その後 漢詩に詳しいある方(日本人)の協力により「獄中の
ウォッチマン・ニーに関する証」に掲載されていた漢詩の訳文と、
その他の箇所についての解説を得ました。参考にしてください。
☆
1)
まず、「監長」と「獄長」の違いを説明した中国語の文章が
ありましたが、その訳は、「監長は監獄の監房のトップ、獄長は
監獄の十の監房の最も上のトップです」となります。
2)
次に、ハンガリー詩人、ペテーフィ・シャーンドルの書いた
詩の訳です。
*
「生命(いのち)はまことに貴重なものであり、
愛情はさらに高価だが、
自由のためであるならば、
この二つともを捨てていいことがある。」
"ペテーフィ・シャーンドル"Petofi Sandor
ハンガリーの愛国詩人(1823-1849)
「愛国者の歌」「民族の歌」等の作者として
知られている。(辞海―上海辞書出版)
3)
手記の著者がウォッチマン・ニーと白茅嶺で再会した時に
詠んだ詩の訳です。
(原文:彼此依依相見晩,主有安排難預感;
本是同袍同澤人,皖地重逢敘忠悲。)
わたしたちは二度目に安徽省の白芽嶺労改農場で再会した。
そこで一緒にさらに五年間を虚しく過ごさねばならなかった。
出逢った時、二人共とても感動し、わたしは一遍の詩を作った。
*
「互いにどれほど懐かしく思っていたことだろう
なのに再会の機会はあまりに遅く訪れた
主の計らいを予知することは難しい
もともとは同郷人であるはずなのに
安徽省の地で再会させられるとはとても悲しい。」
労改=「労働改造所」とは思想を矯正するために収容する刑務所
のこと。強制労働に従事させられる所。
4)
ウォッチマン・ニーが獄中で妻の訃報に際して詠んだ歌:
*
「千回も泣き、千回も叫んだ、
聞き慣れている君の声、
どうして返事をしてくれない?」
わたし(=手記の著者)はこの詩を読んで、
次のように続きを書いた、
*
「何回も報告し、何回も請願を出した、
肉親の葬儀に駆けつけたい人の一途な思いを
どうして許可してくれないのですか?」
5 件のコメント:
ずっと知りたかったこのニーの獄中の様は大きな励ましです。当たり前の人間として生きていたのですね。
入手先を教えてくださるとうれしいですが、メールか何かで。
そうです、当たり前の人間、
これは これからの大きな鍵語と
なるでしょう。
それではメールで。
思い起こすと87-89年あたり、私が20台から30台に移る頃。
高田馬場での喧々諤々の中での「人間生活」が鍵だ、と言う確認。
これ、最近、ますます大きな意味を覚えるようになっています。
「神が人になった。」
私も50を超えて、この奥義を十分に味わいたいと願う今日この頃です。
しかしニーの「霊の人」的イメージを作り上げて、ある種神格化する向きもあるようですが、
このニーの詩は彼のすべてを証していますね。励まされます。
先人達が残した書き物は、それを通して私達が彼らと時空を超えて「兄弟姉妹の交わりをするため」ではないでしょうか。
それはあくまで交わりの為 であるべきす。そしてその最終的な目当ては、
私達を通して本当に「復活のキリストが流れ出ること」です。それ以外はどんな意味もないでしょう。
ある先人を ただ総論的にあつかうか、彼のある言葉だけを取り出し、それを金科玉条扱いするのは その先人を神格化するだけでなく、彼の墓を飾り、碑を建てる行為です。
それはその先人と交わっているのではなく、自分達の欲望を満たすために、単に先人を利用しているのです。あの人達は 典型的にその部類に属するでしょう。
極めて不思議なことに彼らは 彼らのリーダーの言葉を鵜呑みにするだけで、実は先人の残したものを「各論的には」自分の目でよく読んではいない という信じがたい特徴があるようです。
なるほど、ツモリの世界ですね。
しかしこれはニッポンキリスト教での汎化している症状のようです。
人間-いったい何者なのでしょうね。神がこれほど心にかける存在。ダビデが祈るとおりです。
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