昨日Mさんからいただいたコメントをここに無断で
転載させていただきます。
☆
我々人間の日常のあらゆる場所においても、閉じ込められ、
十字架の死の道が準備されていますね。以前Sugarさんが
例え話の中で語られた銀行のキャッシュディスペンサーの
待つ列の中の自分:
前のおばちゃんが(失礼)使い方が分からずモタモタしている時、
我々は死の中に閉じ込められているのです。この状況をどう
乗り越えるか?天然の才能、この世で鍛えた才能の「忍耐」を
適用するか、それとも十字架の死を適用するか
ハレルヤ!神はあらゆる場で我々にあなたのいのちへの道を
用意されているのですね!
☆
Mさん有難うございます。
本当に「閉じ込め」は私達一人一人への神の明確な意志ですね。
それは私達の日常生活に日々何が起こっているかを見れば
すぐに分かることです。神は私達を自由な鳥にしたり 時空を
超えた天使にする意図は全くありません。ひたすら不自由で
弱く無能な「人の子」の中に留めたいのです。
その奥にこそ人に対して神が定められた極めて深く高い意味と価値が
秘められているのです。ですから私達には 今時空に閉じ込められて
いることへの感謝さえあるべきでしょう「主よ、今私が鳥や天使
でないことを感謝します」と。
次に大切なことは 毎時私達の日常生活に次々と送られて来る
煩雑な事象の一点一点を私がどう迎えるかです。
ポイントは先ずそれらを「神から私に丁寧に送られて来た
尊い閉じ込め」であると意識出来るか否かです。
私達はそれにフト気づき、その閉じ込めを神の手から受けとり
ジタバタせず、人を恨まず、自分の暗い穴の中でいじけず
ふてくされず投げやりにならず、奔放にならず、崩れず、
そっぽを向かず、逃げ隠れせず、
ただ単純に主を見上げ、落ち着いて「主よこのことはあなたから
私に届けられた閉じ込めです。私は今これを真正面からそのまま
あなたの手から受け入れ、私はこの閉じ込めの中で黙って死にます」と
祈ればよいのです。(でももしここまで来ることが出来れば、
たとえそれだけで終わるとしても一番楽ですよね!)
しかしその時永遠の世界では 一体何が起こるのでしょうか。
それは実に「あの原型」にあるキリストの永遠の死が時空を超えて
確実にあなたに伝達されるのです。その時キリストの十字架と
「あなたの今の十字架」は「その霊」の中で連結され
そのようにしてあなたはこの時空の中であなたへの
キリストの死の適用を直接受けることが出来るのです。
従って次の段階として「あの永遠の原型」は更にあなたを
キリストと共なる復活へともたらすのです。これは必然です。
これら一連の作業は総て聖霊の霊的な力による事は言うまでも
ありません。その聖霊の作業は「神が永遠において既にあなたを
キリストと一つにして下さっている」という「神による永遠の御業」
に基づいているのです。もし仮にそれがなかったとしたら、
私がいくら信仰を用いて熱心に祈ったとしてもそれは単なる私の
寝言に過ぎないことになります。それは大した喜劇です。
しかし事実として「あなたは既にキリストの中に置かれている
という真理」が定まっているので、
聖霊はあなたの信仰を見て安心してその真理を
あなたの時空に降ろし適用することが出来るのです。
その様な現象が霊の世界において現実となる時にのみ
あなたが復活のキリストを地上の時空の中にもたらす事が出来る
と言えるのです。何故ならこれらは神と人の共同作業であるからです。
しかしあなたの作業とは何でしょうか。それは唯信じることに過ぎません。
私達が信仰によってキリストの死に真にあずかるとき、その時に
初めて復活のキリストがこの地上において事をなさることが
可能となります。その復活のキリストの活動だけが
「私達の奉仕」の実質と言い得るものです。
それ以外のいかなるキリスト者の活動も神の前においては
少しの価値も無いと言わなければなりません。
要点は:
①先ずは神の許しの元に送られる(それらの殆どはサタン起源)
多くはとても些細と見える「閉じ込め」にあなたが気づくこと
②信仰を用いてそれを神の手から受け取り、
その閉じ込めの中に身を置くこと
③後は何もせず、主との結合の中に留まることです。
その結果 「あなた関連の時空」に現れ、あなたの予測を超える
不思議な「キリストの復活現象」(しかし、それは決して人受けする
形では現れない)は総て働きの主であられる神御自身の御業で
あるのです。その御業において栄えるのは復活の主御自身だけであり、
決してあなたではありません。私達自身はただあの
バプテスマのヨハネの運命をたどるべきです。
☆
実はまだ下にいるのです。あす一人で山に入ります。
今度の小屋滞在は一週間くらいでしょうか。(下山は6月5日?)
ケンは大分よくなりました、お蔭様で。
2008年5月27日火曜日
2008年5月26日月曜日
十字架とは「閉じ込められ」
何と神の主要な意志の一つは人を閉じ込めることです。
初めに神はその一人子を閉じ込められました。
神の御子は永遠の過去から神、父と共にあり何ものにも
閉じ込められることなど無いお方でした。
しかし彼はある時、時空と物質即ち肉体と言う制限の中に
閉じ込められたのです。何ということでしょう、無限なる「神の御子」
が時空の制限の中「人の子」の中に閉じ込められたのです。
その閉じ込められは先ずマリアのお腹の中から始まりました。
そして彼はある片田舎の小さな家庭の中、約30年間と言う時間の中に
閉じ込められたのです。その間、彼はどんなに多くの人間生活の雑多で
煩雑な閉じ込めの中に御自分を制限しなければならなかったことでしょう。
それは来る日も来る日もただ閉じ込められの連続だった筈です。
にもかかわらず、その閉じ込められは一面彼の喜びでもあったでしょう。
何故ならそれは彼の天の父の彼への明確な御意志であったからです。
そのようにしてある日、時が満ち彼は御自身の意志でその小さな
家族の中の人間生活と言う閉じ込めから更に、過酷極まりない
閉じ込められへと向かって出発されたのです。その日は正に、
3年半後の究極的な閉じ込め、即ち「一片の木に」閉じ込められる
場所への出発の日となったのです。
要約すると彼への閉じ込めは
①先ずは永遠と言う領域から、時空と言う限りある
囲いの中への移動から始まり
②そして彼はある時、その時空と言う領域の中の更に小さな一点である
十字形の木片に釘付けられると言う場所へと進んだのでした。
しかし事はそれだけで終わりませんでした。
彼は更なる究極的な閉じ込めを彼の身の上に容認されたのです。
③それはその木の閉じ込めの中で死ぬことでした。
死こそ最終的な閉じ込めなのです。
それが神の「人の子・イエス」対する明確な御意志でした。
ここに人が時空と物質の中で極言に至るまで閉じ込められた
と言う事実、その原型が完成したのです。
これこそ神の御業にとって決して欠くことの出来ない土台です。
初めに神はその一人子を閉じ込められました。
神の御子は永遠の過去から神、父と共にあり何ものにも
閉じ込められることなど無いお方でした。
しかし彼はある時、時空と物質即ち肉体と言う制限の中に
閉じ込められたのです。何ということでしょう、無限なる「神の御子」
が時空の制限の中「人の子」の中に閉じ込められたのです。
その閉じ込められは先ずマリアのお腹の中から始まりました。
そして彼はある片田舎の小さな家庭の中、約30年間と言う時間の中に
閉じ込められたのです。その間、彼はどんなに多くの人間生活の雑多で
煩雑な閉じ込めの中に御自分を制限しなければならなかったことでしょう。
それは来る日も来る日もただ閉じ込められの連続だった筈です。
にもかかわらず、その閉じ込められは一面彼の喜びでもあったでしょう。
何故ならそれは彼の天の父の彼への明確な御意志であったからです。
そのようにしてある日、時が満ち彼は御自身の意志でその小さな
家族の中の人間生活と言う閉じ込めから更に、過酷極まりない
閉じ込められへと向かって出発されたのです。その日は正に、
3年半後の究極的な閉じ込め、即ち「一片の木に」閉じ込められる
場所への出発の日となったのです。
要約すると彼への閉じ込めは
①先ずは永遠と言う領域から、時空と言う限りある
囲いの中への移動から始まり
②そして彼はある時、その時空と言う領域の中の更に小さな一点である
十字形の木片に釘付けられると言う場所へと進んだのでした。
しかし事はそれだけで終わりませんでした。
彼は更なる究極的な閉じ込めを彼の身の上に容認されたのです。
③それはその木の閉じ込めの中で死ぬことでした。
死こそ最終的な閉じ込めなのです。
それが神の「人の子・イエス」対する明確な御意志でした。
ここに人が時空と物質の中で極言に至るまで閉じ込められた
と言う事実、その原型が完成したのです。
これこそ神の御業にとって決して欠くことの出来ない土台です。
2008年5月24日土曜日
その舞台(6)
ここでどうしても取り上げなければならない問題は
「キリスト教界」にも存在する支配、統制、秩序の問題です。
しかし私はここで支配、統制、秩序は不必要なものであると
言いたいのではありません。
とても大切なのはその支配力の起源、源、出所、源泉です。
極言すれば実のところ総ての問題は起源の問題に
帰するとさえ言えるのです。
当然エクレシアにもある種の支配、統制、秩序は表現されます。ところが
その源、出所は全く違うのです。エクレシアとは正に生命体であり、一見
支配とは無縁に見える「からだ」です。そしてその頭はキリストなのです。
エクレシアの支配はただひとえにこの頭・キリストから生ずるのです。
しかし私は今この問題に深入り出来ません。なぜなら
私の今のテーマは「その舞台」であるからです。この調子では
いつまでたっても「舞台」は私の話に現れて来ないでしょう。
ですから今この支配についての話は簡単な「箇条書き」を提示するだけに
留めたいと思います。この支配する力については機会があればいずれ
取り扱いたいと思います。それは極めて大切な問題であるからです。
(さて私は今 真にせん越ではありますが、皆様お一人お一人が
自らこれらの真理・問題を携え、時間を十分に用いて真剣に、そして
虚心に神の前に出られることを切望致すものです。
なぜなら神御自身があなたに正にダイレクトな啓示の光を
送られるのでなければ、あなたが神の深遠な真理を真に知ることは
決してあり得ないと思うからです。)
態系に存在する支配力:
・その力の本質は「死と虚偽」
・その王国の王はサタン、
・それは人の人への追従、宗教セットの固守を生む
・それは「キリスト教界」にこそ顕著に出現する
この「界」も、態系にあまた存在する「~界」(王国)の一つであるが
黙示録によれば最後の時代、これは他の主要な諸「界」と緊密な関係を
持つことになるが究極的には極めて悲惨な姿を全世界にさらすことになる。
体系に存在する支配力:
・その力の本質は「十字架」から生じた復活の命、
・その王国の王はキリスト
・キリストと結合しているキリスト者達の対等な「交わり」から自然に
現れるキリストの復活の命がキリストの体の中に頭からの支配を生み出す。
(そこにはいわゆる支配、被支配の意識はとても希薄でしょう。
いや、無いでしょう。それはどんな生命体を見ても容易に分かることです。
ぶどうの枝に被支配の意識などあるでしょうか。
腕に手の指に対する優越感などあり得るでしょうか。その意識の濃淡
こそ私達の宗教性のバロメーターになり得るかも知れません!)
・この天上の支配はただエクレシアにおいてだけ見られるものである。
☆
*十字架とは態系の王サタンを起源とする死と虚偽が
イエスを木に閉じ込めたことです。
しかしハレルヤ、その背後には人知では計り知れない神の知恵が
存在したのです。その「サタンの閉じ込め」によってこそ体系・
今日のキリストの奥義的からだ・エクレシアが生み出されました。
しかしそれを「神のオセロゲーム」と呼ぶのは
少々軽薄過ぎるかも知れません。
*十字架、復活、交わり、教会等の日本語には余りに人の宗教観念が
入り込み過ぎており、それらの用語を用いる時、論ずる以前に既に巨大な
誤解や先入観の城壁が人々の思いを取り囲んでいる場合が多いのです。
従ってこれらの主要な真理が人々の中に真に浸透して行くことは
とても困難です。これは一つのとても悲しい現実です。
「キリスト教界」にも存在する支配、統制、秩序の問題です。
しかし私はここで支配、統制、秩序は不必要なものであると
言いたいのではありません。
とても大切なのはその支配力の起源、源、出所、源泉です。
極言すれば実のところ総ての問題は起源の問題に
帰するとさえ言えるのです。
当然エクレシアにもある種の支配、統制、秩序は表現されます。ところが
その源、出所は全く違うのです。エクレシアとは正に生命体であり、一見
支配とは無縁に見える「からだ」です。そしてその頭はキリストなのです。
エクレシアの支配はただひとえにこの頭・キリストから生ずるのです。
しかし私は今この問題に深入り出来ません。なぜなら
私の今のテーマは「その舞台」であるからです。この調子では
いつまでたっても「舞台」は私の話に現れて来ないでしょう。
ですから今この支配についての話は簡単な「箇条書き」を提示するだけに
留めたいと思います。この支配する力については機会があればいずれ
取り扱いたいと思います。それは極めて大切な問題であるからです。
(さて私は今 真にせん越ではありますが、皆様お一人お一人が
自らこれらの真理・問題を携え、時間を十分に用いて真剣に、そして
虚心に神の前に出られることを切望致すものです。
なぜなら神御自身があなたに正にダイレクトな啓示の光を
送られるのでなければ、あなたが神の深遠な真理を真に知ることは
決してあり得ないと思うからです。)
態系に存在する支配力:
・その力の本質は「死と虚偽」
・その王国の王はサタン、
・それは人の人への追従、宗教セットの固守を生む
・それは「キリスト教界」にこそ顕著に出現する
この「界」も、態系にあまた存在する「~界」(王国)の一つであるが
黙示録によれば最後の時代、これは他の主要な諸「界」と緊密な関係を
持つことになるが究極的には極めて悲惨な姿を全世界にさらすことになる。
体系に存在する支配力:
・その力の本質は「十字架」から生じた復活の命、
・その王国の王はキリスト
・キリストと結合しているキリスト者達の対等な「交わり」から自然に
現れるキリストの復活の命がキリストの体の中に頭からの支配を生み出す。
(そこにはいわゆる支配、被支配の意識はとても希薄でしょう。
いや、無いでしょう。それはどんな生命体を見ても容易に分かることです。
ぶどうの枝に被支配の意識などあるでしょうか。
腕に手の指に対する優越感などあり得るでしょうか。その意識の濃淡
こそ私達の宗教性のバロメーターになり得るかも知れません!)
・この天上の支配はただエクレシアにおいてだけ見られるものである。
☆
*十字架とは態系の王サタンを起源とする死と虚偽が
イエスを木に閉じ込めたことです。
しかしハレルヤ、その背後には人知では計り知れない神の知恵が
存在したのです。その「サタンの閉じ込め」によってこそ体系・
今日のキリストの奥義的からだ・エクレシアが生み出されました。
しかしそれを「神のオセロゲーム」と呼ぶのは
少々軽薄過ぎるかも知れません。
*十字架、復活、交わり、教会等の日本語には余りに人の宗教観念が
入り込み過ぎており、それらの用語を用いる時、論ずる以前に既に巨大な
誤解や先入観の城壁が人々の思いを取り囲んでいる場合が多いのです。
従ってこれらの主要な真理が人々の中に真に浸透して行くことは
とても困難です。これは一つのとても悲しい現実です。
2008年5月22日木曜日
その舞台(5)
★第二態系の生き物の意志と特徴★の続きです。
④番目の特徴は強力な支配力、統制力です。
第二態系の生き物はおそろしい悪鬼や堕落天使だから彼らどうし
いつもケンかが絶えず 統率など取れていないだろう、とするのは
全くの誤解です。彼らの知的レベルは人間の比ではないのです。
第二態系における彼らの国はやはり王国であり、イエスも指摘された
ように そこには強い統率、統制そして秩序さえあるのです。
民主主義国家とは違い、本来王国とはそういうものではないでしょうか。
ここで非常に大切な点は
なるほどそこには態系、組織、統制はあるが 当然のことながらそれは
神の永遠の命、キリストの復活の命とは全く無縁であると言うことです。
いずれ述べる機会もあるかも知れませんが、統率の内容、本質、性質が
全く違うのです。この点の識別は極めて重要です。今要点を言うならば
神の国の体系は正に「体」であり、それは真の復活の命・
今日のキリストそのものです。その細胞、組織、器官、肢体一切は
キリストの命の表現そのものです。そこにいかなる他の成分・
キリストでないものが混入する余地は全くありません。なぜなら
キリスト以外の一切は二千年前最後のアダムにおいて
完全に処理されてしまったからです。
これまでをまとめると:
「態系」にはキリストとは全く無縁な強力極まりないまとめる力が
作用しており、それは一見「体」に見えます。
しかし真の「体系」は即ちキリストの「からだ」そのものです。
つまり「体系」はキリストであり「態系」は断じてキリストではありません。
神の敵は神がなさることと一見とても似通ったものを造り上げる名手です。
彼は天才的「似て非なるもの」メーカーです。彼らの態系そのものが
「立派な体系に見える」態系であり、そして彼らは人の目には見えない
彼らの態系を 目に見える第一態系を通して表現しているのです。
即ち彼らは第一態系の中に長い年月をかけて大小様々な無数の
キングドム(~界)を造り出し、更に現在それらをグローバルな
キングドムとして一つにまとめ上げようとしているのです。
(彼らの「一つにまとめる」も似て非なるものの一つです)
そこにある本質はサタンの本質である死と虚偽でしょう。そこにも
ある種の「命の様なもの」があるのかも知れません。しかし彼らの態系の
かさ張った大きな「タマネギ」の皮を剥いてゆくと最後に出てくるのは
死とウソです。そしてそのタマネギ自体のどの部分の本質も死と虚偽です。
だから彼らの所有する一見命と見えるものもやはり「真の命」の
「似て非なるもの」に過ぎません。つまりそこには永遠性のもの、
キリストの復活性のものは全くないのです。
ただし彼らにも「蘇生性」はあるかも知れません。反キリスト者
(間もなく第一態系の中に現れる全世界統一の頂点をなす人物)も
蘇生するからです。正に彼の蘇生はキリストの復活の似て非なるものです。
(ただしおそらく蘇生は彼らの能力の頂点をなすものでしょう。
それが彼の力の限界点です。)だから私達は「奇跡」を
あまりにあり難がってはならないのです。あり難いのはキリストの復活と
今信仰によってキリスト者の人間生活に出現するキリストの復活だけです。
しかし程なく訪れるかの時、必ず「地に住む者達」はその人物の「復活」を
容易にそして直ちに信じ彼を全世界の「救い主」として礼拝するでしょう。
なぜなら人々の心を究極的に掴むものは「もの、物質」の
最高の姿であるからです。(この④は続きます)
*これまでの「体系」と言う用語を「態系」に変えました。
これは多分私の造語でしょう。(もっといい言葉があったら教えて下さい)
体系と言うとき、それは真の「からだ」を連想してしまうからです。
④番目の特徴は強力な支配力、統制力です。
第二態系の生き物はおそろしい悪鬼や堕落天使だから彼らどうし
いつもケンかが絶えず 統率など取れていないだろう、とするのは
全くの誤解です。彼らの知的レベルは人間の比ではないのです。
第二態系における彼らの国はやはり王国であり、イエスも指摘された
ように そこには強い統率、統制そして秩序さえあるのです。
民主主義国家とは違い、本来王国とはそういうものではないでしょうか。
ここで非常に大切な点は
なるほどそこには態系、組織、統制はあるが 当然のことながらそれは
神の永遠の命、キリストの復活の命とは全く無縁であると言うことです。
いずれ述べる機会もあるかも知れませんが、統率の内容、本質、性質が
全く違うのです。この点の識別は極めて重要です。今要点を言うならば
神の国の体系は正に「体」であり、それは真の復活の命・
今日のキリストそのものです。その細胞、組織、器官、肢体一切は
キリストの命の表現そのものです。そこにいかなる他の成分・
キリストでないものが混入する余地は全くありません。なぜなら
キリスト以外の一切は二千年前最後のアダムにおいて
完全に処理されてしまったからです。
これまでをまとめると:
「態系」にはキリストとは全く無縁な強力極まりないまとめる力が
作用しており、それは一見「体」に見えます。
しかし真の「体系」は即ちキリストの「からだ」そのものです。
つまり「体系」はキリストであり「態系」は断じてキリストではありません。
神の敵は神がなさることと一見とても似通ったものを造り上げる名手です。
彼は天才的「似て非なるもの」メーカーです。彼らの態系そのものが
「立派な体系に見える」態系であり、そして彼らは人の目には見えない
彼らの態系を 目に見える第一態系を通して表現しているのです。
即ち彼らは第一態系の中に長い年月をかけて大小様々な無数の
キングドム(~界)を造り出し、更に現在それらをグローバルな
キングドムとして一つにまとめ上げようとしているのです。
(彼らの「一つにまとめる」も似て非なるものの一つです)
そこにある本質はサタンの本質である死と虚偽でしょう。そこにも
ある種の「命の様なもの」があるのかも知れません。しかし彼らの態系の
かさ張った大きな「タマネギ」の皮を剥いてゆくと最後に出てくるのは
死とウソです。そしてそのタマネギ自体のどの部分の本質も死と虚偽です。
だから彼らの所有する一見命と見えるものもやはり「真の命」の
「似て非なるもの」に過ぎません。つまりそこには永遠性のもの、
キリストの復活性のものは全くないのです。
ただし彼らにも「蘇生性」はあるかも知れません。反キリスト者
(間もなく第一態系の中に現れる全世界統一の頂点をなす人物)も
蘇生するからです。正に彼の蘇生はキリストの復活の似て非なるものです。
(ただしおそらく蘇生は彼らの能力の頂点をなすものでしょう。
それが彼の力の限界点です。)だから私達は「奇跡」を
あまりにあり難がってはならないのです。あり難いのはキリストの復活と
今信仰によってキリスト者の人間生活に出現するキリストの復活だけです。
しかし程なく訪れるかの時、必ず「地に住む者達」はその人物の「復活」を
容易にそして直ちに信じ彼を全世界の「救い主」として礼拝するでしょう。
なぜなら人々の心を究極的に掴むものは「もの、物質」の
最高の姿であるからです。(この④は続きます)
*これまでの「体系」と言う用語を「態系」に変えました。
これは多分私の造語でしょう。(もっといい言葉があったら教えて下さい)
体系と言うとき、それは真の「からだ」を連想してしまうからです。
2008年5月19日月曜日
2008年5月14日水曜日
その舞台(4)
さて今しばし「その舞台」(1)を振り返る必要があります。
そこでは目に見える地上の人間の態系(第一の態系)と目に見えない
超自然的な能力を持つ生物達の態系(第二の態系)を見ました。
第一の人の態系は見えない第二の態系の表現です。それは
第一の態系は完全に第二の態系の支配下にあると言うことです。
それはあたかも 空を飛ぶ目に見えるラジコン飛行機の動きが
実は目に見えない所で操作する者の完全支配下にあるような
ものです。状況をシッカリと見、把握しているのはラジコンを
操作する者であり、今空を飛び交う私達が五感で容易に認知出来る
目に見えるラジコンではありません。
第一の態系・今日のラジコン・地上の人類の動向を
すべて掌握し操っているのは第二の態系に属する
超自然的目に見えない生物ども、そしてその頭(サタン)なのです。
★第二態系の生き物の意志と特徴★
かつてのルシファーを頭とするその態系には幾つかの特徴が
あります。それは悪の本能とでも言い得るものです。それは先ず
①彼らは自らの運命の究極が大いなる破滅であることを知りながら
悔い改め、引き返すことが全く不可能であることです。
人にはまだ悔い改める(方向転換する)チャンスが残されております。
しかし、第二の態系の生き物達にはその機会は最早ありません。
多分彼らとて かつては引き返す機会は与えれていたのでしょう。
しかし彼らに与えられたその時代、その日、その時、彼らは真に
愚かな選択をしてしまったに違いありません。即ち神への反逆です。
彼らは彼らの運命を自ら決定したのです。
②次に 破滅に近づけば近づくほど、彼らはその悪の加速度を
増さざるを得ないと言うことです。それは彼らの本能です。
これはこれからの人類が行こうとする方向性、その状況を観察すれば
容易に分かることです。これからこの地上の人の心は加速度的にその悪の
程度を増して行くことでしょう。それは全く不可避です。何故なら
その背後にはサタンの加速度する悪の本能が明確に働いているからです。
③もう一つは他の者を自分の運命に引き込み、共に破滅に
引き連れて行こうとする悪の本能です。
ルシファーはかつて、数多くの神の御使いの中の三分の一とそして
太古に地上に住んでいた体と霊を持つ高度な生き物を
自らの運命に同行させることに成功しました。
今サタンのターゲットは完全に人類に向けられており、
その目標は唯一つの例外を除いて、ほぼ達成されつつあるのです。
(この項 続く)
*補足説明*
アダム以前の太古に地上にいた体と霊を持つ高度な生き物は
サタンに追従したが故に裁かれ体を失いました。それ故に今
その体を失い地上に存在するおびただしい数のその邪霊どもは
水中や人体その他の中に常に自分の宿り場を求めているのです。
それは私達が福音書において明らかに知ることが出来る事です。
彼らは空中の堕落した天使達とは全く別の生物ですが
共に結託して今なお神の主権に対抗しているのです。
そこでは目に見える地上の人間の態系(第一の態系)と目に見えない
超自然的な能力を持つ生物達の態系(第二の態系)を見ました。
第一の人の態系は見えない第二の態系の表現です。それは
第一の態系は完全に第二の態系の支配下にあると言うことです。
それはあたかも 空を飛ぶ目に見えるラジコン飛行機の動きが
実は目に見えない所で操作する者の完全支配下にあるような
ものです。状況をシッカリと見、把握しているのはラジコンを
操作する者であり、今空を飛び交う私達が五感で容易に認知出来る
目に見えるラジコンではありません。
第一の態系・今日のラジコン・地上の人類の動向を
すべて掌握し操っているのは第二の態系に属する
超自然的目に見えない生物ども、そしてその頭(サタン)なのです。
★第二態系の生き物の意志と特徴★
かつてのルシファーを頭とするその態系には幾つかの特徴が
あります。それは悪の本能とでも言い得るものです。それは先ず
①彼らは自らの運命の究極が大いなる破滅であることを知りながら
悔い改め、引き返すことが全く不可能であることです。
人にはまだ悔い改める(方向転換する)チャンスが残されております。
しかし、第二の態系の生き物達にはその機会は最早ありません。
多分彼らとて かつては引き返す機会は与えれていたのでしょう。
しかし彼らに与えられたその時代、その日、その時、彼らは真に
愚かな選択をしてしまったに違いありません。即ち神への反逆です。
彼らは彼らの運命を自ら決定したのです。
②次に 破滅に近づけば近づくほど、彼らはその悪の加速度を
増さざるを得ないと言うことです。それは彼らの本能です。
これはこれからの人類が行こうとする方向性、その状況を観察すれば
容易に分かることです。これからこの地上の人の心は加速度的にその悪の
程度を増して行くことでしょう。それは全く不可避です。何故なら
その背後にはサタンの加速度する悪の本能が明確に働いているからです。
③もう一つは他の者を自分の運命に引き込み、共に破滅に
引き連れて行こうとする悪の本能です。
ルシファーはかつて、数多くの神の御使いの中の三分の一とそして
太古に地上に住んでいた体と霊を持つ高度な生き物を
自らの運命に同行させることに成功しました。
今サタンのターゲットは完全に人類に向けられており、
その目標は唯一つの例外を除いて、ほぼ達成されつつあるのです。
(この項 続く)
*補足説明*
アダム以前の太古に地上にいた体と霊を持つ高度な生き物は
サタンに追従したが故に裁かれ体を失いました。それ故に今
その体を失い地上に存在するおびただしい数のその邪霊どもは
水中や人体その他の中に常に自分の宿り場を求めているのです。
それは私達が福音書において明らかに知ることが出来る事です。
彼らは空中の堕落した天使達とは全く別の生物ですが
共に結託して今なお神の主権に対抗しているのです。
2008年5月13日火曜日
その舞台(3)
さて宇宙の歴史の中で
ある日ある時、まずはありそうもないこと、
先ずは「あってはならない」ことが現実となりました。
それは一体何でしょう。
それはある一つの被造物が、あの創造主と命において
結合した事です。つまり創造主とある被造物が
ある性質において一つとなったのです。
総ての被造物の中で物質に過ぎない体、また肉の弱さを持ち、
時間と空間の制限の中に縛られ、最も無能ではかなく見える存在が、
創造主である神と命において一つとされたのです。
そんなことがあっていいのでしょうか。殆ど信じられないことです。
しかしそれは現実となったのです。
それは決して 神が「創造物の中で最も価値あるもの」を人に与えた
と言うのではありません。被造され得ないもの、
創造されないもの、永遠の過去から自ずと存在していたもの、即ち
何と創造者の命そのもが、ある被造物の命と一つとなったのです。
あなたはこれを信じるでしょうか。
☆
この世で最もあり得ないことは何でしょうか。
この世界でも絶対にあり得ない様なことが時に現実となる例は
あるのかも知れません。しかし、
その中で最たるものが正に「これ」に違いありません。
それは、神の天使達は元より あの偉大な天使達の頭ルシファー
にさえ決して起こらなかったことです。
それは例えば あなたが日ごろさげすんでいる同僚の
一人がある日 突然ある国の王子になるよりもあり得ないことです。
それは明日、宇宙が崩壊するよりも起こり得ないことと言えるのです。
(宇宙崩壊は必ず起こる)
あるキリストにある姉妹が、或る時 突然この事実に
気づきました。その姉妹は「自分が今何を持っているのか」にその時
初めて気づいたのです。びっくり仰天した姉妹は、それから暫くの間、
毎日うわごとのようにこれをつぶやき、時に茫然とたたずんたと言います。
しかしこれはむしろキリスト者としてとても正常な反応である
と言うべきです。何故なら、あり得ない余りに素晴らしいことが
現に彼女の身の上に起こったのですから。
私達は驚くべき神の真理を、何でもないことのように
平凡に自分の前を通り過ごさせてはなりません。
私達は毎日、神の事実を発見し驚き、その不思議さの感動の中で
日を過ごすべきです。真のクリスチャン生活とは「自分が何であるのか」を
キリストの中にある「自分が一体何を持っているのか」を
日々発見する生活に他ならないからです。
ある日ある時、まずはありそうもないこと、
先ずは「あってはならない」ことが現実となりました。
それは一体何でしょう。
それはある一つの被造物が、あの創造主と命において
結合した事です。つまり創造主とある被造物が
ある性質において一つとなったのです。
総ての被造物の中で物質に過ぎない体、また肉の弱さを持ち、
時間と空間の制限の中に縛られ、最も無能ではかなく見える存在が、
創造主である神と命において一つとされたのです。
そんなことがあっていいのでしょうか。殆ど信じられないことです。
しかしそれは現実となったのです。
それは決して 神が「創造物の中で最も価値あるもの」を人に与えた
と言うのではありません。被造され得ないもの、
創造されないもの、永遠の過去から自ずと存在していたもの、即ち
何と創造者の命そのもが、ある被造物の命と一つとなったのです。
あなたはこれを信じるでしょうか。
☆
この世で最もあり得ないことは何でしょうか。
この世界でも絶対にあり得ない様なことが時に現実となる例は
あるのかも知れません。しかし、
その中で最たるものが正に「これ」に違いありません。
それは、神の天使達は元より あの偉大な天使達の頭ルシファー
にさえ決して起こらなかったことです。
それは例えば あなたが日ごろさげすんでいる同僚の
一人がある日 突然ある国の王子になるよりもあり得ないことです。
それは明日、宇宙が崩壊するよりも起こり得ないことと言えるのです。
(宇宙崩壊は必ず起こる)
あるキリストにある姉妹が、或る時 突然この事実に
気づきました。その姉妹は「自分が今何を持っているのか」にその時
初めて気づいたのです。びっくり仰天した姉妹は、それから暫くの間、
毎日うわごとのようにこれをつぶやき、時に茫然とたたずんたと言います。
しかしこれはむしろキリスト者としてとても正常な反応である
と言うべきです。何故なら、あり得ない余りに素晴らしいことが
現に彼女の身の上に起こったのですから。
私達は驚くべき神の真理を、何でもないことのように
平凡に自分の前を通り過ごさせてはなりません。
私達は毎日、神の事実を発見し驚き、その不思議さの感動の中で
日を過ごすべきです。真のクリスチャン生活とは「自分が何であるのか」を
キリストの中にある「自分が一体何を持っているのか」を
日々発見する生活に他ならないからです。
2008年5月12日月曜日
その舞台(2)
人には或る際立った特徴があります。
それはその弱さと能力の低さです!
人の様々な能力を他と比べて見るならば、
サタン、堕落天使はもとより、
小さな悪鬼にさえ かなう要素はありません。
真に人の能力は極めて低く人はあまりにも弱いのです。
しかし今一つのことを考えて見ましょう。それは
これらの強く超越した能力を持つ生物どもと人間との共通点です。
「サタン、堕落天使、悪鬼、そして、人間」を
一くくりにする言葉はないのでしょうか。
ありますよ。
それは「被造物」と言う言葉です。
私達も彼らも被造物に過ぎないのです。人も天使も総て
被造物と言う共通項で一くくりにされるのです。
☆
ですからあのルシファーでさえ当初はきっと
「自分は造られたものに過ぎない」
と言う意識をしっかりと持っていたことでしょう。
とても意外なのですがこの意識は極めて重要です。
元よりこれは当然なことであり、これこそ健全なこころです。
しかし、奇妙なことに今現在サタンと人の意識の奥底には
あわよくば神になりたい、神に対抗したいと言う
とんでもない奥深い欲望がある事は確かです。
これは実に不思議なことではありませんか。
しかしその欲望の根にあるものは一体何なのでしょう。
それは「神からの独立」です。この微細な一点「独立、自立」が
神に対する サタンと人にある根源的な罪なのです。
何たることでしょう、そのとても「罪」とは見えない
ささやかでしかも美しくさえ見える「神からの自立」こそが、
宇宙の全歴史における巨大な諸々の悲劇と惨劇の
開始となってしまったとは!
