・兄弟達、私たちにとって、毎日が死の連続です。
(Ⅰコリント15の31)
この箇所でパウロは 毎日身近に迫り来る「肉体の死」を意味して
いますが、「それ以上の死」を暗示していることは明白です。
同じ15章、
・愚かな人だ、あなたの蒔くものは、死ななければ、生かされません。
(Ⅰコリント15の36)
その他、彼の書簡と生き様は死に満ちています。
・「いつでも」イエスの死をこの身に帯びています。
・私達 生きている者はイエスのために「絶えず」死に渡されています。
・こうして死は私達に働き、命はあなた方の内に働くのです。
(Ⅰコリント4の10~12)
従って私達も「死の連続」の中に
「いつでも」「絶えず」死の中にいるべきであり、それは
楽しい時、愉快な時、「ひと息ついている時」
「困難が取り去られた時」「希望に溢れている時」も全く同様です。
否、そのような時の方がむしろ私達にとって最も
死を必要としている時なのでしょう。
なぜなら、
そのような時 私達はとても容易に野放図
(野に放たれた野生の図)になり勝ちだからです。
「野」とは
キリストの死の効果を 私の肉体と魂に及ぼさせず、
私の存在が肉体や魂によって「主導」され それらによって
生かされている「私」を意味します。その「私」は何と
悪霊達が付着する場とさえなるでしょう。
その「私」は野に放たれた馬のように力があり
生き生きと美しく見えるかも知れません。
しかしそれは神の御用には全く役に立たず、むしろ危険です。
パウロはキリスト者における計り知れない死の価値、
その実際的で絶大な効果を知っていました。
イエスも「ヨハネからの死」(バプテスマ)という一点から
スタートし、向こうに見える一点・十字架の死に向かわれました。
彼らは正に「死の連続」の中に生きました。簡単に言えば、
パウロやイエスの歩みに 死以外の何物もありませんでした。
ですから
十字架こそ、私達の家であるべきです。
十字架以外に私のいる場所はあり得ません。
実際的な死の連続こそ 私達の人生そのものである筈です。
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