黙示録3の7、8の「閉じられたら 誰も開くことが
出来ない・・門・・」とは
どんな時の事を言われているのでしょう。
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ここの段落(だんらく)は「フィラデルヒヤにある教会」への神の御ことば
です。この教会は19世紀初頭(しょとう)から イギリスで開始された
比較的正しい教会(キリスト者達)です。主は その「フィラデルヒヤ
にある教会」を強く擁護(ようご)して この言葉を語られたのです。
開いたり閉じたりされる絶対的(ぜったいてき)なお方はイエス様です。
イエスキリストは この教会に対して 聖書の「真理とその実行」への
門を広く開かれました。しかし、他に対しては その門はかたく
閉ざされました。これは厳粛(げんしゅく)な事実です。
私達も今 この御ことばから警告(けいこく)を受けるべきです。
私達は このフィラデルヒヤの教会の実際にならい、
真理とその実行への門が 神によって自分達に開かれるには
どうであるべきか、を真剣に追い求め また、その門が
閉じられてしまう条件を 自分の上に作らないように細心(さいしん)の
注意を払(はら)わなければなりません。
実は今日、私達が恩恵(おんけい)にあずかっている多くの
貴重な真理は 彼らの努力と発見、そしてその実行による
ところが大きいのです。
しかし何故か現在 彼らの本を 日本のキリスト教の本屋で探すのは
相当むずかしいことです。これは日本のキリスト者達にとって
大きな悲劇ではないでしょうか。
従って私達は今日「奪(うば)うようにしてまでも」その諸真理を
学ぼうとする強い願いを持たなければならないはずです。
3 件のコメント:
神様が私達を
かばい守って下さろうと
みことばを与えて下さって居ることを
理解し実行することでしょうか
もっともっと深い事だと
思いますが
一昨日のことを証させてください。
夜、1時40分を過ぎても寝られまん。・・そうだ、祈ることを主は求めておられるのかもしれない・・・。祈り始めて、フッと聖書に目をやると、
私は声がかれ果てるまで神様を呼び続 けます。どうか耳を傾けてください。 苦悶に沈みながら、あえぐようにお助 けをもとめています。夜通し祈り、
天に手を差し伸べて嘆願しているので す。祈りが聞かれるまでは、喜びなど
縁がありません。神様のことを思いめ
ぐらしては、気が遠くなるほどお助け を待ちわびているのです。(詩篇77 :1-3)
の御言葉が飛び込んできました。そのとき、
今、祈ることを主が導いておられることを
確信しました。
始めは祈る言葉が全くありませんでしたが、
助けを求め祈り始めると、あることが中心に
思いがこみ上げてきました。不信仰になっていたことを反省しました。最も必要な助が与えられるように求めの祈りからはじまり、
サタンの攻撃のしばりと撤退の命令、天からの良きもので満たしの祈り・・等々。確かな手答え感じました。「祈ったことはすでにかなえられえたと信じる信仰が始まった!!」と知ったのです。時間は3時30分ころになっていました。平安とキリストの命に満たされ、眠くなってきたので床に就きました。
始めは祈る言葉が全くありませんでしたが、
助けを求め祈り始めると、あることが中心に
思いがこみ上げてきました・・・
すばらしい祈りの経験をされたのでは
ないでしょうか。
「祈りは人の創作ではなく、神からの負担を
表明するだけである」という言葉を
思い出します。
そしてまさにその祈りの中で 神からの
解決「かなえられた」をいただくこと、
なのだと。
私もそのような祈りを学びたいと
願っております。
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