おそらくはルシファーの全盛期のある日、
その様な「ささやかで美しくも見える」その思いがフト
彼の内面に到来したのでしょう。
その様にしてあの「明けの明星」は
神への反逆の第一歩を印してしまったのです。
(イザヤ14の12~15)
☆
本論に戻ります。
しかし人と彼らにとって神は当然、驚異であり、
また脅威です。被造物にとって創造主はあまりにも
偉大過ぎるのです。神はあくまでも神なのです。
神は元より絶対者です。だから
彼だけが誰にも創造されなかったものであり、
その命は永遠であり、彼は総ての父であり源です。
ある時神は「ことば」によって時空をも創造されました。
それは彼だけが「真の存在」であるからです。
その「存在」と比べるならば、一切の他のものは
「存在」の名に値しないのです。だから神以外の誰にも
「私は在る」と名乗ることは許されません。
誰がおのが身の丈を背伸びさせて「いつか私は
神に到達出来る」などと言い得ましょう。
一体誰が神に抗し得ましょうか。
創造主と被造物、その格差はあまりに大きいのです。
どんなに優れた詩人でさえ その差異を的確に表現する
言葉を見つけ出すことは難しいのです。
ああ神は余りに偉大です。
*「私は在る」の意味:私は存在する、私が真の存在者。
逆に言うと、私以外は「在る」ではない。即ち「私だけが真の
リアリティである」。
それはその弱さと能力の低さです!
人の様々な能力を他と比べて見るならば、
サタン、堕落天使はもとより、
小さな悪鬼にさえ かなう要素はありません。
真に人の能力は極めて低く人はあまりにも弱いのです。
しかし今一つのことを考えて見ましょう。それは
これらの強く超越した能力を持つ生物どもと人間との共通点です。
「サタン、堕落天使、悪鬼、そして、人間」を
一くくりにする言葉はないのでしょうか。
ありますよ。
それは「被造物」と言う言葉です。
私達も彼らも被造物に過ぎないのです。人も天使も総て
被造物と言う共通項で一くくりにされるのです。
☆
ですからあのルシファーでさえ当初はきっと
「自分は造られたものに過ぎない」
と言う意識をしっかりと持っていたことでしょう。
とても意外なのですがこの意識は極めて重要です。
元よりこれは当然なことであり、これこそ健全なこころです。
しかし、奇妙なことに今現在サタンと人の意識の奥底には
あわよくば神になりたい、神に対抗したいと言う
とんでもない奥深い欲望がある事は確かです。
これは実に不思議なことではありませんか。
しかしその欲望の根にあるものは一体何なのでしょう。
それは「神からの独立」です。この微細な一点「独立、自立」が
神に対する サタンと人にある根源的な罪なのです。
何たることでしょう、そのとても「罪」とは見えない
ささやかでしかも美しくさえ見える「神からの自立」こそが、
宇宙の全歴史における巨大な諸々の悲劇と惨劇の
開始となってしまったとは!
おそらくはルシファーの全盛期のある日、
その様な「ささやかで美しくも見える」その思いがフト
彼の内面に到来したのでしょう。
その様にしてあの「明けの明星」は
神への反逆の第一歩を印してしまったのです。
(イザヤ14の12~15)
☆
本論に戻ります。
しかし人と彼らにとって神は当然、驚異であり、
また脅威です。被造物にとって創造主はあまりにも
偉大過ぎるのです。神はあくまでも神なのです。
神は元より絶対者です。だから
彼だけが誰にも創造されなかったものであり、
その命は永遠であり、彼は総ての父であり源です。
ある時神は「ことば」によって時空をも創造されました。
それは彼だけが「真の存在」であるからです。
その「存在」と比べるならば、一切の他のものは
「存在」の名に値しないのです。だから神以外の誰にも
「私は在る」と名乗ることは許されません。
誰がおのが身の丈を背伸びさせて「いつか私は
神に到達出来る」などと言い得ましょう。
一体誰が神に抗し得ましょうか。
創造主と被造物、その格差はあまりに大きいのです。
どんなに優れた詩人でさえ その差異を的確に表現する
言葉を見つけ出すことは難しいのです。
ああ神は余りに偉大です。
*「私は在る」の意味:私は存在する、私が真の存在者。
逆に言うと、私以外は「在る」ではない。即ち「私だけが真の
リアリティである」。
その舞台(1)
いつの時代も世の注目を受ける人々がいるものです。
どういう人達でしょうか。それは重要な人、ユニークな人
特殊な人、ほおっておけない人、鍵を握る人でしょう。
☆
さて、聖書で世界・世と言う時、それは「この地上の人々が
構成する人間の態系」だけを意味するのではありません。それは
総ての人を、そしてその人間の態系を裏側から真の意味で組織、支配
しているある強力なパワーの態系をも暗示している場合が多いのです。
その力の活動の場は今「地を中心とするある範囲」の中に限定されては
います。しかしその力の持ち主は確実に真の意味での超能力者であり、
その力は人の目には見えないが、極めて知的で超自然的な
パワーなのです。(私は最近しばしばそのような力を含む全世界を敢えて
宇宙と呼んでおります)その力こそが、この世の悪の真の黒幕です。
世界、世、宇宙:
先ず「この地上の部分」には普通「世界」と呼ばれる人間の
態系があります。これは誰の目にも見える分かりやすい第一の態系です。
しかし更に目には見えない第二の態系が存在します。
この第二の態系は三つの層からなっております。
先ずこの地上では おびただしい数の見えない生物(悪霊)が
総ての人間をあやつり牛耳り、今日日夜休むことなく人を
不潔、堕落、死の中へと強力に誘導しています。
彼らはあたかも言わばハエの様な存在ですが
その中の一匹の邪悪で執拗な力にさえ真に抗し得る人はいないでしょう。
それだけではありません。空中には更に高度で強力、
極めて知的な生き物(堕落した天使達)が存在し全世界の動向、風潮、
潮流を確実に支配しており、空中から地上に人をして神に反逆させる
空気を絶えず送り続け、人類を自分達の運命である
究極的な破滅に同行させようとしております。
彼らのリーダーは強力な力を持つ「支配達、権威達」です。
しかし更に、
海と地そして空中の総ての力を統括する最大のパワーがあるのです。
その力の持ち主は今なお天にも存在しているのですが(信じられますか)
彼こそ太古の時代 天使長として神のそば近くで仕えていた
あのルシファー・明けの明星、現在のサタンなのです。
この三層からなる第二の態系には「内輪もめ」などなく
その国はサタンの威厳と統制力の故に「立ち行く」(マタイ12の26)のに
十分です。このことは この世 宇宙・コスモスの「神」である
サタンの超大な権威と能力を示すものに他なりません。
第一の、人の態系は第二の態系の完全支配下にあります。
この「全世界は邪悪な者の中に横たわっている」に過ぎないのです。
(Ⅰヨハネ5の19、ダービー訳)それは正にまな板の上の
死んだ魚に過ぎません。それ故に私達は今 目に見えるこの世
にもまして 上記の三層からなる見えないパワー、第二の態系に
十分に注意を払う必要があるのです。
「私達の格闘は血肉に対するものではない」からです。(エペソ6の12)
どういう人達でしょうか。それは重要な人、ユニークな人
特殊な人、ほおっておけない人、鍵を握る人でしょう。
☆
さて、聖書で世界・世と言う時、それは「この地上の人々が
構成する人間の態系」だけを意味するのではありません。それは
総ての人を、そしてその人間の態系を裏側から真の意味で組織、支配
しているある強力なパワーの態系をも暗示している場合が多いのです。
その力の活動の場は今「地を中心とするある範囲」の中に限定されては
います。しかしその力の持ち主は確実に真の意味での超能力者であり、
その力は人の目には見えないが、極めて知的で超自然的な
パワーなのです。(私は最近しばしばそのような力を含む全世界を敢えて
宇宙と呼んでおります)その力こそが、この世の悪の真の黒幕です。
世界、世、宇宙:
先ず「この地上の部分」には普通「世界」と呼ばれる人間の
態系があります。これは誰の目にも見える分かりやすい第一の態系です。
しかし更に目には見えない第二の態系が存在します。
この第二の態系は三つの層からなっております。
先ずこの地上では おびただしい数の見えない生物(悪霊)が
総ての人間をあやつり牛耳り、今日日夜休むことなく人を
不潔、堕落、死の中へと強力に誘導しています。
彼らはあたかも言わばハエの様な存在ですが
その中の一匹の邪悪で執拗な力にさえ真に抗し得る人はいないでしょう。
それだけではありません。空中には更に高度で強力、
極めて知的な生き物(堕落した天使達)が存在し全世界の動向、風潮、
潮流を確実に支配しており、空中から地上に人をして神に反逆させる
空気を絶えず送り続け、人類を自分達の運命である
究極的な破滅に同行させようとしております。
彼らのリーダーは強力な力を持つ「支配達、権威達」です。
しかし更に、
海と地そして空中の総ての力を統括する最大のパワーがあるのです。
その力の持ち主は今なお天にも存在しているのですが(信じられますか)
彼こそ太古の時代 天使長として神のそば近くで仕えていた
あのルシファー・明けの明星、現在のサタンなのです。
この三層からなる第二の態系には「内輪もめ」などなく
その国はサタンの威厳と統制力の故に「立ち行く」(マタイ12の26)のに
十分です。このことは この世 宇宙・コスモスの「神」である
サタンの超大な権威と能力を示すものに他なりません。
第一の、人の態系は第二の態系の完全支配下にあります。
この「全世界は邪悪な者の中に横たわっている」に過ぎないのです。
(Ⅰヨハネ5の19、ダービー訳)それは正にまな板の上の
死んだ魚に過ぎません。それ故に私達は今 目に見えるこの世
にもまして 上記の三層からなる見えないパワー、第二の態系に
十分に注意を払う必要があるのです。
「私達の格闘は血肉に対するものではない」からです。(エペソ6の12)
2008年5月9日金曜日
集まりのための基礎知識
*永遠と時空の関係がキー*
☆
①先ず源として神の愛があります。
②その愛の対象は人・人間性です。
③愛とは相手との一つを願うものです。だから 万難を排して
神は人との一つに向かわれたのです。
人との一つ、確かにそれが神の目的です。
④神はその目的に向かわれたのですが、しかし同時に彼御自身の
義の要求の故に 父は御子を木に釘付けなければなりませんでした。
それにしても これは何という神の実行でしょう!
しかし このキリストの死の時点において 贖いのための
キリストと人との結合が 永遠において完成したのです。
またこの時点における神と人の結合は
次の⑤における積極面の為の結合の準備ともなったのです。
ただこれは「キリストの中の神の永遠の領域における真理」です。
⑤次に復活があります。これは「死の粉砕」であり、
死の力を持つ神の敵に対する完全な勝利です。
しかし更に復活は積極面において 無制限のキリストが人の中へと
入られ、また人がキリストの中へと入ったと言う
永遠の「神の側の真理」をも意味するのです。復活は
永遠の領域において、神と人の1つが成就された
「宇宙最大級の事件」であったのです。
その上に立って今度は 人がキリストの復活を信じる時 その人の
時空の中に「彼がキリストと真に一つとされたと言う真理」が初めて
言わば「降りて来る」と言えるのです。言い換えれば、キリストを
真に信じる時 彼はこの永遠の神の真理が時空の中においても
正に事実であると実証することになります。
⑥更に言えば、復活に続きキリストの昇天と御座があります。
これによって敵に対する キリストとキリストの中にいる人々の
圧倒的な権威が確保されたのです。
☆
以上が既に完成された神の御業のおおよそです。
繰り返しますが これらは総て「キリストの中の永遠に属する真理
(真のリアリティ)」です。従って人はこれらの真理を個人的に求め、
啓示によって知り、そしてキリストの中へと信じ入り、
キリストと実際的に一つに結合されなければなりません。
そうでなければ、即ちあなたがキリストの外にあるならば、
これらの真理は引き続きあなたとは全く無縁です。
なぜならあなたは未だにキリストの外、即ち神の敵の領域である
古きアダムの中にいるからです。アダムの中に真理はありません。
真理とはキリストそのものであり、真理はキリストの中以外の
ところには絶対にあり得ないからです。(ヨハネ14の6、8の44)
しかし真に信じるならばその時 あなたは神によって新しい第2の人・
キリストの中に移されるのです。(コロサイ1の13、Ⅰコリント1の30)
それが現実となる時あなたはもうキリストとの一つの中にいるのですから
これらのキリストの中の永遠の真理は総てあなたのものとなり、
それをあなたは、この時空の中においても、とても自然に
自分の経験とすることが出来るのです。
☆
以上が集会の為に私達が基本的にどうしても知らなければ
ならない霊的な知識です。それはまた前述した「神の2つの
ストーリー」をあなたがこの時空と言う舞台上で演じる為の
基礎知識であるとも言えるのです。
*補足説明*
1.ギリシャ語の「信じる」には「入り込む」と言う意味が
含まれているようです。つまり それは
信じれば、一つとされるということです。
2.まとめると「神と人の一つ」は
①キリストの受肉において準備され、
②キリストの十字架において、人の贖いの為の結合が完成し
③キリストの復活においては積極面の為に完成され、そして
④人が信じる時に以上の①から③の永遠の真理が時空に降りて来る、
即ち時空において立証される、と言えるのではないでしょうか。
①から③は全部 時空の中でなされたことではありますが、
それらは永遠の御子によって達成されたが故に
その性質は総て完全に永遠性のものです。
④は神が対サタンを意識して、敢えて「今サタンが不法に占拠している
時空と言う一時的な舞台」で演じられる所の
「①から③の真理」の証明、実証、再現、誇示と取ることが出来ると
思われます。今のこの時代、そのステージの上では
時空とその中の様々な事象に比して復活における永遠がいかに
卓越しているかが万物に向かって表現されつつあるのです。
「今天にある支配達と権威達(敵)に対してエクレシアを通して神の
多種多様な知恵が示されるためです。」エペソ3の10
*
タイトルは基礎知識でしたが、案に相違でやや込み入った
内容になってしまいました。それにしても
神の真理の奥深さに 改めて驚嘆するばかりです。
☆
①先ず源として神の愛があります。
②その愛の対象は人・人間性です。
③愛とは相手との一つを願うものです。だから 万難を排して
神は人との一つに向かわれたのです。
人との一つ、確かにそれが神の目的です。
④神はその目的に向かわれたのですが、しかし同時に彼御自身の
義の要求の故に 父は御子を木に釘付けなければなりませんでした。
それにしても これは何という神の実行でしょう!
しかし このキリストの死の時点において 贖いのための
キリストと人との結合が 永遠において完成したのです。
またこの時点における神と人の結合は
次の⑤における積極面の為の結合の準備ともなったのです。
ただこれは「キリストの中の神の永遠の領域における真理」です。
⑤次に復活があります。これは「死の粉砕」であり、
死の力を持つ神の敵に対する完全な勝利です。
しかし更に復活は積極面において 無制限のキリストが人の中へと
入られ、また人がキリストの中へと入ったと言う
永遠の「神の側の真理」をも意味するのです。復活は
永遠の領域において、神と人の1つが成就された
「宇宙最大級の事件」であったのです。
その上に立って今度は 人がキリストの復活を信じる時 その人の
時空の中に「彼がキリストと真に一つとされたと言う真理」が初めて
言わば「降りて来る」と言えるのです。言い換えれば、キリストを
真に信じる時 彼はこの永遠の神の真理が時空の中においても
正に事実であると実証することになります。
⑥更に言えば、復活に続きキリストの昇天と御座があります。
これによって敵に対する キリストとキリストの中にいる人々の
圧倒的な権威が確保されたのです。
☆
以上が既に完成された神の御業のおおよそです。
繰り返しますが これらは総て「キリストの中の永遠に属する真理
(真のリアリティ)」です。従って人はこれらの真理を個人的に求め、
啓示によって知り、そしてキリストの中へと信じ入り、
キリストと実際的に一つに結合されなければなりません。
そうでなければ、即ちあなたがキリストの外にあるならば、
これらの真理は引き続きあなたとは全く無縁です。
なぜならあなたは未だにキリストの外、即ち神の敵の領域である
古きアダムの中にいるからです。アダムの中に真理はありません。
真理とはキリストそのものであり、真理はキリストの中以外の
ところには絶対にあり得ないからです。(ヨハネ14の6、8の44)
しかし真に信じるならばその時 あなたは神によって新しい第2の人・
キリストの中に移されるのです。(コロサイ1の13、Ⅰコリント1の30)
それが現実となる時あなたはもうキリストとの一つの中にいるのですから
これらのキリストの中の永遠の真理は総てあなたのものとなり、
それをあなたは、この時空の中においても、とても自然に
自分の経験とすることが出来るのです。
☆
以上が集会の為に私達が基本的にどうしても知らなければ
ならない霊的な知識です。それはまた前述した「神の2つの
ストーリー」をあなたがこの時空と言う舞台上で演じる為の
基礎知識であるとも言えるのです。
*補足説明*
1.ギリシャ語の「信じる」には「入り込む」と言う意味が
含まれているようです。つまり それは
信じれば、一つとされるということです。
2.まとめると「神と人の一つ」は
①キリストの受肉において準備され、
②キリストの十字架において、人の贖いの為の結合が完成し
③キリストの復活においては積極面の為に完成され、そして
④人が信じる時に以上の①から③の永遠の真理が時空に降りて来る、
即ち時空において立証される、と言えるのではないでしょうか。
①から③は全部 時空の中でなされたことではありますが、
それらは永遠の御子によって達成されたが故に
その性質は総て完全に永遠性のものです。
④は神が対サタンを意識して、敢えて「今サタンが不法に占拠している
時空と言う一時的な舞台」で演じられる所の
「①から③の真理」の証明、実証、再現、誇示と取ることが出来ると
思われます。今のこの時代、そのステージの上では
時空とその中の様々な事象に比して復活における永遠がいかに
卓越しているかが万物に向かって表現されつつあるのです。
「今天にある支配達と権威達(敵)に対してエクレシアを通して神の
多種多様な知恵が示されるためです。」エペソ3の10
*
タイトルは基礎知識でしたが、案に相違でやや込み入った
内容になってしまいました。それにしても
神の真理の奥深さに 改めて驚嘆するばかりです。
2008年5月7日水曜日
集会、「会いたい」から会いに行く
集会の源、それは神の愛です。
この愛は普通の愛ではなく,人との一つを求めて十字架に
向かわれたキリストの愛です。
それは決して人を起源としたものではありません。
何故 私達は集まるのでしょう。集会とはミーティングです。
ミーティングとは会うことです。何故 ミーティングするのか、
それは単純に会いたいからです、他のキリスト者に会いたいからです。
それは衝動的とさえ見える単純素朴な動機です。私達は会いたいから
何者かに導かれて何故か わざわざ出かけてしまうのです!
他の理由はありません。これが この世の多種多様な会合と
著しく異なる点です。
(この世の宗教の集まりの動機と比較して見て下さい。)
しかし私達は何も そこにいる「生まれながらの人々」と
会いたいわけではありません。実は「キリスト者達の命の交流
の中に存在する復活のキリスト」に会いたいのです。
これらのことを思い巡らして見ると とても不思議です。
「会いたい」と言う私達の不思議な衝動、その命の衝動に私達の誰しもが
自分ながら極めて奥深いものを感じざるを得ないのです。
不思議です。ホンとに何故なのでしょう。
敢えて言いましょう。それは一つの奥義だからです。
それは神の奥義であるからです。
更に言いましょう。
その私達の衝動の背後には どんなフィクション作家も想像すら出来ない
あなたや私を巻き込んだ 稀有壮大かつ あまたの不思議に満ち満ちた
神御自身のラブストーリーと戦勝ストーリーがあるからです。
そして何と その2つのストーリーを演じている主役は誰あろう、
キリストとあなたなのです!
*ごめんなさい、大分書き直しました。
でもこれでスッキリしました。
この愛は普通の愛ではなく,人との一つを求めて十字架に
向かわれたキリストの愛です。
それは決して人を起源としたものではありません。
何故 私達は集まるのでしょう。集会とはミーティングです。
ミーティングとは会うことです。何故 ミーティングするのか、
それは単純に会いたいからです、他のキリスト者に会いたいからです。
それは衝動的とさえ見える単純素朴な動機です。私達は会いたいから
何者かに導かれて何故か わざわざ出かけてしまうのです!
他の理由はありません。これが この世の多種多様な会合と
著しく異なる点です。
(この世の宗教の集まりの動機と比較して見て下さい。)
しかし私達は何も そこにいる「生まれながらの人々」と
会いたいわけではありません。実は「キリスト者達の命の交流
の中に存在する復活のキリスト」に会いたいのです。
これらのことを思い巡らして見ると とても不思議です。
「会いたい」と言う私達の不思議な衝動、その命の衝動に私達の誰しもが
自分ながら極めて奥深いものを感じざるを得ないのです。
不思議です。ホンとに何故なのでしょう。
敢えて言いましょう。それは一つの奥義だからです。
それは神の奥義であるからです。
更に言いましょう。
その私達の衝動の背後には どんなフィクション作家も想像すら出来ない
あなたや私を巻き込んだ 稀有壮大かつ あまたの不思議に満ち満ちた
神御自身のラブストーリーと戦勝ストーリーがあるからです。
そして何と その2つのストーリーを演じている主役は誰あろう、
キリストとあなたなのです!
*ごめんなさい、大分書き直しました。
でもこれでスッキリしました。
集会の要素
キリスト者の集まりの源には神の愛があります。
その愛の対象は人・人間性です。そして
神の愛はその人と一つになることを願われたのです。
愛は必ずその対象と一つになることを欲求するものです。
そこで神は「人との一つの実現」の為に、
どうしても通らなければならない
あのイエスの十字架を経られたのであり、
結果、それが復活として結実したのです。
要約すれば
集会に欠かせない絶対的な要素は5つでありそれは
神の愛、人間性、一つ、十字架、復活です。
だからキリスト者の集まりについて考える時
常に これらの5つを念頭に置くならば
私達は多くの混乱を避けることが出来るでしょう。
その愛の対象は人・人間性です。そして
神の愛はその人と一つになることを願われたのです。
愛は必ずその対象と一つになることを欲求するものです。
そこで神は「人との一つの実現」の為に、
どうしても通らなければならない
あのイエスの十字架を経られたのであり、
結果、それが復活として結実したのです。
要約すれば
集会に欠かせない絶対的な要素は5つでありそれは
神の愛、人間性、一つ、十字架、復活です。
だからキリスト者の集まりについて考える時
常に これらの5つを念頭に置くならば
私達は多くの混乱を避けることが出来るでしょう。
2008年5月3日土曜日
ホストはセージとマルシア
今日午後から山小屋でキャンプが始まります。
総勢12名ですがその中にMr.Sugar はいません。
私は今 まだ下・実家なのです。
事の始まりは4月25日、
あろう事かケンが不調になってしまったのです。
それまでの数日、今思うと「あれっ」と思う場面が無かったわけでは
なかったのですが・・。さすがにやはり少しあわてましたよ。
28日には何とかダマし説得して病院に連れて行き、
薬を増やしてもらいました。
落ち着きを見せて来たのが昨日あたりからです。
この病気の天気予報は難しいのです。長期予報はなおさらです。
「一旦山に戻り小屋で客を迎えたら、トンボ帰りで下りて来たらいい」
等と思ったりもしたのですが 30日の夕方に至り決心しました。
今回はもう若夫婦、セージとマルシアにホスト役を頼もうと。
マルシアに電話をしたら、本当に何だかホッとしたのです。
あ、これでいいんだ、と。
今回の客は 千葉の吉田さん夫婦に小学生の子供が2人、
奥さんはメキシコの方です。
そして吉田さんの敬愛する姉妹・メキシカンお婆ちゃんと
その娘さん、これで6名。
あとは吉田さんの静岡のお友達夫婦と、やはりその子供2人で、
奥さんはペルー出身です。
今回、小屋はこれで一つの新しい段階に入りましたね。
私がどうのこうのでなく皆さんが喜んでくれて、あの小屋で
何かの素晴らしい出会いが自然に与えられたらそれでいい。
3時44分、吉田氏からメールが入る:「先ほど無事着きました。
皆で主にあってシュガーさんの家族の平安を祈っています。」
よかった。
総勢12名ですがその中にMr.Sugar はいません。
私は今 まだ下・実家なのです。
事の始まりは4月25日、
あろう事かケンが不調になってしまったのです。
それまでの数日、今思うと「あれっ」と思う場面が無かったわけでは
なかったのですが・・。さすがにやはり少しあわてましたよ。
28日には何とかダマし説得して病院に連れて行き、
薬を増やしてもらいました。
落ち着きを見せて来たのが昨日あたりからです。
この病気の天気予報は難しいのです。長期予報はなおさらです。
「一旦山に戻り小屋で客を迎えたら、トンボ帰りで下りて来たらいい」
等と思ったりもしたのですが 30日の夕方に至り決心しました。
今回はもう若夫婦、セージとマルシアにホスト役を頼もうと。
マルシアに電話をしたら、本当に何だかホッとしたのです。
あ、これでいいんだ、と。
今回の客は 千葉の吉田さん夫婦に小学生の子供が2人、
奥さんはメキシコの方です。
そして吉田さんの敬愛する姉妹・メキシカンお婆ちゃんと
その娘さん、これで6名。
あとは吉田さんの静岡のお友達夫婦と、やはりその子供2人で、
奥さんはペルー出身です。
今回、小屋はこれで一つの新しい段階に入りましたね。
私がどうのこうのでなく皆さんが喜んでくれて、あの小屋で
何かの素晴らしい出会いが自然に与えられたらそれでいい。
3時44分、吉田氏からメールが入る:「先ほど無事着きました。
皆で主にあってシュガーさんの家族の平安を祈っています。」
よかった。
2008年5月2日金曜日
集まりに見る復活のキリストVS.固定化
もしもキリスト者の集まりの実質が「今天地にある復活のキリスト」
であるならば、当然現在のキリスト者の集まりにも復活性がなければ
なりません。復活とは無死、無制限、超時空です。もしも
そうであるならば、復活ほど固定しにくいものは無いのです。
復活を固定し、規定し、縛ることなど出来ません。ですから
キリスト者の集まりに固定化、規定、縛り等は全くそぐわないのです。
キリスト者と言えども今この時代、当然「時空の制限」を受けます。
しかし、彼らは その制限を越え制限(その中に死をも含む)を
打ち破る復活をも持つのです。キリスト者がこの相反する2つの要素を
併せ持つのは明確に神の意志によります。
そのためにこそ キリスト者は今この時代 敢えて時空の制限と
その中にある様々な困難や圧迫の中に置かれているのです。
それは そこにある2者(制限と無制限)のコントラストを
宇宙に対して鮮やかに展覧するためです。これ以外に神の意図は
ありません。その神の意図とはキリスト者が「時空とその中の諸物」
に対する復活の圧倒的な優越性を「制限と圧迫の究極」即ち
キリストの十字架を経由して顕現することです。換言すれば
キリストの復活における「閉じ込められと死」に対する打破・勝利は
今時空の制限の中に置かせられているエクレシア(教会)においても
全く同様の事実であることを明らかに証明する為です。かように
十字架(制限と死)は復活(無制限と不死)の門として
今も有効に機能しているのです。
☆
復活の対極に固定化、規定化、セット化、物質化があります。
人は何故か キリストの復活と正反対のことを企てます。
どうしてでしょうか。
それは集会をしっかりと物質的に安定させ固定し、その上集会の根を
この世の地下に深く張らせ 更に上に大きな木として枝葉を繁茂させ、
それを天下に誇示したいから、ではないでしょうか。
それは元々一年生の野菜に過ぎないカラシダネが「敵の仕業」
(マタイ13の28)によって異常にも大木となり 遂には空の鳥
(堕落した空中の生き物)を木々の間に無数に宿す結果となるような
ものです。(マタイ13の31、32)
この「野菜の大木への進化」は創世記にある「種類に従って」と言う
「神の命の法則」に反します。これは不法者(マタイ7の23)の
不法の働きです。「不法・lawlessnessの秘密は既に働いているのです」
(Ⅱテサロニケ2の7)
人間生活の延長線上にあるべき素朴で伸縮自在なパンを裂く集まりを
人は 聖餐「式」として固定します。自在な兄弟姉妹の関係を変えて、
ある人にある「権威」を付与する事により
兄弟姉妹の関係を2分し、そこに固定化を導き入れます。
自由な発想から命が流れるべき集会に 固定的な「式次第」を導入し
「厳粛な」かたちを創作し主日の集会を日曜礼拝として権威づけるのです。
これらは総て「犯してならない権威」を伴った「宗教セット」
として機能し、人々を散逸から防ぎます。
これは要するに「宗教的な神への恐れ」を導入し、人々を効果的に縛る
と言う敵の算段です。これらは復活性の対極の場所に、いつの間にか
巧みに導入され そして密かに構築されてしまったのです。
☆
さて 物質の肉体を取られ時空の制限下におられた時のイエスでさえ
彼を何らかの枠の中で捕らえるのは至難の業です。ましてや総ての制限
から解放された復活のキリストを「こうだああだ」と規定することなど
もとより人に出来る仕事ではないのです。
今仮に復活のキリストを「伸縮自在なキリスト」と呼んで見ましょう。
(敢えて言えば千変万化のキリスト、神出鬼没のキリストでもある!)
