の前に置かなければならない」と
いうことです。

それまでの私は 目の前の「主」ではなく 目の前の「現実」
にのみ心を奪(うば)われ「主人が可愛そう、早く癒して
ください」というだけの祈りをしていたのです。

しかし大切なのは ただ主を全面的に信じ 主に全く委ねる
信仰です。そのようにして主に委ねた時に 私は心がとても
楽になったのです。

主人に正に奇跡が起きました:
主人の脳内の機能(きのう)が全く働いていない状態から
脳がいわば「復活した」のです。
現に レントゲンではそのように写っているそうです。
脳外科の先生も「これは 私も初めての経験です」と
とてもびっくりされておられました。
ただ主にのみ賛美をささげます。

☆
陽子姉妹、本当によかったですね。
私もとても嬉しいです。

私は更に次のことを思わされました:
今回、ご主人が癒されたことは 当然すばらしいことですが、
それ以上に価値あることは、

今回のつらく大変な経験を通ることによって 
陽子さんが確実に「ある分量のキリスト」を自分の内に
獲得(かくとく)され、逆(ぎゃく)に
陽子さんの「生まれながらの傾向(けいこう)」が
ある程度(ていど) 削(けず)り落とされたことです。
これに勝る幸いは他にはあり得ないでしょう。

なぜなら
その削り落とされた隙間(すきま)からのみ 
キリストが流れ出ることが出来るからです。

2010年2月24日水曜日

罪人にして義人

Sugarさんの考えをお聞かせ下さい。
私達キリスト者は「罪人にして義人」でありますが、
「もはや罪人ではなくキリストにあって義人」という考えは、
誤まり、おかしな考えなのでしょうか?
☆
A
「キリストにあって」は 私達は完全な義人です。
①キリストにあって、
②永遠の中では、
③キリストの贖(あがな)いが完全だったので神から見て、
すなわち、神の「法的な見地から」私達は完全に義人です。
B
しかし、キリストの外では、時空の中においては、肉体の中では、
私達は あい変わらず罪を犯しますのでやはり罪人です。時空の中、
すなわち この肉体の中にいる間 私たちが「罪なき完全」に到達
(とうたつ)することはあり得ないでしょう。これはあの90才?の
使徒ヨハネが彼の手紙の中で断言(だんげん)していることでもあります。

しかし、
1.日夜 Aの事実(神の真理・永遠で復活性の無限な事実)
を愛し、いつくしみ、尊重し、見つめ、信じ、宣言し
2.日々 自分を死に追いやる環境の中で キリストの十字架の死の
効果をわが身に受け続けることによって 真に死に続けるならば、
時空と肉体の中においてさえ、キリストの復活の命の力によって 
Aの実際(じっさい)がBの中にも、すなわち私達の肉体を通しても
徐々に現れてくることは十分可能です。

2はとても重要です。いくら理屈(りくつ)が言えても 
この2をおろそかにするならば 何の効果もないだけでなく、その人に
むしろ偽善(ぎぜん)や宗教性をもたらすだけでしょう。やはり実際的な
死を実生活の中で神の手から受け入れているかどうか がポイントです。

このAの世界とBの世界の間には 人には決して越(こ)えられない
大きな「フチ」のようなものがあります。
しかし感謝します。そのフチを越えることさえ キリストによるならば
可能です。そして私達には神によって 何とそのフチを越える「キリストの
信仰」が与えられているのです。キリストこそAとBを(すなわち天と地とを)
つなぐハシゴ(or その道、The Way)そのものです。 

そのキリストの信仰を私達が用いるとき、神の崇高(すうこう)な
真理Aは 時空の中の現実Bに対して ゆうゆうと勝利するのを 
私達はかたわらに立って 見ていることが出来るでしょう。

*
簡単に書きました。このテーマは相当の時間が必要です。
特に「永遠と時空の関係」は理解がとてもむずかしいです。しかし、
兄弟が自分の意志を用い、自ら進んで「霊的な実益(じつえき)のために」
神の門を強くたたき、神の御前で真剣に この問題と取り組まれるならば、
門は必ず開かれるでしょう。なぜなら あなたに対してそれが開かれる
ことは 神ご自身の強い願いでもあるからです。

夕べはあたたかでした

お風呂の 
水とお湯の混合栓(こんごうせん)からの漏水(ろうすい)
のため 混合栓は結局 全部取りかえ となってしましました。
新しいのをジョイフルホンダで買うことになるでしょう。
ヤレヤレですね。これは器具(きぐ)の「かっこよさ」を
優先(ゆうせん)してしまったツケかな?
メーカーはKVK という会社がいいとか・・

夕べはとても暖かく、ある時間は、ストーブをつけないで過ごす
ことができました。寒冷地(かんれいち)に住むものにとって 
これは一つの春の感動です。

*
霊的には スリリングな毎日です。
私達はつい、自分を見て「ああ、この私の見える部分 特に 
この私の肉体だけが私の総てである」と思い勝ちですが
明らかに新約聖書は はるかにそれ以上のことを言っています。

私とは「私が感じる私」だけではないのです。
すなわち「私と結合され、私と一つとなられたキリスト」を
私達に指し示すことは パウロの極(きわ)めて強い願いであり、私達は
どうしても「その大きな天地の神の生命体」を知る必要があるのです。

私達は今 その生命体、すなわち
「今日の天地におられる大きなキリスト」と神によって結合させられている
のであり、更に その天地のキリストが 何と私という存在(そんざい)
の本質であり、実体なのです!なぜなら、古き私は既(すで)に
十字架につけられ除外(じょがい)されているからです。

わたし達はよく自分を見てガッカリしがちですが、
もしもキリストの贖(あがな)いが 中途半端(はんぱ)なもの
でなかったならば この聖書の主張は信ぜざるを得ないはずです。

そして
神の全力投球されたあの贖い(あがない)の御業(みわざ)が
ホンの1%でも不完全であったなど 
絶対にあり得ないことではありませんか。

パウロは言います:
「キリストの内にこそ、神の満ち満ちたご性質が、形をとって
宿っています。そして、あなた方は、キリストにあって
満ち満ちているのです。」(コロサイ2の9)

2010年2月23日火曜日

今日この頃

今、焼き芋の朝食を終えました。あたたかいジャガイモに
バターをつけるとおいしいです。

聖書は、黙示録とダニエルの七十週を見ています。
ここからも「実際的、霊的な益」を引き出す必要があります。
七つの封印(ふういん)という巻物の中の一期間が 子羊によって
開かれつつある現在であることは明白です。

このように壮大で 自分にも深い関係のあるドラマの中に生かされている
という興味、これ以上の「面白さ」がこの世にあろうとは考えられません。

毎年の花粉症のため、15日に殆ど症状がないのに薬をもらって
飲み始めたら、3日後から 何と軽い頭痛になっています。
それで、薬は おとといからやめて今様子を見ているのです。
でも頭痛の真の原因は何かのか、インターネットで調べてみると、
それはなかなか難しいことらしいです。どうやら、やっかいな
病気ではなさそうなのですが・・。

とはいえ、神は何にもまして環境によって人に語られます。
「一刻もはやく癒(いや)してください」ではなく 主よ 
この頭痛によって、あなたは何を意図されているるのですかと
神に問うべきです。

今日は 故障(こしょう)を調べてもらった浴室の混合栓
(こんごうせん)を取り付けることになるでしょう。
うまく行くといいのですが・・。

「みちのくの最南端(さいなんたん)」も今日からは本格的に暖かく
なりそうなので、喜んでいます。(とはいえ せいぜい10度)
なぜか今 冬はもうあきあき、と言う気分です。これ、年のせい?

きのうから暖かくなり始めたので お湯が出ましたよ。
お湯があると炊事(すいじ)は楽です。
それにしても、冬の阿武隈(あぶくま)の このものすごい
冷水で炊事をした昔の人はエライ。

2010年2月20日土曜日

今、山です

きのう入山して 少し驚きました。
林道から小屋に至(いた)る道(「奥の細道」or
「ロイヤルロード」と勝手に命名)が
私の車でようやく入れた、と言うほどの積雪(せきせつ)が
あったのです。
(ハンドルを取られないように、その間 決して停止を
してはならないと言う懸命な運転でした)

やはり11日に急いで下山したのは正解(せいかい)でしたね。
私のいない期間、多い時で4、50センチ近くには
なったのではないでしょうか。

でも今日あすの日照(にっしょう)でだいぶとけるでしょうし、
あさってからは ぐっと春めいた気温になるとのことですから、
もう雪の心配は「多分?」ないでしょう。

水のほうは、やはり台所のお湯がだめでした。次の冬までは
更に対策(たいさく)を講(こう)じなければなりません。

今回 26日に下山になります。

2010年2月17日水曜日

一つなのに区別がある 1

エシュコルさん、
「一つとはいえ、区別があるなんて
実に不可思議(ふかしぎ)なものである。」
とのコメント、感謝でした。

Sugar:
言われるように これは実に不可思議です。
これはやはり人の頭脳では その完全理解は
不可能なことなのでしょう。
御父と御子も 二人ですが、一つです。
これはなかなか解きにくい算数です。
それは 合同の二つの三角形が一つであるように一つである、
のではないのですから。

だから結論をまず言うならば
「神が言われる意味において」一つである、
と理解すればよいのではないでしょうか。
神が言われるその意味において、
私達とキリスト、総てのキリスト者は一つなのだ
と単純に信じればよいのです。
神が一つだといわれるのだから「その意味において」一つです。
これは絶対に確実ですし、そのような態度は神のことばを信じる
キリスト者のあるべき姿でもあるでしょう。

しかし、そうは言うものの
私は この一つという大切な問題は
「今日の天地のキリスト」と大きな関係があると考えています。
それを除外(じょがい)しては解けないでしょう。
「今日の奥義的(おくぎてき)なキリスト」において
御父、御子、聖霊が一つであるように
「そのキリストにおいて」私達も初めて一つとされるのです。

これは あの最後の晩餐(ばんさん)の席上 
イエスが与えられた心からのメッセージの中心テーマでしたし、
神と人、総ての人の一つと言うのは
黙示録の結論、即ち全聖書の結論でもあります。

また私達のために 次のことも言えるでしょう。それは
単なる知的な好奇心(こうきしん)からでなく、
私達がこの問題を 自分を十字架の上に置きつつ
神の御前で 神のために追い求めるならば、
多大の霊的益を得ることが出来る ということです。
大切で必要なのは「霊的な実益」です。
そうでなければ、この問題には 多くの時間をむだにする
可能性が大いにある と言えるでしょう。

2010年2月16日火曜日

私達の一つ

このメールがあなたに届くことを
願いつつ・・

*
あなたは今
「天地におられる今日のキリスト」と一つです。
この一つというのは 
「今あなたは そのキリストと
完全に一つに重なっている」
という意味です。

そして、
その重なりの意味:それは、
二枚が 神のノリでくっついている、のでさえなく
もう「全く一つになっている」という意味です。
これは神のみに可能な
人の理解を超えた「神の一つ」です。
それは驚くことに
あの「父と御子の一つ」と全く同様なのです。

その一つは神が、その御一人子に命じ、そして 
御子が従順に 人と「人の罪を共有すること」に同意され
そして彼が その魂と肉体の命を実際に捨てられて初めて
あの木の上で実現した 尊く稀有(けう)な一つです。

その彼との一つは 私にも同様です。
だから そのキリストとの一つの故に、
私は 今あなたとも一つなのです。

この私達の一つは 
これ以外のどんな場所にもあるはずがありません。
何と堅固(けんご)この上ない
一つを 私達は共有していることでしょう。

今外側の相違(そうい)がどうであろうと 
私達は今こそ、声高らかに 
「この完全な一つは永遠である」ことを
神の敵と万物に対して誇(ほこ)るのです。

*
あなたを
その神の大きく安全な御手に委(ゆだ)ねます。

信仰とは結合です

聖書で言う信仰とは、「とても偉大なものとの結合」です。
もろもろの制限に閉(と)じこめられ 朽(く)ち行く物質に
過(す)ぎない人間が 信仰によって「永遠」と結合するのです。

その価値をぺテロは「尊い」信仰と表現しました。それ以上の
ことばを人は持っていないからです。
またパウロは 人を救うのは あたかも信仰そのものである 
かのように表現しました。
なぜなら信仰は救いとの結合であるからです。

ところでイエスはどうでしょう。イエスが
人の優秀さや努力をほめられた記録がどこかにあるでしょうか?
しかし、驚(おどろ)くことに 取るに足りない人間の信仰はこれを
手放しで臆面(おくめん)もなく?賞賛(しょうさん)されました。

信仰とは 最も価値のないものが最も偉大なもの、
最も価値あるものとの結合を意味するのです。時空の中での
あなたの経験から言うと IN CHRIST(キリストとの結合)は
あなたがキリストを信じた瞬間(しゅんかん)に実現したのです。

