死のテストに合格できないものは 必ず総て
ゴミステーション・聖書でいう黄泉(よみ)
に暫時(ざんじ)保管され、
最終段階においては「焼きゃく場」
(聖書で言う「火のまじったガラスの海」or火の池)で焼かれます。
もしそれが真実であるならば、
今現在 私達キリスト者が になうべき責任は何でしょうか。
それは 私達が信仰によって キリストの十字架を今 自分と
自分にかかわる もろもろの状況に たえず適用することです。
もしも私達が そのことにおいて神に忠実であるならば、かの日
あの「火のテスト」が軽減(けいげん)されるための それは
唯一の有効な手段となるでしょう。
コリント書の「一時的火のテスト」は明らかにキリスト者のためです。
黙示録の「永遠の火の池」は 決してキリスト者のためではありません。
にもかかわらず、私が永遠に救われたキリスト者であるとしても
今十字架(深い水による死)を経過(けいか)しなかった「私のある部分」
が残るならば いずれ不要物を総て焼きつくすための
「一時的神の火」が用意されていることを私達は知るべきです。
ある意味「滅びをもたらす神の手段」である水と火は同じ効果を持ちます。
もしもそうであるならば 私達は いたずらに将来の火を待つのではなく、
今 水による死(十字架)を有効に用いるべきです。
あなたが「よいキリスト者になろう」とするのは大変結構ですが
このフィルターを経過(けいか)しないキリスト者の
決心、決意、善行など何の役にも立ちません。
私達は常に①私そのもの ②「私にくっついて来る一切の状況」
(楽しい状況をふくむ)を
ただキリストの中にセットするべきです。
これはキリスト者が一日中行うべき、そして今日こそ可能な
とても大切な仕事、清掃(せいそう)作業です。
3 件のコメント:
アーメンです。
先日、身内の結婚式に出席し、花嫁の美しさに教会の姿を重ねて見ていました。
死のテストや焼却を前提とした清掃というイメージは、ある側面から言えば、全くその通りだと思いますが、私は「結婚式のための備え」というイメージで、心躍らせつつ、居住まいを正したいなあ・・・と思ったりしながら拝読しました。
私の日常の辛いことのなかにも、楽しいことの中にも、完全な死を経ていない要素がまだあると思います。
ありがとうございました。
なるほど、なるほど
と思いつつ兄弟のコメントを
読みました。全くその通りです。
そういう積極的期待感の中で
十字架に行く、清めていただく。
この試み、私もさせていただきます。
それにしても、ソルトさん
私達には
複数形の罪のための御血潮と共に
このような徹底した十字架が
常に用意されている、
何と感謝なことでしょう!
お早うございます
私の一番奥の何かが開放しきれていない
気がするのです
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