さて、この伸縮自在なキリストの現れであるキリスト者の集まりも
伸縮自在性を持っている筈である事は前述しました。それ故に、
新約聖書をいくら読んでも見ても 当時の集会はこうであったと
具体的に語る事は極めて難しいのです。
所が正にその事にこそ 神の意図が暗示されているのです。
聖書は敢えてそのように書かれていると言ってもよいでしょう。
即ちそれは私達をして「聖書の事例から それらに従って歩むべき
様々な規定等を引き出させたい」のでは無く あなたをして集会の
リアリティ・内容であるべき「復活の伸縮自在なキリストの実際に
真に触れさせたい」と言う事なのです。
「集会に関する正しさ」を守らせることではなく、キリストと言う
「とても魅力的なお方そのもの」を本当にあなたのものとさせたい、
のです。実は人が文字によってたやすく規定できるような
底の浅いものに永遠の魅力はあり得ません。神はあなたをして「この
永遠の魅力を有するお方」を自発的に熱心に探し求めさせたいのです。
さて 彼らの集まった場所はどんな所だったのでしょうか。
今分かることは 彼らはユダヤ教の会堂から追い出され 日常集まる
場所は普通の家々であったと言うことです。これはとても自然な事
ではなかったでしょうか。それに反し 彼ら独自の固定した礼拝堂が
あったとか、パウロが教会堂建築の陣頭指揮を取った等とするヒントは
どこにもありません。また彼らはどういう時に集まったのでしょうか。
主日(日曜)に、と言う記述と日々に、と言う記述は見出されます。
彼らは主日にそして日々集まったのです。明白なことは彼らの集まりは
彼らの普通の生活の延長線上にあったことです。
彼らは日常生活の合間に無理なく自然に集まった筈です。
(だから2,3人と言う数字はとても重要な意味を持つのです。)
また 今日の「日曜朝の礼拝」のような「メインの集会」と言うものは
あったのでしょうか。もしあるとすれば「パンを裂く集まり」が
それでしょう。しかしそれは、家々で行われたのです。また
より大きな集会として複数の家々の人々がより大きな1つの家に
集まってパンを裂いた記録はあります。いずれにしろ、
日常における彼らの集会所は彼らの家々であったことは明白です。
復活のキリストの表現としての当時のエクレシヤと集会の姿は
現今のキリスト教に見られるようなあり方とは全く
似ても似つかないものであった事は誰の目にも明らかです。
しかし、私達が決して看過出来ないポイントは その両者は 極端な対極に
さえ位置していると言う事実にあるのです。今日 大手を振ってまかり通って
いる「固定化現象」はどうでもよい問題ではなく、神と復活のキリストに
真っ向から対立する何物かである、と言うことです。
私達は今神の御前において これは極めて深刻な問題であると
言わなければならないでしょう。
☆
それでは「どう集まるべきか」と言う問題において
私達はそれとどう向き合えばよいのでしょう。それは単純です。
ただキリストに直行し、自分が「今日のキリスト」と一つにされている
と言う素晴らしい事実を信仰を用いて受け入れ、しっかりとそこに踏み留まる
以外にありません。ですから 当時の具体的な集会の様子を調べること
によりそれらを私達の集まり方に「取り入れる」と言うよりは、先ずは自分が
普段の生活の中で十字架を経過することによりキリストの復活を生き生きと
体験することが先決となるのです。
2千年前 御言葉が日々増し加わっていた頃 彼らを魅了して
やまなかったのは「キリスト者の集まり方」などではなく「あのお方」
「私の主」「復活の生けるキリスト御自身」であり またそのキリストを
内に持ちそのキリストが伸縮自在に、千変万化にそして神出鬼没に
行き交っている兄弟姉妹との交わり、そういう聖徒達と共に集まること、
正にそれ自体であった筈ですから。
アブラハム、イサク、ヤコブの神は、死んだ者の神ではなく、
生ける者、即ち「復活の中に生きる者」の神です。
神にとって「生きている」と言う意味は「復活の命に中に生かされている」
ということ以外ではあり得ないのです。(マタイ22の29から32)
キリストは決して古い着物や皮袋に合致することはありません。
伸縮自在の復活のキリストは常に 硬直した固定を「破り」「張り裂く」
ようにあなたの中で、そして集まりの中で作用するのです。
(マタイ9の16、17)それが固定を常に打破する復活のキリストであり、
またエクレシアの姿であり、彼らの交わりの実態であり、
キリスト者の集会の様なのです。
*神出鬼没のsugar 流解釈:キリストの十字架によって鬼は水没。
復活としてのキリストが出て来る。
であるならば、当然現在のキリスト者の集まりにも復活性がなければ
なりません。復活とは無死、無制限、超時空です。もしも
そうであるならば、復活ほど固定しにくいものは無いのです。
復活を固定し、規定し、縛ることなど出来ません。ですから
キリスト者の集まりに固定化、規定、縛り等は全くそぐわないのです。
キリスト者と言えども今この時代、当然「時空の制限」を受けます。
しかし、彼らは その制限を越え制限(その中に死をも含む)を
打ち破る復活をも持つのです。キリスト者がこの相反する2つの要素を
併せ持つのは明確に神の意志によります。
そのためにこそ キリスト者は今この時代 敢えて時空の制限と
その中にある様々な困難や圧迫の中に置かれているのです。
それは そこにある2者(制限と無制限)のコントラストを
宇宙に対して鮮やかに展覧するためです。これ以外に神の意図は
ありません。その神の意図とはキリスト者が「時空とその中の諸物」
に対する復活の圧倒的な優越性を「制限と圧迫の究極」即ち
キリストの十字架を経由して顕現することです。換言すれば
キリストの復活における「閉じ込められと死」に対する打破・勝利は
今時空の制限の中に置かせられているエクレシア(教会)においても
全く同様の事実であることを明らかに証明する為です。かように
十字架(制限と死)は復活(無制限と不死)の門として
今も有効に機能しているのです。
☆
復活の対極に固定化、規定化、セット化、物質化があります。
人は何故か キリストの復活と正反対のことを企てます。
どうしてでしょうか。
それは集会をしっかりと物質的に安定させ固定し、その上集会の根を
この世の地下に深く張らせ 更に上に大きな木として枝葉を繁茂させ、
それを天下に誇示したいから、ではないでしょうか。
それは元々一年生の野菜に過ぎないカラシダネが「敵の仕業」
(マタイ13の28)によって異常にも大木となり 遂には空の鳥
(堕落した空中の生き物)を木々の間に無数に宿す結果となるような
ものです。(マタイ13の31、32)
この「野菜の大木への進化」は創世記にある「種類に従って」と言う
「神の命の法則」に反します。これは不法者(マタイ7の23)の
不法の働きです。「不法・lawlessnessの秘密は既に働いているのです」
(Ⅱテサロニケ2の7)
人間生活の延長線上にあるべき素朴で伸縮自在なパンを裂く集まりを
人は 聖餐「式」として固定します。自在な兄弟姉妹の関係を変えて、
ある人にある「権威」を付与する事により
兄弟姉妹の関係を2分し、そこに固定化を導き入れます。
自由な発想から命が流れるべき集会に 固定的な「式次第」を導入し
「厳粛な」かたちを創作し主日の集会を日曜礼拝として権威づけるのです。
これらは総て「犯してならない権威」を伴った「宗教セット」
として機能し、人々を散逸から防ぎます。
これは要するに「宗教的な神への恐れ」を導入し、人々を効果的に縛る
と言う敵の算段です。これらは復活性の対極の場所に、いつの間にか
巧みに導入され そして密かに構築されてしまったのです。
☆
さて 物質の肉体を取られ時空の制限下におられた時のイエスでさえ
彼を何らかの枠の中で捕らえるのは至難の業です。ましてや総ての制限
から解放された復活のキリストを「こうだああだ」と規定することなど
もとより人に出来る仕事ではないのです。
今仮に復活のキリストを「伸縮自在なキリスト」と呼んで見ましょう。
(敢えて言えば千変万化のキリスト、神出鬼没のキリストでもある!)
さて、この伸縮自在なキリストの現れであるキリスト者の集まりも
伸縮自在性を持っている筈である事は前述しました。それ故に、
新約聖書をいくら読んでも見ても 当時の集会はこうであったと
具体的に語る事は極めて難しいのです。
所が正にその事にこそ 神の意図が暗示されているのです。
聖書は敢えてそのように書かれていると言ってもよいでしょう。
即ちそれは私達をして「聖書の事例から それらに従って歩むべき
様々な規定等を引き出させたい」のでは無く あなたをして集会の
リアリティ・内容であるべき「復活の伸縮自在なキリストの実際に
真に触れさせたい」と言う事なのです。
「集会に関する正しさ」を守らせることではなく、キリストと言う
「とても魅力的なお方そのもの」を本当にあなたのものとさせたい、
のです。実は人が文字によってたやすく規定できるような
底の浅いものに永遠の魅力はあり得ません。神はあなたをして「この
永遠の魅力を有するお方」を自発的に熱心に探し求めさせたいのです。
さて 彼らの集まった場所はどんな所だったのでしょうか。
今分かることは 彼らはユダヤ教の会堂から追い出され 日常集まる
場所は普通の家々であったと言うことです。これはとても自然な事
ではなかったでしょうか。それに反し 彼ら独自の固定した礼拝堂が
あったとか、パウロが教会堂建築の陣頭指揮を取った等とするヒントは
どこにもありません。また彼らはどういう時に集まったのでしょうか。
主日(日曜)に、と言う記述と日々に、と言う記述は見出されます。
彼らは主日にそして日々集まったのです。明白なことは彼らの集まりは
彼らの普通の生活の延長線上にあったことです。
彼らは日常生活の合間に無理なく自然に集まった筈です。
(だから2,3人と言う数字はとても重要な意味を持つのです。)
また 今日の「日曜朝の礼拝」のような「メインの集会」と言うものは
あったのでしょうか。もしあるとすれば「パンを裂く集まり」が
それでしょう。しかしそれは、家々で行われたのです。また
より大きな集会として複数の家々の人々がより大きな1つの家に
集まってパンを裂いた記録はあります。いずれにしろ、
日常における彼らの集会所は彼らの家々であったことは明白です。
復活のキリストの表現としての当時のエクレシヤと集会の姿は
現今のキリスト教に見られるようなあり方とは全く
似ても似つかないものであった事は誰の目にも明らかです。
しかし、私達が決して看過出来ないポイントは その両者は 極端な対極に
さえ位置していると言う事実にあるのです。今日 大手を振ってまかり通って
いる「固定化現象」はどうでもよい問題ではなく、神と復活のキリストに
真っ向から対立する何物かである、と言うことです。
私達は今神の御前において これは極めて深刻な問題であると
言わなければならないでしょう。
☆
それでは「どう集まるべきか」と言う問題において
私達はそれとどう向き合えばよいのでしょう。それは単純です。
ただキリストに直行し、自分が「今日のキリスト」と一つにされている
と言う素晴らしい事実を信仰を用いて受け入れ、しっかりとそこに踏み留まる
以外にありません。ですから 当時の具体的な集会の様子を調べること
によりそれらを私達の集まり方に「取り入れる」と言うよりは、先ずは自分が
普段の生活の中で十字架を経過することによりキリストの復活を生き生きと
体験することが先決となるのです。
2千年前 御言葉が日々増し加わっていた頃 彼らを魅了して
やまなかったのは「キリスト者の集まり方」などではなく「あのお方」
「私の主」「復活の生けるキリスト御自身」であり またそのキリストを
内に持ちそのキリストが伸縮自在に、千変万化にそして神出鬼没に
行き交っている兄弟姉妹との交わり、そういう聖徒達と共に集まること、
正にそれ自体であった筈ですから。
アブラハム、イサク、ヤコブの神は、死んだ者の神ではなく、
生ける者、即ち「復活の中に生きる者」の神です。
神にとって「生きている」と言う意味は「復活の命に中に生かされている」
ということ以外ではあり得ないのです。(マタイ22の29から32)
キリストは決して古い着物や皮袋に合致することはありません。
伸縮自在の復活のキリストは常に 硬直した固定を「破り」「張り裂く」
ようにあなたの中で、そして集まりの中で作用するのです。
(マタイ9の16、17)それが固定を常に打破する復活のキリストであり、
またエクレシアの姿であり、彼らの交わりの実態であり、
キリスト者の集会の様なのです。
*神出鬼没のsugar 流解釈:キリストの十字架によって鬼は水没。
復活としてのキリストが出て来る。
2008年4月28日月曜日
神に依存し、人から独立する
「ついて行かないで交わる」の次は「神に依存し、人から独立する」です。
私達は表題とは逆に 実にたやすく
「見える人に依存し、見えない神から独立する」のです。
これが人の本姓です。そしてここにこそ総ての問題の根源があるのです。
しかしあるべき姿はそうではなく、個個人が人からは独立し、しっかりと
「神に依存する」ことです。もしもあなたが「神に依存すること」の意味を
知らず、それを体験的に学ぶこともなければ、必然的にあなたは
「人に粘着する」ことになるでしょう。そしてその人への粘着は
必ずある日 腐敗し悪臭を放つようになるのです。
しかしとても不思議なことなのですが 逆に
「神へ依存し、人からは独立すること」を堅く土台とするならば、
そこに初めてキリスト者達(複数の個人)のあるべき姿の集まりが
生え出て来、真の交わりが自然に花咲くのです。
「神への依存がどんなことかを知り、人には独立して決して隷属せず、しかし
いかなるキリスト者とも交わる態度を有する広い心を持つ人」の周辺にこそ
真に多くの人々を結び付け一つにする復活の命の自然な働きがなされる
のを いずれあなたは見ることが出来るでしょう。
☆
「神に依存する」「神に信頼する」とは「神を私の必要の総てとすること」
であり、その「神を私の必要の総てとすること」の最も素晴らしい姿は
「私と一つとなって下さったキリスト」の中に安息するキリスト者において
見出されます。そして神は既にキリストによって 正にそのことを
実現して下さったのです。 そして何とこの真の「神への依存」の中に
キリスト者の集まりの本質が隠されているのです。
キリストは断言されました(これは新約の一つの頂点を示す言葉です):
私が行って、あなた方に「場所」を備えたら、また来て、
あなた方を「私自身に」(原文)迎えます。「私のいる所」に、あなた方も
おらせるためです。(ヨハネ14の3)
この聖句の「私が行って」とはイエスが十字架に行くことであり、そして
「場所」も「私のいる所」も「私自身」即ち復活のキリスト御自身です。
そしてキリストは「その場所」即ち、復活の御自身そのものに「私達総て」を
既に迎えて下さっているのです。従って復活のキリスト御自身の中に
(in Christ,主の中に,主にあって)古今東西の総てのキリスト者の
交わり、集会の「場所」があることになります。
その場所にこそキリスト者の集まりの本質・原点があるのです。
キリスト者達が集まるべき場所、それはあそこでもここでもなく
唯キリストの中です。そしてあなたがその「場所」に留まる時に
あなたは最も素晴らしい姿で神に依存しているのです。
そして更に その場所(復活のキリスト)の中には時空を超えて
総てのキリスト者達が集っていると言えるのです。
要するに あなたが神に依存する場所が同時に
総てのキリスト者と共に集う場所でもあるのです。
復活のキリストの中には神への依存と
キリスト者達の完全な一つが共存しているのです。
ですから、例えば あなたがたった一人で山の中にいたとしても
あなが「その場所」に留まり安息するならば
あなたは神に依存しているのであり、また
あなたは46時中、時空を超えて総てのキリスト者と共に、
御父と御子イエスキリストとの交わりの中にいることになります。
その永遠の交わりこそ「完全な集まり」であり
そこにこそ集会の本質、実質が存在するのです。
これまでを要約すれば 集会の本質、原点とは:
その場所は礼拝堂などでなく「復活のキリスト御自身」であり、
その時間とは日曜日10時半から などではなく永遠、いつもであり、
集まりの目的は
良いメッセージを聞いて一時的に「聖なる」気分に浸ること等ではなく
御父、及び御子イエスキリストとの時空を超えた交わりであり、
また「その場所」にある総てのキリスト者との天的な交流なのです。
☆
だから当然 この永遠における集会・交わりが今時空に出現する
キリスト者の集会においても、それと全く同じ
原点、本質、実質がそこに存在していなければなりません。
従って先ずは 私達個個人が 上記の「永遠における交わり」の中に
いる必要があるのです。
もしそうでなければ
今この時間の中でいくら熱心に沢山のキリスト者が
良いメッセージを聞く為に集まったとしても、
それは交わりや集会の実質・本質に欠けることになるのです。
その実質のない集まりは単なる生まれながらの人間の
「粘着する魂の集合」に過ぎません。(そこからはいずれ異質な
何ものかが必ず出現して来ます)それは 決して
聖書で言う「交わり」でも真のキリスト者の集まりでもないのです。
従って あなたがその目に見えない永遠の交わりの実際を今持つこと無しに
目に見える時空の中の交わりを持つことはあり得ないのです。
それ故 総ての事の初めに私達は 集まりの原点は目に見えない所、
即ち霊の永遠の領域・キリストの復活の中にあることを
私達の霊の中で明瞭に見る必要があるのです。何故なら
今ある「目に見える交わり」と言うのは
単に「永遠における原型としての交わり」が時空の中へと
再現、或いは投影されたものに過ぎないからです。
*
「私の言うことを信じなさい。あなた方が父を礼拝するのは、この山でもなく、
エルサレム(目に見える物質的なもの)でもない、そういう時が来ます。・・・
神は霊ですから(神は時空を超えた霊であるから)神を礼拝する者は、
霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4の21、24)
「私達の交わりとは、御父および御子イエスキリストとの交わりです。」
(Ⅰヨハネ1の3)
「私達は見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
(Ⅱコリント4の18)
「父よ、あなたが私におられ、私があなたにいるように、彼らが皆一つとなる
為です。また、彼らも私達におるようになるためです。」(ヨハネ17の21)
「父よ。お願いします。あなたが私に下さったもの(総てのキリスト者)を
私のいる所に私と一緒におらせてください。」(ヨハネ17の24)
「私に留まりなさい。」(ヨハネ15の4)
私達は表題とは逆に 実にたやすく
「見える人に依存し、見えない神から独立する」のです。
これが人の本姓です。そしてここにこそ総ての問題の根源があるのです。
しかしあるべき姿はそうではなく、個個人が人からは独立し、しっかりと
「神に依存する」ことです。もしもあなたが「神に依存すること」の意味を
知らず、それを体験的に学ぶこともなければ、必然的にあなたは
「人に粘着する」ことになるでしょう。そしてその人への粘着は
必ずある日 腐敗し悪臭を放つようになるのです。
しかしとても不思議なことなのですが 逆に
「神へ依存し、人からは独立すること」を堅く土台とするならば、
そこに初めてキリスト者達(複数の個人)のあるべき姿の集まりが
生え出て来、真の交わりが自然に花咲くのです。
「神への依存がどんなことかを知り、人には独立して決して隷属せず、しかし
いかなるキリスト者とも交わる態度を有する広い心を持つ人」の周辺にこそ
真に多くの人々を結び付け一つにする復活の命の自然な働きがなされる
のを いずれあなたは見ることが出来るでしょう。
☆
「神に依存する」「神に信頼する」とは「神を私の必要の総てとすること」
であり、その「神を私の必要の総てとすること」の最も素晴らしい姿は
「私と一つとなって下さったキリスト」の中に安息するキリスト者において
見出されます。そして神は既にキリストによって 正にそのことを
実現して下さったのです。 そして何とこの真の「神への依存」の中に
キリスト者の集まりの本質が隠されているのです。
キリストは断言されました(これは新約の一つの頂点を示す言葉です):
私が行って、あなた方に「場所」を備えたら、また来て、
あなた方を「私自身に」(原文)迎えます。「私のいる所」に、あなた方も
おらせるためです。(ヨハネ14の3)
この聖句の「私が行って」とはイエスが十字架に行くことであり、そして
「場所」も「私のいる所」も「私自身」即ち復活のキリスト御自身です。
そしてキリストは「その場所」即ち、復活の御自身そのものに「私達総て」を
既に迎えて下さっているのです。従って復活のキリスト御自身の中に
(in Christ,主の中に,主にあって)古今東西の総てのキリスト者の
交わり、集会の「場所」があることになります。
その場所にこそキリスト者の集まりの本質・原点があるのです。
キリスト者達が集まるべき場所、それはあそこでもここでもなく
唯キリストの中です。そしてあなたがその「場所」に留まる時に
あなたは最も素晴らしい姿で神に依存しているのです。
そして更に その場所(復活のキリスト)の中には時空を超えて
総てのキリスト者達が集っていると言えるのです。
要するに あなたが神に依存する場所が同時に
総てのキリスト者と共に集う場所でもあるのです。
復活のキリストの中には神への依存と
キリスト者達の完全な一つが共存しているのです。
ですから、例えば あなたがたった一人で山の中にいたとしても
あなが「その場所」に留まり安息するならば
あなたは神に依存しているのであり、また
あなたは46時中、時空を超えて総てのキリスト者と共に、
御父と御子イエスキリストとの交わりの中にいることになります。
その永遠の交わりこそ「完全な集まり」であり
そこにこそ集会の本質、実質が存在するのです。
これまでを要約すれば 集会の本質、原点とは:
その場所は礼拝堂などでなく「復活のキリスト御自身」であり、
その時間とは日曜日10時半から などではなく永遠、いつもであり、
集まりの目的は
良いメッセージを聞いて一時的に「聖なる」気分に浸ること等ではなく
御父、及び御子イエスキリストとの時空を超えた交わりであり、
また「その場所」にある総てのキリスト者との天的な交流なのです。
☆
だから当然 この永遠における集会・交わりが今時空に出現する
キリスト者の集会においても、それと全く同じ
原点、本質、実質がそこに存在していなければなりません。
従って先ずは 私達個個人が 上記の「永遠における交わり」の中に
いる必要があるのです。
もしそうでなければ
今この時間の中でいくら熱心に沢山のキリスト者が
良いメッセージを聞く為に集まったとしても、
それは交わりや集会の実質・本質に欠けることになるのです。
その実質のない集まりは単なる生まれながらの人間の
「粘着する魂の集合」に過ぎません。(そこからはいずれ異質な
何ものかが必ず出現して来ます)それは 決して
聖書で言う「交わり」でも真のキリスト者の集まりでもないのです。
従って あなたがその目に見えない永遠の交わりの実際を今持つこと無しに
目に見える時空の中の交わりを持つことはあり得ないのです。
それ故 総ての事の初めに私達は 集まりの原点は目に見えない所、
即ち霊の永遠の領域・キリストの復活の中にあることを
私達の霊の中で明瞭に見る必要があるのです。何故なら
今ある「目に見える交わり」と言うのは
単に「永遠における原型としての交わり」が時空の中へと
再現、或いは投影されたものに過ぎないからです。
*
「私の言うことを信じなさい。あなた方が父を礼拝するのは、この山でもなく、
エルサレム(目に見える物質的なもの)でもない、そういう時が来ます。・・・
神は霊ですから(神は時空を超えた霊であるから)神を礼拝する者は、
霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4の21、24)
「私達の交わりとは、御父および御子イエスキリストとの交わりです。」
(Ⅰヨハネ1の3)
「私達は見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
(Ⅱコリント4の18)
「父よ、あなたが私におられ、私があなたにいるように、彼らが皆一つとなる
為です。また、彼らも私達におるようになるためです。」(ヨハネ17の21)
「父よ。お願いします。あなたが私に下さったもの(総てのキリスト者)を
私のいる所に私と一緒におらせてください。」(ヨハネ17の24)
「私に留まりなさい。」(ヨハネ15の4)
2008年4月26日土曜日
「ついて行く」のでなく「交わる」
キリスト者がついて行くのはただキリストお一人です。
この原則は絶対的に重要です。
そしてキリスト者が交わるべきは「総ての兄弟姉妹」です。
あなたはいかなるキリスト者にもについて行ってはなりません。
しかし、彼との交わりは遮断してはならないのです。
ついて行かないで彼と交わるのです。彼と対等に交わるのです。
この原則を乱したのは神の敵です。いつの間にかキリスト者達は
人と交わらずに、人について行くようになってしまいました。
そのようにして「交わりとは何か」の真の知識と経験をキリスト者は
見失しなってしまったのです。この様な風潮の中では人は 先ず、
それぞれ自分の好みに従って自分がついて行けそうな人を品定め吟味し、
そして最後に決定するのです。この作業が終わればあとは楽です。
後はその人について行くだけですから。
(その「楽さかげん」の中にはキリストの死と復活の学びなど
あるはずがありません。従って真の交わりもありません。)
しかし「人が人についてゆく」世界、これは大変です。
もしもそれを安定的に持続しようとするならば
①強固な「宗教セット」と「人の一生丸抱え体制」を構築するか
②強固なカリスマ性のもとに人々の上に強固な宗教的権威を発揮する
以外にありません。
もしも①の強固な体制を築き上げてしまえば たとえリーダーが多少
いい加減であったとしてもそこにある体制が人の散逸を防いでくれます。
ここに例えば「サンデーモーニング礼拝絶対噂守思想」等が
生まれるのです。その場合最も大切なのは神でもリーダーでもなく
「礼拝を守ること」です。だから「自分の信者さん達」を散逸から守ろうと
するならば「儀式セット」と「人の一生丸抱え体制」は不可欠なのです。
しかし強固な宗教セットは聖書的でないと判断する人達であれば、後は
強固なカリスマ性のもとに人を恐れさせさえする絶対的な宗教的権威を
導入しなければなりません。その場合 彼らのリーダーに従うことが
イコール神に従うことになります。この場合リーダーは一人ですが、
その一人がいなくなった場合でも その権威を受け継いだ複数の人たちの
グループによっても持続可能です。(しかし弱体化は避けられないでしょう)
このケースにおいては「私達だけが聖書的で正しく純粋なグループである」
と言う信念と誇りが効果的に信者達の散逸を防御する機能を発揮します。
さて以上の2つの方法とも神の方法ではないと退ける人達の場合は
どうでしょうか。 それ以外の方法で人々の散逸を防御する方法が
あり得るでしょうか。それは相当難しいのです。結論から言うとありません。
しかしある人は言うでしょう。上の①②が無いとしても「もしも一人の人が
聖書的で賜物豊かな魅力あるメッセージが出来さえすれば 多くの人々を
引き付けることが出来 大きな集団でさえ維持出来るのではないか」と。
しかしこの方法を取る人たちは実は大変です。なぜならこの場合
どうしても人々の視線の方向が その一人の人に集中するからです。
そして、人々は当然その人の人格に信頼するが故に自然に
その人の言うことに ついて行こうとするからです。
これらを防ぐてだては全くありません。
彼は宗教セットや絶対的権威の使用は出来ません。だから彼は
言わば丸腰で勝負するしかないのです。彼が持つ武器、それは
「彼のメッセージと彼と言う人」だけです。従って人々は
彼の思惑など省みず 正にその2点・彼のメッセージと人格に
総ての注意を集中させてしまうのです。
しかしながら 元々このような人々の篤い視線の集中に
耐えられる人は存在しません。人はあくまでも人です。
人の内面の本質は腐敗と死と虚偽です。早晩必ずある日
何らかの事態の中で その人の真の内面の一部がしみ出し、
暴露される時が来ます。その時、その人の周りに集まっていた人々は
落胆しその集団は崩壊に向かうことになるのです。
少なくも多くの人々は彼のもとから離れて行くでしょう。
だから「1人の人の周りに良いメッセージを聞こうとして人が集まる
と言う構造」には 彼が①か②を採用しない限り
初めから無理があるのです。
新約聖書には ①と②は言うに及ばず、とても素晴らしく見える
この第3のケースでさえも(実際には①②③の巧みな混合が見られる)
それを擁護する箇所はどこにも見出されません。そういう模範は
無いのです。聖書はひたすら「極めて明確かつ確固とした力強い
ただ一人のリーダーを神は絶対的に定められた」と主張するのです。
そしてその一人のお方こそがキリストです。神の目から見れば
「リーダー・キリストがそこに あなたのすぐそばにおられる」のです。
これが神の定めであるが故に 神とキリストはこの定めを無視し
「現にそこにあるキリストの実際的効果的強力なカバーリングと導き」を
現実には無いかのごとく無視する人々を許すことは絶対に出来ないのです。
問題の所在はひとえに「人について行く」にあります。キリスト者達の間で
そこにあるべき唯一のものは「交わり」であってメッセージではありません。
私達は 人について行くのではなく 唯彼と交わるのです。
このことが真に分かっている人であるならば「リーダーとおぼしき人」が
ある日、どんな状態に陥ったとしても彼を憐れみこそすれ つまずくことなど
あり得ないのです。なぜなら彼は人とは初めからそういうものに過ぎない
ことを知っているし、現実的に彼の真のリーダーは唯キリストだけであり
他の導き手など全く不必要であるからです。その人は初めから
あなたが従うべき人などではなく
あなたが対等に交わるべき人に過ぎなかったのです。
☆
さて「真の交わり」が存在するところにだけ、実際的なキリストが出現する
可能性があります。そして「生けるキリストがキリスト者間の交わりから真に
現れる」ならばそこにこそ キリスト者間の自然で美しい「服従」でさえ
生み出て来るのです。それこそはキリストの復活の命から生え出てきた
服従です。これは夢物語などでは決してありません。もしもその様な
「交わり」を私達が知り学び、実際的に体験することがないとするならば、
私達に前途は全く無いと言ってもよいでしょう。
もう一度言います。私達は決して人について行くのではなく、
ただ人と交わるのです。
*「交わり」はお話し合いではありません。
ましてや会議、討論、説得、対決ではありません。
*次回は実際面を「交わり」ます。
この原則は絶対的に重要です。
そしてキリスト者が交わるべきは「総ての兄弟姉妹」です。
あなたはいかなるキリスト者にもについて行ってはなりません。
しかし、彼との交わりは遮断してはならないのです。
ついて行かないで彼と交わるのです。彼と対等に交わるのです。
この原則を乱したのは神の敵です。いつの間にかキリスト者達は
人と交わらずに、人について行くようになってしまいました。
そのようにして「交わりとは何か」の真の知識と経験をキリスト者は
見失しなってしまったのです。この様な風潮の中では人は 先ず、
それぞれ自分の好みに従って自分がついて行けそうな人を品定め吟味し、
そして最後に決定するのです。この作業が終わればあとは楽です。
後はその人について行くだけですから。
(その「楽さかげん」の中にはキリストの死と復活の学びなど
あるはずがありません。従って真の交わりもありません。)
しかし「人が人についてゆく」世界、これは大変です。
もしもそれを安定的に持続しようとするならば
①強固な「宗教セット」と「人の一生丸抱え体制」を構築するか
②強固なカリスマ性のもとに人々の上に強固な宗教的権威を発揮する
以外にありません。
もしも①の強固な体制を築き上げてしまえば たとえリーダーが多少
いい加減であったとしてもそこにある体制が人の散逸を防いでくれます。
ここに例えば「サンデーモーニング礼拝絶対噂守思想」等が
生まれるのです。その場合最も大切なのは神でもリーダーでもなく
「礼拝を守ること」です。だから「自分の信者さん達」を散逸から守ろうと
するならば「儀式セット」と「人の一生丸抱え体制」は不可欠なのです。
しかし強固な宗教セットは聖書的でないと判断する人達であれば、後は
強固なカリスマ性のもとに人を恐れさせさえする絶対的な宗教的権威を
導入しなければなりません。その場合 彼らのリーダーに従うことが
イコール神に従うことになります。この場合リーダーは一人ですが、
その一人がいなくなった場合でも その権威を受け継いだ複数の人たちの
グループによっても持続可能です。(しかし弱体化は避けられないでしょう)
このケースにおいては「私達だけが聖書的で正しく純粋なグループである」
と言う信念と誇りが効果的に信者達の散逸を防御する機能を発揮します。
さて以上の2つの方法とも神の方法ではないと退ける人達の場合は
どうでしょうか。 それ以外の方法で人々の散逸を防御する方法が
あり得るでしょうか。それは相当難しいのです。結論から言うとありません。
しかしある人は言うでしょう。上の①②が無いとしても「もしも一人の人が
聖書的で賜物豊かな魅力あるメッセージが出来さえすれば 多くの人々を
引き付けることが出来 大きな集団でさえ維持出来るのではないか」と。
しかしこの方法を取る人たちは実は大変です。なぜならこの場合
どうしても人々の視線の方向が その一人の人に集中するからです。
そして、人々は当然その人の人格に信頼するが故に自然に
その人の言うことに ついて行こうとするからです。
これらを防ぐてだては全くありません。
彼は宗教セットや絶対的権威の使用は出来ません。だから彼は
言わば丸腰で勝負するしかないのです。彼が持つ武器、それは
「彼のメッセージと彼と言う人」だけです。従って人々は
彼の思惑など省みず 正にその2点・彼のメッセージと人格に
総ての注意を集中させてしまうのです。
しかしながら 元々このような人々の篤い視線の集中に
耐えられる人は存在しません。人はあくまでも人です。
人の内面の本質は腐敗と死と虚偽です。早晩必ずある日
何らかの事態の中で その人の真の内面の一部がしみ出し、
暴露される時が来ます。その時、その人の周りに集まっていた人々は
落胆しその集団は崩壊に向かうことになるのです。
少なくも多くの人々は彼のもとから離れて行くでしょう。
だから「1人の人の周りに良いメッセージを聞こうとして人が集まる
と言う構造」には 彼が①か②を採用しない限り
初めから無理があるのです。
新約聖書には ①と②は言うに及ばず、とても素晴らしく見える
この第3のケースでさえも(実際には①②③の巧みな混合が見られる)
それを擁護する箇所はどこにも見出されません。そういう模範は
無いのです。聖書はひたすら「極めて明確かつ確固とした力強い
ただ一人のリーダーを神は絶対的に定められた」と主張するのです。
そしてその一人のお方こそがキリストです。神の目から見れば
「リーダー・キリストがそこに あなたのすぐそばにおられる」のです。
これが神の定めであるが故に 神とキリストはこの定めを無視し
「現にそこにあるキリストの実際的効果的強力なカバーリングと導き」を
現実には無いかのごとく無視する人々を許すことは絶対に出来ないのです。
問題の所在はひとえに「人について行く」にあります。キリスト者達の間で
そこにあるべき唯一のものは「交わり」であってメッセージではありません。
私達は 人について行くのではなく 唯彼と交わるのです。
このことが真に分かっている人であるならば「リーダーとおぼしき人」が
ある日、どんな状態に陥ったとしても彼を憐れみこそすれ つまずくことなど
あり得ないのです。なぜなら彼は人とは初めからそういうものに過ぎない
ことを知っているし、現実的に彼の真のリーダーは唯キリストだけであり
他の導き手など全く不必要であるからです。その人は初めから
あなたが従うべき人などではなく
あなたが対等に交わるべき人に過ぎなかったのです。
☆
さて「真の交わり」が存在するところにだけ、実際的なキリストが出現する