信仰 それは明らかに一つの偉大な奇跡である
と言わざるを得ないのではないでしょうか。

2010年2月15日月曜日

信じる使命 2

しかしどうでしょう、私的には、彼自身においては今は最早
信仰を行使する時代ではない、と思います。

その私の感覚が正しいとしての仮りの話ですが・・
もしもそうだとすれば今 信仰を行使し、
「天を地にもたらすという偉大な使命」を担うのは一体誰でしょう、
天使でしょうか、或いはパラダイスにいる歴代の聖徒達でしょうか。
その答えはヘブル書等から多分 否でしょう。

そうです、
その使命を担うのは明らかに 今地上におり、
はかなき肉体の制限の中で日夜圧迫されている
キリスト者以外にはあり得ないでしょう。

にもかかわらず 
その私達の信仰は「キリストの」でなければならない
ことは確かであり IN CHRIST の大きな必要が
ここにもあります。

結論として
「キリストの体を地上で受けついでいるキリスト者達」が
(「キリスト無き」今のこの地上において)この制限の多い 
弱き肉体の中でこそ 信仰を行使しなければならない
と言う意味と使命は極めて大きいと 考えております。

「私達が地上にあるキリストのからだ」であると言う
意味の深さに驚くばかりです。

信じる使命

ソルトさん、
コメントの欄に書いていたら とても長くなりそうなので
ここに書くことにしました。お許しください。

☆
永遠を時空にもたらす信仰の創始者としてのキリスト、
これは明確な事実です。

そもそも聖書で言う信仰とは
「いわゆる人が生来持つ一精神機能」
を遥かに超え、本来地上には無いものでり、復活性や 
永遠性をさえ有する霊的な天来のものであるからです。

従って 信仰は どうしてもキリスト「の」
でなければならないのです。その意味では奇跡は
信じることから始まるのでしょう。

*
更にこう考えます:まず
体を伴なったキリストの単独の存在は 最早天にあり地にはない、
という一つの面は否定できません。彼は天に帰られたのです。

さて、
その天にあるイエスは
今信仰を行使しているのでしょうか?
これは一つのテーマとなり得ます。これについては聖書を十分、
調べる必要があるでしょう。

明らかに地上において復活前の「弱き」※肉体を持っておられた頃、
神の子でさえ信仰を行使したのです、いや彼とて
その肉体の中においては、信仰を行使しなければ
ならなかったのです。(ここに肉体と信仰の深い関係がある
と私は考えます。)

※「キリストの弱さ」:Ⅱコリント13の4、これは人として制限を
受けられたという意味です。「制限」の究極が十字架です。

2010年2月13日土曜日

キリストの信仰

神は
①
キリストという「ただ一つの入れ物」に
古い創造の総てを入れこんで、キリストを死なせました。
これは「万物と万事」にとって「一巻のおわり」となりました。 
②
しかし、三日後、
神にとって必要なものは キリストと共に「復活という形」で
よみがえりました。これこそ「神わざ」でした。
絶対にあり得ないことが起こったからです。

以上が神の方法であり、
「永遠において」はそれは既に完成しました。

*
ところが、私達は まだ時間と空間の中にいます。
時間と永遠の間には大きな淵(ふち)があり
上の①と②の効果は時間の中には決しておよびません。

しかし神は信仰という
「永遠を時空に導入できる機能(きのう)」を
人に与えられました。それは「キリストの」信仰です。

ですから人が「キリストのうながし」に協力(きょうりょく)し 
その信仰を動かして 永遠の事実を信じる時に 
人の霊の中の信仰(キリスト)を通して
永遠の事実が 時空の中に及(およ)ぶと言う
あり得ないことが起こるのです。なぜなら、
キリストは永遠と時空を連結するハシゴだからです。

イエスやパウロが
信仰をとても高く評価(ひょうか)する理由が
そこにあるのです。

*
ローマ3の26、ガラテヤ2の16、3の22、エペソ3の12、
ピリピ3の9等 総てキリスト(御子)「の」信仰です。
信仰の源は完全にキリストにあります。

2010年2月12日金曜日

神の完成と信者の証明

※じるしの部分(前の記事)の説明です。

神が既に達成、完成していることなので、
私達にも実現可能(じつげんかのう)なのです。
神が2千年前「永遠のゴルゴタで」達成したことを 私達は
時空の「いたるところで」達成し証明(しょうめい)するのです。
それが信者の使命(しめい)です。

ぎゃくに もしも事実がないのであれば当然 
証明できるはずがありません。既にそこに無いのであれば 
どう信じたとて実現は不可能です。

ですから 私達一人一人が、何が真に「神による事実」であるのか、
「神が既に何を完成されたのか」を霊の中に 神によって
示して(啓示して)いただくことはどうしても必要です。
神の啓示 これが最大の前提(ぜんてい)となります。

そこにこそ、
私達が聖書を一字一句 真剣(しんけん)に
読まなければならない理由があるのです。
それは「神の完成」を自分の目でシッカリと見るためです。

どうやって殺すのか 2

すなわち まず神は
①最後のアダム・イエスの中に万物すべてを集め 一まとめにし
イエスの死の中で 不要物一切(いっさい)を墓に送り
(死とは分別、分かいです)そして
②必要なものだけをキリストとともに復活させたのです。
しかし、それは「生の蘇生」(そせい)ではなく
「復活という永遠の形」で です。永遠においては 
この宇宙最大のテスト、神の分別はもう完了しました。

ですから今私達も 
その神の達成(たっせい)、神の仕事の完成を単純に信じ 
時空の中でも、それと同じことをして、
その神のことばが 今でも真実であることを
「時空の王」サタンに対して 証明して見せるべきです。※
それこそ 現在「時空(じくう)と肉体の中に あえて残された」
私達キリスト者に課(か)せられた仕事です。

あなたがこれを 真の信仰によって行うとき、
神が完成した永遠の真理が、あなたの時空、すなわち
あなたの肉体を通して あなたの環境の中にも
引き出され 現れてくるでしょう。その時
「永遠の見えない真理」が「見える時空の事実」に勝利するのを
あなたは確かに見ることが出来るはずです。

どうやって殺すのか

コロサイ書でのパウロの言葉:
「地上の体の諸部分(しょぶぶん)、すなわち、不品行、汚れ、
情欲、悪い欲、そしてむさぼり、を殺してしまいなさい。」
「総てこれらのこと、怒り・・口からでる恥ずべきことばを、
捨ててしまいなさい。」(コロサイ3の5、8)
私達:
「でも、どうやって殺すのですか、どうやって捨てるのですか」

それは
そういう私たちの本当の姿、ありさまを心から憎(にく)み 
(それが無ければダメです)
自分とそれらを「ひとまとめに」梱包(こんぽう)して
「あの最後の人、イエス」の中にセットすることによります。

それらのものは 
常に私に付着(ふちゃく)します(くっついて来ます)、
ですから 一まとめにするのは簡単でしょう。もう一つに
なっているからです。しかしその意識(いしき)は重要です。

実は 神の御業(みわざ)の中で とても奥義的(おくぎてき)な
方法は 総てをキリストの中に「一つにする」「ひとまとめ」
にするという方法です。(エペソ1の10)そして、
そのことは永遠において 神によってすでに達成されました。
万物総ては キリストの中へと入れられたのです。


★
きのう夕方 無事 実家に着きました。とちゅう、
「数奇(すき)屋」の420円の定食がおいしかったです。
小屋への道がオーケーなら16日には山に向かいたいと
思っているのですが、今回「下」で主は何をなさるのでしょうか。
今私には分かりません。

 

2010年2月11日木曜日

山小屋脱出(だっしゅつ)

けさ、一番にパソコンで天気予報を見たら 何と何と
今夜から明日にかけて 東京でも 積雪(せきせつ)が
あるかもしれないとか!
もしそうであれば、ここ阿武隈(あぶくま)は大変です。
一晩中 ふり続こうものなら 相当の積雪(せきせつ)に
なるでしょう。

というわけで 今日は午前中に
山小屋脱出(だっしゅつ)をはかるべし、と
さきほど即刻(そっこく)結論(けつろん)を
くだしたところです。

思えば さくじつ、
地下室の防寒(ぼうかん)工事が終わったことは
妙(たえ)なるタイミングでした。
ですから安心して今日 エキソダス(脱出)ができるのです。
春先の山は これだから むずかしい。

それではこれから 
ゆっくりヤキイモでも食べて 
したくに取りかかることに致しましょう。

今、窓から夜明けの南景(なんけい)を見たら
もう既(すで)に うっすらと積雪です。

2010年2月10日水曜日

今日のくらし

最近、朝食にサツマイモの焼きイモを食べています。
ダッチオーブンに入れて 小さなストーブの上におくだけで
とてもおいしく仕上がります。

ピアノ室の二重窓工事は おととい終わりました。
でもあの「ムーンライト」の練習開始はいつになるのでしょう。

今日の午前は 全くしばらくぶりに となり村のお風呂
「せせらぎ荘」に行ってきました。やはり大きなお風呂はいいですね。

午後は 台所への水道管を 今後の凍結(とうけつ)から
守るために 地下室の外ドアの防寒工事(ぼうかんこうじ)をしました。
今日の完成など とてもムリムリと思っていたのですが
やって見ると ごご2時から始めたというのに
アレヨアレヨという間に 出来あがってしまったのです。
大工をしていると、よくこういうことがあって面白いです。
ま、そのギャクもよくあるのですが・・。

今日は冷たい雨もようなので 
夕方の いつもの山登りは出来ません。

今日はほぼ これで終了です。

2010年2月9日火曜日

十字架はフィルター 2

死のテストに合格できないものは 必ず総て
ゴミステーション・聖書でいう黄泉(よみ)
に暫時(ざんじ)保管され、
最終段階においては「焼きゃく場」
(聖書で言う「火のまじったガラスの海」or火の池)で焼かれます。

もしそれが真実であるならば、
今現在 私達キリスト者が になうべき責任は何でしょうか。
それは 私達が信仰によって キリストの十字架を今 自分と
自分にかかわる もろもろの状況に たえず適用することです。

もしも私達が そのことにおいて神に忠実であるならば、かの日
あの「火のテスト」が軽減(けいげん)されるための それは 
唯一の有効な手段となるでしょう。

コリント書の「一時的火のテスト」は明らかにキリスト者のためです。
黙示録の「永遠の火の池」は 決してキリスト者のためではありません。
にもかかわらず、私が永遠に救われたキリスト者であるとしても
今十字架(深い水による死)を経過(けいか)しなかった「私のある部分」
が残るならば いずれ不要物を総て焼きつくすための
「一時的神の火」が用意されていることを私達は知るべきです。

ある意味「滅びをもたらす神の手段」である水と火は同じ効果を持ちます。
もしもそうであるならば 私達は いたずらに将来の火を待つのではなく、
今 水による死(十字架)を有効に用いるべきです。

あなたが「よいキリスト者になろう」とするのは大変結構ですが
このフィルターを経過(けいか)しないキリスト者の
決心、決意、善行など何の役にも立ちません。

私達は常に①私そのもの ②「私にくっついて来る一切の状況」
(楽しい状況をふくむ)を    
ただキリストの中にセットするべきです。
これはキリスト者が一日中行うべき、そして今日こそ可能な 
とても大切な仕事、清掃(せいそう)作業です。

大阪府・和泉市 その後

高名な「人助けヒューマニズムキリスト教」の指導者のもと 
「ある教会の代表」であった70才代の姉妹が あるキッカケから
徐々(じょじょ)にその指導者と相容(あいいれ)ないもの
・聖書と違うもの を感じはじめ、ついに昨年11月、
姉妹はその「大先生」とハッキリ決別(けつべつ)したのです。

この姉妹の 主の前における潔さ(いさぎよさ)はみごとでした。
しかしその間 実に大変な状況(じょうきょう)があったようです。

多くはその「先生」に従いましたが、10名足らずの聖徒たちは
この姉妹と行動を共にしました。

さて
今週2月7日の集まりは もうすぐ関東に移住する 
この姉妹の息子さんの送別会でした。そのさい、息子さんのために
参加されたゲストの人々は その集い(つどい)の中にある
「兄弟姉妹の自然な一つとあたたかさ」を
確かに感じられ びっくりされたようです。

そして更に驚くことには、
そのゲストのクリスチャン達の中に そのような集い、すなわち 
「普通のキリスト者だけで行う集い or
エライ人を必要としない集り」を
既に開始していた人々が二組もあったということです。

*Sugar
「えらい人や先生」はイエス様お一人で
十分ではないでしょうか。

十字架はフィルター

*ある質問に答えて*
私達のするべきことは 
①自分と
②自分にくっついて来るものや状況(じょうきょう)を
一まとめ、一くくりに梱包(こんぽう)し 
「最後のアダム(イエス)という箱」の中に
シッカリとキチンと入れることです。
この箱の中に
①と②を入れる作業は 日常しばしば行う必要があります。

どうやって入れるのか、
それは真剣な祈り、宣告(せんこく)等によります。
「主よ、今私は ①私自身と②~の状況総てをキリストの中に置きます」
となるべく具体的に神に祈り宣言するのです。(その祈りと宣告の
背後には必ず「神の言葉・真理への信仰」があるはずです。)

