2010年3月3日水曜日

ある祈り(1)

キリスト者のあり方は、先ずは一人が
「独立的に」シッカリ神と相対(あいたい)するすることです。
これが基本中の基本です。
そのことを土台として次に キリスト者が神からいただいた
同じ尊い命のゆえに 彼は自然に 他のキリスト者との交わりを
求めることになります。もしその食欲がないとするならば、それは
深刻(しんこく)な霊的病の兆候(ちょうこう)かも知れません。

この2、3人での交わりや祈りは 
「神の働きor 動きの基点、原点」となります。それが聖書に
「2、3人という単位」が数多く記されている理由です。

さて
以上のことに目が開かれた都内に住む姉妹Aさんは 
一人のクリスチャンBさんを見出しました。
この比較的年配の姉妹Bさんは、不思議にも その頃から
急速に 聖書の基本的な真理に目が開かれ始めたのです。
その結果B姉妹は それまでの「人間に依存(いぞん)する信仰」
から 神に依存する「人から独立した信仰」へと変えられた
のです。Bさんはよく「皆さん このことが分かると
楽になるのに」と言われておりました。
このBさんに起こった変化は本当に目を見はる出来事でした。

そのようにして この二人は
神の働き、動きのための「一ユニット」として 喜びの内に
歩み始めたのです。それはホンの去年、
初秋のころの出来事でした。

ところが何とその時既に Bさんの体は
きわめて重いガンに犯されていたのです。


ここで言う「神の働きor 動き」とは「神の命の流れ出」
のことです。もしそこに本物の命があれば、その命は決して
停滞(ていたい)したりよどんだりすることがなく、必ず外に
流れ出るでしょう。それが聖書に水の流れ、また河や川が多く
記されている理由です。
(水をためこむ池でなく川です)そして水の流れには必ず
「無理のない自然な美しさ」があるはずです。命の基本的な
表現は「自然さと美しさ」であるからです。

1 件のコメント:

エシュコル さんのコメント...

よく教会や本で言われる、御霊によって歩むというのも、結局は十字架と復活が無ければ絵空事の様な気がしますが、如何でしょう?