可能性があります。そして「生けるキリストがキリスト者間の交わりから真に
現れる」ならばそこにこそ キリスト者間の自然で美しい「服従」でさえ
生み出て来るのです。それこそはキリストの復活の命から生え出てきた
服従です。これは夢物語などでは決してありません。もしもその様な
「交わり」を私達が知り学び、実際的に体験することがないとするならば、
私達に前途は全く無いと言ってもよいでしょう。
もう一度言います。私達は決して人について行くのではなく、
ただ人と交わるのです。
*「交わり」はお話し合いではありません。
ましてや会議、討論、説得、対決ではありません。
*次回は実際面を「交わり」ます。
2008年4月17日木曜日
明日は旅
また一日かけてのんびりと坂東太郎の我が家に向かいます。
小屋へ戻るのは28日頃になるでしょうか。
今回は下でどんなことがあるのでしょう。
とにかく私自身はゆったり構えていたい。
ただ「キリストの中に留まること」では怠りなく、ですね。
その様にして、キリストの復活の力を
私はかたわらに立って見ていたいのです。
きのう、2つの地下部屋工事に取り掛かったのですが、家全体の
仕上げ工事をする前にやっておきたい工事をそれとなく挙げて見たら、
あるはあるは その工事の多さに改めてびっくりしたのです。
(私は欲張りなのかな)
何とこの地下部屋工事以外に今気がつくだけでも・・
・一階の物入れを撤去してそこにダイニングスペースを作る。
・その撤去した物入れを 和室の隣に移動する。
・和室のそと 東の軒の雨じまい工事。(足場をしっかりと組まないと)
・和室東の壁に明り取り窓を作る。
・ロフトデッキの床の張替え。
・ロフトのデッキのベンチを仕上げ、ロフトデッキ全体を完成する。
・南デッキに大きな橋をかける。
・南東デッキを拡大しコーヒースペースを作る。
・バーベキュースペース新設工事。
・露天風呂新設工事・・等々なのです。
これでは、仕上げの白い漆喰の壁工事や仕上げの床張り工事なんて全く
いつになることやら、ですね。
*坂東太郎とは利根川のことだそうです。
小屋へ戻るのは28日頃になるでしょうか。
今回は下でどんなことがあるのでしょう。
とにかく私自身はゆったり構えていたい。
ただ「キリストの中に留まること」では怠りなく、ですね。
その様にして、キリストの復活の力を
私はかたわらに立って見ていたいのです。
きのう、2つの地下部屋工事に取り掛かったのですが、家全体の
仕上げ工事をする前にやっておきたい工事をそれとなく挙げて見たら、
あるはあるは その工事の多さに改めてびっくりしたのです。
(私は欲張りなのかな)
何とこの地下部屋工事以外に今気がつくだけでも・・
・一階の物入れを撤去してそこにダイニングスペースを作る。
・その撤去した物入れを 和室の隣に移動する。
・和室のそと 東の軒の雨じまい工事。(足場をしっかりと組まないと)
・和室東の壁に明り取り窓を作る。
・ロフトデッキの床の張替え。
・ロフトのデッキのベンチを仕上げ、ロフトデッキ全体を完成する。
・南デッキに大きな橋をかける。
・南東デッキを拡大しコーヒースペースを作る。
・バーベキュースペース新設工事。
・露天風呂新設工事・・等々なのです。
これでは、仕上げの白い漆喰の壁工事や仕上げの床張り工事なんて全く
いつになることやら、ですね。
*坂東太郎とは利根川のことだそうです。
2008年4月16日水曜日
今日はコメリです
のどかな4月のカリマンの朝、陽光に林が白く輝いています。
昨日、南東デッキの壁に この間龍ヶ崎のハードオフで500円で
買って来たアイスクリームショップの看板をはり付けて見ました。
ウン、悪くない。
南東デッキはコーヒーコーナーにすればいいのかな。
さて作業、リビングの一角にダイニングスペースを作ろうかとも
思ったのですが、それは後まわし。先ずはやっぱり地下部屋です。
で今日、コメリに安い2バイ4を沢山買いに行くことになるでしょう。
とにかく毎日、体を動かし作業をすること。
そうすれば、いつかは完成するのだから。やはり怠けてはいけないのだ。
*
下の写真はデッキにはる前のアイスクリームの看板(左)
右側のコーヒーの看板は地下室の入り口にでも飾ったら似合うかな。

今 神がことを始めておられる、と信じます。私達はただそれに乗るだけ。
「仮にもしもそうでなければ」と思うと気が遠くなる。
そんな大変なシンドイ生き方、そんな不確かな人生は送りたくありません。
自分で考えたくない、働きたくない。これが超怠け者・私の生き方なのです。
昨日、南東デッキの壁に この間龍ヶ崎のハードオフで500円で
買って来たアイスクリームショップの看板をはり付けて見ました。
ウン、悪くない。
南東デッキはコーヒーコーナーにすればいいのかな。
さて作業、リビングの一角にダイニングスペースを作ろうかとも
思ったのですが、それは後まわし。先ずはやっぱり地下部屋です。
で今日、コメリに安い2バイ4を沢山買いに行くことになるでしょう。
とにかく毎日、体を動かし作業をすること。
そうすれば、いつかは完成するのだから。やはり怠けてはいけないのだ。
*
下の写真はデッキにはる前のアイスクリームの看板(左)
右側のコーヒーの看板は地下室の入り口にでも飾ったら似合うかな。

今 神がことを始めておられる、と信じます。私達はただそれに乗るだけ。
「仮にもしもそうでなければ」と思うと気が遠くなる。
そんな大変なシンドイ生き方、そんな不確かな人生は送りたくありません。
自分で考えたくない、働きたくない。これが超怠け者・私の生き方なのです。
2008年4月14日月曜日
下山は18日です
すみません、間違いました。山を下りるのは18日です。
やはり疲れていたのかな。そのせいか昨晩はぐっすりと眠りました。
さあ、これからいよいよ貴重な中4日の始まりです。
何をしましょうか。やはりケンやジュンが来ることに備えて
地下に2つの個室を作る作業でしょうか。それともその他の
大工仕事でしょうか。この春 来客の予定もあるので その準備も
ありますね。
☆
今確かに主も働いておられます。人を通し人を用いて 神がこの地上で
ことをなさるとは!その神の作業の原則は唯一「死と復活」。
今考えていることは
「主と共に御座に着かせられている」と言う意味。これは
沢山いるキリスト者が窮屈にも一つの御座(椅子)にぎゅうぎゅう
座らせられている、のではない筈です。だからここでもキリスト者と
キリストの完全な一つが前提となっているのです。
キリストとの一つ:これが曖昧ならばどんな前進も無いでしょう。
だから、大切なのは①キリストとの一つ ②死 ③復活ということに
なります。これ以外はどんなものでも大して価値はありません。
仮にあったとしてもそれは一時的、
敢えて言うならば瞬間的。
やはり疲れていたのかな。そのせいか昨晩はぐっすりと眠りました。
さあ、これからいよいよ貴重な中4日の始まりです。
何をしましょうか。やはりケンやジュンが来ることに備えて
地下に2つの個室を作る作業でしょうか。それともその他の
大工仕事でしょうか。この春 来客の予定もあるので その準備も
ありますね。
☆
今確かに主も働いておられます。人を通し人を用いて 神がこの地上で
ことをなさるとは!その神の作業の原則は唯一「死と復活」。
今考えていることは
「主と共に御座に着かせられている」と言う意味。これは
沢山いるキリスト者が窮屈にも一つの御座(椅子)にぎゅうぎゅう
座らせられている、のではない筈です。だからここでもキリスト者と
キリストの完全な一つが前提となっているのです。
キリストとの一つ:これが曖昧ならばどんな前進も無いでしょう。
だから、大切なのは①キリストとの一つ ②死 ③復活ということに
なります。これ以外はどんなものでも大して価値はありません。
仮にあったとしてもそれは一時的、
敢えて言うならば瞬間的。
2008年4月13日日曜日
暫くぶりの小屋です
外はもう真っ暗。
春の雨が静かに小屋のトタン屋根に落ちています。
途中のいわきや小名浜が桜の満開でした。
だからここの桜はまだまだずっと先なのです。
でもさっきラジオを聞いていたら、隣の三春町の
有名な「滝桜」がチラホラ開花し始めたそうですよ。
ここは三春よりもずっと標高が高いから。
そうそう、夏井川渓谷の有名な岩つつじが岸壁に鮮やかでした。
でも脇を通る電車がこの季節、一時停止をしてくれると言うのは
本当かな。
さっき無事 小屋についてヤレヤレと、玄米茶をわかして
いわきで買ってきた寿司を一人食する。その時の主との交わりは
なかなかのものでした。何でしょうね、こういう楽しさと言うのは。
しみじみとした幸福感が体を包むと言った感じでしょうか。
この小屋の雰囲気、やはり何かがあるのかも知れません。
25日には山を下ります。今回、わずか中4日の山暮らしです。
春の雨が静かに小屋のトタン屋根に落ちています。
途中のいわきや小名浜が桜の満開でした。
だからここの桜はまだまだずっと先なのです。
でもさっきラジオを聞いていたら、隣の三春町の
有名な「滝桜」がチラホラ開花し始めたそうですよ。
ここは三春よりもずっと標高が高いから。
そうそう、夏井川渓谷の有名な岩つつじが岸壁に鮮やかでした。
でも脇を通る電車がこの季節、一時停止をしてくれると言うのは
本当かな。
さっき無事 小屋についてヤレヤレと、玄米茶をわかして
いわきで買ってきた寿司を一人食する。その時の主との交わりは
なかなかのものでした。何でしょうね、こういう楽しさと言うのは。
しみじみとした幸福感が体を包むと言った感じでしょうか。
この小屋の雰囲気、やはり何かがあるのかも知れません。
25日には山を下ります。今回、わずか中4日の山暮らしです。
2008年4月7日月曜日
近況、山を想う
家族の必要の為、まだ下におります。
山帰りは14日あたりでしょうか。
今利根川のほとりで
あの匂い立つ阿武隈の遅い春を思っています。
その値千金の日々に 山にいないのは惜しい、確かに惜しい。
ましかし、あわてて山に帰ることもないではないか、と。
(ただこの春に小屋に来てくれる方々の為の準備はいるわけですが。)
とにかく人生 アタフタすることは無い。
アタフタするのは まだ自分には「望み見たいなもの」がある
などと思っているからではないのか。
私はもう、
バプテスマをしてしまった身なれば、もう墓に埋葬され済み。(ロマ6の4)
何をあくせく明日をのみ思い煩う。
☆
あなたのメールに接し、厳粛なものを感じさせられました。
これからとても大切な重い時間を経過して行くのかもしれません。
確かに言えることは 主の動くことの無い真実さ。
ただ問われるのは 私達の真実。
山帰りは14日あたりでしょうか。
今利根川のほとりで
あの匂い立つ阿武隈の遅い春を思っています。
その値千金の日々に 山にいないのは惜しい、確かに惜しい。
ましかし、あわてて山に帰ることもないではないか、と。
(ただこの春に小屋に来てくれる方々の為の準備はいるわけですが。)
とにかく人生 アタフタすることは無い。
アタフタするのは まだ自分には「望み見たいなもの」がある
などと思っているからではないのか。
私はもう、
バプテスマをしてしまった身なれば、もう墓に埋葬され済み。(ロマ6の4)
何をあくせく明日をのみ思い煩う。
☆
あなたのメールに接し、厳粛なものを感じさせられました。
これからとても大切な重い時間を経過して行くのかもしれません。
確かに言えることは 主の動くことの無い真実さ。
ただ問われるのは 私達の真実。
2008年3月22日土曜日
キリストの給食と渡海から
Ⅰ給食と渡海に見る一つの意図
・第1回目の給食は5千人に対するもので、食べた余りは12のカゴを
一杯に満たし、第2回目は4千人で、余りは7つのカゴに一杯になった。
・第1回目の渡海でイエスは眠られ、第二回目では先ず弟子達だけを
船出させ後にイエスが海上を歩行され 弟子達の乗った小船に同船された。
・実は意外にも この2つの出来事は一つなのであり、その背後には
一つの明確なある意図が隠されているのである。それはマルコ6の51、
52の記述においても暗示されている。
Ⅱキリストとはどの様に見るべきお方なのか
つごう4回にも渡るこの出来事と、その周辺に関する福音書の
記述において 私達は「弟子達(キリスト者)が適切かつ十分にキリストの
真の姿を見、そして唯そのキリストのみを信じるように」との 彼の
「痛いほどの希求」とを感じないわけには行かないのではなかろうか。
さてそれでは 人はどのようにキリストを見るべきなのか。
一 邪悪な見方
それは「キリストに似て非なるもの」を構築する人の宗教性において見られ
「大きな木」マルコ4の30~32、と「パン種の入ったパン」8の14、15
等に象徴されている。イエス(聖書)はこの一連の期間、特に
このパン種に「執拗に」言及しておられることは注目に値する。
a スタイルだけの礼拝:マルコ5の6、7の7
b 一見キリストを探してしているようだが、その実
人間的欲望から即物的な益を求める:ヨハネ6の26、27
c 天からのしるしを求める:マルコ8の11
二 不十分な見方
a 「神の力を引き出すのは唯信仰だけである」ことを知らないので
平気で 神に代わって、自分で神の業をおこなおうとする:ヨハネ6の28
*このa は文脈からすると上の一、
「邪悪な見方」に該当するものかも知れない。
b 単にキリストを超人か驚くべき人であると見る:マルコ6の51、52
三 神の啓示による見方
a
啓示によってイエスの中に神の子・キリストを見る:
キリストの本質は、実は神の啓示によってしか見ることが出来ない。
マルコ8の29、マタイ16の15~19
b
復活の中の時空を越えた無限なるお方、そして
神と人の必要の総てとしてのキリスト・イエスを見 信じる。
c
更にその「今日のキリスト」と自分が一つである事を知り、信じ、
その「今 天地にあるキリストの中のその交わり」にあずかる。
*このb とc は次に見るようにこの給食と渡海と言う
2つの出来事の全体に示唆されている、と言える。
Ⅲ給食に見るキリストの無限性、永遠性、復活性
a
イエスはしきりに給食の余りでさえ12カゴと7カゴもあったことを
強調された。12と7は永遠の完成と完全を意味する。
即ち 給食の残余、こぼれ落ちたパンくずでさえ(或いはこぼれ落ちた
パン屑であればこそ)無限なのである。
b
実はキリストは 人から彼の手に渡された数個のパンと魚が
仮に無かったとしても、人々への無限の給食が可能であったことを、
せめて弟子達には分かって欲しかったのである。
(しかしある真理啓示の必要の為 敢えて人を介された)
c
後ほど間もなく、特にヨハネ福音書において見られるように、強力で
過酷な反対する雰囲気にもかかわらず(これが遂にはイエスを十字架に
つけずにはおかない死と暗闇のエネルギーへと増大して行くのであるが)
彼は果敢に「真のパン」とは、実は御自身であることを断言された。
確かにキリストの復活以後2千年間 キリストと言うパンを食して
満たされた人は無数に存在したし、これからも永遠に存在するであろう。
Ⅳ渡海に見るキリストの無限性、永遠性、復活性
a
時は夕方、即ちこの時代の終局であり、すぐに夜に突入して行く。
b
イエスの目的は明確だった。それは対岸、つまり王国の全き表現の
段階に到達することであった。
だから、対岸に到着するや、悪鬼の追い出しと癒しとがあった。
それらは王国顕現時代の特徴である。
c
従って私達はキリストの小船に乗りさえすればよい。
そうすれば私達は自ずと神の御心の中にいることになる。
しかしキリストの小船とは今日どこにあるのだろうか。
それは「復活のキリストと言う範囲」の中に、である。
d
あなたが「今日のキリスト、と言う範囲」におりさえすれば
時空のいかなる場面にいるとしても、あなたはキリストの中に存在し、
あなたの中にキリストが生きられ、そしてあなたは総ての聖徒達との
交わりの中にさえいることになる。従って、
単に時空の中にある肉の目に写る状況によって左右されてはならない。
復活のキリストとは今日明確な「一つの範囲」であり、もしあなたが
その中にいるならば、たとえイエスがこの時空の中で一見船の中におられず
①彼が 山の上におられようと
②群集を解散させておられようと
③海の上を歩いておられようと
④眠っておられようと、全く同じである。何故なら今
彼は時空を超えられた天地にある今日のキリストであるのだから。
e
我々はこのキリストと今 一つであることを覚え、
今「キリストと言う範囲」にいると言う信仰を働かせるべきである。
①先ず私は今キリストと共に山(最も高い場所、御座)にいると信じよう。
そのようにして、時空の中にある総ては私達の足の下にあることになる。
②だから私達は群集(人々)の間でも適切に麗しくさえ行動できるであろう。
たとえ人々がそれをイエスの奇跡だとは気づかないとしても、私達の故に
彼らがあるレベルにおけるイエスの恩恵に預かることさえ可能なのである。
③海とは(陸と違い)サタンの死の力の中に横たわっており、
その死と虚偽の力によって汚染され尽くされているこの世界を意味する。
それは完全に死の水の中である。しかし もしもキリストと一つ
であるならば、私達もその死の世界の上を悠々と歩行できる筈である。
④イエスは父の御心に従い父に信頼していた。だから彼は必ず向こう岸に
到達することを確信していたが故に、どんな状況の中でも安眠することが
出来たのである。私達もそのキリストと一つであるならば、たとえ船が
沈みそうに見えたとしても 母親の胸に安息する赤ちゃんのように
安らかに眠るであろう。なぜなら、私達も神の御心の只中にいるのだから。
*
結論として私達は、
給食においては:私達の命、生活、人生(LIFE)における無限の供給
としてのキリストご自身を見、
渡海においては:私達の目指すべき目的に到達する為の総て としての
復活と永遠であられるキリストを見るのである。
この実際的「実用的な」復活のイエスとの一つの中で私達は
サドカイ人のようにトンでもない思い違いをすることなく
聖書と神の力を真に知って行くべきなのではなかろうか。(マタイ22の29)
・第1回目の給食は5千人に対するもので、食べた余りは12のカゴを
一杯に満たし、第2回目は4千人で、余りは7つのカゴに一杯になった。
・第1回目の渡海でイエスは眠られ、第二回目では先ず弟子達だけを
船出させ後にイエスが海上を歩行され 弟子達の乗った小船に同船された。
・実は意外にも この2つの出来事は一つなのであり、その背後には
一つの明確なある意図が隠されているのである。それはマルコ6の51、
52の記述においても暗示されている。
Ⅱキリストとはどの様に見るべきお方なのか
つごう4回にも渡るこの出来事と、その周辺に関する福音書の
記述において 私達は「弟子達(キリスト者)が適切かつ十分にキリストの
真の姿を見、そして唯そのキリストのみを信じるように」との 彼の
「痛いほどの希求」とを感じないわけには行かないのではなかろうか。
さてそれでは 人はどのようにキリストを見るべきなのか。
一 邪悪な見方
それは「キリストに似て非なるもの」を構築する人の宗教性において見られ
「大きな木」マルコ4の30~32、と「パン種の入ったパン」8の14、15
等に象徴されている。イエス(聖書)はこの一連の期間、特に
このパン種に「執拗に」言及しておられることは注目に値する。
a スタイルだけの礼拝:マルコ5の6、7の7
b 一見キリストを探してしているようだが、その実
人間的欲望から即物的な益を求める:ヨハネ6の26、27
c 天からのしるしを求める:マルコ8の11
二 不十分な見方
a 「神の力を引き出すのは唯信仰だけである」ことを知らないので
平気で 神に代わって、自分で神の業をおこなおうとする:ヨハネ6の28
*このa は文脈からすると上の一、
「邪悪な見方」に該当するものかも知れない。
b 単にキリストを超人か驚くべき人であると見る:マルコ6の51、52
三 神の啓示による見方
a
啓示によってイエスの中に神の子・キリストを見る:
キリストの本質は、実は神の啓示によってしか見ることが出来ない。
マルコ8の29、マタイ16の15~19
b
復活の中の時空を越えた無限なるお方、そして
神と人の必要の総てとしてのキリスト・イエスを見 信じる。
c
更にその「今日のキリスト」と自分が一つである事を知り、信じ、
その「今 天地にあるキリストの中のその交わり」にあずかる。
*このb とc は次に見るようにこの給食と渡海と言う
2つの出来事の全体に示唆されている、と言える。
Ⅲ給食に見るキリストの無限性、永遠性、復活性
a
イエスはしきりに給食の余りでさえ12カゴと7カゴもあったことを
強調された。12と7は永遠の完成と完全を意味する。
即ち 給食の残余、こぼれ落ちたパンくずでさえ(或いはこぼれ落ちた
パン屑であればこそ)無限なのである。
b
実はキリストは 人から彼の手に渡された数個のパンと魚が
仮に無かったとしても、人々への無限の給食が可能であったことを、
せめて弟子達には分かって欲しかったのである。
(しかしある真理啓示の必要の為 敢えて人を介された)
c
後ほど間もなく、特にヨハネ福音書において見られるように、強力で
過酷な反対する雰囲気にもかかわらず(これが遂にはイエスを十字架に
つけずにはおかない死と暗闇のエネルギーへと増大して行くのであるが)
彼は果敢に「真のパン」とは、実は御自身であることを断言された。
確かにキリストの復活以後2千年間 キリストと言うパンを食して
満たされた人は無数に存在したし、これからも永遠に存在するであろう。
Ⅳ渡海に見るキリストの無限性、永遠性、復活性
a
時は夕方、即ちこの時代の終局であり、すぐに夜に突入して行く。
b
イエスの目的は明確だった。それは対岸、つまり王国の全き表現の
段階に到達することであった。
だから、対岸に到着するや、悪鬼の追い出しと癒しとがあった。
それらは王国顕現時代の特徴である。
c
従って私達はキリストの小船に乗りさえすればよい。
そうすれば私達は自ずと神の御心の中にいることになる。
しかしキリストの小船とは今日どこにあるのだろうか。
それは「復活のキリストと言う範囲」の中に、である。
d
あなたが「今日のキリスト、と言う範囲」におりさえすれば
時空のいかなる場面にいるとしても、あなたはキリストの中に存在し、
あなたの中にキリストが生きられ、そしてあなたは総ての聖徒達との
交わりの中にさえいることになる。従って、
単に時空の中にある肉の目に写る状況によって左右されてはならない。
復活のキリストとは今日明確な「一つの範囲」であり、もしあなたが
その中にいるならば、たとえイエスがこの時空の中で一見船の中におられず
①彼が 山の上におられようと
②群集を解散させておられようと
③海の上を歩いておられようと
④眠っておられようと、全く同じである。何故なら今
彼は時空を超えられた天地にある今日のキリストであるのだから。
e
我々はこのキリストと今 一つであることを覚え、
今「キリストと言う範囲」にいると言う信仰を働かせるべきである。
①先ず私は今キリストと共に山(最も高い場所、御座)にいると信じよう。
そのようにして、時空の中にある総ては私達の足の下にあることになる。
②だから私達は群集(人々)の間でも適切に麗しくさえ行動できるであろう。
たとえ人々がそれをイエスの奇跡だとは気づかないとしても、私達の故に
彼らがあるレベルにおけるイエスの恩恵に預かることさえ可能なのである。
③海とは(陸と違い)サタンの死の力の中に横たわっており、
その死と虚偽の力によって汚染され尽くされているこの世界を意味する。
それは完全に死の水の中である。しかし もしもキリストと一つ
であるならば、私達もその死の世界の上を悠々と歩行できる筈である。
④イエスは父の御心に従い父に信頼していた。だから彼は必ず向こう岸に
到達することを確信していたが故に、どんな状況の中でも安眠することが
出来たのである。私達もそのキリストと一つであるならば、たとえ船が
沈みそうに見えたとしても 母親の胸に安息する赤ちゃんのように
安らかに眠るであろう。なぜなら、私達も神の御心の只中にいるのだから。
*
結論として私達は、
給食においては:私達の命、生活、人生(LIFE)における無限の供給
としてのキリストご自身を見、
渡海においては:私達の目指すべき目的に到達する為の総て としての
復活と永遠であられるキリストを見るのである。
この実際的「実用的な」復活のイエスとの一つの中で私達は
サドカイ人のようにトンでもない思い違いをすることなく
聖書と神の力を真に知って行くべきなのではなかろうか。(マタイ22の29)
2008年3月18日火曜日
2つの対応策(3)
*「神が要求し、神が行う」と言う原則*
人が聖書に触れるとき、一般的にはそこからどのような神を
感じるのでしょうか。それは多分「神とは人に対する要求の神であり、
それに人が応じられない場合、それに刑罰を与える神」
と言うような神ではないでしょうか。
しかし、もちろんこれは誤解です。
神は確かに要求される神です。しかしそれに応え、それを実行するのは
やはり神なのです。「神が要求し、人が行う」ではなく、
「神が要求し、神が行う」のです。
それでは、先回扱った「死を支配する」等を私達はどの様に見るべき
なのでしょうか。確かに神は私達に「死を支配する」ように語られ、
要求されます。しかし真に「死を支配する」のは神です。「神が要求し、
神が行う」のです。私達が死を支配するのではありませんし 出来る
はずもないのです。どうして罪の中に生まれた私達が死に打ち勝つこと
など出来ましょう。それは復活の神による「神業」にして初めて可能
なのです。「総ては神が行う」のです。
私達は決してこの素晴らしい原則から離れてはなりません。
それでは何故神は 先ずあなたに要求されるのでしょうか。
何故なら神は「あなたと言う人間において」死を支配すること
を願われるからです。神が単独で死を支配するのはあまりにも
たやすいのです。だから神は「死に支配された人」において神が
死を支配したいのです。
従って、神の要求は先ずはあなたに向けられなければならないのです。
しかし実際に事を行い、力を出すのは完全に神です。「神が要求し、
あなたにおいて神が100%行う」これは極めて重要な原則です。
*
以上が今回 私の言いたいことの総てです。
それではこれから、余談として「神が要求し、あなたにおいて
100%神が行う」のホンの一例を挙げて見たいと思います。
私達は人間ですから、人間生活をします。ですから、死はその人間生活の
只中から私達に対して表れ、私達を脅迫し、神から離れさせようとします。
私の知人に精神病の息子を抱える父親がいます。
10年来の病歴の後ようやく息子は医者から「寛解」(治癒ではないが、
一時的に 或いは永続的に軽減、または消失すること)のお墨付きを
頂いてようやく退院したのです。やれやれと安堵していた矢先の旅先で、
彼は妻から突然「息子がおかしい。すぐ戻るように」
との連絡を受けたのです。
さて皆さん、ここでもうその父親は注意深くあらねばなりません。
なぜなら この妻の連絡の中に既に彼を死へと閉じ込めてしまう
圧倒的な敵の殺す力が含まれているかも知れないからです。
それは多分「敵から送られた小包」だったのでしょう。
このように「小包」は殆どの場合 予期せぬ方法で
突如としてあなたのもとにも届けられるのです。
しかしながら 神はこの父親に要求します。
「あなたはこの死を支配しなければならない」と。
さて皆さん、ここでこの父親はどうするべきでしょうか。
あわてる必要はありません、彼は2つの手続きを的確に行えばよいのです。
1.先ずこれは この父親に向けられた状況であり また神の要求です。
ですからこの父親はこの要求を 完全に我が物として受け止めなければ
なりません。なぜなら彼はこの息子の父親であるからです。
人は人としていつでも淡々と自分のなすべきことをなす必要があるのです。
それにしても今回は少し特別です。今回彼はキャッチャーがピッチャーの
投げる剛速球に対して構えるように、今回の状況に対して更にしっかり
真っ向から立ち向かうべきです。その角度は正確に真正面で
なければなりません。ハスに構えて見たり、特に大切なこととして
絶対に少しの逃げの気持ちも持ってはならないのです。
そこで この父親は何と「息子自身とその周辺の状況総て」を
一枚の着物のようにその身に着たのです!息子そのものを着たのですから
彼はまるで息子の中に閉じ込められてしまったようなものです。
もうその父親はどこにも逃げられません。彼は全く自由を失いました。
要するに彼はしっかりと「死ぬ覚悟を決めた」のです。
換言すれば、父親は既にこの段階で 自分とこの総ての状況をキリストの死
と言う「型枠」の中に置いたのです。即ち、敵から送られたのであろう
この死の状況を 敵の手の下に隠れて存在する神の偉大な手から
頂き キリストと共にわざと不自由の究極、死の閉じ込めの只中に
自分を置いたと言うことです。これが「包括的なキリストの死」の適用です。
ここまでが彼にとって絶対に欠かすことの出来ない1の段階でした。
2.更に彼にはもう少しするべきことがあります。それは直ちに次の
段階を踏むことです。それは:
今度は積極的に「息子とその関連の状況と言う重い着物に 自分を
プラスした更に重い大きな着物」をしつらえ、それをそっくり
「キリストに着て頂く」と言うことだったのです。つまり父親は息子を
おんぶしたわけですが、今度は「その息子をおんぶしている自分の総て」を、
「息子と息子の状況、そしてそれらを総て抱える自分」をキリストに全部
おんぶしてもらう、と言うことだったのです。
父親はそれもクリアし、これで目出度く彼の重荷は総てキリストの肩に
かかることになったのです。父親はこの時既に不思議な安らぎを覚え、
一人小さな声で「ハレルヤ!」と言ったと言います。
今回 以上のわずか2つの事がこの父親の行ったことの総てでした。
私の想像では この段階に至って、即ち父親に降りかかった総てあらゆる
死の状況をキリストに明け渡した段階で、初めてキリストは、その十字架の
死の力とそしてその死を打ち破った復活の力とを100パーセント
発揮することが出来たのだ、と思います。
彼によると妻から次のような連絡があったとのことです:
翌日 「状況が変わったので 一寸待機していて下さい。」
2日後「今回あなたは来なくてもよいようです。」
*
死は切り離す力です。人がそれをサタンの手から受ける時、
つまり暗い自分の穴の中に逃げ込み 事を成り行きに任せるだけか、
クヨクヨあれやこれやと思い巡らし、唯 ぼうぜんとその状況を嘆き
しかも責任を他人に転化するばかりの時、簡単に言えば信仰を有効に機能
させようとしない時 死はひたすら人を神から切り離す作用をするのです。
そのようにして人はサタンの死の害を受け、命なる神から
切り離されるのです。これこそ正に敵のねらい目です。
しかし、人がその死の状況を一旦 真正面から受け止めた後、
即ち「死と見える状況の総て」を神の手から頂いた後、
直ちに今度は それをそっくり神の手にお返しするのです。
つまり信仰によって 総ての重荷をそっくりキリストに着て頂くのです。
そうするならばそれはキリストの復活の命が現わされるチャンスとなり、
復活の命が死を支配するのをあなたは目の当たりにする事さえ
出来るのです。このようにして死の状況がむしろ逆に、
人をサタンから切り離し、人をして死を支配させると言う
素晴らしい結果を生むのです。
かように死の力は 双方(神とサタン)において大きいのです。
私達人は常に その双方の中間に立っていると言えるでしょう。
私達は日常どんな時にも 私達のもとに突然送られて来る死の状況を
ただ神の偉大な手からのみ頂く備えをしなければなりません。
これこそ「神が要求され、神が総てをなさる」ための、私達の道です。
☆
下の写真は小屋の西側に広がる眺望。左手の奥の高い山を 勝手に
「マイマウンテン」と命名しました。この小屋が登山道入り口です。
この山、 小屋から意外に近く、3時間もあれば往復出来ます。
何とこの15年間、この山で一度も人間に遭遇したことがないのです。
このあたり もしかして人の数はイノシシよりも少ないのかも知れません。
人が聖書に触れるとき、一般的にはそこからどのような神を
感じるのでしょうか。それは多分「神とは人に対する要求の神であり、
それに人が応じられない場合、それに刑罰を与える神」
と言うような神ではないでしょうか。
しかし、もちろんこれは誤解です。
神は確かに要求される神です。しかしそれに応え、それを実行するのは
やはり神なのです。「神が要求し、人が行う」ではなく、
「神が要求し、神が行う」のです。
それでは、先回扱った「死を支配する」等を私達はどの様に見るべき
なのでしょうか。確かに神は私達に「死を支配する」ように語られ、
要求されます。しかし真に「死を支配する」のは神です。「神が要求し、
神が行う」のです。私達が死を支配するのではありませんし 出来る
はずもないのです。どうして罪の中に生まれた私達が死に打ち勝つこと
など出来ましょう。それは復活の神による「神業」にして初めて可能
なのです。「総ては神が行う」のです。
私達は決してこの素晴らしい原則から離れてはなりません。
それでは何故神は 先ずあなたに要求されるのでしょうか。
何故なら神は「あなたと言う人間において」死を支配すること
を願われるからです。神が単独で死を支配するのはあまりにも
たやすいのです。だから神は「死に支配された人」において神が
死を支配したいのです。
従って、神の要求は先ずはあなたに向けられなければならないのです。
しかし実際に事を行い、力を出すのは完全に神です。「神が要求し、
あなたにおいて神が100%行う」これは極めて重要な原則です。
*
以上が今回 私の言いたいことの総てです。
それではこれから、余談として「神が要求し、あなたにおいて
100%神が行う」のホンの一例を挙げて見たいと思います。
私達は人間ですから、人間生活をします。ですから、死はその人間生活の
只中から私達に対して表れ、私達を脅迫し、神から離れさせようとします。
私の知人に精神病の息子を抱える父親がいます。
10年来の病歴の後ようやく息子は医者から「寛解」(治癒ではないが、
一時的に 或いは永続的に軽減、または消失すること)のお墨付きを
頂いてようやく退院したのです。やれやれと安堵していた矢先の旅先で、
彼は妻から突然「息子がおかしい。すぐ戻るように」
との連絡を受けたのです。
さて皆さん、ここでもうその父親は注意深くあらねばなりません。
なぜなら この妻の連絡の中に既に彼を死へと閉じ込めてしまう
圧倒的な敵の殺す力が含まれているかも知れないからです。
それは多分「敵から送られた小包」だったのでしょう。
このように「小包」は殆どの場合 予期せぬ方法で
突如としてあなたのもとにも届けられるのです。
しかしながら 神はこの父親に要求します。
「あなたはこの死を支配しなければならない」と。
さて皆さん、ここでこの父親はどうするべきでしょうか。
あわてる必要はありません、彼は2つの手続きを的確に行えばよいのです。
1.先ずこれは この父親に向けられた状況であり また神の要求です。
ですからこの父親はこの要求を 完全に我が物として受け止めなければ
なりません。なぜなら彼はこの息子の父親であるからです。
人は人としていつでも淡々と自分のなすべきことをなす必要があるのです。
それにしても今回は少し特別です。今回彼はキャッチャーがピッチャーの
投げる剛速球に対して構えるように、今回の状況に対して更にしっかり
真っ向から立ち向かうべきです。その角度は正確に真正面で
なければなりません。ハスに構えて見たり、特に大切なこととして
絶対に少しの逃げの気持ちも持ってはならないのです。
そこで この父親は何と「息子自身とその周辺の状況総て」を
一枚の着物のようにその身に着たのです!息子そのものを着たのですから
彼はまるで息子の中に閉じ込められてしまったようなものです。
もうその父親はどこにも逃げられません。彼は全く自由を失いました。
要するに彼はしっかりと「死ぬ覚悟を決めた」のです。
換言すれば、父親は既にこの段階で 自分とこの総ての状況をキリストの死
と言う「型枠」の中に置いたのです。即ち、敵から送られたのであろう
この死の状況を 敵の手の下に隠れて存在する神の偉大な手から
頂き キリストと共にわざと不自由の究極、死の閉じ込めの只中に
自分を置いたと言うことです。これが「包括的なキリストの死」の適用です。
ここまでが彼にとって絶対に欠かすことの出来ない1の段階でした。
2.更に彼にはもう少しするべきことがあります。それは直ちに次の