そうするならば、自動的に
「最後のアダム・イエス」と一つになっているフィルター(十字架)が
働いてくれます。

どんなふうに働くのか:
まず
一①と②の一切は総てフィルター・十字架を通過します。
 その時 一切は死にます。
 それは一切ですから、人から見て良いものも 悪いものも同じです。
二しかし、その後
 その死というフィルターに耐えるものだけが
 死をくぐって、復活という異次元(いじげん)の形で
 死から出てきます。(これは神業です)   、

その死というテストをくぐり そこから出てくるものだけが、
初めて神の国の役に立つのです。

*
フィルター:
液体や気体の中の不要物を通過させない装置。濾過(ろか)器。
濾過装置。(国語辞書)

2010年2月8日月曜日

おとといの雪

山の林道からさえ そうとうの距離(きょり)があり、村の
除雪車(じょせつしゃ)も来てくれない この小屋の冬の暮らしは
一点だけ問題があります。それは大雪の場合です。

入山の翌日・6日は少し大変でした。朝からの雪ふりがやみそうに
なかったからです。もしも車のバンパー以上に雪がつもれば
ホンとに困ります。車が小屋から出られなくなるからです。

いつの冬だったかな、
太平洋に近く、大雪はふらないはずのこのカリマンの里も 
ひと冬中 小屋に近づけないほどの
雪でおおわれたのです。

ですから、
雪が降り続くような空もようの場合には パソコンで 
天気予報とのにらめっこが欠かせません。よき決断(けつだん)をして
早めに小屋を脱出(だっしゅつ)しなければならないからです。

6日の場合 
その夜10時ころまで雪が続くだけで 小屋の前の積雪(せきせつ)は 
ゆうにバンパーを越えるでしょう。もし朝まで続いたらそれこそ 
大変です。しかし私は、予報を見て 午後4時半ころには雪はきっと
やむはず と判断しました。

今回の場合 
空がはたしてその通りになってくれ、事なきを得たのです。
ホンとにヤレヤレでした。

とは言え 雪の危険(きけん)は 残る2月と 
冬型の気候がゆるむ 3月初旬(しょじゅん)が本番でしょう。
それにしても 冬のこの小屋の暮らし、
食料と燃料の備蓄(びちく)は欠かせませんね。

2010年2月7日日曜日

会いたい、集まりたい

これは私の感じですが、
皆が集まるのは 決してムリをしないことです。
とにかく「むりなく、自然に」がとても大切です。
私達は「会いたい、集まりたいから集まる」のです。
大きな集まりにむりな感じが出てきたらむしろ 
すぐにやめた方がよいでしょう。
そしてあらためて また考えればよいではありませんか。

イエスの再臨の前、
そんなふうにして世界のいろいろなところに 無理なく自然に
種々(しゅじゅ)多くの交わりが生まれてくるであろう、
と私は予想しております。

ある交わりだけは
特別に聖だから「絶対に守るべし」ということはありません。いったい
キリスト者の集まりは「守る」ものなのでしょうか?
それは非人間的でキツイです、それはイエスの心でしょうか。
私ははなはだ疑問です。

そういうのは、人を縛り(しばり)つける 
ユダヤ教やその他の宗教から来ているのだと私は思います。
イエスはそんな「権威(けんい)主義」を破棄(はき)されたのでは
ありませんか?もしも聖なる場所がこの世にあるとすれば、
それはただ一かしょ、キリストがおられるところ以外のどこにもありません。

A市でも
「月いち」で ノンビリやっております。
そんな感じで よいと思います。
しかし、とにかくその他 いろんなかたちで、さまざまに、自由に
交流すればよいのです。二人とか 三人とか、または
十人くらい、必要に応じてさらにより多くとか・・。
そして場所もさまざまでけっこうです。
(会うのがむずかしければ電話その他もあるでしょう。)
その中の一つが あなたとお姉さんとの交わりです。
これはカクになる交わりですから お二人にとって重要です。

言えることは 
キリスト者は決して「集まりをやめる」べきではないということです。
なぜなら あるキリスト者に「交わりをしたう心」が「もし一日でも」
なくなるならば それはその人の霊的不健康(ハッキリ言えば病気)が
現れていることになります。

もしも仮(かり)にその人が そのうめ合わせや罪ほろぼしのために、
定期的ないわゆる「礼拝」を「守る」のであれば
彼の病状(びょうじょう)は
そうとう深刻(しんこく)であると言えるでしょう。

2010年2月6日土曜日

水道凍結(とうけつ)!

昨日の夕方 小屋についてみると あんのじょう 水道の凍結です。
洗面所、洗濯機、トイレは出るのですが、台所がいけません。
流しが出ないと暮らせません。

さてどうなったか。
昨晩は 今日の下山も覚悟(かくご)したのでしたが、
けさ、流しの水道管が走っている地下室を 二つの灯油ストーブで
ガンガンあたためて見ると何と出たのですよ。まだお湯はなぜか
出てくれないのですが 水はもう大じょうぶです。
これだと何とかなりそうです。

村の友人の話ですと、都路(みやこじ)村
今年はハンパでなく寒いらしいのです。
予報によると今晩あたりマイナス8、9度になるかも知れない!
しかし明日の朝も、重い石油ストーブを二台も地下室に
運ぶわけには行きません。

というわけで 流しの水道管凍結防御(ぼうぎょ)のために
今日から 地下室の徹底的(てっていてき)防寒(ぼうかん)対策を
こうじなければなりません。もう一つ、

多分、フロの混合栓(こんごうせん)内のカートリッジが凍結で
破損(はそん)してしまったのでしょう、漏水(ろうすい)があるのです。
経験がおありでしょうか、
漏水というのは実に「不ゆかい」なものです。
というわけで、フロはあきらめ、しばらく となり村の
オフロに通うことになるかも知れない。
チョッとやれやれですね。

2010年2月4日木曜日

あるメールのやりとりから

X日(日)に、もし休みが取れるようなら、
山田兄弟姉妹と集まって、
私の家でパン裂きをしようか と話しています。

☆
すばらしいです。

「このパンとさかずきは私です」とイエスは言われました。
ですから まずは だまってしばらく、テーブルの上の
一つのパンと一つのさかずきを ながめて下さい。

次に
そこで感じさせられ、気付かされたキリストの姿 また
発見したキリストのかく面を 皆さんで 率直に表現するのです。
キリストの中にある 彼の種々の面の数と、
その各面上に存在する さまざまな点の数は実は無限です。

たとえば
「ああ こまやかでせんさいな麦粉のようなイエスは
30年間 神によってねられ、そしてついに
十字架の上で神によって焼かれたのか!」等々。
このようにして交わるならば、時間がいくらあっても
足りないでしょう。 

その表現のしかたは
感謝、賛美、祈り、交わり等 何でもありであり、
何がどういう順序で現れてもよいのです。
自由でリラックスしており、家庭的なふんいきが大切です。
なぜならエクレシア・教会は家であるからです。
決して 誰かを「えらい人」にしたてあげる
「格式(かくしき)ばって ありがたいギシキ」にしてはなりません。 

このたび 皆さんの場所でのパン裂きは 神にとっても 
「何か大切なこと」のスタートとなるでしょう。
神に対し 皆さんの霊と心を広くオープンし、
皆様方の献身(けんしん)を 新たにしたらどうでしょうか。

兄弟姉妹の自由な交わりは 単なる一つの集会にとどまらず、
じょじょに 復活のキリストによる無限の広がり に至(いた)る
ものである と信じております。

PS:
多分あす山に入ります。
水道が「とうけつ」していなければよいのですが・・

タンポポは死んで・・

あなたというタンポポは
春の「日ざしと風雪」の中、 
ついに死んで 
初めて実を結びます。

だから
タンポポの一番の仕事は
死ぬことです。

死ねば、 
やわらかな「風」が来て 
タンポポの中の命を 
「空」に運びます。

その命の種が どこに落ちるかは 
タンポポは知りません。

それは
タンポポのすぐそばかも知れませんし
あなたの知らない
遠い遠い場所かも知れません。
「風」は
思いのままに吹くからです。

*
ヨハネ福音12の24、3の8
「日ざしと風雪」はこの世
「空」は復活、
「風」は聖霊です。

2010年2月3日水曜日

死の連続

・兄弟達、私たちにとって、毎日が死の連続です。
(Ⅰコリント15の31)
この箇所でパウロは 毎日身近に迫り来る「肉体の死」を意味して
いますが、「それ以上の死」を暗示していることは明白です。
同じ15章、
・愚かな人だ、あなたの蒔くものは、死ななければ、生かされません。
(Ⅰコリント15の36)
その他、彼の書簡と生き様は死に満ちています。
・「いつでも」イエスの死をこの身に帯びています。
・私達 生きている者はイエスのために「絶えず」死に渡されています。
・こうして死は私達に働き、命はあなた方の内に働くのです。
(Ⅰコリント4の10~12)

従って私達も「死の連続」の中に
「いつでも」「絶えず」死の中にいるべきであり、それは
楽しい時、愉快な時、「ひと息ついている時」
「困難が取り去られた時」「希望に溢れている時」も全く同様です。
否、そのような時の方がむしろ私達にとって最も
死を必要としている時なのでしょう。

なぜなら、
そのような時 私達はとても容易に野放図
(野に放たれた野生の図)になり勝ちだからです。

「野」とは
キリストの死の効果を 私の肉体と魂に及ぼさせず、
私の存在が肉体や魂によって「主導」され それらによって
生かされている「私」を意味します。その「私」は何と
悪霊達が付着する場とさえなるでしょう。
その「私」は野に放たれた馬のように力があり 
生き生きと美しく見えるかも知れません。
しかしそれは神の御用には全く役に立たず、むしろ危険です。

パウロはキリスト者における計り知れない死の価値、
その実際的で絶大な効果を知っていました。
イエスも「ヨハネからの死」(バプテスマ)という一点から
スタートし、向こうに見える一点・十字架の死に向かわれました。
彼らは正に「死の連続」の中に生きました。簡単に言えば、
パウロやイエスの歩みに 死以外の何物もありませんでした。

ですから
十字架こそ、私達の家であるべきです。
十字架以外に私のいる場所はあり得ません。
実際的な死の連続こそ 私達の人生そのものである筈です。

2010年2月1日月曜日

ここ数日の夢

昨晩、降りしきる冷たい雪の中
関西の二人の妹達のところから帰って来ました。

妹たちも年を重ねましたが その子供達はおい育ち
結婚し、私の突然の訪問にもかかわらず、
その新婚の伴侶などを伴って駆けつけてくれたのです。

そこには当然、止どめようもない時間の経過と
生き物の命の成長と変化を見ます。
(残念ながら「老い」もね)

しかしまた私達は
真の命 キリストの命の増し加わりをも
見ることが出来るのです。
目には見えない小さな種のようであった
キリストが いつの間にか人の中から芽を吹き、
そして人の間を行き来さえするのです。

この数日
私は確かに 真の命を所有する者達の間にある
小さくも美しい幾つかの愛と命のストーリーを
目の当たりにすることが出来たように思います。

その真の命は
個人や親族の中でも成長するのですが、
幾本にも別れ流れて行く泉のように 徐々に
その小さな「囲い」の外にさえ流れ出て行き、
遂には「永遠の都」に至るという
壮大な夢をも この度主は私に 見せて下さったようです。

2010年1月29日金曜日

人類の総合計

キリストは最後のアダムとして 受肉されました。
しかし最後のアダムとは一体何でしょう。
それは
イエスは「人類の総合計」であったと言うことです。

しかし、「受肉」は準備段階でした。
総ての開始は 彼の十字架です。

あの木に掛けられた「醜悪な者」が イエスだけであった、
ということは極めて不合理であり、あり得ないことです。
何故なら、真に神に呪われるべき存在は「私」であり
イエスではなかったからです。

しかし、
私が神に呪われ 私に死刑が執行された瞬間 
そこにおられたのはイエスでした。所がその者は
イエスであるようですが実は私です。にも拘らず
やはり彼は事実イエスに違いないのです。

これこそが、
神が人類と一つになる稀有な手段でした、それは
「ラクダが針の穴を通る」よりもあり得ない方法です。
しかし、
ラクダをして針の穴を通らせしめたのは神でした。
何と言うことでしょう、神の子が
「人の罪において」人と一つになられたのです。

しかし、その瞬間こそがあのIN CHRIST の開始です。
IN CHRIST がなければ、新約は崩壊します。
それが総ての神の業の始まりです。

私達は日に 少なくとも10度は その事実
十字架、キリストの死、IN CHRIST、更に「私の終結」
に戻らなければなりません。
もしもそれがなかったなら、
キリスト者の生活というものは
根本的に存在し得ないことでしょう。

*IN CHRIST :
キリストにあって、主の中にある、主と一つ

2010年1月28日木曜日

主の懲らしめ

キリスト者とは 
安楽で快適な人生を送る人々である、とするのは明らかに間違いです。
むしろ私達は キリスト者であればこそ
苦難や悲しみを多く また深く受けると言うべきでしょう。