段階を踏むことです。それは:
今度は積極的に「息子とその関連の状況と言う重い着物に 自分を
プラスした更に重い大きな着物」をしつらえ、それをそっくり
「キリストに着て頂く」と言うことだったのです。つまり父親は息子を
おんぶしたわけですが、今度は「その息子をおんぶしている自分の総て」を、
「息子と息子の状況、そしてそれらを総て抱える自分」をキリストに全部
おんぶしてもらう、と言うことだったのです。
父親はそれもクリアし、これで目出度く彼の重荷は総てキリストの肩に
かかることになったのです。父親はこの時既に不思議な安らぎを覚え、
一人小さな声で「ハレルヤ!」と言ったと言います。
今回 以上のわずか2つの事がこの父親の行ったことの総てでした。
私の想像では この段階に至って、即ち父親に降りかかった総てあらゆる
死の状況をキリストに明け渡した段階で、初めてキリストは、その十字架の
死の力とそしてその死を打ち破った復活の力とを100パーセント
発揮することが出来たのだ、と思います。
彼によると妻から次のような連絡があったとのことです:
翌日 「状況が変わったので 一寸待機していて下さい。」
2日後「今回あなたは来なくてもよいようです。」
*
死は切り離す力です。人がそれをサタンの手から受ける時、
つまり暗い自分の穴の中に逃げ込み 事を成り行きに任せるだけか、
クヨクヨあれやこれやと思い巡らし、唯 ぼうぜんとその状況を嘆き
しかも責任を他人に転化するばかりの時、簡単に言えば信仰を有効に機能
させようとしない時 死はひたすら人を神から切り離す作用をするのです。
そのようにして人はサタンの死の害を受け、命なる神から
切り離されるのです。これこそ正に敵のねらい目です。
しかし、人がその死の状況を一旦 真正面から受け止めた後、
即ち「死と見える状況の総て」を神の手から頂いた後、
直ちに今度は それをそっくり神の手にお返しするのです。
つまり信仰によって 総ての重荷をそっくりキリストに着て頂くのです。
そうするならばそれはキリストの復活の命が現わされるチャンスとなり、
復活の命が死を支配するのをあなたは目の当たりにする事さえ
出来るのです。このようにして死の状況がむしろ逆に、
人をサタンから切り離し、人をして死を支配させると言う
素晴らしい結果を生むのです。
かように死の力は 双方(神とサタン)において大きいのです。
私達人は常に その双方の中間に立っていると言えるでしょう。
私達は日常どんな時にも 私達のもとに突然送られて来る死の状況を
ただ神の偉大な手からのみ頂く備えをしなければなりません。
これこそ「神が要求され、神が総てをなさる」ための、私達の道です。
☆
下の写真は小屋の西側に広がる眺望。左手の奥の高い山を 勝手に
「マイマウンテン」と命名しました。この小屋が登山道入り口です。
この山、 小屋から意外に近く、3時間もあれば往復出来ます。
何とこの15年間、この山で一度も人間に遭遇したことがないのです。
このあたり もしかして人の数はイノシシよりも少ないのかも知れません。
2008年3月16日日曜日
2つの対応策(2)
*支配すると支配される*
支配と被支配は創世記から黙示録に至る聖書の首尾一貫した
大きな流れです。その点に神の並々ならぬ心が込められている
事は極めて明白です。
そしてとても驚くべきことに神は、神ご自身が直接支配する
のではなく、人を通して万物を支配なさりたいのです。
今現在 それは一人の人において既に達成されております。
その一人の人とは 他ならぬ主イエスキリストです。既に
「神は万物をイエスの足の下に従わせられた」のです。
(ヘブル2の8)
しかし神はそれに留まらず この一人の人の万物支配を
キリストに属する総ての人に至らせようとしておられるのです。
もしもこれが達成されなければ神の心が
真に満足させられることはあり得ません。
今の時代があり 次に「彼らはキリストと共に千年の間
支配する」時代があり、遂には「彼らは永遠に支配する」
時代に至ります。(黙20の6、22の5)
私達は必ずある日 キリストと共に万物を支配するでしょう。
*
しかしここに一つの厳粛な事実があります。
それは 神の言葉が「あなたは次の千年の時代の支配と言う
大きな特権と喜びを獲得そこなうことが無いように」と
再三に渡り切実に呼びかけていると言う事です。
その大きな喜びの中の支配と言う「御褒美」を得るか得ないか、
その成否はひたすら 今現在のこの恵みの時代における
私の状態にかかっております。
それでは どうであればミスしないのでしょうか。それは今私が
この私の肉体の中にある時間の中、この万物を支配すると言う
学びにおいて 私が上昇する確実な路線にいると言うことです。
換言すれば現在 私が日々万物を支配すると言う学課を着実に
学んでいるかどうか、と言うことです。
即ち私において 昨日の支配よりも今日の支配の方が
勝っていなければならないのです。
もしそうであるならば、即ちこの上昇線に乗っているならば、
次の時代においても 自然に私は支配するでしょう。
そうでなく今逆に私が日々 様々な事物に支配されており、
来る年も来る年もなんらの成長も見られないのに、ある日
目が覚めたら 唐突に私が支配することになっていた、
等と言うことがあり得るでしょうか。
これはよくある「死ねば総てはうまく行く。死ねばもしかして人は
仏か神になるのかも知れない」と言った人の希望的宗教意識と
合い通ずるものなのでしょう。
そのような観念は命の原則、命の自然な成長と言う原則に反します。
神は命なる神であり義なる神です。「王として支配する命」の成長は
絶対的に 既に今日始まっていなければならないのです。
蒔かれた良い種は寝起きしている間に健やかに成長して行くはずです。
(私達は今自分の中にある様々な石やヤブに気づかなければ
ならないのです。)
*
万物とは「総ての物そしてあらゆる事象」であり、それには当然
昨日述べた 総ての具体的現実的な「死の現れ」一点一点も
含まれます。次の時代でなく幸いにも今日 私が死に支配されて
「暗闇で歯噛み」出来るのは 明日 私が逆にそれらの死の現れを
支配するようになるためです。
とても有難いことに この学課の材料は
(1)で述べた様に 私達のとても身近にあるのです。
その学課の材料とは 一つ一つの今あなたをまだ
支配している「死の現れ」そのものです。
もしもいつになっても 自分の中の「死の小さな表れ」さえも
支配出来ないとするならば、次の時代 私が町々を支配する
ことなど到底出来るはずがありません。
この際 最も必要とされるのは あなたが「内側に頂いた命
にあって万物を支配するに至りたい」と言う切実な願いです。
ですから私は「悠然とあらゆる死を支配したい」と言う真剣な願い
のもと 真実に神の門を叩くべきです。
もしそうであるならば 聖霊は確実にあなたに適切な環境を送り
啓示を与え、実際の経験に導かれるでしょう。
それは 単なる頭脳の知識によって安易に与えられるほど
安価なものではないことは明らかです。
*
「もし一人の人の違反によって死が支配するようになった
とすれば、なおさらのこと・・一人の人イエス・キリストにより、
命の中で支配するのです。」(ローマ5の17)
ローマ書を執筆する際パウロの中には、もしかして
間もなく襲い来るであろうキリスト者に対する大迫害をも
予知する中、ローマのキリスト者が「命の中でネロの迫害をも
支配するように」との願いさえあったのかも知れません。
しかし同時にそれは今日 神があなたの将来を予知する中
あなたにあてた心からのメッセージでもあるのです。
支配と被支配は創世記から黙示録に至る聖書の首尾一貫した
大きな流れです。その点に神の並々ならぬ心が込められている
事は極めて明白です。
そしてとても驚くべきことに神は、神ご自身が直接支配する
のではなく、人を通して万物を支配なさりたいのです。
今現在 それは一人の人において既に達成されております。
その一人の人とは 他ならぬ主イエスキリストです。既に
「神は万物をイエスの足の下に従わせられた」のです。
(ヘブル2の8)
しかし神はそれに留まらず この一人の人の万物支配を
キリストに属する総ての人に至らせようとしておられるのです。
もしもこれが達成されなければ神の心が
真に満足させられることはあり得ません。
今の時代があり 次に「彼らはキリストと共に千年の間
支配する」時代があり、遂には「彼らは永遠に支配する」
時代に至ります。(黙20の6、22の5)
私達は必ずある日 キリストと共に万物を支配するでしょう。
*
しかしここに一つの厳粛な事実があります。
それは 神の言葉が「あなたは次の千年の時代の支配と言う
大きな特権と喜びを獲得そこなうことが無いように」と
再三に渡り切実に呼びかけていると言う事です。
その大きな喜びの中の支配と言う「御褒美」を得るか得ないか、
その成否はひたすら 今現在のこの恵みの時代における
私の状態にかかっております。
それでは どうであればミスしないのでしょうか。それは今私が
この私の肉体の中にある時間の中、この万物を支配すると言う
学びにおいて 私が上昇する確実な路線にいると言うことです。
換言すれば現在 私が日々万物を支配すると言う学課を着実に
学んでいるかどうか、と言うことです。
即ち私において 昨日の支配よりも今日の支配の方が
勝っていなければならないのです。
もしそうであるならば、即ちこの上昇線に乗っているならば、
次の時代においても 自然に私は支配するでしょう。
そうでなく今逆に私が日々 様々な事物に支配されており、
来る年も来る年もなんらの成長も見られないのに、ある日
目が覚めたら 唐突に私が支配することになっていた、
等と言うことがあり得るでしょうか。
これはよくある「死ねば総てはうまく行く。死ねばもしかして人は
仏か神になるのかも知れない」と言った人の希望的宗教意識と
合い通ずるものなのでしょう。
そのような観念は命の原則、命の自然な成長と言う原則に反します。
神は命なる神であり義なる神です。「王として支配する命」の成長は
絶対的に 既に今日始まっていなければならないのです。
蒔かれた良い種は寝起きしている間に健やかに成長して行くはずです。
(私達は今自分の中にある様々な石やヤブに気づかなければ
ならないのです。)
*
万物とは「総ての物そしてあらゆる事象」であり、それには当然
昨日述べた 総ての具体的現実的な「死の現れ」一点一点も
含まれます。次の時代でなく幸いにも今日 私が死に支配されて
「暗闇で歯噛み」出来るのは 明日 私が逆にそれらの死の現れを
支配するようになるためです。
とても有難いことに この学課の材料は
(1)で述べた様に 私達のとても身近にあるのです。
その学課の材料とは 一つ一つの今あなたをまだ
支配している「死の現れ」そのものです。
もしもいつになっても 自分の中の「死の小さな表れ」さえも
支配出来ないとするならば、次の時代 私が町々を支配する
ことなど到底出来るはずがありません。
この際 最も必要とされるのは あなたが「内側に頂いた命
にあって万物を支配するに至りたい」と言う切実な願いです。
ですから私は「悠然とあらゆる死を支配したい」と言う真剣な願い
のもと 真実に神の門を叩くべきです。
もしそうであるならば 聖霊は確実にあなたに適切な環境を送り
啓示を与え、実際の経験に導かれるでしょう。
それは 単なる頭脳の知識によって安易に与えられるほど
安価なものではないことは明らかです。
*
「もし一人の人の違反によって死が支配するようになった
とすれば、なおさらのこと・・一人の人イエス・キリストにより、
命の中で支配するのです。」(ローマ5の17)
ローマ書を執筆する際パウロの中には、もしかして
間もなく襲い来るであろうキリスト者に対する大迫害をも
予知する中、ローマのキリスト者が「命の中でネロの迫害をも
支配するように」との願いさえあったのかも知れません。
しかし同時にそれは今日 神があなたの将来を予知する中
あなたにあてた心からのメッセージでもあるのです。
2008年3月15日土曜日
2つの対抗策(1)
実のところ 人は「死の中で生まれた」のです。そしてその誕生に
引き続き 罪が死によって私達を支配し続けております。
キリスト者であったとしも 神に対して善を行うことについては
私達は「腐乱死体」、死の体に過ぎません。
以上が私達の真の有様です。
ですから 私達の生まれながらの命の源泉から容赦なく
絶えず湧き上がって来るのは「苦い死の水」に他ならないのです。
具体的に言うと 死は次のような感覚としてしばしば私達を訪れます:
腐敗感覚、敗北感覚、失敗、責められる感覚、自責の感覚、赦されない
罪を持っていると言う感覚、恐怖感、苛立ち、深い闇の悪夢感覚、
深い孤独感、得体の知れない不安感、「放浪と飛行」(勝手にどこにでも
飛んで行く思い)、粗暴感覚、投げやり感覚、怠惰 無能 無力感覚、
疲労感、その必要がないのにやたらに急がせられる感覚、焦燥感、
過剰なこだわり、異常な執着心・・エトセトラ、エトセトラ。
例えば腐敗感覚:それは さっきまでは何とか立っていた筈の私の
存在の中心に何故か腐敗が発生し、自分を自分が制御できなくなり、
自分と言うものが崩れ落ちて行くような奥深い感覚です。
そして厄介なことに これらの感覚は私の内部から出て来るだけでなく
私の外部 この世界のあらゆる事象(必ずしも悪しき事物とは限らない)
との接触を通しても訪れます。それらの接触から外部の死が
私に触れ注入されると 私の内部の死が現れて来て
その外部からの死を喜んで迎えるので、
上記の様な様々な感覚は更に増幅されるのです。
その上 このような今現在の事物との接触からだけでなく、
それは遠い過去からもやって来ます。
突然 過去のある場面がアリアリと私の眼前に映し出されると
私はよせばいいのに ついそのシーンを凝視してしまう。
その結果その画面にしっかり捕らえられ 引きずり込まれ
私はその映像の中の嫌な主人公となり、議論が始まり あーでもない、
こーでもないと思いは全力であちこち駆けまわり、そして傷つき 悲しみ
人を疑ぐり 怒り 暗くされるのです。
他に 死の感覚は過去の出来事からのみならず 何の根拠もない
例えば他人への私の勝手な類推や想像からさえ起こり得るのです。
この様な 私が私でないような私の真の姿、
それは一体どこから来るのでしょう。
それは述べたように私達の内部で「生きて働く」死から来るのです。
実を言えば このような感覚は一日と言わず 一時間の間でさえ
何度私を訪れるか分からない位なのではないでしょうか。
*
私達はこれに対して明確な対抗策を必要とします。
そしてキリスト者は既にそれを所有しているのです。
それではその対応策とは何でしょう。
それは二つあり、一つは「キリストの死」による対抗策であり、
もう一つは「キリストの命」による対抗策です。
私達はキリストから頂いたこの二つの武器:死と命の武器
についての真の知識を得るべきであり それらを有効に用いる方法を
日常生活の中でしっかりと訓練し、遂には
それらの死を瞬時瞬時 私達の足の下にしなければなりません。
引き続き 罪が死によって私達を支配し続けております。
キリスト者であったとしも 神に対して善を行うことについては
私達は「腐乱死体」、死の体に過ぎません。
以上が私達の真の有様です。
ですから 私達の生まれながらの命の源泉から容赦なく
絶えず湧き上がって来るのは「苦い死の水」に他ならないのです。
具体的に言うと 死は次のような感覚としてしばしば私達を訪れます:
腐敗感覚、敗北感覚、失敗、責められる感覚、自責の感覚、赦されない
罪を持っていると言う感覚、恐怖感、苛立ち、深い闇の悪夢感覚、
深い孤独感、得体の知れない不安感、「放浪と飛行」(勝手にどこにでも
飛んで行く思い)、粗暴感覚、投げやり感覚、怠惰 無能 無力感覚、
疲労感、その必要がないのにやたらに急がせられる感覚、焦燥感、
過剰なこだわり、異常な執着心・・エトセトラ、エトセトラ。
例えば腐敗感覚:それは さっきまでは何とか立っていた筈の私の
存在の中心に何故か腐敗が発生し、自分を自分が制御できなくなり、
自分と言うものが崩れ落ちて行くような奥深い感覚です。
そして厄介なことに これらの感覚は私の内部から出て来るだけでなく
私の外部 この世界のあらゆる事象(必ずしも悪しき事物とは限らない)
との接触を通しても訪れます。それらの接触から外部の死が
私に触れ注入されると 私の内部の死が現れて来て
その外部からの死を喜んで迎えるので、
上記の様な様々な感覚は更に増幅されるのです。
その上 このような今現在の事物との接触からだけでなく、
それは遠い過去からもやって来ます。
突然 過去のある場面がアリアリと私の眼前に映し出されると
私はよせばいいのに ついそのシーンを凝視してしまう。
その結果その画面にしっかり捕らえられ 引きずり込まれ
私はその映像の中の嫌な主人公となり、議論が始まり あーでもない、
こーでもないと思いは全力であちこち駆けまわり、そして傷つき 悲しみ
人を疑ぐり 怒り 暗くされるのです。
他に 死の感覚は過去の出来事からのみならず 何の根拠もない
例えば他人への私の勝手な類推や想像からさえ起こり得るのです。
この様な 私が私でないような私の真の姿、
それは一体どこから来るのでしょう。
それは述べたように私達の内部で「生きて働く」死から来るのです。
実を言えば このような感覚は一日と言わず 一時間の間でさえ
何度私を訪れるか分からない位なのではないでしょうか。
*
私達はこれに対して明確な対抗策を必要とします。
そしてキリスト者は既にそれを所有しているのです。
それではその対応策とは何でしょう。
それは二つあり、一つは「キリストの死」による対抗策であり、
もう一つは「キリストの命」による対抗策です。
私達はキリストから頂いたこの二つの武器:死と命の武器
についての真の知識を得るべきであり それらを有効に用いる方法を
日常生活の中でしっかりと訓練し、遂には
それらの死を瞬時瞬時 私達の足の下にしなければなりません。
2008年3月14日金曜日
先輩達の言葉から
・私達人は、既に神によって十字架に閉じ込められているのです。
・汗をかくとは、主の祝福が無く 肉の力で力むことです。
主の前で霊的な力を用いるのには汗をかきません。
・神は私達に 聖所を保持しそこで光を発し、聖と俗、聖潔と不潔を
区別する事を求められます。
・神は一つ一つの言葉の背後で総ての環境を作り出し、私達がどのように
御言葉を受け入れたかを実証されます。
・最も危険な生活は、唯人前だけの生活です。最も穏やかで無理の無い
生活はただ神の前での生活です。
・主の血は完全に注ぎ出されました。ですから主は私達に、
「一切の天然の命を注ぎ出せ」と言われます。
☆
今日は自室の掃除と歯医者、午後はケン部屋に向けての
「第二物置」作りですね。昨日「第一物置」が出来ました。
(意外と簡単でした)ケン部屋は もしケンが不要になっても、
当山小屋の客室が増えることになるので都合がいいのです。今のところ
地下に6畳大の部屋二つを考えているのですが、どうなりますことやら。
・汗をかくとは、主の祝福が無く 肉の力で力むことです。
主の前で霊的な力を用いるのには汗をかきません。
・神は私達に 聖所を保持しそこで光を発し、聖と俗、聖潔と不潔を
区別する事を求められます。
・神は一つ一つの言葉の背後で総ての環境を作り出し、私達がどのように
御言葉を受け入れたかを実証されます。
・最も危険な生活は、唯人前だけの生活です。最も穏やかで無理の無い
生活はただ神の前での生活です。
・主の血は完全に注ぎ出されました。ですから主は私達に、
「一切の天然の命を注ぎ出せ」と言われます。
☆
今日は自室の掃除と歯医者、午後はケン部屋に向けての
「第二物置」作りですね。昨日「第一物置」が出来ました。
(意外と簡単でした)ケン部屋は もしケンが不要になっても、
当山小屋の客室が増えることになるので都合がいいのです。今のところ
地下に6畳大の部屋二つを考えているのですが、どうなりますことやら。
2008年3月12日水曜日
突然の変化
これも不思議現象なのでしょうか、今日の午後 突然
「ケンは今 早急に山に行かなければならない」と言う状況から
いま暫く様子を見る方がよいらしい、と言うことに
変わってしまったのです。
ま、要するに妻の状況判断が少し「早とちり」だった
と言うことなのかも知れません。しかし、正直「実態」は分かりません。
いずれにしろ、今日の所本当によかったと言うことだけは言えそうです。
にもかかわらず「ケン部屋」はやはり作った方がよさそう、
と言う感じは残るのです。と言うのは、
これから小屋に来て下さる聖徒達に 無理にならない範囲でケンが
自由に接触出来ると言うことは ケンの成長(11日のコメントで
リチャードさんの言う「キリストへの継ぎ合わせ」)の為にも多分
とても有効であろうと思われるからです。その為には ケンが
自分の調子に応じて自由に行動出来るように 一寸離れた場所に
自分専用の部屋が必要と言うことになるわけです。
だから工事は続けて行こうと思っております。専用のトイレや
流しはいつになるかわかりませんけどね。
「ケンは今 早急に山に行かなければならない」と言う状況から
いま暫く様子を見る方がよいらしい、と言うことに
変わってしまったのです。
ま、要するに妻の状況判断が少し「早とちり」だった
と言うことなのかも知れません。しかし、正直「実態」は分かりません。
いずれにしろ、今日の所本当によかったと言うことだけは言えそうです。
にもかかわらず「ケン部屋」はやはり作った方がよさそう、
と言う感じは残るのです。と言うのは、
これから小屋に来て下さる聖徒達に 無理にならない範囲でケンが
自由に接触出来ると言うことは ケンの成長(11日のコメントで
リチャードさんの言う「キリストへの継ぎ合わせ」)の為にも多分
とても有効であろうと思われるからです。その為には ケンが
自分の調子に応じて自由に行動出来るように 一寸離れた場所に
自分専用の部屋が必要と言うことになるわけです。
だから工事は続けて行こうと思っております。専用のトイレや
流しはいつになるかわかりませんけどね。
「ケン部屋」工事初日です
*「ケン部屋」工事初日です
とにもかくにも 今ケン部屋へと改造するべき物置を占領している
沢山の物を別の所に移さないとケン部屋工事は始まらない。
ですから 先ずは新しい物置を作らないといけない
と言うことになるのです。ヤレヤレですね。なかなか物事
というのはそう単純には行きません。
で今日はその物置製作に取り掛かるわけですが、先ずは床張り
と言うことになるのでしょう。
でも天気はいいし、楽しい作業になりそうです。
*山の独り言
・地上で敵を縛る。
・刻々 私の野放図な思いへ十字架を適用する。
・「不思議な天のインターネット」で発信する。
・主とのお付き合いにおいて やはり主に対する私の「精一杯の」真実は
やはり欠かせない。これは人付き合いの基本ですよね。
・高く高くされたる「ただの人」ナザレのイエスよ。
・十字架はオセロ、真っ黒から真っ白へ。
・「死に至るも 己が魂を愛せざりき。」黙12の11(永井訳)
とにもかくにも 今ケン部屋へと改造するべき物置を占領している
沢山の物を別の所に移さないとケン部屋工事は始まらない。
ですから 先ずは新しい物置を作らないといけない
と言うことになるのです。ヤレヤレですね。なかなか物事
というのはそう単純には行きません。
で今日はその物置製作に取り掛かるわけですが、先ずは床張り
と言うことになるのでしょう。
でも天気はいいし、楽しい作業になりそうです。
*山の独り言
・地上で敵を縛る。
・刻々 私の野放図な思いへ十字架を適用する。
・「不思議な天のインターネット」で発信する。
・主とのお付き合いにおいて やはり主に対する私の「精一杯の」真実は
やはり欠かせない。これは人付き合いの基本ですよね。
・高く高くされたる「ただの人」ナザレのイエスよ。
・十字架はオセロ、真っ黒から真っ白へ。
・「死に至るも 己が魂を愛せざりき。」黙12の11(永井訳)
2008年3月11日火曜日
3月11日です
*この数日の聖徒達のことばから
・圧迫され追い詰められ、どうしようもなかったその時 初めて
「あ、私はもう死んでるんだ」と分かった。そして感謝の涙が・・
・終わりの時代、クリスチャンは山に逃げ込めばいいのかも。
・お腹も心も満たされた。甘く濃厚な臨在に満たされて幸せだった。
・主は真実でユーモアのある方、祝福された日々。
・ここでは誰も何も企てない、総てはジーザスまかせなのです。
・「あ~来れた~」で始まり「何だかやっとノビノビ生きはじめたかも」
・薪ストーブの周りに集まって全員ウトウト、母の胎にいるような。
・実に生きている実感をここの人たちは・・
*ケンが山に来る?
実家の状況からケンを山に連れてくるべきかな、と思案しております。
もしそうなれば これは私にとって相当大きな生活の変化となるでしょう。
このことから逃げてはいけない。この問題を私の真正面にデンと据え
私はしっかりとこの身に「ケンを着る」べし。次に
「この大変な親子」の全体を今度はキリストに着ていただくべし。
そして既に今日今から この状況総ての詳細部分へと
キリストに来て頂くのだ、彼は「私達のキリスト」なのだから。
そうなるといずれ、地下に超ヘビースモーカー・ケン専用の部屋を
作るべきだろう。その内トイレも要るし流しもいる。
さあ、大きな工事になるぞ、
と言う覚悟を先ほど決めたところです。
主を仰ぎます、常に最善をなさる主を。
「キリストよ、総てよろしく」
・圧迫され追い詰められ、どうしようもなかったその時 初めて
「あ、私はもう死んでるんだ」と分かった。そして感謝の涙が・・
・終わりの時代、クリスチャンは山に逃げ込めばいいのかも。
・お腹も心も満たされた。甘く濃厚な臨在に満たされて幸せだった。
・主は真実でユーモアのある方、祝福された日々。
・ここでは誰も何も企てない、総てはジーザスまかせなのです。
・「あ~来れた~」で始まり「何だかやっとノビノビ生きはじめたかも」
・薪ストーブの周りに集まって全員ウトウト、母の胎にいるような。
・実に生きている実感をここの人たちは・・
*ケンが山に来る?
実家の状況からケンを山に連れてくるべきかな、と思案しております。
もしそうなれば これは私にとって相当大きな生活の変化となるでしょう。
このことから逃げてはいけない。この問題を私の真正面にデンと据え
私はしっかりとこの身に「ケンを着る」べし。次に
「この大変な親子」の全体を今度はキリストに着ていただくべし。
そして既に今日今から この状況総ての詳細部分へと
キリストに来て頂くのだ、彼は「私達のキリスト」なのだから。
そうなるといずれ、地下に超ヘビースモーカー・ケン専用の部屋を
作るべきだろう。その内トイレも要るし流しもいる。
さあ、大きな工事になるぞ、
と言う覚悟を先ほど決めたところです。
主を仰ぎます、常に最善をなさる主を。
「キリストよ、総てよろしく」
2008年3月10日月曜日
3月10日です
待望の春、今日カリマンの柔らかな雨です。
*
昨日、5名が帰られました。感想ですか?
エーやっぱりこの小屋には本当に「山暮らしのキリスト」が
常駐されておられるのかなーと、今一寸メルヘンチックな幸せ感ですかね。
小屋暮らしの主キリストが、もう春の林道なのにまだ所々ツルツルに
凍結した場所を敢えて残され、私に「レストランに行く夜のドライヴは
ルーク氏の夏タイヤでは危険そう」と思わせ、そして遂に私に
カレーライスを作る決心をさせたのではないのかな、等と。
と言うわけで料理不精のこの私がインターネットを見ながら凝りに凝って
(コーヒーを入れたりして)作った一日目夜のカレーライスと そして
ダッチオーヴンで蒸し焼きにしたサツマイモ。この焼き芋が好評
だったんですよ。で或いは皆さん、ダッチオーヴン料理でもっとおいしい
のを食べて見たいとの食欲が刺激されたのかな?「このダッチオーヴン
というのは 適当な食材を突っ込んで薪ストーブの上に置いておけば
それだけでおいしい料理になってしまうんですよ」との私の何心無い
説明から それじゃー明日 お風呂に行った時 食材買って来たら
と言う満場一致の結論に至ったのであります。
で2日目は午後から 若手3人は大張りきりのにわかコックに。
シェフはもちろん遠来三重県から来られたコージさん、彼の
料理に関する薀蓄(うんちく)には皆さんただただ
舌を巻くばかり。と言うわけで、私達ずうっと食べていたと言う、
なんだかそんな3日間だったのです。
(下のナベがダッチオーブン)

と言うわけで続きはまたにしましょうか。
*
昨日、5名が帰られました。感想ですか?
エーやっぱりこの小屋には本当に「山暮らしのキリスト」が
常駐されておられるのかなーと、今一寸メルヘンチックな幸せ感ですかね。
小屋暮らしの主キリストが、もう春の林道なのにまだ所々ツルツルに
凍結した場所を敢えて残され、私に「レストランに行く夜のドライヴは
ルーク氏の夏タイヤでは危険そう」と思わせ、そして遂に私に
カレーライスを作る決心をさせたのではないのかな、等と。
と言うわけで料理不精のこの私がインターネットを見ながら凝りに凝って
(コーヒーを入れたりして)作った一日目夜のカレーライスと そして
ダッチオーヴンで蒸し焼きにしたサツマイモ。この焼き芋が好評
だったんですよ。で或いは皆さん、ダッチオーヴン料理でもっとおいしい
のを食べて見たいとの食欲が刺激されたのかな?「このダッチオーヴン
というのは 適当な食材を突っ込んで薪ストーブの上に置いておけば
それだけでおいしい料理になってしまうんですよ」との私の何心無い
説明から それじゃー明日 お風呂に行った時 食材買って来たら
と言う満場一致の結論に至ったのであります。
で2日目は午後から 若手3人は大張りきりのにわかコックに。
シェフはもちろん遠来三重県から来られたコージさん、彼の
料理に関する薀蓄(うんちく)には皆さんただただ
舌を巻くばかり。と言うわけで、私達ずうっと食べていたと言う、
なんだかそんな3日間だったのです。
(下のナベがダッチオーブン)

と言うわけで続きはまたにしましょうか。
2008年3月5日水曜日
安定でなく 唯一点キリスト
現代人の宇宙観には中心がありません。
ある科学者達は「確率的に言うと一つ銀河宇宙にさえ高度な
文明を持つ数多くの星が存在する」等と言っているようです。
確かにそこには一片のロマンを感じさせてくれるものはあります。
それにしても私達はそこからどんな確かな「真理や事実」を
引き出せるのでしょうか。
無限とも見える空間とその果てに様々な天体が何処までも存在している
としても、その広がりにどんな「意味」があるのか、何がそれを支えて
いるのかは皆目分からない、と言うことだけは確実に言えそうです。
要するにその宇宙には中心が無いのです。
外の宇宙だけではない、自分の内面と言う宇宙にさえ
中心が無いのです。人は自分の奥底に一体何があるのか
全く知るよしもないのです。そこには中心も周辺もありません。
ただ あるからある、それだけなのです。
どうでも良い無数の項目については非常に詳しく知っているとしても
「肝心要」なことについては、真に知らなければならない事については
突き詰めて行けば行くほど
結論的には「何も分からない」と言う事です。
しかし聖書には中心があります。
宇宙にはキリストと言う一点があるのです。
しかも更に聖書は 時空とその中の万物は
キリストと言う一点の中で創造された、とさえ断言するのです。
だからもしもあなたががキリストを持つならば、
あなたは総てを持つことになるのです!
キリストとは何と「とてつもないお方」なのでしょう。
その一点は 方や宇宙よりも大きく、方や私よりも小さいのです。
*
さて話しは突然変わりますが、
7日にあのルーク氏がこの山奥の小屋に来られます。
(彼が来て3日間どうなることやら 今誰も何も分からないのですが。)
じゃあ、横浜の集会はどうなるの、と私達は思うでしょう。
しかし、このとても困った事態が逆に不思議なチャンスとなるのです。
何故ならばその不安定さの中にあって あなたの心は一点キリストに向かう
からです。そして そこに存在する「不安定と言う圧迫」の只中にこそ
キリストと共に「あなたを死に至らせるもの」が潜んでいるからです。
あなたはそこで「人知れず密かに」死ぬべきです!
そこでもしもあなたが真にその死を神の手から受け取るならば あなたは
必ずや「キリストと共なる復活」を経験することになります。
そのようにして
あなたは初めてキリスト者の集まりの中に生けるキリストを
もたらすことが出来るのです。実の所 これのみが「集会の方法」
なのであり、他の方法はありません。
従って またそのようにして私達を通して現れた復活のキリストのみが
「教会の実質」なのであり、それ以外の一切はいかなるものも教会を
構成することはあり得ません。教会とは一体どこで見い出だすことが
出来るものなのでしょうか。それは絶対的にただ
「十字架の向こう側で」なのです。
*
人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします。
即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め そこに「立派な礼拝」を
構築したいとする強い願望があるのです。更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で この地上に自分達を根付かせ自分達の名を
高く掲げたいと言う 人本来の宗教本能が働いているのです。
その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると。
(私は真の礼拝を否定するものではありません。私は時々山中の林の中に
跪き、両手を天に差し伸べ神を礼拝します。しかし、もし私の「礼拝」が
単にスタイルだけであるならば 福音書が告げるように
悪鬼達でさえも真剣にそして正確にイエスを「拝み」
「アビスに行けとは命じないで下さい、私達を滅ぼさないで下さい」と
イエスに熱心に懇願した事実を知るべきです。)
これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。
そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう。
そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する
「地に住む」(原文では「地に座る」)と言う人の奥底に居座る根深い
願望なのです。それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。
*
教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて
出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。
教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。私達は単に 寄る辺無き
何も持たない「やもめ」でなければならないのです。
「わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22)
ある科学者達は「確率的に言うと一つ銀河宇宙にさえ高度な
文明を持つ数多くの星が存在する」等と言っているようです。
確かにそこには一片のロマンを感じさせてくれるものはあります。
それにしても私達はそこからどんな確かな「真理や事実」を
引き出せるのでしょうか。
無限とも見える空間とその果てに様々な天体が何処までも存在している
としても、その広がりにどんな「意味」があるのか、何がそれを支えて
いるのかは皆目分からない、と言うことだけは確実に言えそうです。
要するにその宇宙には中心が無いのです。
外の宇宙だけではない、自分の内面と言う宇宙にさえ
中心が無いのです。人は自分の奥底に一体何があるのか
全く知るよしもないのです。そこには中心も周辺もありません。
ただ あるからある、それだけなのです。
どうでも良い無数の項目については非常に詳しく知っているとしても
「肝心要」なことについては、真に知らなければならない事については
突き詰めて行けば行くほど
結論的には「何も分からない」と言う事です。
しかし聖書には中心があります。
宇宙にはキリストと言う一点があるのです。
しかも更に聖書は 時空とその中の万物は
キリストと言う一点の中で創造された、とさえ断言するのです。
だからもしもあなたががキリストを持つならば、
あなたは総てを持つことになるのです!
キリストとは何と「とてつもないお方」なのでしょう。
その一点は 方や宇宙よりも大きく、方や私よりも小さいのです。
*
さて話しは突然変わりますが、
7日にあのルーク氏がこの山奥の小屋に来られます。
(彼が来て3日間どうなることやら 今誰も何も分からないのですが。)
じゃあ、横浜の集会はどうなるの、と私達は思うでしょう。
しかし、このとても困った事態が逆に不思議なチャンスとなるのです。
何故ならばその不安定さの中にあって あなたの心は一点キリストに向かう
からです。そして そこに存在する「不安定と言う圧迫」の只中にこそ
キリストと共に「あなたを死に至らせるもの」が潜んでいるからです。
あなたはそこで「人知れず密かに」死ぬべきです!
そこでもしもあなたが真にその死を神の手から受け取るならば あなたは
必ずや「キリストと共なる復活」を経験することになります。
そのようにして
あなたは初めてキリスト者の集まりの中に生けるキリストを
もたらすことが出来るのです。実の所 これのみが「集会の方法」
なのであり、他の方法はありません。
従って またそのようにして私達を通して現れた復活のキリストのみが
「教会の実質」なのであり、それ以外の一切はいかなるものも教会を
構成することはあり得ません。教会とは一体どこで見い出だすことが
出来るものなのでしょうか。それは絶対的にただ
「十字架の向こう側で」なのです。
*
人は「キリストに似て非なる あるセンター」を持ちたがります。
先ずは ある人間を中心とする「自分達のワンセット」をある場所に固定し
その上に安定的で堅固なものを建て上げようとします。
即ち人にある宗教性には ある時間と場所を定め そこに「立派な礼拝」を
構築したいとする強い願望があるのです。更に言えば そこには
「神への礼拝」を獲得した上で この地上に自分達を根付かせ自分達の名を
高く掲げたいと言う 人本来の宗教本能が働いているのです。
その達成の時には あの「大バビロンと言う名の女」は安心し誇って
言うでしょう、私は乏しい「やもめ」ではない、
拠り所がある 安定があると。
(私は真の礼拝を否定するものではありません。私は時々山中の林の中に
跪き、両手を天に差し伸べ神を礼拝します。しかし、もし私の「礼拝」が
単にスタイルだけであるならば 福音書が告げるように
悪鬼達でさえも真剣にそして正確にイエスを「拝み」
「アビスに行けとは命じないで下さい、私達を滅ぼさないで下さい」と
イエスに熱心に懇願した事実を知るべきです。)
これこそが、全聖書が首尾一貫糾弾するバベルでありバビロンなのです。
そして現代 全世界のキリスト教宗教はかつて無かったほどの
「大いなるバビロン」構築に向かってまい進していると言ってよいでしょう。
そこにあるのは 神の言葉・黙示録が再三にわたって警告する
「地に住む」(原文では「地に座る」)と言う人の奥底に居座る根深い
願望なのです。それは今この瞬間でさえ私達の心にも存在し得るのです。
*
教会はただ「迫害の中、ゆくえ知れない旅のさなかに」初めて
出現するのです。あなたが死に向かう その途上にのみ現れるのです。
教会がこの地に居座ることなどありません。
教会に安定や固定などあり得ないのです。私達は単に 寄る辺無き
何も持たない「やもめ」でなければならないのです。
「わが民よ、この女から離れなさい。」(黙18の4)
「あなた方はシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使い達の大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12の22)
2008年3月3日月曜日
総ての名の上に
キリスト昇天後の歴史の
その開始の封印を解いたのは誰あろう あの子羊であった。
(黙5の5)その歴史は今この瞬間にも進行中であり、そして
7つの封印の中で、遠からず7つのラッパが鳴り響き、
最後に7つの鉢がぶちまけられるであろう。
誰がこの歴史の運命を止めることなど出来ようか。
宇宙の歴史でさえ この子羊の手の中にあるのだ。
神は総ての名の上に この子羊を高く置かれたのである。
(エペソ1の21)総ての名とはこの時空の中にうごめく
あらゆる一切の邪悪な意思である。
それでは私達は何をするべきなのか。
それは唯「この偉大な子羊と私との一つ」の中に留まり、
そこに安息し、子羊を高く高くかかげるだけである。
このような私達(子羊と私達)を揺れ動かすもの等あり得るだろうか。
あるはずが無い。
「私は天においても、地においても、一切の権威が与えられている。
見よ、私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」
(マタイ28の18、20)
その開始の封印を解いたのは誰あろう あの子羊であった。
(黙5の5)その歴史は今この瞬間にも進行中であり、そして
7つの封印の中で、遠からず7つのラッパが鳴り響き、
最後に7つの鉢がぶちまけられるであろう。
誰がこの歴史の運命を止めることなど出来ようか。
宇宙の歴史でさえ この子羊の手の中にあるのだ。
神は総ての名の上に この子羊を高く置かれたのである。
(エペソ1の21)総ての名とはこの時空の中にうごめく
あらゆる一切の邪悪な意思である。
それでは私達は何をするべきなのか。
それは唯「この偉大な子羊と私との一つ」の中に留まり、
そこに安息し、子羊を高く高くかかげるだけである。
このような私達(子羊と私達)を揺れ動かすもの等あり得るだろうか。
あるはずが無い。
「私は天においても、地においても、一切の権威が与えられている。
見よ、私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」
(マタイ28の18、20)
2008年3月2日日曜日
3月2日です
7:49、
今朝早く外の気温はマイナス5度でした。
さて暫くぶり 朝の散歩に行って来ました。やはりいいですね。
とにかく朝の陽光を浴びるだけでも凄く得した気分になる。
実際得をしているんでしょう。
その得の一つ:
散歩から帰った際 直ちに、その勢いを利用して外の仕事を少しこなして
しまうと言うのはいい方法です。いったん小屋に着いて自分の部屋に
どっかり落ち着いてしまってからだと どうにも億劫になってしまう
ような事でも その勢いを利用すると何の苦も無く出来てしまう。
「勢いのエネルギー」ですね。これバカにならない。
暫く前 ロフトの窓から 小屋の前の道を野うさぎが左から右へ正に
「脱兎の如く」疾走するのを目撃しました。その野生のスピードの凄さ。
野うさぎが林の中でなくて 人間の作った道路をオリンピックのアスリート
よろしく真っ直ぐに走るなんて面白い。
だからこそ そのスピードが増幅されて感じられたのでしょう。
さあ今日は何があるのかな。外は明るい春の日差しです。
今朝早く外の気温はマイナス5度でした。
さて暫くぶり 朝の散歩に行って来ました。やはりいいですね。
とにかく朝の陽光を浴びるだけでも凄く得した気分になる。
実際得をしているんでしょう。
その得の一つ:
散歩から帰った際 直ちに、その勢いを利用して外の仕事を少しこなして
しまうと言うのはいい方法です。いったん小屋に着いて自分の部屋に
どっかり落ち着いてしまってからだと どうにも億劫になってしまう
ような事でも その勢いを利用すると何の苦も無く出来てしまう。
「勢いのエネルギー」ですね。これバカにならない。
暫く前 ロフトの窓から 小屋の前の道を野うさぎが左から右へ正に
「脱兎の如く」疾走するのを目撃しました。その野生のスピードの凄さ。
野うさぎが林の中でなくて 人間の作った道路をオリンピックのアスリート
よろしく真っ直ぐに走るなんて面白い。
だからこそ そのスピードが増幅されて感じられたのでしょう。
さあ今日は何があるのかな。外は明るい春の日差しです。
2008年3月1日土曜日
3月1日ですよ
お蔭様で「外の水道から水をくんで生活する」は早くも夕べと今朝で
終了することが出来ました。なぜか、例の水が出っぱなしの洗面の
カランは 洗面台下の水とお湯の2つの管を一時的に封鎖して
しまったからです。(いわゆる「メクラにする」と言う作業です)
それでこれから洗面の装置をどうするかですが、今の所
お湯と水を適温に混合すると言う 今ではどこにでもある例の高級な
装置はもうやめて 昔ながらのお湯はお湯、水は水の2つのカランを
つけようと思っております。高級よりも故障しない方がいいのです。
特にこれから自分でメンテナンスをして行くとなると、特にそうですね。
単純、簡単、気楽が一番。人生もそうなのかな?
それで次は 郡山までカントリータッチの蛇口を買いに行くか、
と言うことですが 蛇口のためにわざわざ郡山まで行くと言うのは
チト辛いものがありますね。で、洗面台使用は5月あたりから
と言うことになるでしょう。(今度のお客様には不便をおかけ致します)
それで明日からは次週来られるお客様達の為の準備にかかります。
どうしても必要なことは ストーブの薪、それと寝具の点検、
シーツの洗濯と掃除、片付けくらいかな。
セルフビルドのこの粗末な小屋に皆さんに来ていただいて
一番喜んでいたのは実のところ 当の自分だったなんて
これを発見したのはつい数年前のことでした。
人って分からないものですね、他人が分からないのは当然です。
なにしろ何十年もの間 自分が自分の好みを全く知らなかった
と言うのですから。
日も傾いて来ました。
今日あたり散歩に行くべきタイミングなのですが今
相当強い風が吹いています。これでは一寸無理でしょう。
今日はあと 小屋でゆっくりと過ごします。
夕食はインスタントラーメンにキャベツ、玉ねぎ、あとは豚肉と
ソーセージを加え、それで足らなかったら
追加で餅でも入れるとしますか。
それでは今日はこの辺で。
終了することが出来ました。なぜか、例の水が出っぱなしの洗面の
カランは 洗面台下の水とお湯の2つの管を一時的に封鎖して
しまったからです。(いわゆる「メクラにする」と言う作業です)
それでこれから洗面の装置をどうするかですが、今の所
お湯と水を適温に混合すると言う 今ではどこにでもある例の高級な
装置はもうやめて 昔ながらのお湯はお湯、水は水の2つのカランを
つけようと思っております。高級よりも故障しない方がいいのです。
特にこれから自分でメンテナンスをして行くとなると、特にそうですね。
単純、簡単、気楽が一番。人生もそうなのかな?
それで次は 郡山までカントリータッチの蛇口を買いに行くか、
と言うことですが 蛇口のためにわざわざ郡山まで行くと言うのは
チト辛いものがありますね。で、洗面台使用は5月あたりから
と言うことになるでしょう。(今度のお客様には不便をおかけ致します)
それで明日からは次週来られるお客様達の為の準備にかかります。
どうしても必要なことは ストーブの薪、それと寝具の点検、
シーツの洗濯と掃除、片付けくらいかな。
セルフビルドのこの粗末な小屋に皆さんに来ていただいて
一番喜んでいたのは実のところ 当の自分だったなんて
これを発見したのはつい数年前のことでした。
人って分からないものですね、他人が分からないのは当然です。
なにしろ何十年もの間 自分が自分の好みを全く知らなかった
と言うのですから。
日も傾いて来ました。
今日あたり散歩に行くべきタイミングなのですが今
相当強い風が吹いています。これでは一寸無理でしょう。
今日はあと 小屋でゆっくりと過ごします。
夕食はインスタントラーメンにキャベツ、玉ねぎ、あとは豚肉と
ソーセージを加え、それで足らなかったら
追加で餅でも入れるとしますか。
それでは今日はこの辺で。
2008年2月29日金曜日
戻りました
さきほど着きました。
雪ですか、しっかりありますよ。でも大分 解けていますけどね。
到着して直ぐ 新水道管の凍結具合を点検。オーケーでしたよ。
水抜き作戦、一応は成功だったのでしょう。
ま この暖かさですからね。朝凍結していたとしても
日中の高温で管の中の氷も解けてしまったのかも知れませんが。
それは良かったのですが 2つのトラブルが待っていたのです。
一つは以前使用していたLDKのシンクに至る古い塩ビ管の水道から
何とジャンジャン漏水していたのですよ。
おかげで地下部屋の北側が水浸しの惨状。
しかしラッキーにもその管を封鎖するキャップが偶然あったので
直ぐに処置出来たのです。これはよかった。
もう一つは洗面の蛇口からの漏水です。(原因は内部のカートリッジ
らしい)これは今回下山する前から少量あったのですが、
今それが相当の水量になっていたのです。この水は絶対に
止めないといけないわけですが、処置は明日ですね。仕方がない、
取り合えず今日は元栓を止めるだけの応急処置だけ。生活用水は
外のガーデン用の蛇口からくめばいいのです。でも
さすがに 正直少々疲れましたね。
と言うわけで今ようやく「人ごこち」ついたところです。
やっぱり山はいいです。このロフトの自分の部屋に落ち着くと
ホンと安心する。
実家の自分の部屋もいいのですが あそこは寒い!これは
この小屋の壁の15センチ厚の断熱材の威力ですね。
このロフトの小部屋の小さなストーブを焚いたとき ホワーッと来る
暖かさの心地よさが実家とは 全然違うのです。
ブログ いつの間にかこんなに書いてしまった。
やっぱり山は 私にブログを書かせる何かを持っているのだろうか。
もう一つのロフトのあの窓のこと、開いていませんでしたよ。
あの方達 今回は来なかったらしい。
雪ですか、しっかりありますよ。でも大分 解けていますけどね。
到着して直ぐ 新水道管の凍結具合を点検。オーケーでしたよ。
水抜き作戦、一応は成功だったのでしょう。
ま この暖かさですからね。朝凍結していたとしても
日中の高温で管の中の氷も解けてしまったのかも知れませんが。
それは良かったのですが 2つのトラブルが待っていたのです。
一つは以前使用していたLDKのシンクに至る古い塩ビ管の水道から
何とジャンジャン漏水していたのですよ。
おかげで地下部屋の北側が水浸しの惨状。
しかしラッキーにもその管を封鎖するキャップが偶然あったので
直ぐに処置出来たのです。これはよかった。
もう一つは洗面の蛇口からの漏水です。(原因は内部のカートリッジ
らしい)これは今回下山する前から少量あったのですが、
今それが相当の水量になっていたのです。この水は絶対に
止めないといけないわけですが、処置は明日ですね。仕方がない、
取り合えず今日は元栓を止めるだけの応急処置だけ。生活用水は
外のガーデン用の蛇口からくめばいいのです。でも
さすがに 正直少々疲れましたね。
と言うわけで今ようやく「人ごこち」ついたところです。
やっぱり山はいいです。このロフトの自分の部屋に落ち着くと
ホンと安心する。
実家の自分の部屋もいいのですが あそこは寒い!これは
この小屋の壁の15センチ厚の断熱材の威力ですね。
このロフトの小部屋の小さなストーブを焚いたとき ホワーッと来る
暖かさの心地よさが実家とは 全然違うのです。
ブログ いつの間にかこんなに書いてしまった。
やっぱり山は 私にブログを書かせる何かを持っているのだろうか。
もう一つのロフトのあの窓のこと、開いていませんでしたよ。
あの方達 今回は来なかったらしい。
2008年2月28日木曜日
近況です
家族の必要があり、まだ下におります。
花粉症仲間の皆様、今年はいかがですか。私は 最近までそのきざしが
全くなく あれっ今年は来ないのかなと内心ほくそえんでいたのですが
きのうあたりから一寸 鼻がおかしくなって来ています。やっぱりね。
そうは問屋が卸さない、と言うところでしょうか。
先日 野田の集まりに行くとき スゴイ風と土ぼこりのブリザード!
何とライトを点灯したのですよ、真昼間に。
5メートル先が見えないとはね。
でも集まりは楽しかった。「火、底知れない穴、水」と一寸恐ろしげな話
だったのですが、皆なぜか幸福感につつまれた。クリスチャンと言うのは
ホンとに不思議な種族です。
ケンは何とか仕事に行っているのですが(これだけでも凄いこと
には違いないのですが)少々気分のウツ状態に悩んでいます。
本来の病気のケは 殆ど去っているようなのですが、
これは一体 何なんでしょうか。
復活させられた手足を捧げよ、とパウロは言っています(ローマ書6章)。
これは キリスト者はその霊のみならず手足も復活していると
パウロは言っているわけで、よく聞く「体の復活は将来である」との教えと
一見矛盾しているようです。皆さんはこれをどう調和させますか。
明日あたり山に帰るとして 心配なのはやはり凍結です。山はまだ暫くは
全くの冬。水抜きが対凍結の抜本的方策と、このところイモクボ氏の
協力を得て頑張って来たわけです。その一つの成果が今回帰った際
見られるかなと言うところなのです。楽しみと心配が半々です。
だから明日は早めに小屋に着くようにしないと。
花粉症仲間の皆様、今年はいかがですか。私は 最近までそのきざしが
全くなく あれっ今年は来ないのかなと内心ほくそえんでいたのですが
きのうあたりから一寸 鼻がおかしくなって来ています。やっぱりね。
そうは問屋が卸さない、と言うところでしょうか。
先日 野田の集まりに行くとき スゴイ風と土ぼこりのブリザード!
何とライトを点灯したのですよ、真昼間に。
5メートル先が見えないとはね。
でも集まりは楽しかった。「火、底知れない穴、水」と一寸恐ろしげな話
だったのですが、皆なぜか幸福感につつまれた。クリスチャンと言うのは
ホンとに不思議な種族です。
ケンは何とか仕事に行っているのですが(これだけでも凄いこと
には違いないのですが)少々気分のウツ状態に悩んでいます。
本来の病気のケは 殆ど去っているようなのですが、
これは一体 何なんでしょうか。
復活させられた手足を捧げよ、とパウロは言っています(ローマ書6章)。
これは キリスト者はその霊のみならず手足も復活していると
パウロは言っているわけで、よく聞く「体の復活は将来である」との教えと
一見矛盾しているようです。皆さんはこれをどう調和させますか。
明日あたり山に帰るとして 心配なのはやはり凍結です。山はまだ暫くは
全くの冬。水抜きが対凍結の抜本的方策と、このところイモクボ氏の
協力を得て頑張って来たわけです。その一つの成果が今回帰った際
見られるかなと言うところなのです。楽しみと心配が半々です。
だから明日は早めに小屋に着くようにしないと。
2008年2月20日水曜日
カリカリ根雪便り
今朝もまた
カリカリ根雪のミズナラの林から強い朝日が昇って来た。
静まり返ったカリマンの杜の幸せ、今日は何があるんだろう。
昨日は午後から凍結防止の水抜きを正しく機能させるための
カキオポリ手直し工事。ヤレヤレ。
でも夕方からはイモクボ氏が来てくれて大助かり。
輝く2月の月が彼の帰り道を明るくした。
トイレのウオッシュレットが壊れてしまい、おととい普通の便座に交換。
でも 昨年ドイツに持参した携帯用ウオッシュレットで
何とかなる見込みです。これ お客さんたちもよければどうぞ。
コントラストは「際立たせ」ですね。さっきこの語彙に気づきました。
マルシアとセージが沖縄行きのチケットが取れなかったとかで、
3月も来てくれるのかなと言う感じ。
5月のコシアブラ天麩羅パーティはやはりメインだとしても。
多分あしたは旅、今回の下界滞在は長くはない見込み。
でもまた何があるのだろう、やはり楽しみです。
と言うわけで、今日は留守中の対凍結作戦の仕上げです。
水を抜くのか、流れ水にするのか、当然水抜きでしょうね。
いまローマ書の「復活の手足を捧げる」に注目、
これには相当大きな宝が隠されている気配なのです。
3月初旬のお客様、
皆様に主の大きな祝福があらんことを。
カリカリ根雪のミズナラの林から強い朝日が昇って来た。
静まり返ったカリマンの杜の幸せ、今日は何があるんだろう。
昨日は午後から凍結防止の水抜きを正しく機能させるための
カキオポリ手直し工事。ヤレヤレ。
でも夕方からはイモクボ氏が来てくれて大助かり。
輝く2月の月が彼の帰り道を明るくした。
トイレのウオッシュレットが壊れてしまい、おととい普通の便座に交換。
でも 昨年ドイツに持参した携帯用ウオッシュレットで
何とかなる見込みです。これ お客さんたちもよければどうぞ。
コントラストは「際立たせ」ですね。さっきこの語彙に気づきました。
マルシアとセージが沖縄行きのチケットが取れなかったとかで、
3月も来てくれるのかなと言う感じ。
5月のコシアブラ天麩羅パーティはやはりメインだとしても。
多分あしたは旅、今回の下界滞在は長くはない見込み。
でもまた何があるのだろう、やはり楽しみです。
と言うわけで、今日は留守中の対凍結作戦の仕上げです。
水を抜くのか、流れ水にするのか、当然水抜きでしょうね。
いまローマ書の「復活の手足を捧げる」に注目、
これには相当大きな宝が隠されている気配なのです。
3月初旬のお客様、
皆様に主の大きな祝福があらんことを。
2008年2月19日火曜日
コントラスト(2)
コントラストは当然
そこにあるA とB が接近していればいるほど効果的です。
さて神があるコントラストを示そうとする時は多くの場合
A,B は極めて近い所にあるどころか 両者は一つです。
例えば、パウロは私達と同じように時空に閉じ込められた人です。
(閉じ込めこそ死の一つの機能です)そして更に
彼の同労者達にさえ見捨てられ年老いたパウロは今再び
牢獄と言う四角い壁の中に文字通り封鎖された「囚人」
(漢字は意味深長ですね)となったのです。
これこそ世に言う不幸そのものでなくて何でしょう。
しかし
彼はその不幸の只中で 自分はネロの囚人であるかも知れないが
同時に「主の囚人」でもあると言う真理に気づいたのです。(2テモテ1の8)
その時パウロは「今自分が復活のキリストの中にいると言う真理」が
「牢獄に閉じ込められていると言う現実」と比べるなら
前者がはるかに優位な「永遠の真理」であることを改めて認識し
それを当然の事実として認めたのです。
このようなパウロの信仰を通して 神の永遠の真理が時空の中に降ろされ、
「閉じ込められと言う現実」を遥かに凌駕(りょうが)する
「時空からの超越という復活の現実」が パウロという一点において
つぶさに観察されることとなったのです。
その結果、パウロを閉じ込めた皇帝ネロの側近達さえも この際立つ
明確なコントラストによって救われたのだと思われます。(ピリピ4の22)
パウロは多くの人々の病気を癒しました。しかし主はこの有力な働き人
当人の 常に彼を不快にしてやまない眼病や、そして最後まで忠実だった
同労者テモテの胃の病を敢えて癒すことはありませんでした。それも
ひとえに 神がこのコントラストを宇宙に展覧するためであったのです。
虚飾に覆われた古代ローマの喧騒も届かない、人が見向きすることさえない
暗い不潔な牢獄の片隅で 神の敵に対し誇示されたこのコントラストは
パウロの大いなる働きにさえ勝って貴重である と言うメッセージを
今神は敢えて私達に伝えようとされているのではないでしょうか。
(この後パウロは程なくネロのキリスト者大量殺戮の中で殉教した。)
さて
黙示録にとても意外な事実が暗示されています(もしも私が間違って
いなければ。)それは 神の御座や神への賛美の場所が
火の池を示すであろう「火の混じったガラスの海」と とても近い所に
存在しているということです。(4の6、15の2)
コントラストは多分神にとって 小さなテーマではないのでしょう。
或いは「正邪のコントラスト」はいつまでもそこにあり 総ての者が
それ(御座・勝利のキリスト者 対 ガラスの中の火 と言うコントラスト)を
永遠に目の当たりにし続けるのかも知れません。
そこにあるA とB が接近していればいるほど効果的です。
さて神があるコントラストを示そうとする時は多くの場合
A,B は極めて近い所にあるどころか 両者は一つです。
例えば、パウロは私達と同じように時空に閉じ込められた人です。
(閉じ込めこそ死の一つの機能です)そして更に
彼の同労者達にさえ見捨てられ年老いたパウロは今再び
牢獄と言う四角い壁の中に文字通り封鎖された「囚人」
(漢字は意味深長ですね)となったのです。
これこそ世に言う不幸そのものでなくて何でしょう。
しかし
彼はその不幸の只中で 自分はネロの囚人であるかも知れないが
同時に「主の囚人」でもあると言う真理に気づいたのです。(2テモテ1の8)
その時パウロは「今自分が復活のキリストの中にいると言う真理」が
「牢獄に閉じ込められていると言う現実」と比べるなら
前者がはるかに優位な「永遠の真理」であることを改めて認識し
それを当然の事実として認めたのです。
このようなパウロの信仰を通して 神の永遠の真理が時空の中に降ろされ、
「閉じ込められと言う現実」を遥かに凌駕(りょうが)する
「時空からの超越という復活の現実」が パウロという一点において
つぶさに観察されることとなったのです。
その結果、パウロを閉じ込めた皇帝ネロの側近達さえも この際立つ
明確なコントラストによって救われたのだと思われます。(ピリピ4の22)
パウロは多くの人々の病気を癒しました。しかし主はこの有力な働き人
当人の 常に彼を不快にしてやまない眼病や、そして最後まで忠実だった
同労者テモテの胃の病を敢えて癒すことはありませんでした。それも
ひとえに 神がこのコントラストを宇宙に展覧するためであったのです。
虚飾に覆われた古代ローマの喧騒も届かない、人が見向きすることさえない
暗い不潔な牢獄の片隅で 神の敵に対し誇示されたこのコントラストは
パウロの大いなる働きにさえ勝って貴重である と言うメッセージを
今神は敢えて私達に伝えようとされているのではないでしょうか。
(この後パウロは程なくネロのキリスト者大量殺戮の中で殉教した。)
さて
黙示録にとても意外な事実が暗示されています(もしも私が間違って
いなければ。)それは 神の御座や神への賛美の場所が
火の池を示すであろう「火の混じったガラスの海」と とても近い所に
存在しているということです。(4の6、15の2)
コントラストは多分神にとって 小さなテーマではないのでしょう。
或いは「正邪のコントラスト」はいつまでもそこにあり 総ての者が
それ(御座・勝利のキリスト者 対 ガラスの中の火 と言うコントラスト)を
永遠に目の当たりにし続けるのかも知れません。
2008年2月18日月曜日
コントラスト
イエスはある人について
「その人が盲目に生まれついたのは
神の業がその人に現れるためである」と言われました。
盲目に限らずこの世界は不幸、不快、苦痛、圧迫、不自由、争い、
老化、病、肉体の死等々
大小ありとあらゆる様相の死で満ち満ちています。
人生は泣いて生まれ涙して死ぬ 正に「生老病死」なのです。
それではキリストの贖いが完了しているにもかかわらず、
なぜキリスト者にさえ 生老病死があるのでしょうか。そして
イエスの言われた神の業とは一体 どのような業なのでしょうか。
それは ひとえに
神の敵が恥辱をこうむる為に
「サタンから来る死を起源とする不幸」の只中から、
正に不快そのものの真ん中から、復活を出現させ そこに鮮やかな
死と復活のコントラストを見せるためなのです。
不幸の度合いが強ければ強いほどコントラストは
その鮮やかさを増すでしょう。コントラストとはそう言うものです。
神は 彼の万能のさじ加減を用いて日々総てのキリスト者の
状況にちょうどふさわしい色々な「不快」の到来を敢えて許すのです。
(人が 全知全能なる愛の神の手によるそのさじ加減に対し
何らかの異議を申し立てることはなかなか難しいことです。)
様々な顔を持つ死のあなたへの到来 それはひたすら
私達の人生のあらゆる場面において あのキリストにおける
「死と復活と言う宇宙最大のコントラスト」を 正に「あなたの現場」
において再現させ それによってサタンをもう一度驚愕させ もう一度
彼に恥をこうむらせる為なのです。いわゆる世に言う不幸、それは
とても短いこの時代と人生において 神の明確な意図のもとに 敢えて
わざととっておかれた「第一の死」なのです。
当然のことながら 水によって象徴されるこの第一の死は キリストの復活
によってたやすく悠々と征服され得ることを神は十分にご存知です。
(問題はその神を信じることが出来ない私達にあると言ってよいでしょう。)
神は 未だに残されている時空の中
キリスト者にさえ降りかかるこの第一の死の只中から
悠然と出て来ることが出来るキリストの命の偉大さを
この世のありとあらゆる場所において鮮明なコントラストとして
全宇宙に対して 何度でも何度でも展覧しようとされるのです。
その際、その背景としてどうしても必要とされるもの、
それがこの時代における「情けない引き立て役ども、ささやかな不幸達」の
どうにも割に合わない役どころです。
神の業 それは単に「死のど真ん中から復活の命を悠然と生じさせること」
に他なりません。
「その人が盲目に生まれついたのは
神の業がその人に現れるためである」と言われました。
盲目に限らずこの世界は不幸、不快、苦痛、圧迫、不自由、争い、
老化、病、肉体の死等々
大小ありとあらゆる様相の死で満ち満ちています。
人生は泣いて生まれ涙して死ぬ 正に「生老病死」なのです。
それではキリストの贖いが完了しているにもかかわらず、
なぜキリスト者にさえ 生老病死があるのでしょうか。そして
イエスの言われた神の業とは一体 どのような業なのでしょうか。
それは ひとえに
神の敵が恥辱をこうむる為に
「サタンから来る死を起源とする不幸」の只中から、
正に不快そのものの真ん中から、復活を出現させ そこに鮮やかな
死と復活のコントラストを見せるためなのです。
不幸の度合いが強ければ強いほどコントラストは
その鮮やかさを増すでしょう。コントラストとはそう言うものです。
神は 彼の万能のさじ加減を用いて日々総てのキリスト者の
状況にちょうどふさわしい色々な「不快」の到来を敢えて許すのです。
(人が 全知全能なる愛の神の手によるそのさじ加減に対し
何らかの異議を申し立てることはなかなか難しいことです。)
様々な顔を持つ死のあなたへの到来 それはひたすら
私達の人生のあらゆる場面において あのキリストにおける
「死と復活と言う宇宙最大のコントラスト」を 正に「あなたの現場」
において再現させ それによってサタンをもう一度驚愕させ もう一度
彼に恥をこうむらせる為なのです。いわゆる世に言う不幸、それは
とても短いこの時代と人生において 神の明確な意図のもとに 敢えて
わざととっておかれた「第一の死」なのです。
当然のことながら 水によって象徴されるこの第一の死は キリストの復活
によってたやすく悠々と征服され得ることを神は十分にご存知です。
(問題はその神を信じることが出来ない私達にあると言ってよいでしょう。)
神は 未だに残されている時空の中
キリスト者にさえ降りかかるこの第一の死の只中から
悠然と出て来ることが出来るキリストの命の偉大さを
この世のありとあらゆる場所において鮮明なコントラストとして
全宇宙に対して 何度でも何度でも展覧しようとされるのです。
その際、その背景としてどうしても必要とされるもの、
それがこの時代における「情けない引き立て役ども、ささやかな不幸達」の
どうにも割に合わない役どころです。
神の業 それは単に「死のど真ん中から復活の命を悠然と生じさせること」
に他なりません。
2008年2月16日土曜日
水と火
神には完全な徹底があるだけで
改善、改良、リフォームと言うものがありません。
正真正銘の無から有を、全きゼロから無限を生じさせるのが
神の妥協することのない原則です。
キリストにおける十字架と復活が正にそれです。
そしてそれは お情けで私達においては多少割り引かれて適用される
と言うことも決してありません。
私におけるキリスト以外のもの(神の為の何かであったとしても)が
一切死の水の中に完全に没し、溺死することがなければ、言い換えれば
私の総てをキリストの十字架と言う原型の中で100パーセント
処理させるのでなければ、そこには無がありません、ゼロがありません。
だから神は決してそこに有と無限(復活)を発生させることはないのです。
このことに例外は全くありません。クリスチャン生活の初日において
神はこの厳粛な現実を深く印象付けるために
敢えて私達を 象徴的に物質の水の中に溺死させたのです。
徹底的な死以外 復活に至ることはありません。そこに残ったキリスト
以外の残骸は必ず将来火によって完全に焼却されます。
そこにも妥協は一切ありません。
これはキリスト者にとっても決して免れることの出来ない現実です。
☆
あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。(ヨハネ)
改善、改良、リフォームと言うものがありません。
正真正銘の無から有を、全きゼロから無限を生じさせるのが
神の妥協することのない原則です。
キリストにおける十字架と復活が正にそれです。
そしてそれは お情けで私達においては多少割り引かれて適用される
と言うことも決してありません。
私におけるキリスト以外のもの(神の為の何かであったとしても)が
一切死の水の中に完全に没し、溺死することがなければ、言い換えれば
私の総てをキリストの十字架と言う原型の中で100パーセント
処理させるのでなければ、そこには無がありません、ゼロがありません。
だから神は決してそこに有と無限(復活)を発生させることはないのです。
このことに例外は全くありません。クリスチャン生活の初日において
神はこの厳粛な現実を深く印象付けるために
敢えて私達を 象徴的に物質の水の中に溺死させたのです。
徹底的な死以外 復活に至ることはありません。そこに残ったキリスト
以外の残骸は必ず将来火によって完全に焼却されます。
そこにも妥協は一切ありません。
これはキリスト者にとっても決して免れることの出来ない現実です。
☆
あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。(ヨハネ)
2008年2月11日月曜日
カナダから
シュガーさん 薪ストーブ持っているのですか?素晴らしい、それ一番です。
人里離れたフレイうザー川のそばの小屋に住み、砂金取りで
生計を立てているカナダ人と私は知りあいです。今68歳。彼は真冬でも、
真夏でも、暖房、料理、ごみ処理に薪ストーブを使っています。
彼の小屋の中はススで真っ黒ですが、なかなか良い雰囲気です。
何と彼はまだランプ生活です。彼の所持品の中で、古い60年代の
日本製の携帯ラジオだけが、唯一のハイテクの武器です。
彼によるとストーブは長期間 薪を燃やすと内側から薄くなってしまって、
いずれは穴が開く、それを防ぐには内側のストーブのメタルに
耐熱レンガを貼り付けるのだそうです。
人里離れたフレイうザー川のそばの小屋に住み、砂金取りで
生計を立てているカナダ人と私は知りあいです。今68歳。彼は真冬でも、
真夏でも、暖房、料理、ごみ処理に薪ストーブを使っています。
彼の小屋の中はススで真っ黒ですが、なかなか良い雰囲気です。
何と彼はまだランプ生活です。彼の所持品の中で、古い60年代の
日本製の携帯ラジオだけが、唯一のハイテクの武器です。
彼によるとストーブは長期間 薪を燃やすと内側から薄くなってしまって、
いずれは穴が開く、それを防ぐには内側のストーブのメタルに
耐熱レンガを貼り付けるのだそうです。
2008年2月9日土曜日
薪ストーブはウルサイ
2008年2月7日木曜日
祝辞
おめでとうございます。地面で凍結でしたか?それでは、いくら
真夏にしても、無理でしたねー。とにかく、色々な事を学びましたですね。
ゆっくり、お風呂にでも入ってお休み下さい。
ブログを読んでビックリ です。
ほんとうにシュガーさんがおしゃっていた通りにこんなふうに
どんでん返しが起きちゃったのですね。
もっともっと いろんなところでのどんでん返し 期待します。
本当に問題は「解けて」しまった!!