キリストの復活の証人として、
純度100パーセント「ただキリストの故に」死に至る苦難を受けるのは
明らかに第一級の人生であり、最高の死に方であることは 
聖書が一貫して見せているところです。

しかし、
そのような素晴らしい苦難を受ける特権と深い喜びに預かる人は
まれでしょう。多くの場合、私達は残念ながら、
自分の責任や過失の故に苦難を受けているのです。

キリスト者の苦難の原因を突き詰めて行くと、そこには極めて複雑で
奥深いものがあります。しかし大まかに言って それはおもに、
自分の罪、肉、この世、おのれ等から生じます。

しかし、とても感謝なことに神は 
キリスト者の自己責任から生ずる苦難でさえも 
「懲らしめ」や「取り扱い」or 「訓練」として
私達の永遠の益のために 大いに活用して下さるのです。
その基本的な神の動機は「神の愛」以外の何物でもありません。

それ故私達も 主の懲らしめを 事のほか重んずる必要があります。
それがたとえ「肉の刈り取り」であったとしても(大方そうでしょう)
神からのものとして受け入れる時に 神のためにさえ 
それらは計り知れない大きな意味と価値を生み出すのです。
これは 全聖書における極めて強い神の主張であることは明らかです。
(特にヘブル書12章)

2010年1月27日水曜日

殉教は難しい

キリスト者とは キリストの復活の証人です。
復活の証し人は 先ずは十字架 即ち死に向かう人です。
人が真に十字架に向かっており、しかも他の条件が揃うとき 
或いはその人は「殉教の喜びと栄誉」に預かるかも知れません。
(マタイ5の12)

ですから 私が本当に殉教を望むのであれば、どうしても
今日既に「十字架の道」にいなければなりません。
(証人と殉教者はギリシャ語では同じ言葉が使用されているようです。)

しかし真の殉教は難しいです。何故なら 殉教は100パーセント
「キリストの故」でなければならかいからです。どんな場合でも
100パーセントと言うのは簡単ではないのです。

キリスト者が「その塩気を失って人々に踏みつけられる」(マタイ5の13)
のは十字架ではありません。「罪を犯して打ち叩かれる」(Ⅰペテロ2の20)
のは単なる自己責任です。
またキリスト者が体の弱さを覚え、病気になり 遂には死に至るのでさえ 
必ずしも十字架とは言えないでしょう。それは下手をすると「死に至る罪」
の故(Ⅰヨハネ5の16、Ⅰコリント11の30)かもしれません。
ですから「苦難イコール十字架」と言う公式はあり得ません。

しかし、
日常生活の中によくある小さな場面、例えば「人がもし、
不当な苦しみを受けても、神の前における良心の故に、
悲しみをこらえるのは」(Ⅰペテロ2の19)確かに十字架であり、
殉教に至る道でしょう。

だから今日こそ 
特に人との小さなありふれた接触における私の態度、
心のありかた、些細と見える言葉使いにおいて
私は、自分と正当な自己義認をさえ墓の下に
置き去りにする
十字架と殉教に至る道を選ばなければならない筈です。

2010年1月25日月曜日

キリストの死の中に置く

今、
サスケさん自身と、そして
敵による
「死の力」の圧迫の中にある
この家族の一切の状況を
更に力のある
キリストの「あの永遠の死」の中に置きます!

所が今
このように言うまでもなく、
もう既にキリストの死によって
この世の死は滅ぼされ
「永遠のキリスト」の中では  
その状況の中の蘇るべき要素は 
キリストと共に復活し、
更に昇天の地位にさえあります。

それはキリストにある絶対的な購いの結果であり、
真に確定的な 動かしえない神の事実です。

にも関わらず私達は祈ります:

どうか、主よ
永遠においてだけでなく、 
今この時空の中においても 
あの家族の「時間と場所」においても 
キリストによる あの永遠の達成 成就が 
神による絶対的真理であったことを 

この虚構に満たされた時空の中で
この事態を凝視している 
あなたの敵の強大な軍勢の眼前で
「再現」し、明確に立証、証明してください!

サスケさん御家族の為にお祈り下さい

今敢えて懇願致します。

皆さん、
今現在、今日 あした 
極めて深刻な局面に立たせられている、
この兄弟、また、その御家族のために
ゼヒお祈りください。
彼らに残された日かずは あと数日です。
(リミットは今月29日、
延ばしてもも2月5日までであると
聞いております。)

最近始められた彼のブログです:
http://blog.7ecclesia.com/

2010年1月24日日曜日

神の評価の基準

あなたは今 
ある「現実」を目の前にしています。

しかし今あなたが困惑している 
その山のように見える「現実」は これから100年も続く
のでしょうか、それはこれから 全く変化しないのでしょうか。
それは永久不変なのでしょうか。 

また今 あなたが喜んでいるその現実は
あなたが いつまでも握りしめていることが出来るもの 
なのでしょうか。間もなく明日にでもそこに フト
「回転の影」のようなものが表れないでしょうか。

また以上二種類の現実には 
この世の悪の影響と侵入が全くない と言えるでしょうか。
この世の死の力の混入によって それは本来 ほどなく腐敗腐食し 
遂には崩壊して行かざるを得ないもの なのではないでしょうか。

さて神は その両者とも、即ち 
そのような二つの「現実」とも「価値」とは認められず、
何と総て「無価値」と断定されます。
何故なら、神は不変、永遠、不死、無変質、即ち
神ご自身の性質と存在のみを 価値ありと評価されるからです。

即ち 神が存在するように存在するもの、
「ミスター BE」即ち「私は在る」という存在のみを 
唯一存在として認められ そのような存在と性質のみを
神は価値ありと評価されるのです。

冒頭の二者は 
確かに私達の目にはリアルこの上ない「現実」ではありますが、
今 永久不変、無腐敗である神の存在と性質と比べるならば、
その一つの小さな要素、その存在する時間の長さだけを取って見ても、
(永遠とは どこまでも長く長く存続するものなのですから)
限りなく瞬間に、否 ゼロや無に近づくわけです。

従って神は 現実に「真の存在」を「極めて間近に」ご覧になっている
以上どうしても「瞬間や無やゼロ」を価値と見なすわけには行かないのです。
敢えて言えば 神の目には それらは「現実」とさえ写らないのです。

ましてやその性質に着目し 
悪の要素や腐敗や死の要素が少しでも混入されているのであれば 
全く言うに及ばずです。それらが 完全な義であり、
聖であられる神によって評価されることなどあり得ません。

2010年1月22日金曜日

昨日のメールから

兄弟、
ぼくは今、ほんとうに清々しい気持ちで一杯です。
心から主を愛しています。
本当に主の愛を感じています。
今まで主は 私にとてもよくしてくれました。
そんなにまでも私を愛し、よくしてくれた主を、
どうして今愛さずにいられるでしょう。

毎日のようにショックを受け、悲しくて、涙しますが、
その度に、自分が衰え、主が盛んになられるのを見ます。
不思議ですが、私はとても爽やかです。
今ぼくはただひたすら 主に従って行きたいと願っております。

★
今朝 下山します。
昨晩は強風で 小屋が揺れました。
ドー ドドーッという物凄い山の風の音で 
夜中に目が覚めました。
しかしすぐに その目覚めは
私がある負担を解放するためであることに気付きました。
その後牛乳を飲み グッスリと眠りました。
今日は やはり強風と快晴の中
爽やかなドライブとなることでしょう。

2010年1月21日木曜日

神に勝つ人生と神に負ける人生

多くの場合 
私たちキリスト者は 神に打ち勝つ人生を送ります。
神はしかし、私達に抵抗し、私達の極めて深いところで 
私達に語りかけておられない、のではないのです。

所がこの時代、
私達の人格やプライドを ことのほか尊重される神は
私の小さな議論にたやすく打ち負かされるように見えます。 
偉大な神が 私の小さな「へ理屈」にさえ屈服させられるかのようです。

ですから、今の時代、私たちが「神との勝負」に勝つのは
そんなに難しいことではありません。
そのようにして、神は「一旦」私から退かれるのです。
これがキリスト者が神に勝つ人生です。

ところで、
私たちにとって 神への敗北は簡単ではありません。
何故でしょう。何故なら 私が神に打ち負かされることは即ち 
私が「人々の前に」極めて「具体的な」敗北と惨めさを露呈することに
なるからです。それはまるで人々のみならず 全宇宙が私の失敗と
「駄目さかげん」を あざ笑うかのようです。

しかし私はこのたび、
二人の神に打ち負かされた人を見ることが出来ました。
その中の一人は あのナザレのイエスです。
彼はある時に至り「急転直下」彼に期待をかけていた彼の弟子、また
母や弟妹達、また故郷ナザレの人達にとって 
何の達成もない 惨めこの上ない人生の失敗者となりました。

そしてまたその時 
ユダヤ人、ローマ人、ギリシャ人(即ち全人類)は何の理由もなく 
彼を憎みました。また神によってさえ 彼の恥は全宇宙に
さらされたのです。私たちが聖画に見る彼の「腰の布」さえも
或いは 無かったのかも知れません。

しかし今日、
神が私たちの内側に かすかに聞こえる御声で常に語られることは 
私たちがただ このイエスの足跡に踏み従うことです。
今この時代の時間の中で 人々の怒号とあざけりの狭き道を 
イエスと同じ 恥辱の十字架を背負って 
一歩一歩進み行く決心をすることです。そうすれば 
間もなく「人々が」私を十字架に付ける結果となるでしょう。

完全な自由意志が 神によって私たちに許されているこの時代、
自ら進んで「神の細き声」に打ち負かされること
これこそが 人がサタンに打ち勝つ唯一の方法です。

「彼はさげすまれ、のけ者にされた・・
神は、私達の総ての咎を彼に負わせた」
(イザヤ53章)
 

2010年1月20日水曜日

御名をみだりに唱えてはならない(3)

出エジプト記20章の1節から7節は 一つの段落であり、
「人の神に対する直接的なあり方」に関する戒めです。
この段落はそれに続く総ての戒めの土台となるものでしょう。

そして その段落での強調は
「人は 神を単一に愛すべし」というものでした。
もし人がその一点をおろそかにするならば、他の総ての
戒めは あまり意味をなさないものとなるでしょう。

それでは 7節は一体何であるか と言うと 
もし人が神を単一に愛さなかった場合に
「人が自然に陥るであろう状態」を描写していると思われます。即ち
それは、人がもし神を単一に愛さないならば、どうしても 神との正常な
関係から逸脱した主の御名の用い方をしてしまう、と言うことです。

彼は 主の御名の中で生活し、主の御名で祈り また主の御名を
崇め、主の御名を呼んでいるように見えますが、いかんせん 
彼と主の御名・即ち「主御自身」との間に 
ある種のズレ、隔離 一致しない何かが生じてしまうのです。

従って彼は「神のための行動」において 
とても熱心に 的に向かって矢を射っているようですが
「何故か」いつもその中心をはずしてしまうのです。

従って7節は決して 一つだけ唐突に突き出た戒めではなく、
あくまでも「人は 神を単一に愛すべきである」という戒めの
延長、或いは警告と取るべきであろうと思われます。


★
今日は暖かな朝です。雪もだいぶ解けてしまいました。
今日あたり、ピアノ室の大きなガラスの二重窓用のサッシが
メーカーから郡山のジョイフル山新に届くはずです。電話があれば
早速 駆けつけるつもりでいるのです。もちろんサッシの
組み立ては私がしなければなりません。
小屋から郡山まで 片道 一時間以上かかります。  

2010年1月19日火曜日

あるメールより

愛するO兄弟

メールを大層嬉しく拝見しました。
図らずも S兄弟を通して今再び 兄弟と このような
交わりが与えられたこと、ナンだか不思議です。

先ずは 
兄弟が あの心臓の大手術にもかかわらず
現在 一日5時間も働いておられるとのこと、
本当に驚きです。

また、
私の分かりにくいブログを読んで下さっている
そうですが とても嬉しいです。

兄弟の言葉:
「癌の方と その連れ合いの方を 主が
御救いくださる所を見させていただきました。」

素晴らしいことですね。それは正に 主ご自身の御業で
あったのでしょう。

私も今 主が いろんな方法でいろんな所で 
働いておられるなー と実感しているのです。
本当に 主の来臨はそんなに遠くはないのでしょう。

再び 兄弟の言葉:
「御言葉をご紹介させて頂いても、イエスさまのたとえの
ごとく、道端の心の人もあれば、良き地の心の人もいて
色々ですね。」

本当にいろんな人がいますね。
私も 最近 肉の努力でがんばっても何にもならないなー と
痛く感じさせられているのです。

さて、
今私は 山におります。
いよいよこれから、一年で一番厳しい時節に入ります。
しかし山にいると これから2月にかけて 日がどんどん
長くなり、光が山に溢れてくるのが実感できます。 
これは 何とも言えない深い喜びです。

ですから
いつの日か、主が 兄弟をこの山小屋に連れてきて
くれないものであろうか、と
心から願わざるを得ないのです。

それでは
奥様、お嬢様によろしく、
(あの日 お宅での 皆様の様子が今 
目に浮かんでおります。)

Sugar

2010年1月18日月曜日

御名をみだりに唱えてはならない(2)

英語国民は 
強い感情を表す時よく「オーマイ ゴッド!」と言います。
当然その時彼に 神を信じる真面目な信仰があるわけではありません。
また単に何かをのろうような時、「ジー!」(ジーザスから来ている)とか
「ガッシュ!」(ゴッドから来ている)等という表現も用いるようです。

しかし神は 単に 
神の民イスラエルに対して そのようなことをさせないために 
あの戒めを与えられたのでしょうか。
確かに 前述のような事は「主の御名をみだりに唱えること」かも
知れませんが 十戒における神の意図は 
もっと深いところにあるように思われます。
先ほどのような解釈は「御名をみだりに唱える」と言う日本語の
意訳から 単に私たちが受けた印象によるものかも知れません。

この箇所のヘブル後の原文の意味は 
「御名をむなしく取る」「御名を誤用する」と言う意味が 
より正確のようです。もしそうであるならば 私たちは 
主の名を「意味も無く 空虚に使用したり 主の名を誤用して 
的外れな用い方、正しい神との関係から逸脱した用い方  
をしてはならない」ということになります。
しかし、これは本当の所 どのような意味なのでしょうか。


★
山の寒さも本格的になって来ました。
きのうの工事は ピアノ室の壁を張ることでした。一応
北と西面は終えました。今日は天井を張ることになるでしょう。
壁材に木の板を縦張りにするのは 最終的に白のペンキを塗って
仕上げとなるのですが、その完成の 優雅な?雰囲気を夢見ての
今の「耐寒仕事」ということなのです。
ピアノ室が無いので、ピアノの練習は当分出来そうもありません、
もう楽譜は買ってあるというのに!