いやー良かったですねー。別系統の配管には恐れ入りました。
WOW、何だかスゴイですね。人生ならぬ、山暮らしはアドヴェンチャー!
それにしても別の配管があったって・・???
よかったですね。思わず投稿してしまいました。
・・ワクワクして来ます。
実況中継、有難うございた。
あなたのブログは生き生きしていますよ。ホンと戦いの記録ですね。
素晴らしかったです。残念ながら?最後には解決してしまいましたが、
クリスチャンの奮闘記としてはやはり、水道無し生活1ヶ月
ぐらいのものは書いて欲しかったですね!はは これは勝手過ぎました。
とにかく素晴らしい山奥の生活ですね。
(これカナダの友人からです。これ祝辞?)
☆
「小屋に住まれるお方」、そして皆様、
本当に有難うございました。
真夏にしても、無理でしたねー。とにかく、色々な事を学びましたですね。
ゆっくり、お風呂にでも入ってお休み下さい。
ブログを読んでビックリ です。
ほんとうにシュガーさんがおしゃっていた通りにこんなふうに
どんでん返しが起きちゃったのですね。
もっともっと いろんなところでのどんでん返し 期待します。
本当に問題は「解けて」しまった!!
いやー良かったですねー。別系統の配管には恐れ入りました。
WOW、何だかスゴイですね。人生ならぬ、山暮らしはアドヴェンチャー!
それにしても別の配管があったって・・???
よかったですね。思わず投稿してしまいました。
・・ワクワクして来ます。
実況中継、有難うございた。
あなたのブログは生き生きしていますよ。ホンと戦いの記録ですね。
素晴らしかったです。残念ながら?最後には解決してしまいましたが、
クリスチャンの奮闘記としてはやはり、水道無し生活1ヶ月
ぐらいのものは書いて欲しかったですね!はは これは勝手過ぎました。
とにかく素晴らしい山奥の生活ですね。
(これカナダの友人からです。これ祝辞?)
☆
「小屋に住まれるお方」、そして皆様、
本当に有難うございました。
2008年2月5日火曜日
突然ですが 全面解決でーす!
皆さん今 水ちゃんと出るんですよ。
それでは
全面解決に至る「幾つかの今日の不思議」を書いて見ましょう:
不思議1
「或いは春まで下の暮らしなのかな」と思っていた私が
今日の10時頃ですよ、突然「いや、やはり山に留まろう。この際
山で不便この上ない昔の生活の一端を経験して見るのも悪くないかも
知れない。水が出ないのならそれなりに創意工夫をして頑張って見るのも
また面白いではないか」等と180度考えが変わったのでした。これには
幾つかの要因もあったのですが 我ながらそれでもやはり不思議です。
不思議2
仕事を終えてから来てくれる筈のイモクボ氏が彼の勤務中の!昼前に
来訪、そして現場の地下室に入り ヘッダーと言う装置の上部の栓を
外して調べ、鮮やかにも「多分水はこのポイントよりも前で
凍っているだろう」との見解を示したのです。
不思議3
そうこうしている内に、外を見ると何と今日は来ないはずの業者の
黒塗りの車が小屋に到着したではありませんか。そして降り立った業者氏、
イモクボさんの判断を聞くやいなや直ちに 外に飛び出しスコップを
手に持ち 埋設された配管の凍結部分の「探索」をする為に 凍結して
硬くなった露天の地面を掘りかえし始め、そして彼ようやく現れた
パイプの一箇所を切断しその内部状態をじかに調べたのです。
何とそこにも水は来ていなかった。
その意味は 凍結はこの地点よりもまだ遠くのどこかに隠れている、
と言うことです。いずれにしろ ここで凍結の所在が他ならぬ
土の中にあると言うことが遂に突き止められたわけです。
不思議4
しかしまあ その判明はよいとしても、これ以後の
作業は決して楽なものではないことが容易に予想されます。もしもそれを
実行していたとすれば 或いは大変な労力と時間を要したかも
知れません(運が悪ければ数日も)。しかしその時です、
地下室の諸設備の真下に 全く別系統の水道パイプの存在が
サッとばかりに浮上したのです。更にその上 それは小屋の「縁の下」
部分を走っているが故に 非常に凍結に強い水道系であったのです。
これならこれからの冬も、多分凍結などどこ吹く風でしょう。
これは正にラッキー以上のラッキーに他なりません。
この発見でもう 勝負の態勢は決まったも同然なのです。
☆
あとはこの水道系に 小屋全体の各所に分岐するパイプの大もとを
繋げばよいのです。そのようにして実に目出度く 夕方も待たずして
工事はほぼ完了の運びとなったと言う顛末なのです。
今日に関する限り不思議にも 総ては見事にサササッと進んで行きました。
これがこの日の明らかな特徴でした。
今晩にも私は自分のお風呂に入れるのです。どう見てもこれは
つくずくと「不思議だ」と言わなければならないことの様です。
それでは
全面解決に至る「幾つかの今日の不思議」を書いて見ましょう:
不思議1
「或いは春まで下の暮らしなのかな」と思っていた私が
今日の10時頃ですよ、突然「いや、やはり山に留まろう。この際
山で不便この上ない昔の生活の一端を経験して見るのも悪くないかも
知れない。水が出ないのならそれなりに創意工夫をして頑張って見るのも
また面白いではないか」等と180度考えが変わったのでした。これには
幾つかの要因もあったのですが 我ながらそれでもやはり不思議です。
不思議2
仕事を終えてから来てくれる筈のイモクボ氏が彼の勤務中の!昼前に
来訪、そして現場の地下室に入り ヘッダーと言う装置の上部の栓を
外して調べ、鮮やかにも「多分水はこのポイントよりも前で
凍っているだろう」との見解を示したのです。
不思議3
そうこうしている内に、外を見ると何と今日は来ないはずの業者の
黒塗りの車が小屋に到着したではありませんか。そして降り立った業者氏、
イモクボさんの判断を聞くやいなや直ちに 外に飛び出しスコップを
手に持ち 埋設された配管の凍結部分の「探索」をする為に 凍結して
硬くなった露天の地面を掘りかえし始め、そして彼ようやく現れた
パイプの一箇所を切断しその内部状態をじかに調べたのです。
何とそこにも水は来ていなかった。
その意味は 凍結はこの地点よりもまだ遠くのどこかに隠れている、
と言うことです。いずれにしろ ここで凍結の所在が他ならぬ
土の中にあると言うことが遂に突き止められたわけです。
不思議4
しかしまあ その判明はよいとしても、これ以後の
作業は決して楽なものではないことが容易に予想されます。もしもそれを
実行していたとすれば 或いは大変な労力と時間を要したかも
知れません(運が悪ければ数日も)。しかしその時です、
地下室の諸設備の真下に 全く別系統の水道パイプの存在が
サッとばかりに浮上したのです。更にその上 それは小屋の「縁の下」
部分を走っているが故に 非常に凍結に強い水道系であったのです。
これならこれからの冬も、多分凍結などどこ吹く風でしょう。
これは正にラッキー以上のラッキーに他なりません。
この発見でもう 勝負の態勢は決まったも同然なのです。
☆
あとはこの水道系に 小屋全体の各所に分岐するパイプの大もとを
繋げばよいのです。そのようにして実に目出度く 夕方も待たずして
工事はほぼ完了の運びとなったと言う顛末なのです。
今日に関する限り不思議にも 総ては見事にサササッと進んで行きました。
これがこの日の明らかな特徴でした。
今晩にも私は自分のお風呂に入れるのです。どう見てもこれは
つくずくと「不思議だ」と言わなければならないことの様です。
報告します
完全な静寂につつまれたカリマンの
何とも美しい 雪と氷と光の夜明けです。
さて皆さん、
今 翌朝6時、残念ながら水は全く出てくれません。
これでストーブでの水道管の暖めがほぼ丸一日経過したわけです。
きのう朝7:40からストーブ4台、午後からは3台、夜は2台で
暖めました。最高温度は40度、夜も10度は下らなかったのでは
ないでしょうか。(今見てきました、26度でした。7:30現在)
従って地下室内の新水道管の凍結は いくらなんでも解けた
のではないでしょうか。
仮にそうなると他に考えられる原因は2つ:
(1)土の中か 或いは(2)土から出て外気に触れ地下室に至る
部分です。(ここには電熱ヒーターを巻いたのであるが
或いは巻き方に問題があったのか?)
今晩イモクボ氏が来てくれます。
それでも駄目なら明日業者を呼びます。
しかし業者が来れば解決、とは必ずしもなりません。
その場合は山小屋、この冬はこれで店じまいとあいなります。
そうなれば7日か8日に私も下山ですネ。(少なくも3月末までは)
とりあえずはこれにて 厳冬の凍結水道との戦い、
その実況中継は終了とさせていただきます。
日本全国の皆様、そしてカナダの皆様
真にご清聴有難うございました。
何とも美しい 雪と氷と光の夜明けです。
さて皆さん、
今 翌朝6時、残念ながら水は全く出てくれません。
これでストーブでの水道管の暖めがほぼ丸一日経過したわけです。
きのう朝7:40からストーブ4台、午後からは3台、夜は2台で
暖めました。最高温度は40度、夜も10度は下らなかったのでは
ないでしょうか。(今見てきました、26度でした。7:30現在)
従って地下室内の新水道管の凍結は いくらなんでも解けた
のではないでしょうか。
仮にそうなると他に考えられる原因は2つ:
(1)土の中か 或いは(2)土から出て外気に触れ地下室に至る
部分です。(ここには電熱ヒーターを巻いたのであるが
或いは巻き方に問題があったのか?)
今晩イモクボ氏が来てくれます。
それでも駄目なら明日業者を呼びます。
しかし業者が来れば解決、とは必ずしもなりません。
その場合は山小屋、この冬はこれで店じまいとあいなります。
そうなれば7日か8日に私も下山ですネ。(少なくも3月末までは)
とりあえずはこれにて 厳冬の凍結水道との戦い、
その実況中継は終了とさせていただきます。
日本全国の皆様、そしてカナダの皆様
真にご清聴有難うございました。
2008年2月4日月曜日
いざ勝負
夜明けの逆三日月が白い林の梢に掛かる。
快晴、外気は氷点下7度。
促すものがあり、早々7時半作業開始。
7:40、灯油ストーブ4台を地下室に持ち込み、点火。
間もなく室温は25度に。外用の冬の作業着姿だと暑くてたまらない。
あちこちのすき間に目張りをして地下室を退散。
注意するべきは火災である。十分配慮した積もりではあるが・・。
しかし、凍結解除が長引いた場合、何時間、何日まで頑張るべきなのか。
その意味:それは一旦勝負に出たら途中でやるわけには行かない
と言うことです。もしも夜ストーブを止めてしまったらそれは
モトのモクアミ、水道管は夜明けにしっかりと再凍結してしまうからです。
正に黒白二道、勝つか負けるか、ですね。うん、それで試合は
今日の日中いっぱいか、それとも夜中も4台のストーブを
付けっぱなしにして寝てしまうのか。更に2日間、3日間?
ま、せいぜい2月6日までの3日間くらいでしょうね。
8:30、少し様子を見てこようか。やはりこの際 気に掛かるのは火。
地下室、異常なし。室温は25度、あれっ、さっき25度だと思ったのは
15度だったのかな?
曲げが可能なこの水道管は一寸触れると中の氷がカチカチッと
音を出すのだが 今回その音が無かった。これをどう考えるべきなのかな。
50分が経過したが水の出る気配は全く無し。
9:20、室温30度、暑い。排水の塩ビ管なども相当熱を持っている。
新水道管が解氷したとしても もしも地下の部分で凍結していたら水は
絶対に出ないのだ、と言う考えが浮かぶ。ま しかし今回はそれは無い、
と腹を決めるべきであろう。新水道管内が解氷すれば水は出るのだ!
これもある意味「信仰」見たいなものかも知れない。
ここで休憩を取ろう。洗面くらいはしないとネ。
12:35、室温38度。ほぼ5時間経過。しかし変化は全く無し。
多分 勝負はせいぜい24時間ですね。
カナダの友人からのメール:
「34度とはまた、真夏じゃないですか、それくらいでしたら
もう時間の問題でしょう。」この励ましに思わずすがりつく我が心よ。
2月の明るい空が ロフトの窓から。ああ、散歩にでも行きたいなー。
1:40、室温40度。ストーブ一個を消す。
ジタバタしてもしょうがない。私はやるべきことを淡々とこなすだけ。
それしか出来ない。人の分限を超えたことに触れようとしてはならない。
今楽しいコメントが。これを称して「水道実況中継」とのこと。
3:38、
どうも形勢は不利だ。雰囲気としては負けの予感。何しろ気配の全体が
全くウンでもスンでもないのだから。諸条件を合理的に考えるに、
総ての温度が、つまり土の下の温度でさえ高くならないと駄目らしい、
要するに春にならないとどうにもならないんじゃないか
等と言う考えがよぎる。
しかしね、でもね、まだ分からないよ。どんでん返しがあるかもよ。
そう、淡々と行こう、少なくとも明日の朝までは。
快晴、外気は氷点下7度。
促すものがあり、早々7時半作業開始。
7:40、灯油ストーブ4台を地下室に持ち込み、点火。
間もなく室温は25度に。外用の冬の作業着姿だと暑くてたまらない。
あちこちのすき間に目張りをして地下室を退散。
注意するべきは火災である。十分配慮した積もりではあるが・・。
しかし、凍結解除が長引いた場合、何時間、何日まで頑張るべきなのか。
その意味:それは一旦勝負に出たら途中でやるわけには行かない
と言うことです。もしも夜ストーブを止めてしまったらそれは
モトのモクアミ、水道管は夜明けにしっかりと再凍結してしまうからです。
正に黒白二道、勝つか負けるか、ですね。うん、それで試合は
今日の日中いっぱいか、それとも夜中も4台のストーブを
付けっぱなしにして寝てしまうのか。更に2日間、3日間?
ま、せいぜい2月6日までの3日間くらいでしょうね。
8:30、少し様子を見てこようか。やはりこの際 気に掛かるのは火。
地下室、異常なし。室温は25度、あれっ、さっき25度だと思ったのは
15度だったのかな?
曲げが可能なこの水道管は一寸触れると中の氷がカチカチッと
音を出すのだが 今回その音が無かった。これをどう考えるべきなのかな。
50分が経過したが水の出る気配は全く無し。
9:20、室温30度、暑い。排水の塩ビ管なども相当熱を持っている。
新水道管が解氷したとしても もしも地下の部分で凍結していたら水は
絶対に出ないのだ、と言う考えが浮かぶ。ま しかし今回はそれは無い、
と腹を決めるべきであろう。新水道管内が解氷すれば水は出るのだ!
これもある意味「信仰」見たいなものかも知れない。
ここで休憩を取ろう。洗面くらいはしないとネ。
12:35、室温38度。ほぼ5時間経過。しかし変化は全く無し。
多分 勝負はせいぜい24時間ですね。
カナダの友人からのメール:
「34度とはまた、真夏じゃないですか、それくらいでしたら
もう時間の問題でしょう。」この励ましに思わずすがりつく我が心よ。
2月の明るい空が ロフトの窓から。ああ、散歩にでも行きたいなー。
1:40、室温40度。ストーブ一個を消す。
ジタバタしてもしょうがない。私はやるべきことを淡々とこなすだけ。
それしか出来ない。人の分限を超えたことに触れようとしてはならない。
今楽しいコメントが。これを称して「水道実況中継」とのこと。
3:38、
どうも形勢は不利だ。雰囲気としては負けの予感。何しろ気配の全体が
全くウンでもスンでもないのだから。諸条件を合理的に考えるに、
総ての温度が、つまり土の下の温度でさえ高くならないと駄目らしい、
要するに春にならないとどうにもならないんじゃないか
等と言う考えがよぎる。
しかしね、でもね、まだ分からないよ。どんでん返しがあるかもよ。
そう、淡々と行こう、少なくとも明日の朝までは。
2008年2月3日日曜日
問題二つ
まず凍ることは無いと言うふれこみにも関わらず
留守の間に完璧に凍結してしまった例の新水道管、
それもこの小屋の中総て:
昨日、外気にさらされる部分に電気ヒーターを巻く作業が終わり、
今日は 新水道管が集中している地下室の密閉作業です。そしていよいよ
明日、その地下室の空気を4台の石油ストーブでガンガン加熱するのです。
そうすれば 水道管内の凍結もさすがに解けてくれるはず。
しかしここに問題があります。それはウッカリこの水道管を一昨日私が厚い
断熱材でおおってしまったことです。従って地下室の気温が上がった
としても断熱効果の為に管の内部に熱が達せず 氷は解けないという
可能性があるのです。(これは本場カナダの友人からの情報)
しかしこれはやって見ないと分からない。とにかく明日が勝負です。
仮にもし明日それでも水が出ないとなると
この冬 残念ながら春が来るまで 小屋は閉店の運びとなるのです。
さてさて今 もう一つの困った事態が浮上。
それは今朝から降り続いている雪です。問題はこれが今日の真夜中まで
降り続く予報であると言うこと。その場合、もしも明日の朝 車の
バンパーを超える積雪になっていると車が小屋から出られなくなり、
それも大いにヤバイのです。
さてどうするか。
これから4台のストーブの用の灯油を買いに行き、
そのついでに村のお風呂に行って来ます。
その時に空模様を見て最終的な判断を下すつもりです。
だから最悪のケースは、今日の午後にも荷物をまとめて下山!
(その場合は 下で山の様子の情報を集め、もし見通しが
良ければこの冬にも再「登山」し
例の加熱作業に取り掛かる、と言うことになるのでしょう。)
*今 車のエンジンをかけに外に出て見たら、
雪は非常に細かく その上湿度が高いのです。
ですから積雪の見通しは さほどでないかも知れません。
とにかく 先ずはゆっくりとお風呂です。
それでは。
*風呂帰りです。
大丈夫ですね。道路を走って見れば分かります。降り続くでしょうが
大雪になること等ない雪だと思います。従って今日の下山はありません。
残るは 明日の地下室加熱の成り行きやいかに。
留守の間に完璧に凍結してしまった例の新水道管、
それもこの小屋の中総て:
昨日、外気にさらされる部分に電気ヒーターを巻く作業が終わり、
今日は 新水道管が集中している地下室の密閉作業です。そしていよいよ
明日、その地下室の空気を4台の石油ストーブでガンガン加熱するのです。
そうすれば 水道管内の凍結もさすがに解けてくれるはず。
しかしここに問題があります。それはウッカリこの水道管を一昨日私が厚い
断熱材でおおってしまったことです。従って地下室の気温が上がった
としても断熱効果の為に管の内部に熱が達せず 氷は解けないという
可能性があるのです。(これは本場カナダの友人からの情報)
しかしこれはやって見ないと分からない。とにかく明日が勝負です。
仮にもし明日それでも水が出ないとなると
この冬 残念ながら春が来るまで 小屋は閉店の運びとなるのです。
さてさて今 もう一つの困った事態が浮上。
それは今朝から降り続いている雪です。問題はこれが今日の真夜中まで
降り続く予報であると言うこと。その場合、もしも明日の朝 車の
バンパーを超える積雪になっていると車が小屋から出られなくなり、
それも大いにヤバイのです。
さてどうするか。
これから4台のストーブの用の灯油を買いに行き、
そのついでに村のお風呂に行って来ます。
その時に空模様を見て最終的な判断を下すつもりです。
だから最悪のケースは、今日の午後にも荷物をまとめて下山!
(その場合は 下で山の様子の情報を集め、もし見通しが
良ければこの冬にも再「登山」し
例の加熱作業に取り掛かる、と言うことになるのでしょう。)
*今 車のエンジンをかけに外に出て見たら、
雪は非常に細かく その上湿度が高いのです。
ですから積雪の見通しは さほどでないかも知れません。
とにかく 先ずはゆっくりとお風呂です。
それでは。
*風呂帰りです。
大丈夫ですね。道路を走って見れば分かります。降り続くでしょうが
大雪になること等ない雪だと思います。従って今日の下山はありません。
残るは 明日の地下室加熱の成り行きやいかに。
2008年2月2日土曜日
出発点
パウロの文書を見ると 彼は「真面目に」
キリスト者は「今既に 死んでいる、復活している、天にいる」
と言う。
だから、彼は「キリスト者をキリストと同一視している」と分かる。
これ以外にこの途方もないパウロの言い分を説明する手段はない。
従って当然これらの事実は(多く誤解されているように)
キリスト者の目標として提示されているのではない。
(こんなことをどうやって目標とすること等出来ようか。)
それは出発点や前提であり 当たり前のこととして随所に
さりげなく示されているのである。
(「主にあって」と言う表現もその一つ)
しかしながら
これらのことは「永遠と復活に属するもの」として見る
のでなければ理解は到底不可能である。だからこそここに
信仰と言うものが不可欠となる。
信仰によってそれらを当たり前のように私達の生活の前提、出発点
とするとき初めて それらの永遠と言う次元の事実を
この時空の中においてさえ 徐々に体験することとなるのである。
今日 私は何度 この出発点に立つことが出来るのだろうか。
キリスト者は「今既に 死んでいる、復活している、天にいる」
と言う。
だから、彼は「キリスト者をキリストと同一視している」と分かる。
これ以外にこの途方もないパウロの言い分を説明する手段はない。
従って当然これらの事実は(多く誤解されているように)
キリスト者の目標として提示されているのではない。
(こんなことをどうやって目標とすること等出来ようか。)
それは出発点や前提であり 当たり前のこととして随所に
さりげなく示されているのである。
(「主にあって」と言う表現もその一つ)
しかしながら
これらのことは「永遠と復活に属するもの」として見る
のでなければ理解は到底不可能である。だからこそここに
信仰と言うものが不可欠となる。
信仰によってそれらを当たり前のように私達の生活の前提、出発点
とするとき初めて それらの永遠と言う次元の事実を
この時空の中においてさえ 徐々に体験することとなるのである。
今日 私は何度 この出発点に立つことが出来るのだろうか。
2008年1月31日木曜日
真冬のミステリー?
昨日 夕方小屋に着きました。
早速 水道点検。小屋中 完全凍結ですね。
隣の出羽海氏によるとこの所マイナス10度以下の日が続いていたと言う。
今日からいよいよ「戦い」です。先ず、かろうじて水が出そうな庭用の
水道を確保すること。お湯でもかけてコレを何とか出るようにしないと
基本的に生活が成り立たないからです。(人は水ですネ。)
次は水道管に全部断熱材を巻くこと。(ヤレヤレこれ相当の距離ですよ。)
その前にその作業のための環境整備をしないと。それは地下小屋の
ガラクタを片付ることです。そもそもこれがまた大変。以上の作業
今日だけではとても終わらないでしょう。
それから昨日奇妙な現象が一つあったのです。
皆さんはどう思われるでしょうか。
昨日小屋に着いて目を上げて見ると 2つあるロフトの南の窓の
小さい方の窓が何と完全に開いていたのです。昨夜からいくら考えても
この説明はいまだに出来ないでいるのです。
可能性は二つ、一つは私が窓を開けて下山したこと。
他は留守中、誰かが小屋に侵入したこと。
しかし、前者はあり得ない。小屋を離れる際 車の中からチラッと
小屋の南側全体を目で確認したのである。それにこの窓は
普通の窓ではなく、ハンドルで横に直角に開くもので
(だから構造上 地震で開いてしまうことは無いし また外側から
開けることは絶対不可能)殆ど冬中開けること等ない窓なのだ。
その上アメリカ製のいかにもこわれそうな代物なので 私は夏でも
あまり触れたくもない物なのだ。それをこの厳寒の寒空のもと
私が開ける事などあり得ないこと。
もう一つの可能性はどうか。
その形跡が全く無いのですよ。小屋は下山以前と完全に同じ空気を
漂わせていたのです。もしも誰かが物取り等の目的の為
小屋に入ったとしても あの開けるのに苦労する窓を
開けなければならない理由は考えられないではありませんか。
結論:とにかく全く分かりませーん。
言えることは一つだけ、それは今なぜか私には
なんだか「嬉しいような気持」ちがあると言うことです。
むしろこっちのほうが不思議現象か!
早速 水道点検。小屋中 完全凍結ですね。
隣の出羽海氏によるとこの所マイナス10度以下の日が続いていたと言う。
今日からいよいよ「戦い」です。先ず、かろうじて水が出そうな庭用の
水道を確保すること。お湯でもかけてコレを何とか出るようにしないと
基本的に生活が成り立たないからです。(人は水ですネ。)
次は水道管に全部断熱材を巻くこと。(ヤレヤレこれ相当の距離ですよ。)
その前にその作業のための環境整備をしないと。それは地下小屋の
ガラクタを片付ることです。そもそもこれがまた大変。以上の作業
今日だけではとても終わらないでしょう。
それから昨日奇妙な現象が一つあったのです。
皆さんはどう思われるでしょうか。
昨日小屋に着いて目を上げて見ると 2つあるロフトの南の窓の
小さい方の窓が何と完全に開いていたのです。昨夜からいくら考えても
この説明はいまだに出来ないでいるのです。
可能性は二つ、一つは私が窓を開けて下山したこと。
他は留守中、誰かが小屋に侵入したこと。
しかし、前者はあり得ない。小屋を離れる際 車の中からチラッと
小屋の南側全体を目で確認したのである。それにこの窓は
普通の窓ではなく、ハンドルで横に直角に開くもので
(だから構造上 地震で開いてしまうことは無いし また外側から
開けることは絶対不可能)殆ど冬中開けること等ない窓なのだ。
その上アメリカ製のいかにもこわれそうな代物なので 私は夏でも
あまり触れたくもない物なのだ。それをこの厳寒の寒空のもと
私が開ける事などあり得ないこと。
もう一つの可能性はどうか。
その形跡が全く無いのですよ。小屋は下山以前と完全に同じ空気を
漂わせていたのです。もしも誰かが物取り等の目的の為
小屋に入ったとしても あの開けるのに苦労する窓を
開けなければならない理由は考えられないではありませんか。
結論:とにかく全く分かりませーん。
言えることは一つだけ、それは今なぜか私には
なんだか「嬉しいような気持」ちがあると言うことです。
むしろこっちのほうが不思議現象か!
2008年1月29日火曜日
近況です
やっぱり 下にいて 文章を書くと言うのはとにかく面倒。
でももしかして この不精は年のせい?
それならヤバイと今ようやくブログの前に。
今日、実は山帰りの日だったのですが 明日に延期です。
これ何となくなんです。空もあまりパッとしないしネ。
こういう所が退職人間の贅沢の極み、働いている皆さんごめんなさい。
今日午後は ケンと家内で龍ヶ崎のファミレスにでも行こうかなと。
ただケンは今少しウツで苦しんでいます。
ファミレスはだからケン次第。
実はもうすぐ2月1日から、ケンは花栽培のファームで
いよいよアルバイト開始なのです。
その前に 試みにあるコンビニに応募した所、
何と「来てくれ」とのことだったのですが
まだ自信がイマイチということで このファームにしたのでした。
先ずは一日 2時間、週4日です。
「その出鼻の1日にウツがあったらどうするの?」と聞いた所
「とにかく行って見る、主がこのように導いたのだから」と言うことでした。
この態度はいいですね。
だから一歩一歩 主がケンを導いて下さる筈だよ絶対に、
これホンと「親の祈るような気持ち」なのです。
明日はきれいな空のもと一人 山へのロングドライブ、
山では先ずは 凍結した水道管との戦いですよ。勝算はあります。
まこれ 楽しい戦いにはなることでしょう。
でももしかして この不精は年のせい?