2010年1月17日日曜日

御名をみだりに唱えてはならない(1)

出エジプト20章7節の
「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに
唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、
罰せずにはおかない」、とはどのような事なのでしょうか?

☆
私の答えはこうです:
いわゆる十戒の中で、1節から7節までは 
最も重要な戒めです。それは
「人の神に対する関係」がテーマです。

この段落での強調は
神は 人に先ず 神を単一に愛して欲しい、と言うことです。
ここでは実は
「愛の量」よりも 愛の単一さ、純粋さに重きがあります。
即ち 神は「たくさん愛する」よりも、私たちが他のものに
心を奪われずに、単一に神だけを愛して欲しいということです。
それが「ねたむ神」の私達に対する基本的な要求です。
「ねたみ」とはそもそも 愛する対象が単一な愛を欠く
所から生ずるのではないでしょうか。

しかし、
もし人が 他の物事を愛することを排し、神を単一に愛する
ことが出来るならば、その時から その愛の量も自然に健全に
増し加わるでしょう。なぜなら、実は単一に神を愛する
愛の中には既に 愛の強さ、深さが内在しているからです。
従って人はその時に初めて
「心を尽くし 思いを尽くし 神を愛する」と言う新約の
要求にさえ迫ることが出来るのです。
しかし、先ず私たちは 
神を単一に愛することを学ばなければなりません。

2010年1月14日木曜日

種なしパンの作り方

とても上手にパンを作るある姉妹から寄せて頂きました。
↓
☆

私が教わったパンの作り方です。

(材料)
小麦粉…大さじ1つ位(パンの大きさによりますが)
水  …適量

① 小さめの器に小麦粉を入れ、少しずつ水を加えながら
指先でこねていきます 
② 小麦粉が固まりになってきたら、器から出して
両手の指先でこねていきます
硬さは耳たぶ位の硬さです
主のことを思いながら、さらにこねていきます
③もう十分だと思ったら、ボールの様に丸めてから、つぶし、
麺棒で丸くのばしていきます
④最後は油を引かないで焼きます
温めたフライパンか お鍋を弱火にしてパンをのせます
⑤焼いているとパンが反ったりするので、菜ばしでパンを
押さえながら時々返しながら、両面を焼いていきます
少し焦げ目がついてもいいと思います

以上ですが、おわかり頂けたでしょうか?
パンさきが行われるのは、本当にすばらしいです。

☆
種が無い、
と言うのは 完全に純粋なと言うことですから、
パンを 膨張させたり、人の口ざわりをよくしたり
する物質は一切混入しません。
この事実は パンの味を舌で味わう私たちに 
主とこの道の純粋さと素朴さを感知させることでしょう。

私Sugar の好みかも知れませんが、
薄くて(主の弱さ)焦げ目のあるパンが慕わしいです。
何故なら 
それを兄弟姉妹が一人一人 自分の手で
パリッと裂く(割る)とき、
「ああ、主イエスもこのように裂かれたんだ」と
十字架上のイエスを 自分の指と目と耳で ある程度 
感じることが出来るからです。

私達、テーブルの下の汚れた子犬達は 
今日 テーブル(宗教)から落下した 
「パンくずの実体」を
日々 いただくことによって生きているのです。

2010年1月12日火曜日

パン裂き

何の「資格」もない普通の兄弟姉妹が 
当たり前の人間生活のレベルで 家々で 種無しパンを裂いて 
主の死を記念すること、それを聖書的に言えば、
「パン裂きの集まり」とでも呼ぶべきでしょう。

偶然と言えば偶然ですが
この1月10日(日)、そのようなパン裂きが 埼玉県のある町と
大阪、和泉市で初めて行われました。
和泉市では15人くらい集まったそうです。

そこには 
キリストの御座以外 いかなる本部も司令塔もありません。
また特別に「偉い人」や組織、制度や肩書き 
そして いわゆる「権威」も、「ある意図」を持った
互いの連絡さえないのです。
あるべきは唯 生けるキリストと
主を見上げる兄弟姉妹の単純な心です。

私の知る限り、東京近郊にも
そのような集まりが他にも 数箇所あります。
時代の最期、キリストイエスの再臨を促そうとされる 
これは 聖霊ご自身の御業なのでしょうか。

以下は埼玉の兄弟からのメールです:
「普通の家でパン裂きが行われることを願います」
まったくの同感です。
ひとりひとりが、祭司としての務めを実践することを、
主は願っておられますが、特に家長となる男性が、その務めを
果たしていくときに、主の教会は整えられるのだと信じています。
ウチに来られる兄弟たちが、家庭を持ち、
そこでパンを裂くことを期待しています。

★
もう既に11時、
午後から いよいよピアノ室の工事にかかります。
先ずは、天井と壁へ断熱材を入れること、
それが終わったら、仕上げの板を張ります。
材はリビングの床材と同じ 
日本で一番安い無垢材・野地板です。
(一束1500円)

2010年1月11日月曜日

新春のお喜びを申し上げます

山にいると 
春の喜びは四月を待つ必要はありません。
それは今既に、厳冬をさえ切り裂くような太陽の光の 
日々の増し加わりの中に確実に存在するからです。

昨日の日の出は6時51分で この数日変わりませんが
日の入りは 昨日は4時46分、 
これは毎日1分ずつ確実に長くなって行くのです。

この昼の時間の長さ以上に
山で如実に感じるのは 日の高さの変化です。
この日の長さと高さが 
山全体の空気の明るさを日ごとに増し加えるのです。
その光が意識せずとも 人の体と心にさえ伝達され、
山で味わう新春の深い喜びとなっているようです。
これも確かに「新春の喜び」に違いありません。

☆
この山小屋へ
電子ピアノの突如の到来は不思議でした。
怪しい言葉で表現すれば
私はそれを以前から予測していたかのようです。

更に今 私は
友が遠来この小屋を訪れ ガラス張りのピアノ室で
都会の憂鬱と喧騒から解き放たれ
彼の至福の中 南の森を眺めながらピアノを弾いて欲しいと 
心から願っていること、そして・・もう一つ

「もったいないではないか、
私も老化防止のため、ピアノを弾いてみようかな」と
思い至ったことでした。
実は楽譜はもう船引の本屋に注文したのです。

その曲のタイトルはと言えば・・
ベートーベンのピアノソナタ ムーンライトの第一楽章!
もうすぐ69歳、
私の人生 これは一体どうなることでしょう。

★
レンジフード
きのうはその為の 下ごしらえでした。
今日は多分セットできるでしょう。

2010年1月10日日曜日

きのうの工事

きのうはダイニングコーナーの床の釘打ちを終えました。
それはよかったのですが、完成して見ると何と
「床鳴り」がするではありませんか。
ダイニングに入ると、床がキュキュッと鳴るのです。
プロはその防止の為、床材の下面に接着剤を塗布するのですが・・
ま、しかしこれも「愛嬌」ですかね。

それと電子ピアノの椅子が出来ました。
4センチだけ高さの調整が効きます。
私の中では それも一つの不思議でした。その説明はまたいつか・・
もう一つ、食卓の高さを普通の高さに変えました。
ピアノ室は注文したサッシが届くまで 工事は待つほうがいいでしょう。
今日から 延ばしに延ばしたレンジフードの取り付けにかかります。

現在、過去、未来・・

現在、過去、未来の他に 
もしも「永遠を現す時制」があれば何と便利でしょう。
しかし、残念ながらそれはありませんから、聖書においても
永遠を表現するには、やはり現在形、過去形、未来形のどれかを
使用せざるを得ません。

聖書は 一方では御言葉を通して
誰でもが容易に神に触れることが出来ますが、
方や極めて理解が困難な本であるとも言えます。
その理由の一つとして 特に新約聖書においては
どの記述が「時空の中の事実」なのか、どの言葉が「永遠性のもの」
なのかが 分かりにくいことが挙げられるでしょう。

未来形を用いていても それは永遠を表しているかも知れません。
過去形を用いていても それは永遠を表しているかも知れませんし、
現在形を用いていても それは永遠を表しているのかも知れません。
聖書は「時間の中の事実」と「永遠の事実」が様々な糸で織られた
織物のように記述されているのです。それは、普通の言い回し
の中に 永遠の記述が隠され ひそんでいる、とも言えるでしょう。

ですから私たちは
聖書を読む時、永遠性の事やものに格別の注意を払い、
その記述を見逃さないようにする必要があります。

何故なら、キリスト者に対して 神は
「時間の中の命と事実」よりも「永遠性の命と事実」を 
はるかに優先させて生きるようにと切望しておられるからです。
神が私たちに「永遠の命」を与えられたのは正にその理由によります。
命は実際に生きるためです。

そもそも私たちは「永遠の中に生まれた」のです。
しかし、それのみならず キリスト者とは今この瞬間でさえ、
神によって物質の命と死を果敢に退け
永遠の事実と命によって生きるようにと計画された
極めて特別な「生きもの」に違いないのです。

2010年1月7日木曜日

神が幸せであるように

神は幸せや 悲しみを感じるお方でしょうか。
答えは明らかに YESです。
それでは、
神は今幸せでしょうか。何と私の答えはノーです。
仮にもしそうであるとすれば、即ち神は必ずしも 今幸せを
感じておられないとするならば、
何をさておいても
先ずは神に幸せになっていただく必要が
あるのではないでしょうか。
何故なら、
総ての存在の中で神が最も尊いお方であるからです。

だから私は祈ります、
「神よ、何をさしおいても
先ずはあなたが幸せになって下さい!」

★
今日は予報がはずれて、
「もう春が来たのかな」というような素晴らしい天気です。
午後3時頃から曇ってくるようなので、
昼食後は緑山のふもとまで歩くつもりです。

工事ですが、
ピアノの椅子は後回しにして、
今日は居間の床張りをしております。
椅子は明日になるでしょう。

2010年1月6日水曜日

神を信じる

・・にもかかわらず 
私たちは 
何がどうであろうと
どんなことが どう展開されようと、
神を信じることが出来ます。

これは不思議なことですが、
人に与えられた能力と知識の範囲は
極めて小さなものです。 
何故でしょう、それは
「人の能力と知識の矮小(わいしょう)さ」に
十分に取って代わる
「信じる」と言う真に稀有(けう)な能力が
人には賦与されているからです。

故に 
人に対する神の要求は
決して能力と知識にあるのではなく
神を信じることにあるのです。
「神を信じる」
これ以上に 人に可能な「よきこと」は他にありません。

私達の信じる神は 
その私達の全幅の信頼に応じ、
なお十二分に余りあるお方であることは
真に確かな事実です。

かの日、
私は その神の十全性を見る時
かつての私の不信仰に
恥じ入ることになるかも知れません。
何故なら、私は
そのとき「神が真に神である」ことを
アリアリとこの目で目撃することになるからです。


★
今日は電子ピアノ用の椅子を作ります。
ピアノ用の椅子の高さは微妙です。
一般に食卓用の椅子でも 低過ぎるようです。
調整可能なら 一番よいのですが、
それは私には無理でしょう。

外は今猛烈な風です。

2010年1月5日火曜日

今年もよろしく

ハイ私は相変わらず元気です。
今 山に来ております。

*
すぐる12月30日 
ある聖徒達との何気ない会話です:
「山小屋に本物のピアノは バランス的に大きすぎるよ。
その点、電子ピアノだったら、主もそれを用いて下さる
のではないのかな」
そうしたら何と その3日後に、突然ある人たちが小屋に来て 
「電子ピアノをもらってくれたら 嬉しいのですが・・」
と手ごろな電子ピアノを小屋に置いて、3時間後に
さっさと山を降りて行ったのです。

それで昨日から ピアノ室に改造するべく 
居間の突き出し部分にガラスで間仕切りをする作業に
取り掛かっているのです。

*
その電子ピアノを持って来たのは 
私の末っ子の婚約者です。正月2日、
潜水士をしている三男は彼女を乗せて はるばる東京中野から 
あの強風吹きすさぶ阿武隈まで大型バイクで来てくれたのです。
彼らの目的は 5月に正式に両家の顔合わせをしたい、
と私に告げることでした。

*
長年 ガンで苦しんでこられた姉妹が
今極めて危機的な状況です。
彼女の霊と総てを神に委ねます。

2009年12月31日木曜日

それでも只神を信じる

手探りするあなたの
その手で触れられるものは何も無く
更に何も見えない暗黒の中で、
それでも 
神を信じ続けられますように。

積極的な何物をも感じ取れない穴の中で
ただ神を信じること、
それこそが信仰だからです。

神を信じるとは決して
自分の感覚に よりどころを求めること
ではありません。
決してものや現象を信じることでもありません。
何が見えないとしても、全く何を感知出来ないとしても
ただ神の真実と彼の約束を信じること、
目に映る色彩がまるでない
無色と暗黒の中で ただ神を信じることです。

驚くべきことに
あなたに神に向かう口がありさえすれば、
信仰があるのです。
今こそあなたが
声にさえならない深いうめきと共に
その信仰の簡明な言葉を
神にだけ申し上げて下さいますように、
「主よ、それでも私は ただあなたを信じます」と。

2009年12月25日金曜日

遅くなることはない

もっと優れた、いつまでも残る
財産を持っていることを知っていたので、
自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。

ですから あなた方の確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなた方が神の御心を行って、約束のものを手に入れる為に
必要なのは忍耐です。
「もうしばらくすれば、
来るべき方が来られる。遅くなることはない。
私の義人は信仰によって生きる。
もし恐れ退くなら、
私の心は彼を喜ばない。」

私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく
信じて命を保つ者です。

信仰とは(今この時空間と肉体の中で:Sugar)
「望んでいる事柄」を実体化し、
「目に見えないもの」を確認させるものです。
(ヘブル10の34~11の1)

新情報感謝

初めまして。
Steven Kaung のメッセージは以下でも聞けますよ。
http://www.christiantapeministry.com/

William

2009年12月23日水曜日

事実の等級

ここに 二種類の事実があります。
一つは 私たちが「毎日 見聞きする
五感や理性で知るこの世界の事実」であり、
もう一つは「見えない」世界の事実です。

この両者の内、どちらの方が「リアル感」に優れているかと言えば
それは間違いなくこの世界の事実でしょう。
にもかかわらず、どうしてキリスト者は一見 
「とてつもない」と見える いわゆる「見えない」事実の方に 
軍配を上げるのでしょうか。

それは 後者の事実と前者の事実では 同じ事実ではあっても
その両事実の「レベル、等級」が格段に違うからです。
それは格段の差がある と言うだけでは足りません。
「後者の事実の優位性」は「無限に高い」とでも言うしかないのです。
それは比較にならないのです。

あまりにも単純に
「事実であればその価値は決まる、事実であれば問題ない」
と言うわけには行きません。
「事実の世界」には明らかに等級、レベルの差があるからです。
従って「事実」と言われるものには
その事実の等級、レベルを冠せられねばならない筈です。

私達は ある「事実」を信じ、
特に それに「自分の永遠を賭けよう」とするような場合、先ずは、
その事実の等級、レベルの「ラベル」を
よくよく吟味する必要があるのです。

2009年12月21日月曜日

ある情報

*IN CHRIST に関連して*

William (Bill)Mallon兄弟、
以前ローカルチャーチにいた兄弟ですが、"In Christ" と題して
3つのメッセージをしていますが、
そこでは、"in the sphere of new life of Christ" という
意味だという話しから始め、メッセージを進めています。
詳しくは下記のサイトでダウンロードできます。
そのサイトの一番下の"SCA Winter Conference 2004" にあります。
http://www.seattlechristianassembly.org/Messages/SpecialMsgsEn.html

★
この情報は在米の ある日本人の兄弟から寄せられたものです。

この中で、
当時中国大陸において、
w.ニーの若き同労者の一人であられ 
現在なお90数歳の高齢にも関わらず
(彼が唯一人の生存者かも知れない)
主の為に働いておられるスティーヴン・カン兄弟の
メッセージ等も聞くことが出来るようです。
(英語です)

2009年12月20日日曜日

進むべき行程から

1
「私が進むべき行程」から
少し横道にそれるだけで、唯それだけで、
私の命運は とても容易なものとなるだろう。
しかし、私は確かに知っている、
わが主は 何と過酷な行程を進まれたかを。

2
それ故 私はこの世を全く捨て去り 
その結びつきを 総て断ち切る。
私の行く道は なお狭きものとなり
世は総て 私に敵対して立ち上るであろう。

3
人々は 顔をしかめ、軽蔑してあざ笑うとしても
私は 主の笑顔のみを慕う、
ひとえに 彼の「よくやった」を願う、
地上のこの つかの間の時間の中でこそ。

4
偉大さを追い求めまい、
地上の栄光を追い求めまい。
ただ身を低くし 主にのみ仕えたい、
かの日、彼の誉め言葉を得んがために。

5
私は今 
「あの裁きの座」から来るその光を見つめる。
総ての私の生き方と働きが、
「かの火のテスト」に耐え得るために。

6
人々は総てをかけ
自分の成功を求め、栄光と富と名声を追求し、
自己の偉大さや 自分の追従者、
そして自身の栄誉を獲得しようとするだろう。

7
しかし私は
魂の中の繁栄ではなく、
ひどい孤独と貧困の中でさえ 
「彼」に忠信に従うことを求める、
あのゴールに到達するに至るまで。

8
私は知っている、地上におられた時 
主の歩まれた道は唯一つ 
あの十字架に向かう道であったことを。
それ故、私も彼と共に 
ただ損失をこうむることを願う。

9
総ての私の光栄は「かの前方」に備えられている。
それ故 ここで 私は総てを耐え忍ぶ。
主の御前において、主を差し置き、
今 自分の栄誉を求めることなど出来ようか。

10
しかし、来たるべきかの時、私は誉を賜るだろう、
主御自身 総て私の涙をぬぐい取って下さるという誉を。
それ故 今この時代 忠信に 私はただひたすら前に進む、
私の主が出現される かの日に至るまで。


★
この詩は W. ニーが拘束される かなり以前に
書かれたものです。例の証同様、在米のある日本人が
送って下さいました。ただしこれは 
「英語訳からの」一つの試みの訳に過ぎません。

If From the Right Course I Depart

1
If from the right course I depart,
Then ease my lot would be;
But I remember
How my Lord Did suffer agony.

2
I'll utterly forsake this world,
And sever all its ties.
My path may narrow more and more;
And all against me rise.

3
Though men may scowl and laugh to scorn,
I only want His smile.
His "well done" only I'd secure
While here this little while.

4
Not after greatness do I seek,
Nor glory here desire,
But humbly I would serve the Lord,
His praise that day acquire.

5
I'm daily gazing at the light
Shed from His judgment seat,
That all my living and my work
The test of fire may meet.

6
Let others seek for great success,
For glory,wealth,and name;
Let them procure their grandeur here,
Their followers and fame.

7
In solitude and poverty,
Though prospering not in soul,
Yet faithfully I'll follow Him
Until I reach the goal.

8
I know that when on earth He dwelt
His lot was but the cross;
And that is why I only wish
With Him to suffer loss.

9
Since all my glories lie ahead,
I must to patience cleave.
I will not go before my Lord
And glory here receive.

10
That day my honors I will have;
The Lord will dry my tears.
So faithfully I'll still press on
Until my Lord appears.

★
ある方の要請に応え、
10月27日のW.ニーの詩「進むべき行程から」の英訳
(原文は中国語でしょう)を載せました。
次に御批評を仰ぐために、また参考の為に 
私の訳を次に再掲載致します。

2009年12月15日火曜日

冬の遠景

山の冬は確かに厳しいのですが、
その時になってみると、実はそう大変でもないのです。
連日 もうこの所 
朝はマイナス4度くらいにはなっているのですが、
慣れてみると どおってことはありません。

それよりも 
近くの丘から眺める 遥か遠く 連山の上
薄く青い 何とも言えない夕暮れの空の美しさは
山の暮らしの大変さを忘れさせるのに十分です。
これがあるから、
何度でもまた山に来てしまうのでしょう。

明日 下山です。

2009年12月13日日曜日

あるメールから

メール感謝でした。

あなたが書いておられた「主の御名において」
の実質は当然 パウロが172回も用いたあのフレーズ 
IN CHRIST です。

それでは IN CHRIST の IN とは何でしょう。それは、 
イエスとあなたは 相似形の二つの三角形のように
一つになり得る状態、そして更に言えばピタッと合同でさえある、
と言う「永遠の状態」のことです。

一面 兄弟は地上にいる小さな三角形です。しかしその小さな
地上の三角形は 天の三角形(御座のキリスト)と相似なので 
天のキリストと合同にもなるのです。
それが今 キリストと共に天の御座に座すあなたです!
御座は一つしかないんですよ。(エペソ1の20、2の6)
そこで天地はキリストとあなたにおいて完全に繋がるのです。

その天地をつなぐはしご(そのはしごも人の子・新しき人)
を今現在 御使い達が上り下りしております。(ヨハネ1の51)
ナタナエルやパウロだけでなく 総てのキリスト者は 
ゼヒともこのはしごを内的に見る必要があります。

*
しかし、他面、今まだ 
この肉体・時空の中にいる私たちは、
自分の内側から生じて来る or
外から自分に粘着して来る汚れや不義、「人間関係」を
むしろ自分と一緒にグルグル巻きにして、それらを 
キリストの死の中に 
毎日何度でも置き続ける必要があります。言い換えれば 
「古い自分をも含んだ梱包されたそのゴミの塊」を墓に持って行き 
そこに置き去ると言う清掃作業は欠かせないのです。
死は正に分別、隔絶です。(ある時 不要物は焼却炉の中に入れられ
それはエンドレスに燃え続けるでしょう。)

もし私たちが「思いを切って」それをすることが出来るならば
(しかし御存知のように 物質的なゴミ・不要物でさえ
「本当に捨て去る」のはそんなに簡単なことではありません)
その後いつの間にか 
私達から自然に現れて来るのが真の神の力 復活のキリストです。
その時私達は そこには何らの汗の努力やがんばりは
全く必要でないことを真に知るでしょう。
これこそが、キリスト者の本当の楽しみです。

2009年12月12日土曜日

このごろの思いです

神があの木に釘付け、滅ぼそうと意図されたのは 
私・旧創造でした。(そうでなけば、不合理です。)
そして正に 神はそれを2千年前に実行されたのです。
ですから、あの時
十字架上に磔(はりつけ)になったのは
私以外の何物でもありませんでした。
ところがその時、実際にそこにおられたのは
イエス・キリストでした。

ここに大きな真理が啓示されています。
それはその瞬間 キリストと私は全く一つとされたのです。

「私はキリストと共に 十字架に付けられた。」(ガラテヤ2の20)
「私が地上から(木に)上げられるなら、私は総ての人を
私に引き寄せます。」(ヨハネ12の32)

*
人については 語らずに祈る方がよい。
私が語るのは ただ
「キリストそのお方について」でありたい。

★
ようやく雨が上がりました。
今日から、風で飛ばされた三枚の透明屋根の
修復にかかります。明日には終わるでしょう。

2009年12月10日木曜日

山に来ております

昨日 夕方小屋に着くと何と
9月に代えたばかりの南デッキの透明屋根が
3枚 みごと風に吹き飛ばされているではないか。
やはりここの風は馬鹿にならないのです。
それにしても全部でなくてよかった。

今日はあちこちの見回りと 補修の幾つか、
それに、水道管凍結対策をやらないといけません。 
(まだ完全ではないのです。)

今日は比較的暖か、
やはり山の清浄で穏やかな空気は格別です。

そして明日はと言うと
例の車屋さんに行って、スタッドレスタイヤを付けて
もらわなければなりません。
今年は暖冬なのかな、しかしここの生活では仮に 
これから全く雪が降らないとしても
まさか冬タイヤを付けない 
と言うわけには行かないのです。

下山は早16日の予定です。
昼までにそれでは もう一作業やりますかね。

2009年12月7日月曜日

真理の学びの目的

状況がどうであろうと(即ち 前途が明るく感じられるときも、
暗黒しか感じられない時も)
私たちが「ただ主を信じぬく」ことが出来ますように。

「聖書の真理の学び」については 心配しないで下さい。
必ず主は兄弟に そのための道を開いて下さいますから。

しかし実のところ、真理の学びと言っても その目的は
要するに どんなことが環境の中に起ころうとも 
私たちが「神を信じ抜くようになること」です。

決して 何か難しい教理を記憶したり ああだこうだと
自分の知識や経験を 人に宣伝したり議論したりすることでは
ありません。それは「キリストご自身を持つこと」が既に
「総ての解決を持つこと」であるとの信仰を持ち、更に
その事実を 生活の中で経験的に知ることです。

ですから、今 八寺兄弟姉妹は 本当の意味で
環境の中で真理の学びをしていることになります。
主よ「総ての解決そのもの」であるあなたを
生活の中で経験するという学びを 今日も学ばせてください、
と祈り、そのことで神に信頼するなら それが本当の学びです。
これは いつどこにいても 誰にでも出来ることです。
神は誰にでも とても公平なお方です。

でも人はすぐ 学びと自分の日常生活を切り離してしまいます。
それは大きな間違いです。何故なら、
神は絶えず総ての環境の背後におられ、
「どんなことがあったとしても 神を信じ抜くこと」を
学ばせようとして、私たちの環境を適宜に こまごまと
絶えず 微調整さえして整えておられるからです。
ですから毎日 目が覚めた時から 眠りにつく瞬間までが
学びのときです。それには一瞬の例外もありません。

私もよくあることなのですが、
私に対するその神の意図を退け、神が与えられた環境を軽視し、
その神を意識的にさえ離れ 好き勝手な自分の好き好みだけを
追求するという この日常的な誘惑から 
どうか私を今日も守って下さいますように。

2009年12月5日土曜日

人は・・

人は あの木にかけられ 血を流す身替りの子羊を信じて 
神の命を得、永遠に救われます。
何と幸いでしょう、
この永遠の救いには一点の疑いもありません。

*
そして人は 
木にかけられ、神に呪われたあの人は 正に私であったことを見て、
罪、この世、己からの実際的な解放の可能性が生じます。

何故なら、その時 
人は初めて「キリストとの結合」を知るからです。
私と一つなるキリストから「総てのよきものと勝利」を引き出す
以外に 私たちが 正常なキリスト者の生活を送り得る
可能性はあり得ません。

2009年12月4日金曜日

真の世界を獲得する

総ては「真の世界」のためです。

私たちは今現在 

この「虚空の世界」の中で 

瞬間瞬間 死に続けることによって

また「天地のキリスト」に自分を結合させることによって

「真の世界」を 自分の内に獲得しつつあるのです。

これは、何たる栄光でしょうか。

2009年11月30日月曜日

天地の人

いわゆる最後の晩餐で語られたイエスの言葉は 
全聖書の中でも大きなピークを形成します。

14章2、3節:
あなた方のために、
「私」①は
「場所」②を備えに「行く」③のです。私が行って、
あなた方に「場所」②を備えたら、
また来て、
あなた方を「私自身」④に迎えます。
「私のいる所」⑤に、あなた方もおらせるためです。

*
「私」①とは
これから正に十字架に向かおうとしておられたイエスです。
「行く」③とは、
即ち十字架に付くことです。
「場所を備える」とは 
イエスが十字架に付けられ、復活することです。
次に 少々むずかしいのですが、
「場所」②と「私のいる所」⑤とはどちらも 
復活後のキリスト 即ち「私自身」④です。

今既に
「その場所、イエスのいる所、イエスキリスト御自身」の中へと 
彼は わたし達信じる者達を迎え入れました。
15章に来ると
復活のキリストを信じる者達をも含んだ 
言わば「天地にあるキリスト」を彼は
宇宙的一本の「ブドウの木」にたとえておられます。

最後の晩餐における他のことばも総て
一つこの思想の表明の為であったのであり、
そして全聖書の総ての糸は
「一点この天地のキリスト」に集結されている
とさえ言えるのではないでしょうか。

旧約のヤコブ、イザヤ、エゼキエル、
新約のナタナエル、ステパノ、パウロ、ヨハネ達が
見させられ、畏れ 倒された幻の本質とは 
実はこの「天地にある現在のキリスト」です。

ですからわたし達も 今ゼヒとも この現在のキリストを
見、畏れ、倒され、わたし達の全生涯を、ただその幻によって
支配、制御していただく必要があるのです。

2009年11月27日金曜日

キリスト者の戦い

ここに二者があります:
①あなた自身 と 
②あなたに迫り 取り囲み 粘りつき、あなたに固着し、
閉じ込め 圧迫し、押しつぶすようにして 
あなたを何とかして 命なる神から切り離そうとする
有形無形の暗闇からの死の力です。

そこであなたは
この二者①と②を むしろ一つにして(もう一つとなっている!) 
「今 正に十字架に釘付けられようとするイエス」の中に
しっかりと置かなければなりません。

どのようにして置くのか?それは:
それを意識し 神に祈り、そして次にハッキリと声に出し
「全宇宙に対して」宣言することによります。
「宇宙の全被造物よ、私は今、
①私自身と 
②私に付きまとい、私に固着し、私を閉じ込め、圧迫する
この状況の一切をイエスの中に置きます!」と。
こここそ最大のポイントです。

もしも あなたが以上のことを 神の御前にて、
真実を込めて行うならば
間もなく 永遠のイエスの完全な死の効力が 
今 時空の中にある①と②に伝達され
イエスの死が ①と②を切り離し、隔絶して下さるでしょう。
なぜなら 死は決して消滅ではなく、
死とは分解であり、切り離しであり、隔絶であるからです。

そして3日後に(しかるべき時に)神は
①だけをイエスと共に 復活の超越へともたらして下さるでしょう。
②即ち、旧創造に属するものは墓と黄泉へと送られ、いずれ火で
焼かれます。以上がキリスト者のなすべき戦いの多くの
ケースであると 私は考えております。

それはあたかも まるで あの時のイエスのようです。
あなたは信じられるでしょうか、彼は文字通り、
サタンから来る一切の死の状況を静かに受け入れたのです。
ああ、それこそがイエスに対する神の御こころだったとは!

しかし、私たちは神を賛美します、その情景の背後に、
敵の小ざかしく邪悪な策略を 遥かに凌駕する
「神の超越した英知」が存在したのです。

ですからそのような時に あなたは愚かにも 
目に見える形であなたに襲いかかるこの世の不正に対し 人の魂を
起源とする小さな「正義」を振りかざして戦うようなことをしては
なりません。(それは何と キリストの十字架を無効にする行為
であることを知るべきです!)キリストの十字架の効果が及び
得ない所、確かにそこには あなたを更なる死(神の敵からの死)
と言う泥沼へと引きずり込む敵の謀略が待ち構えているのです。

その時 あなたに要求されることは 
唯 あの時のイエスのように 
崇高な愛と 絶大な能力を秘めた神への完全な
信頼なのです。

*
しかしながら、以上は 決して 
あなたがぼんやりと 総てに対して受身になることを
意味しているのではありません。
それは敵に対しては むしろ極めて危険です。いついかなる状況に
おいても 私たちは 自分の意志を堅く保ち、しっかりと 
神の御心の側に立つ必要があります。

ですから、
私たちは もう一つのキリスト者の戦いの側面 即ち:
「初めから 敵に対して 復活の命によって対抗しなければ 
ならない戦い」についても知り、それに練達しなければなりません。
これらについては 今後更に 学んで行きましょう。

2009年11月25日水曜日

エクレシアの集まりは

エクレシアの集まりは 
変幻自在、伸縮自在、臨機応変、そして神出鬼没です。

ですから、一度たりとも そこに先回と全く同じもの
ある固定、安定、形式が感じられるとしたら、それは
復活のキリスト以外の何ものか であると見なすべきです。

多分それは 
先ずは私が率先して、キリストと共に十字架上で 
死ななければならないことを示唆しているに
違いありません。

ある死と復活

あなたの命とさえ言える 
決してあなたと切り離されることのなかった 
あなたのあの長年の切望を、しかしあなたは 
確実にイエスの中に置かれました。
あなたのしたことは ただそれだけでした。

しかしイエスは 
「その願いと一つであるあなた」を内包し 
あなたと共に十字架に行かれたのです。

ただそれだけで あなたは いずれ 
必ずイエスと共に復活するでしょう、
「あの古き着物」を墓に置き去って・・

私たちの生活は実に単純ですね。
ああ、賛美を神にささげるのみです!

(ヨハネ20の5~7)

2009年11月22日日曜日

あるメールから

・・・
さて
兄弟に対する「その語りかけ」 
それは確かに上から なのでしょう。

「ある聖霊の促しを感じる→しかし応じ切れないor
どうしたものかと思案する→心が騒ぐ、落ち着かない→
ある実行or 不実行と言う服従によって静かな平安を得る。」
これは推論、理屈、私の都合等を超えて 
「御心把握」への一つの行程です。

「この道」とは ある意味
一人一人が 主の前で「その単純作業」をするだけでよい
と言う簡明な道であると思います。

その場合 恐らく「人の非難」を受け、恥辱をこうむるという
「私の魂が傷を負い、そして魂が失われる苦痛」は避けられない
ことさえあります。しかしそれは
「営所(宗教)」の外に引き出され 主と共に暗黒の谷間を通り 
遂には十字架に付けられると言う ヘブル書13章に見る 
極めて貴重な時間帯となります。しかしこのことは 
ある経過をへて、兄弟が一人 主の復活を確かに目撃し そして
「密かな真の礼拝」をささげるという栄光ある時間に繋がるでしょう。

これこそが
生ける復活の主の御業を地上、時空の中で拝する
ための唯一の条件ではないでしょうか。
1世紀も21世紀も これ以外の方法で
「永遠の主の業」が「時空に」出現することはあり得ません。

ますます兄弟が、人ではなく
「主のみに」従われますようにと願ってやみません。

2009年11月19日木曜日

世界一の車屋さん

実は11日 
家内が自動車事故の当事者になってしまいました。
詳しいことは今言いませんが
まー何と幸いなことに、被害者、加害者とも人身への
損傷は全く皆無だったのです!

ま、話はそこまでは極めて「めでたし」だったのですが、
しかし結局 妻の愛車・パジェロミニは哀れ廃車となって
しまったのです。

「かかりつけの」地元の業者は 次の車の値段について、
手練手管で、随分高いことを言います。私は一寸腹が立ちました。
車両保険にも入っていなかった妻は「もうパジェロミニには
乗れない、更に安い軽自動車を買うしかない」と
覚悟を決めたのです。

そこで私は 
遠い福島から車を買うなんてとてもムリ、とは思いつつも
念のため、山で車のお世話になっている郡山はカタソネマイカー
の社長に 相談だけはして見ようと思い立ったのでした。

ここで面倒な話は総てハショリます。結局どうなったか:
何と何と極めてリーズナブルな値段で、社長は妻の為に
ワインレッドの パジェロミニをお世話して下さったのです!
実家の妻の歓喜は言うまでもありません。それは今社長の
奥さんが乗っているパジェロミニを事もあろう 私の妻に回す
という裏業を彼は発揮されたのでした。

このカタソネマイカーの社長が どうして
世界一の中古自動車屋さんであるのか、それを
ここで詳しく述べる煩に私は今耐えません。しかしとにかく
結論として この社長は世界一の車屋さんなのです。
人生 私は新車なるものを一度も買ったためしがありません。
何故なら、この社長に一言頼むだけで、車について私は
一切何も考える必要がないからです。
こんな楽チンことはないではないですか。

私が中古車購入について、
どうしようもない偏見を持っていることは明らかでしょう。
しかし今回もまた、私はこの社長こそ、間違いなく世界一の
車屋さんであるとの確信を一段と深め、強めたのでした。
それは あなたも一度だけでいい、彼から車を買って見れば
直ちに分ることです。

(かように私のように 彼から車を買った人が皆 頼まれもしないのに 
いつの間にか彼の「営業マン」になってしまうのです。ですから、彼は
「車が売れて売れて時間がいくらあっても足りない」と嬉しそうに
毎日ボヤいているのです。)

ある黄金律

*昨日のメールから*
キリスト者は常に
単純 簡単で、決して動くことのない素晴らしい黄金律
を持っているように思います、それは・・

「いついかなる場合でも、そして 
何がどうであったとしても
ただ神を信じる」

私達の主は 十分に
これに値する神なのではないでしょうか。

昨日小屋に舞い戻りました。
正にここは晩秋、
早い早い夕闇が もうあたりを包み始めております。

それでは。

2009年11月14日土曜日

もしも あの復活が無かったのなら

今 日本に キリスト教やクリスマスはありますが、
キリストはおられません。
人々は「キリスト者がどうであるべきか」は論じますが、
「日本にキリストがおられない」と言って嘆く人はおりません。
人々はクリスチャンの罪について糾弾し合いますが、
「キリストそのもの」がおられなくとも全く平気のようです。
それでも少数の人々は キリストについて語ることが
あるようです。しかし「そのキリスト」は絵に描かれた餅に過ぎません。

要するに今日、
「キリストの復活はなかった、それは昔の人の幻想であった」と
言う大きな前提の上に 総てを築き上げようとしている、
ように私には見えます。
もしもキリストが復活されなかったのなら、なるほど
前述のようなことになってしまうのでしょう。
事の真相を解く鍵はどうやら この点にあるのではないでしょうか。

しかし事実はこうです、
もしもキリストが復活されなかったのであれば、
キリスト教の一切は無益です。
それは糞土以上の何物でもありません。
それが「最上質のキリスト教」であったとしてもです。
もしも復活がなかったのであれば、
パウロの宣教の意味さえ崩壊するでしょうし、
世界の存在にもいかなる価値もなくなります。
何故なら 全世界の栄華も その本質は
「数秒間だけきらめくだけで消えてゆく線香花火」と
何ら変わるものではないからです。

しかし、
もしも「永遠という実体」が、本当に
存在しないのであれば まだしも!

ですから
大切なのは 正当なキリスト論ではなく、
正しい復活のキリスト論でさえなく
復活された永遠の中のキリストそのものです。
今世界に必要なのは「正真正銘のキリスト」と言う 
復活されたお方の 生きた存在以外の何ものでもないのです。
なぜなら、神が人に真に与えたいと切に願っておられるのは
復活のキリストの中に実在する
「永遠と言う確固たる実質そのもの」であるからです。

2009年11月11日水曜日

キリスト発見

人が彼の人生において もし、キリストを発見しなかったなら、
その生涯にはどんな意味もありません。

たとえ彼が仮に、全宇宙を所有することがあったとしても 
もし彼がキリストを発見しなかったならば、その全宇宙の
所有には少しの価値もありません。

あれを経験し、これを楽しみ、あれを知り、これの詳細を研究し、
その本質を突き止めたとしても もしも彼がキリストを発見
しなかったならば、その人生は無です。

また彼が多くの人の賞賛を得、仮に地球上の殆どの人の心を
掴んだとしても もしも彼がキリストを発見しなかったなら、
その人気と名声にいかなる益もありません。

なぜなら、目に見えるもの総ては 必ず過ぎ去って行くからです。
ですから私達はいかなる代価を支払ったとしても 目に見えない
真の実質「今日のキリスト」を発見しなければなりません。


★
まだ実家におります。
山行きは多分 17日になると思います。

2009年11月7日土曜日

別訳です

その後 漢詩に詳しいある方(日本人)の協力により「獄中の
ウォッチマン・ニーに関する証」に掲載されていた漢詩の訳文と、
その他の箇所についての解説を得ました。参考にしてください。

☆
1)
まず、「監長」と「獄長」の違いを説明した中国語の文章が
ありましたが、その訳は、「監長は監獄の監房のトップ、獄長は
監獄の十の監房の最も上のトップです」となります。

2)
次に、ハンガリー詩人、ペテーフィ・シャーンドルの書いた
詩の訳です。

*
「生命(いのち)はまことに貴重なものであり、
愛情はさらに高価だが、
自由のためであるならば、
この二つともを捨てていいことがある。」

"ペテーフィ・シャーンドル"Petofi Sandor
ハンガリーの愛国詩人(1823-1849)
「愛国者の歌」「民族の歌」等の作者として
知られている。(辞海―上海辞書出版)

3)
手記の著者がウォッチマン・ニーと白茅嶺で再会した時に
詠んだ詩の訳です。
(原文:彼此依依相見晩,主有安排難預感;
    本是同袍同澤人,皖地重逢敘忠悲。)

わたしたちは二度目に安徽省の白芽嶺労改農場で再会した。
そこで一緒にさらに五年間を虚しく過ごさねばならなかった。
出逢った時、二人共とても感動し、わたしは一遍の詩を作った。

*
「互いにどれほど懐かしく思っていたことだろう
なのに再会の機会はあまりに遅く訪れた
主の計らいを予知することは難しい
もともとは同郷人であるはずなのに
安徽省の地で再会させられるとはとても悲しい。」

労改=「労働改造所」とは思想を矯正するために収容する刑務所
のこと。強制労働に従事させられる所。

4)
ウォッチマン・ニーが獄中で妻の訃報に際して詠んだ歌:

*
「千回も泣き、千回も叫んだ、
聞き慣れている君の声、
どうして返事をしてくれない?」

わたし(=手記の著者)はこの詩を読んで、
次のように続きを書いた、

*
「何回も報告し、何回も請願を出した、
肉親の葬儀に駆けつけたい人の一途な思いを
どうして許可してくれないのですか?」

2009年11月6日金曜日

展開力(3)

キリストの死があれば、それは必ず復活に繋がります。
そしてそのキリストの復活は一つの法則として ある展開を見せるのです。
この展開力は完全に「復活のキリストのもの」であり、その実体は聖霊です。
初代のエクレシアに見られた「御ことばの成長、拡大」は、決して生身の
地のチリである人の体と魂という起源から発したものではなく、
その正体は天的展開力を伴う復活のキリストでした。

この素晴らしい復活と展開と言う現象を楽しむ為にはどうしても、人の
完全な死を待たねばなりません。人の完全な死を見届けて初めて
復活があり、そしてそれが次には展開という結果を見せるのです。

展開は復活のキリストの力の表示です。それは 極限まで十字架に閉じ
込められ圧迫されたもの、即ち「完全な死」の中から「究極的な命」
としてのキリストが 時空の中に復活として現わされ、次に流れ出、
表示され、展覧されたものです。それは植物の一粒の種が地に落ち 死を
経過し、復活すると、その命の展開が始まるようなものかも知れません。
その現象は私達の目には萌芽、成長、開花などとして観察され 
人の癒し 慰め 喜びとなります。

福音書のキリストイエスはどうしても地に落ち、埋められなければ
なりませんでした。しかしそれは福音書の最後において復活し、
使徒行伝において その展開が開始され、更にその内的に隠されていた
無限の神の力は 展(ひろ)がり 開き続け、それは 書簡を経て 
遂には黙示録に至るのです。復活と展開、それは「死と戦い、
死に勝利し 死に勝ち誇る命」と言う気宇壮大 かつ極めて詳細な
神の物語を私達に告げているものに違いありません。


★
今日は下山です。
無風快晴、朝日を背景にしたとても美しい「紅葉の最期」が
南の窓からのぞかれます。これから準備をしますので、
出発は10時頃になるのでしょうか。

2009年11月4日水曜日

展開力(2)

*人は邪魔*
神の業を行うと言うことに関する限り
神はとにかく人が邪魔で邪魔で仕方が無いのです!「邪魔」とはよく
言ったものです。私達は この漢字をよくよく見つめる必要があります。
私達が 神の為にしようとすることは総て「効果ゼロ、無駄」である
だけでなく私達の行為は「邪魔」以外の何物でもありません。

だから神はその邪魔な人間と その総ての業を 取り除くだけでなく、
何と 呪う必要さえあったのです。それ故に、「あの木の上の人」は単なる
死刑「石打ち」ではなく、木の上部に釘付けられ、つるされて「宇宙の
さらしもの」とされ 神に十分に呪われる必要があったのです。

あの人とは誰ですか、あの罪人(ざいにん)とは実は 私やあなた
ではなかったのでしょうか!神が「完全無垢なお方」を死刑に
処することなど 絶対にあり得ないからです。もしもそんなことがあった
とするならば宇宙は直ちに崩壊したでしょう。もしもあの時、私やあなたが
そこにいなかったとするならば、神は御自身の義を全面的に捨て去った
ことになるのです。何故なら、神は無罪の人を死刑に処してしまった
からです。

しかし、事実 神は冤罪を犯しませんでした。なぜならあの時、神に呪われ、
死刑となったのは正に私やあなたであったからです。故にそれは完全に
正当な刑の執行となりました。ある歌にあるように あの時「イエスとの
一つ」の中で「君も私もそこ(十字架上に)にいた」のです。

私達人は神が 何かをされる際の 最大の障害物です。ですから、人が
十字架の真の意味を知らずして、神のために何かをしようと企てる時、
神はきっと、とてもハラハラされるでしょうし、またその後では、その
あまりの忌まわしさの故に 完全に無視し 顔をそむけさえするでしょう。
大変な努力や、多額の献金も 断食の徹夜のお祈りも 全く効果がない
のはそのためです。神の業の実行において、私達はあまりにも
危険であるのです。

展開力

*異次元の力*
神は 人に命じられたことは総て、神自らがそれを実行されます。
これは最大の原則です。人は「神が私に命じられたのだから、
私がそれを実行するのだ」と勇み立ちますが、人には本来 
神の命令を実行する力は全くありません。

何故なら、今日神が、彼の業を実行される時、神は必ず「異次元の力」
だけを用いられるからです。異次元の力、それはキリストの復活の力
であり、復活のキリストです。それは全く異次元のものです。それを
人のどこを探しても 探し出すことなど不可能です。

神は これ以外のものを評価し、用いることは絶対にありません。
何故なら、それ以外のものを 神は総てあの木に釘付けてしまわれた
からです。「神の最大の思いが表明されたもの」それがあの十字架
ではなかったでしょうか。十字架とは「総ての否定」です!

そして、復活とは無制限のキリストです。その「キリストの無制限さ」
が今日、神が「人に要求する異次元の力」です。しかしながら、
私達のどこにそのような力がありましょう。

従って、その場合 
唯一つの 神の人に対する要求があることになります。
それは私達が死ぬことです。しかし、死ぬことが要求であるとは
不思議だと人は思うでしょう。「死ねば何も始まらない」と人の理性は
考えるからです。しかし、そここそがポイントです。(もしもあなたが
完全に死ぬならば、あなたは素晴らしい復活のキリストの業を拝する
ことになるからです。しかし、このことは後日に回すこととして・・)

2009年11月3日火曜日

大雪模様

*昨夜のメールから*

早速のメール とても嬉しいです。
ずいぶんお疲れでなかったのかなと
心配しておりました。
なにしろ 今日から勤務されるとか。
それにしても 凄い気力と体力ですね。

子供達はだいじょうぶでしたよ。
子供は子供、当たり前のことではないですか。
どうか、これにコリルことなく、また
いつでもいらして下さい。

私の世界一分かりにくいブログは
http://yamaxst.blogspot.com/
でも、時々普通のことも書きますから、
たまにはのぞいてみて下さい。

センセイでなく、シュガーさんとでも
呼んでくれたら、嬉しいのですが・・
(ま、マルシアはしかたがない、としてもね)

何と何と今、外は大雪模様です! 
でも、みぞれのような雪ですから
多分明日、車が動かないことはないでしょう。

それではこのへんで、
シュガー

2009年11月2日月曜日

謎の行動

おとといの事です、
セージとマルシアは いつもの最短コースである 浜(海辺)
からでなく、逆方向 船引三春インターを下りると言う。
(何でまた?)

そのあと彼らは、
船引のスーパーで 食材と私がお願いした「秋のツタ」を
買い終えて 改めて288(ニーパッパ)を浜方向に走る。
そして何と小屋に上る林道前を素通りし更に 今回初めてのセージの
お姉さんのために 草野心平で有名な温泉・川内の湯に向かったのです。
入湯後、そこからようやく、更に30分をかけて はるばると小屋に
戻り着いたのです。以上これは 大変な「行ったり来たり」ではないか
セージさん、いつものスーパーは浜にあるのに、なぜまたこんな長距離を?

そのわけは、 
10/28の 私の記事にあったのです:
電気工事の免許を持つセージさんは
あのレンジフード取り付け用の電気材料を買うには
どうしても 船引の量販店に寄らなければならなかった。
セージさん、ホンとにありがとう。
そして皆さん 大変にご苦労様でした。

PS.
今回の工事は不可能となったレンジフードの代わりに、
彼は 洗面所ライトのスイッチを付けてくれました。

2009年11月1日日曜日

バーベキュー

EMさん
昨晩 南デッキの、夜のバーベキューはよかったです。
寒かったけど、赤々と燃えた炭火が暖かいので 
適度な幸せを皆さん感じていたのかな。

バーベキューというのは えんえんと いつまでも食べて
おられるのが不思議です、なぜでしょう。

セージさんとよく似た 三つ年上のお姉さん、
二人の子供の面倒を見ながら、はるばる千葉から 
一人で運転して よく来てくれました。
一泊だけで 明日は勤務にでられるとか。

(そんな中「あの鳩」が彼ら一人一人を訪れますように。)

送ってくれた小屋の写真 ありがとう。
私もそろそろ そんな写真を
マイブログに載せられるようになりたいです。
今度来られたときに教えてくださいませんか。
デジカメはあるのですが、どうも面倒で・・

もう下では 起き出した人もいるようです。
今6時4分、ロフトの南の窓からのぞくと、
空は晴れ模様、上では風が巻って
秋の木の葉が下の小道を埋めています。

それでは また。