それならヤバイと今ようやくブログの前に。
今日、実は山帰りの日だったのですが 明日に延期です。
これ何となくなんです。空もあまりパッとしないしネ。
こういう所が退職人間の贅沢の極み、働いている皆さんごめんなさい。
今日午後は ケンと家内で龍ヶ崎のファミレスにでも行こうかなと。
ただケンは今少しウツで苦しんでいます。
ファミレスはだからケン次第。
実はもうすぐ2月1日から、ケンは花栽培のファームで
いよいよアルバイト開始なのです。
その前に 試みにあるコンビニに応募した所、
何と「来てくれ」とのことだったのですが
まだ自信がイマイチということで このファームにしたのでした。
先ずは一日 2時間、週4日です。
「その出鼻の1日にウツがあったらどうするの?」と聞いた所
「とにかく行って見る、主がこのように導いたのだから」と言うことでした。
この態度はいいですね。
だから一歩一歩 主がケンを導いて下さる筈だよ絶対に、
これホンと「親の祈るような気持ち」なのです。
明日はきれいな空のもと一人 山へのロングドライブ、
山では先ずは 凍結した水道管との戦いですよ。勝算はあります。
まこれ 楽しい戦いにはなることでしょう。
2008年1月28日月曜日
2008年1月22日火曜日
病を得た友によせて
病を得た私達の大切な友・I さんへ今 あなたと共に心を寄せます。
今こそ I さんが 神の光の中で自分の真の姿を知り そして
彼が今 この時間と空間の中でこそ「永遠の主の経験」の中に
入って行く と言う高き主の願いの故に 神は今「容赦なく」私達の友を
取り扱っておられるのではなかろうか とそんな感じがしております。
きっとその過程にあるのでしょう。
今 I さんにある意味で
「その覚悟」があるのはよいことだ と思っております。
当然のことながら キリスト者にはいわゆる「最悪の事態」においてこそ
その信仰を機能させるべし と言うものが 私達のあらゆる祈り
願い、思い、企ての根底にあるべきだと思います。
(そういうことは起こり得ない とせずに)
これが基本の基本にあればこそ 初めて
主もその上にいろんな「良きこと」を 築いて行けるのでしょう。
「人の世のその最悪の事態」を逆手に取り 主が、その永遠の大きな御心
の中で その人とその人の周辺に また「全世界の為」にさえ
何をなさろうとされるのか その全貌と詳細を私達が見ることは
不可能ですしまた それは人の分ではありません。
しかしながら私達こそが
「そのような主を信じ信頼すること」が出来る筈です。
個人的に言えば、
この苦難の中、そして更なる困難の中、そして
総てが絶望と思わせられるような時間が彼に迫り来るその時でさえ
「主の歩まれたその歩みの全行程の一つ一つの原型に自分を置き
主と共にそこを通ること、この‘宇宙最高の尊い経験’を
彼が真に経験する中で その肉体にも主が癒しと言う
奇跡をなさって下さること」を 実は私は心から願っているのです。
しかし 仮にたとえそうでなくとも
主は彼に、そして私達に、そして全世界の為にさえ
最善をなさるであろうことは 疑う余地がありません。
今こそ 私達は 全幅の信頼と信仰をキリストに 寄せるべき
正にその時なのではなかろうかと 私はそのように信じているのです。
今こそ I さんが 神の光の中で自分の真の姿を知り そして
彼が今 この時間と空間の中でこそ「永遠の主の経験」の中に
入って行く と言う高き主の願いの故に 神は今「容赦なく」私達の友を
取り扱っておられるのではなかろうか とそんな感じがしております。
きっとその過程にあるのでしょう。
今 I さんにある意味で
「その覚悟」があるのはよいことだ と思っております。
当然のことながら キリスト者にはいわゆる「最悪の事態」においてこそ
その信仰を機能させるべし と言うものが 私達のあらゆる祈り
願い、思い、企ての根底にあるべきだと思います。
(そういうことは起こり得ない とせずに)
これが基本の基本にあればこそ 初めて
主もその上にいろんな「良きこと」を 築いて行けるのでしょう。
「人の世のその最悪の事態」を逆手に取り 主が、その永遠の大きな御心
の中で その人とその人の周辺に また「全世界の為」にさえ
何をなさろうとされるのか その全貌と詳細を私達が見ることは
不可能ですしまた それは人の分ではありません。
しかしながら私達こそが
「そのような主を信じ信頼すること」が出来る筈です。
個人的に言えば、
この苦難の中、そして更なる困難の中、そして
総てが絶望と思わせられるような時間が彼に迫り来るその時でさえ
「主の歩まれたその歩みの全行程の一つ一つの原型に自分を置き
主と共にそこを通ること、この‘宇宙最高の尊い経験’を
彼が真に経験する中で その肉体にも主が癒しと言う
奇跡をなさって下さること」を 実は私は心から願っているのです。
しかし 仮にたとえそうでなくとも
主は彼に、そして私達に、そして全世界の為にさえ
最善をなさるであろうことは 疑う余地がありません。
今こそ 私達は 全幅の信頼と信仰をキリストに 寄せるべき
正にその時なのではなかろうかと 私はそのように信じているのです。
2008年1月18日金曜日
今日から旅です
今回は 下へ下りてもパソコンに向かうかな。
先回は何故かどうもそんな気にならなかったのですが・・
今 小屋では水道の凍結で四苦八苦です。
この秋 まずは凍ることはないと言うふれこみの水道管に取り替えた
まではよかったのだったが ああ何とこれが
いとも簡単に凍ってしまったのです!なんちゅうこったと
その水道管(カキオポリと言うもの)の集中する粗末な
地下部屋の壁のすき間をウエス(布切れ)で埋めたり、そこをストーブ
で暖めたり、カキオポリに布を巻いたりと悪戦苦闘の連日。それでも
従来の駄目なはずの水道が健在で(これ、笑ってしまいますよネ)
なんとか生活は大丈夫。やっぱり鼻から息をするもの(人間)の
言うことなど あてになりませんよ、皆さん。
今、早朝5時 外気はマイナス8度、カキオポリはやっぱり完全に
凍結しています。夜が明けたら旅に出る前 地下室を2台の灯油ストーブ
で温めないと。それでも出ないと言うことはあり得ないからね。
でもですね、こういうことも一人 厳冬の山で暮らす者の生きがいの
一つなのです(やせ我慢じゃないよ)。どこかにいつも何らかの緊張が
あると言うやつ。これも決して悪いことだけではないのです。
2週間後、やっぱり私は山に戻って来るでしょう。
まもなく来る明るい2月の空はことのほか美しいし、
山の生活は何と言っても しんから気持ちがよいからです。
先回は何故かどうもそんな気にならなかったのですが・・
今 小屋では水道の凍結で四苦八苦です。
この秋 まずは凍ることはないと言うふれこみの水道管に取り替えた
まではよかったのだったが ああ何とこれが
いとも簡単に凍ってしまったのです!なんちゅうこったと
その水道管(カキオポリと言うもの)の集中する粗末な
地下部屋の壁のすき間をウエス(布切れ)で埋めたり、そこをストーブ
で暖めたり、カキオポリに布を巻いたりと悪戦苦闘の連日。それでも
従来の駄目なはずの水道が健在で(これ、笑ってしまいますよネ)
なんとか生活は大丈夫。やっぱり鼻から息をするもの(人間)の
言うことなど あてになりませんよ、皆さん。
今、早朝5時 外気はマイナス8度、カキオポリはやっぱり完全に
凍結しています。夜が明けたら旅に出る前 地下室を2台の灯油ストーブ
で温めないと。それでも出ないと言うことはあり得ないからね。
でもですね、こういうことも一人 厳冬の山で暮らす者の生きがいの
一つなのです(やせ我慢じゃないよ)。どこかにいつも何らかの緊張が
あると言うやつ。これも決して悪いことだけではないのです。
2週間後、やっぱり私は山に戻って来るでしょう。
まもなく来る明るい2月の空はことのほか美しいし、
山の生活は何と言っても しんから気持ちがよいからです。
2008年1月16日水曜日
K さんへ(2)
私に与えられた知識からお話する前に私は以下のことを
K さんにお伝えしないわけには行かないと思います。それは
*真の霊的知識はどこから来るのだろうか*
と言う問題です。
聖書から何か霊的なことを知りたいと思う時 私達には
当然の如く「誰かから教えてもらおう」や「いい解説書を
読まないと」とごく自然に反応するものがあります。
現代の世に生きるキリスト者達にとってこれは相当に
根深い状況だと言ってよいでしょう。
ところが イエスは言われました、
「聖霊は、あなた方に総てのことを教え、また私があなた方に話した
総てのことを思い起こさせて下さいます」と。(ヨハネ14の26)
ここに「総てのこと」とあります。信じられるでしょうか、イエスは
聖霊は大小様々の総ての事を教えることが出来ると言われたのです。
そしてまた「その方、即ち真理(リアリティ)の御霊が来ると
あなた方を総ての真理(リアリティ)に導き入れます。」
(ヨハネ16の13)と断言されたのです。
彼は続けます「私はあなた方に言います。求めなさい。
そうすれば与えられます。・・天の父が、求める人たちに、どうして
聖霊を下さらないことがありましょう」。(ルカ11の9、13)
だからパウロは祈りました「どうか・・父が 神を知る為の知恵と啓示
の御霊を、あなた方に与えて下さいますように。」(エペソ1の17)
キリスト者が何か霊的なことを知りたいと思うとき、先ず人に行く
べきではなく直接、神の所に行って懇願するべきです。これが基本です。
そうした後で或いは神はあなたを ある人の所に導かれるかもしれません。
それはそれでよいのです。しかし大前提は「第一にあなた自身で直接神へ」
なのです。この優先順序を間違えるならばそれは 長い時間の中では
決定的な損失となって現れてしまうことになるでしょう。
もしも神の真理を「人から教えてもらう」や「勉強する」が常に前提になる
ならば そこから得た何らかの「霊的な」知識は単なる
「キリスト教的知識」の収集に過ぎないことでしょう。それは
霊的な真の知識とはなりません。むしろそれは多くの場合
その人を誇らせ、他人を見下げる材料になってしまうことが多いのです。
私にもかつてある人の教えを絶対視し、それらの教えを収集し記憶する
ことに励んだ長い時期がありました。そして当時 それはとても
素晴らしいことであると信じていました。なぜならその教えは非常に
「正しいもの」であったからです。しかし大切なのは「善悪を知る知識」
即ち正しいか否か、などではないのです。(先ず命と総てなるキリストを
求める。そうする時に「当然の結果の一つ」として正しさも付いて来るの
です。しかしその期に及んでさえ実は「正しさ」など
その人の眼中にはないのです。)
その後 不思議なことに主は何と 私をこの山中に一人入って
直接主に求めるように導かれました。その時から私に驚くべき日々が
始まったのです。直接主のところに行き 結果与えられた知識は
何と言えばよいのだろうか、それは先ずは生きており、そのようにして
示された大小の知識は互いに結合しあい一つの生き物(人)のようになり
そしてそれが私に直接働きかけて来るようになったのです。
(枯れた骨骨でさえ生き出した!)その頃に至って初めて私は 確かに
「真理(実際)とはイエスキリスト御自身である」と知るに至ったのです。
それは単なる文字の知識ではなく私にとっては正にリアリティであった
のです。以前の「正しい」聖書的知識を得るために費やされた長い年月は
一体何だったのでしょうか。(多分命のない枯れた骨骨の収集に
過ぎなかったのでしょう。)
真に霊的なものは現在 絶対的に「キリストの復活の中」にしか存在せず、
そしてそれは全く天に属するものです。それと「この地上の魂的な知識」
の間には言わばどんな橋も掛けられ得ない大きな淵が横たわっていると
言えるのです。この淵を人が生来の頭脳の努力で渉ること等不可能です。
その両者には絶対的な性質上の天と地の相違があるからです。
「創造されることのない永遠に属する神聖な領域のもの」を被造物に
過ぎない人の小さな頭脳で真に理解することは元々出来ることでは
ありません。それは例えば猫にとって人の奥深いことを知ることは 仮に
相当の努力家の猫がいたとしても 元々無理であるのと同様でしょう。
天と地を結び私達に何かを伝達すること それが可能なのは神ご自身
以外にはあり得ないのです。それは一方的な 私に対する神の働きかけを
もってして初めて可能となるのです。従って私達がするべき第一のことは
先ずは神に向かい神の永遠の真理に関して我が目を開いて下さるようにと
「懇願する」ことである筈です。
これはごく当然のことではないでしょうか。
「なぜなら御霊のことは御霊によってわきまえるものだからなのです。」
(1コリント2の14)
K さんにお伝えしないわけには行かないと思います。それは
*真の霊的知識はどこから来るのだろうか*
と言う問題です。
聖書から何か霊的なことを知りたいと思う時 私達には
当然の如く「誰かから教えてもらおう」や「いい解説書を
読まないと」とごく自然に反応するものがあります。
現代の世に生きるキリスト者達にとってこれは相当に
根深い状況だと言ってよいでしょう。
ところが イエスは言われました、
「聖霊は、あなた方に総てのことを教え、また私があなた方に話した
総てのことを思い起こさせて下さいます」と。(ヨハネ14の26)
ここに「総てのこと」とあります。信じられるでしょうか、イエスは
聖霊は大小様々の総ての事を教えることが出来ると言われたのです。
そしてまた「その方、即ち真理(リアリティ)の御霊が来ると
あなた方を総ての真理(リアリティ)に導き入れます。」
(ヨハネ16の13)と断言されたのです。
彼は続けます「私はあなた方に言います。求めなさい。
そうすれば与えられます。・・天の父が、求める人たちに、どうして
聖霊を下さらないことがありましょう」。(ルカ11の9、13)
だからパウロは祈りました「どうか・・父が 神を知る為の知恵と啓示
の御霊を、あなた方に与えて下さいますように。」(エペソ1の17)
キリスト者が何か霊的なことを知りたいと思うとき、先ず人に行く
べきではなく直接、神の所に行って懇願するべきです。これが基本です。
そうした後で或いは神はあなたを ある人の所に導かれるかもしれません。
それはそれでよいのです。しかし大前提は「第一にあなた自身で直接神へ」
なのです。この優先順序を間違えるならばそれは 長い時間の中では
決定的な損失となって現れてしまうことになるでしょう。
もしも神の真理を「人から教えてもらう」や「勉強する」が常に前提になる
ならば そこから得た何らかの「霊的な」知識は単なる
「キリスト教的知識」の収集に過ぎないことでしょう。それは
霊的な真の知識とはなりません。むしろそれは多くの場合
その人を誇らせ、他人を見下げる材料になってしまうことが多いのです。
私にもかつてある人の教えを絶対視し、それらの教えを収集し記憶する
ことに励んだ長い時期がありました。そして当時 それはとても
素晴らしいことであると信じていました。なぜならその教えは非常に
「正しいもの」であったからです。しかし大切なのは「善悪を知る知識」
即ち正しいか否か、などではないのです。(先ず命と総てなるキリストを
求める。そうする時に「当然の結果の一つ」として正しさも付いて来るの
です。しかしその期に及んでさえ実は「正しさ」など
その人の眼中にはないのです。)
その後 不思議なことに主は何と 私をこの山中に一人入って
直接主に求めるように導かれました。その時から私に驚くべき日々が
始まったのです。直接主のところに行き 結果与えられた知識は
何と言えばよいのだろうか、それは先ずは生きており、そのようにして
示された大小の知識は互いに結合しあい一つの生き物(人)のようになり
そしてそれが私に直接働きかけて来るようになったのです。
(枯れた骨骨でさえ生き出した!)その頃に至って初めて私は 確かに
「真理(実際)とはイエスキリスト御自身である」と知るに至ったのです。
それは単なる文字の知識ではなく私にとっては正にリアリティであった
のです。以前の「正しい」聖書的知識を得るために費やされた長い年月は
一体何だったのでしょうか。(多分命のない枯れた骨骨の収集に
過ぎなかったのでしょう。)
真に霊的なものは現在 絶対的に「キリストの復活の中」にしか存在せず、
そしてそれは全く天に属するものです。それと「この地上の魂的な知識」
の間には言わばどんな橋も掛けられ得ない大きな淵が横たわっていると
言えるのです。この淵を人が生来の頭脳の努力で渉ること等不可能です。
その両者には絶対的な性質上の天と地の相違があるからです。
「創造されることのない永遠に属する神聖な領域のもの」を被造物に
過ぎない人の小さな頭脳で真に理解することは元々出来ることでは
ありません。それは例えば猫にとって人の奥深いことを知ることは 仮に
相当の努力家の猫がいたとしても 元々無理であるのと同様でしょう。
天と地を結び私達に何かを伝達すること それが可能なのは神ご自身
以外にはあり得ないのです。それは一方的な 私に対する神の働きかけを
もってして初めて可能となるのです。従って私達がするべき第一のことは
先ずは神に向かい神の永遠の真理に関して我が目を開いて下さるようにと
「懇願する」ことである筈です。
これはごく当然のことではないでしょうか。
「なぜなら御霊のことは御霊によってわきまえるものだからなのです。」
(1コリント2の14)
2008年1月14日月曜日
K さんへ(1)
一人ぼっち セルフビルドの山小屋作り
始めて もうかれこれ 15年
キリストを ここに迎えて 今年で5年。
けれども 小屋はいまだに 未完成。
それでも そこかしこあの人と 共に住みあう調べ
アンダンテ コン モトが 流れ
そして“何か”がすばやく深く 飛翔する
ミズナラの森へ 遥かな宇宙へ。
とても静か、ただ 白く光る月 梢を渡る2月の風
山暮らしキリストの不思議 シンフォニー。
(07年2/28)
☆
「キリストをここに迎えて」「あの人と共に住みあう調べ」
約一年前 このブログのタイトルをどうしようかと考えた時
ああ確かに私は 一人でここにいるのではない
キリストが私と一緒にここに住んでおられるのだ
と言う感覚には確かなものがありました。
(もちろん感覚が総てであるとは言いませんが)
それからもう一つ
白髪の66才になっても?例えば「山暮らし日記」等と言う
タイトルではなくもっとロマンチックで詩的なものに
して見たいという一寸気取った私らしい考えもあったことは
事実です。実の所「山暮らしのキリスト」は
そう言った気持ちから出てきたタイトルなのです。
ですから
私にはもちろん「イエス・キリスト」と書いた表札を小屋の入口に
ぶら下げて見たい等という気持ちはありませんでしたし
当然今もありません。私のようなどうしようもない罪人がどうして
「私はイエスキリストです」等と真面目に名乗ること等出来ましょう。
もしもそうであるならば、私は精神病の病人か、
何か陰謀をたくらむ小ペテン師に違いありません。
しかし、
K さんは 以上のような「低いレベル」で私に質問をされたのではない
ことは明らかです。そうです、パウロは「私は十字架に付けられた。
生きているのは私ではない。キリストが私の内に生きておられる
のである。」(ガラテヤ2の20)と断言しました。
なぜならこれはパウロにとっては明らかな事実であったからです。
それでは このことの真の意味は何なのでしょうか。
私達はそのことを真面目に考えなくてはなりません。
この時私達は これはパウロのような限られた偉人にしか言えない言葉
なのだ等とあまりにも簡単に片付けるべきではないのです。
ここには「キリストとキリスト者の結合」というとても大切な
新約の真理が暗示されています。生きているのはキリストであり、また
パウロでもあったのです。彼らは共に生きたと言えるでしょうし、
パウロの肉体を通してキリストが生きられた、とも言えるでしょう。
これは何と私達を魅了することでしょう。
何故なら、ここに「神と人との愛のかたち」の極致があるからです。
しかし、問題は更に高く深く大きくなります。
それは私達キリスト者を含む「今日の奥義的なキリスト」の存在です。
そのことと「キリストの復活は神にとっては新しい人の誕生である」
(ここにこそ神の大いなる喜びがあった。)
とする新約聖書の強い主張とはとても密接な関係があるのです。
以上の極めて奥深くも 同時に極めて実際的効果的であり、
従って今日の「総ての」キリスト者にとって決して
ただ目の前を素通りさせてはならない聖書の真理について、
これから順次 交わって行きたいと願っております。
始めて もうかれこれ 15年
キリストを ここに迎えて 今年で5年。
けれども 小屋はいまだに 未完成。
それでも そこかしこあの人と 共に住みあう調べ
アンダンテ コン モトが 流れ
そして“何か”がすばやく深く 飛翔する
ミズナラの森へ 遥かな宇宙へ。
とても静か、ただ 白く光る月 梢を渡る2月の風
山暮らしキリストの不思議 シンフォニー。
(07年2/28)
☆
「キリストをここに迎えて」「あの人と共に住みあう調べ」
約一年前 このブログのタイトルをどうしようかと考えた時
ああ確かに私は 一人でここにいるのではない
キリストが私と一緒にここに住んでおられるのだ
と言う感覚には確かなものがありました。
(もちろん感覚が総てであるとは言いませんが)
それからもう一つ
白髪の66才になっても?例えば「山暮らし日記」等と言う
タイトルではなくもっとロマンチックで詩的なものに
して見たいという一寸気取った私らしい考えもあったことは
事実です。実の所「山暮らしのキリスト」は
そう言った気持ちから出てきたタイトルなのです。
ですから
私にはもちろん「イエス・キリスト」と書いた表札を小屋の入口に
ぶら下げて見たい等という気持ちはありませんでしたし
当然今もありません。私のようなどうしようもない罪人がどうして
「私はイエスキリストです」等と真面目に名乗ること等出来ましょう。
もしもそうであるならば、私は精神病の病人か、
何か陰謀をたくらむ小ペテン師に違いありません。
しかし、
K さんは 以上のような「低いレベル」で私に質問をされたのではない
ことは明らかです。そうです、パウロは「私は十字架に付けられた。
生きているのは私ではない。キリストが私の内に生きておられる
のである。」(ガラテヤ2の20)と断言しました。
なぜならこれはパウロにとっては明らかな事実であったからです。
それでは このことの真の意味は何なのでしょうか。
私達はそのことを真面目に考えなくてはなりません。
この時私達は これはパウロのような限られた偉人にしか言えない言葉
なのだ等とあまりにも簡単に片付けるべきではないのです。
ここには「キリストとキリスト者の結合」というとても大切な
新約の真理が暗示されています。生きているのはキリストであり、また
パウロでもあったのです。彼らは共に生きたと言えるでしょうし、
パウロの肉体を通してキリストが生きられた、とも言えるでしょう。
これは何と私達を魅了することでしょう。
何故なら、ここに「神と人との愛のかたち」の極致があるからです。
しかし、問題は更に高く深く大きくなります。
それは私達キリスト者を含む「今日の奥義的なキリスト」の存在です。
そのことと「キリストの復活は神にとっては新しい人の誕生である」
(ここにこそ神の大いなる喜びがあった。)
とする新約聖書の強い主張とはとても密接な関係があるのです。
以上の極めて奥深くも 同時に極めて実際的効果的であり、
従って今日の「総ての」キリスト者にとって決して
ただ目の前を素通りさせてはならない聖書の真理について、
これから順次 交わって行きたいと願っております。
2008年1月13日日曜日
「真実なコメント」への感謝
ぶしつけなんて、とんでもない。
本日 夕刻あなた様の真摯で正直なお気持ちに接し
何と言うか 大げさではなく本当に心が震える思いが致しました。
今私が感じている実感は「主に対する畏れ」のようなものです。
今「主の真実」が私にも迫って来ている、
そんな感じをさえ抱かせられているのです。
もちろん私は今 私の限界内で
あなたの要求に応えて行かなければならない
と覚えております。
そしてそれはコメント内ではなく、
ブログ本文にてしっかりと取り扱うべきである
と思っております。ですから
多少それは時間がかかる内容になるかも知れません。
しかし、それは「正しい理論」を一生懸命に組み立て
多くの人々を説得する と言ったたぐいの
ものには決してならないでしょう。
言えることは 私達の「真実な交わり」からだけ
あなたと私、そして神と人の為に 真に有益なものが
現れ出るであろうということです。
それのみが私達に要求されている総てに違いないと
今私は明確に信じております。
本日 夕刻あなた様の真摯で正直なお気持ちに接し
何と言うか 大げさではなく本当に心が震える思いが致しました。
今私が感じている実感は「主に対する畏れ」のようなものです。
今「主の真実」が私にも迫って来ている、
そんな感じをさえ抱かせられているのです。
もちろん私は今 私の限界内で
あなたの要求に応えて行かなければならない
と覚えております。
そしてそれはコメント内ではなく、
ブログ本文にてしっかりと取り扱うべきである
と思っております。ですから
多少それは時間がかかる内容になるかも知れません。
しかし、それは「正しい理論」を一生懸命に組み立て
多くの人々を説得する と言ったたぐいの
ものには決してならないでしょう。
言えることは 私達の「真実な交わり」からだけ
あなたと私、そして神と人の為に 真に有益なものが
現れ出るであろうということです。
それのみが私達に要求されている総てに違いないと
今私は明確に信じております。
2008年1月11日金曜日
十字架と復活に見る神の知恵と力
死とは命の対極です。
そして死の力を所有する者はサタンであり、
命の究極的な姿は神です。
それでは復活とは何でしょうか。それは
「人となった命」が敢えて死の中に入り込んで死を打ち破り
死を破壊し尽くして 人が永遠・神の領域に入ること またその状態です。
死の力とは既に述べたように「人を総てのものを一つ所に閉じ込め制限して
命である神から隔絶しようとする力」です。
この力は絶えず全人類に及んでいます。だから人には自由がないのです。
それでは
命からの隔絶、閉じ込め、不自由の究極はどこにあるのでしょう。
それは他でもない、あのイエス・最後のアダムの十字架
(一つ所・凝縮された一点)にこそです。十字架ほど不自由な場所は
ないのです。十字架は神の命から隔絶され閉じ込められる死の極点です。
ですからイエスを十字架に釘付けた事は「サタンの大勝利」でした。
そして更にそれ以前においても サタンは大成功者だったのです。
即ちサタンは最初のアダムに対し「彼の本質的な能力・ウソ」を用いて
「神から独立し自給自足する魂」を与えました。その意味する所は
サタンはその虚偽を巧みに行使する事によって まんまと全人類を
神の命から切り離すことに成功した と言うことです。
これによって人類に死が発生したのです。
そして前述したように
更にサタンは全力を尽くし 最後のアダム・イエスをも神の命から
隔絶しようとし死の極致・十字架に閉じ込めることに成功したのです。
それはあたかも神の敵の完全な勝利でした。
これで死と言うものが全人類を完全に覆い尽くす と言う結果に
至ったのです。(あたかもノアの時の大洪水のように。)
☆
しかし神を賛美します。
ここに神の計りがたい予知と知恵そして力があるのです。
当然 神は神ですからサタンの限界を十分にご存知でした。
それではサタンの限界とは何でしょうか。それは
「サタンはその死の力の行使を決して停止し得ない、彼はその路線を
ひたすら突き進むしかない と言うその本能」なのです。
悪には 悪と知りながらもどうしても 破滅に至るまで
突進せざるを得ない性質があります。彼には
悔い改めと言うことは絶対にあり得ないのです。
これによって 神から来られた人類を包含する最後のアダムが
サタンの本能に乗じてサタンの総ての力の真髄・死の中に
入り込むことに成功したのです!
この結果は言わずもがなでしょう。
イエスにおける究極的な「閉じ込められ、圧縮され」が 究極的な
「命の無限の爆発と放散」を誘引したのです。究極的な不自由と圧迫が
完全な自由、総てに対する無限、即ち人の復活を招致したのです。
「この方が死につながれていることなど、あり得ないからです。」
(使徒2の24)
どうして「非受造の無限の命」が 単に被造物に過ぎないサタンの力に
4日間も閉じ込められることなどあり得ましょう。
当然 イエスの霊の中にあった命は神の究極的な命、無限の命でした。
それが「永遠の命」と呼ばれているものです。サタン自身が「その
死の力が 永遠の命によって完全に破壊尽くされる、と言う絶好の機会」を
神に与えてしまったのです。
(そのようにして復活の永遠の命が私達に届いた!)
そこにこそ 人知では想像することすら出来ない
神の計りがたい知恵と力があったのです。
神は褒むべきかな!
☆
・イエスは、ご自分の前に置かれた喜びの故に、辱めをものともせずに
十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12の2)
・女が子を産む時には、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んで
しまうと、一人の人が世に生まれた喜びの為に、最早その激しい苦痛を
忘れてしまいます。(ヨハネ16の21)
そして死の力を所有する者はサタンであり、
命の究極的な姿は神です。
それでは復活とは何でしょうか。それは
「人となった命」が敢えて死の中に入り込んで死を打ち破り
死を破壊し尽くして 人が永遠・神の領域に入ること またその状態です。
死の力とは既に述べたように「人を総てのものを一つ所に閉じ込め制限して
命である神から隔絶しようとする力」です。
この力は絶えず全人類に及んでいます。だから人には自由がないのです。
それでは
命からの隔絶、閉じ込め、不自由の究極はどこにあるのでしょう。
それは他でもない、あのイエス・最後のアダムの十字架
(一つ所・凝縮された一点)にこそです。十字架ほど不自由な場所は
ないのです。十字架は神の命から隔絶され閉じ込められる死の極点です。
ですからイエスを十字架に釘付けた事は「サタンの大勝利」でした。
そして更にそれ以前においても サタンは大成功者だったのです。
即ちサタンは最初のアダムに対し「彼の本質的な能力・ウソ」を用いて
「神から独立し自給自足する魂」を与えました。その意味する所は
サタンはその虚偽を巧みに行使する事によって まんまと全人類を
神の命から切り離すことに成功した と言うことです。
これによって人類に死が発生したのです。
そして前述したように
更にサタンは全力を尽くし 最後のアダム・イエスをも神の命から
隔絶しようとし死の極致・十字架に閉じ込めることに成功したのです。
それはあたかも神の敵の完全な勝利でした。
これで死と言うものが全人類を完全に覆い尽くす と言う結果に
至ったのです。(あたかもノアの時の大洪水のように。)
☆
しかし神を賛美します。
ここに神の計りがたい予知と知恵そして力があるのです。
当然 神は神ですからサタンの限界を十分にご存知でした。
それではサタンの限界とは何でしょうか。それは
「サタンはその死の力の行使を決して停止し得ない、彼はその路線を
ひたすら突き進むしかない と言うその本能」なのです。
悪には 悪と知りながらもどうしても 破滅に至るまで
突進せざるを得ない性質があります。彼には
悔い改めと言うことは絶対にあり得ないのです。
これによって 神から来られた人類を包含する最後のアダムが
サタンの本能に乗じてサタンの総ての力の真髄・死の中に
入り込むことに成功したのです!
この結果は言わずもがなでしょう。
イエスにおける究極的な「閉じ込められ、圧縮され」が 究極的な
「命の無限の爆発と放散」を誘引したのです。究極的な不自由と圧迫が
完全な自由、総てに対する無限、即ち人の復活を招致したのです。
「この方が死につながれていることなど、あり得ないからです。」
(使徒2の24)
どうして「非受造の無限の命」が 単に被造物に過ぎないサタンの力に
4日間も閉じ込められることなどあり得ましょう。
当然 イエスの霊の中にあった命は神の究極的な命、無限の命でした。
それが「永遠の命」と呼ばれているものです。サタン自身が「その
死の力が 永遠の命によって完全に破壊尽くされる、と言う絶好の機会」を
神に与えてしまったのです。
(そのようにして復活の永遠の命が私達に届いた!)
そこにこそ 人知では想像することすら出来ない
神の計りがたい知恵と力があったのです。
神は褒むべきかな!
☆
・イエスは、ご自分の前に置かれた喜びの故に、辱めをものともせずに
十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12の2)
・女が子を産む時には、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んで
しまうと、一人の人が世に生まれた喜びの為に、最早その激しい苦痛を
忘れてしまいます。(ヨハネ16の21)
2008年1月10日木曜日
素通りする とてつもない言葉
・お前はいつも私と一緒にいる。私のものは、全部お前のものだ。
(ルカ15の31)
・総ては、あなた方のものです。パウロであれ、アポロであれ、
ケパであれ、また世界であれ、命であれ、死であれ、また現在のもの
であれ、未来のものであれ、総てあなた方のものです。
(1コリント3の21、22)
・キリストの内にこそ、神聖の全き充満が形態化して宿っており、
あなた方はキリスト(即ちあらゆる支配と権勢の頭)にあって満々と
満たされている。(コロサイ2の10)
・あなた方は既に死んでおり、あなた方の命は、キリストと共に、
神の内に隠されている。(コロサイ3の3)
・キリストイエスの中で、私達を共に復活させ、共に天上で座らせて
下さいました。(エペソ2の6)
☆
キリスト者の所有や身分に関する以上の聖句は残念なことに
普通私達にとって単に「聖書に書いてある」というだけの
一寸ありそうにもない「とてつもない言葉」に過ぎない。
従って多くの場合 せっかくのこれらの真理も私達の前をただ
素通りして行くばかりである。
しかしそれを言うならば例えば「キリストの内住」だって
「とんでもない、とてつもないこと」ではなかろうか。あなたはこの
「とてつもないこと」をどうして信じられるのであろうか、信じている
だけでなくなぜ当たり前のように楽しんでさえいるのだろうか。
それは、
あなたはある日「キリストの内住」と言う言葉を聞いた時なぜか それに
引き寄せられ、関心を持ち、思い巡らし、それを真に知りたいと言う
願いを抱き そのことに関し心を主に向けたからである、その様にして
ある時天から光が射し込み 遂にあなたの内に霊的な力・信仰が
発生したからである。これは一つの奇跡なのである。
その様にして キリストの内住と言う「永遠の領域にだけ存在する
神の真理」が初めて「私の時空に降り」私の経験となったのである。
信仰と言う奇跡が発生し、あなた自身がその真理と関わりを持たなければ
「神の永遠の真理」が あなたの時空に現れることはない。
神の目から見て事実はそこにあるとしても あなたの経験においては
相変わらずキリストはあなたからかけ離れた存在でしかないであろう。
信仰こそ キリストの復活の中に存在する天的な真理を
あなたの時空に至らせ「実現させ」経験させる通路なのである。
門は叩かれることなしに開けられることはあり得ない。
神の達成された真理を見ること それは殆どの場合
あなたの心からの願いにかかっているのである。
(ルカ15の31)
・総ては、あなた方のものです。パウロであれ、アポロであれ、
ケパであれ、また世界であれ、命であれ、死であれ、また現在のもの
であれ、未来のものであれ、総てあなた方のものです。
(1コリント3の21、22)
・キリストの内にこそ、神聖の全き充満が形態化して宿っており、
あなた方はキリスト(即ちあらゆる支配と権勢の頭)にあって満々と
満たされている。(コロサイ2の10)
・あなた方は既に死んでおり、あなた方の命は、キリストと共に、
神の内に隠されている。(コロサイ3の3)
・キリストイエスの中で、私達を共に復活させ、共に天上で座らせて
下さいました。(エペソ2の6)
☆
キリスト者の所有や身分に関する以上の聖句は残念なことに
普通私達にとって単に「聖書に書いてある」というだけの
一寸ありそうにもない「とてつもない言葉」に過ぎない。
従って多くの場合 せっかくのこれらの真理も私達の前をただ
素通りして行くばかりである。
しかしそれを言うならば例えば「キリストの内住」だって
「とんでもない、とてつもないこと」ではなかろうか。あなたはこの
「とてつもないこと」をどうして信じられるのであろうか、信じている
だけでなくなぜ当たり前のように楽しんでさえいるのだろうか。
それは、
あなたはある日「キリストの内住」と言う言葉を聞いた時なぜか それに
引き寄せられ、関心を持ち、思い巡らし、それを真に知りたいと言う
願いを抱き そのことに関し心を主に向けたからである、その様にして
ある時天から光が射し込み 遂にあなたの内に霊的な力・信仰が
発生したからである。これは一つの奇跡なのである。
その様にして キリストの内住と言う「永遠の領域にだけ存在する
神の真理」が初めて「私の時空に降り」私の経験となったのである。
信仰と言う奇跡が発生し、あなた自身がその真理と関わりを持たなければ
「神の永遠の真理」が あなたの時空に現れることはない。
神の目から見て事実はそこにあるとしても あなたの経験においては
相変わらずキリストはあなたからかけ離れた存在でしかないであろう。
信仰こそ キリストの復活の中に存在する天的な真理を
あなたの時空に至らせ「実現させ」経験させる通路なのである。
門は叩かれることなしに開けられることはあり得ない。
神の達成された真理を見ること それは殆どの場合
あなたの心からの願いにかかっているのである。
2008年1月5日土曜日
雪の林
空は灰色、
見上げると ミズナラの梢から
小雪がパラパラと舞い落ちる。
今朝も歩いたよカリマンの森:
振り返っても
誰もいない 誰も来ない。
ただ真っ白に続く林の中のケモノミチ。
すると、ケモノミチに争ったような人の足跡 そして何と
黒ずんだ血痕がテンテンとどこまでも、明らかにそれは血。
コレ もしかして真冬の寒村 雪上の・・
イヤ、でもね多分こうでしょう、
ハンターが獣撃って それを手にぶら下げて歩いたあと。
おそらくね、そうでないと困るしネ。
こんな所 一人で散歩する人 私以外絶対にいないのだ。
お願い誰かさん、私を撃たないで。
ホラ また
小雪がチラチラ 落ちて来たよ。
☆
見上げると ミズナラの梢から
小雪がパラパラと舞い落ちる。
今朝も歩いたよカリマンの森:
振り返っても
誰もいない 誰も来ない。
ただ真っ白に続く林の中のケモノミチ。
すると、ケモノミチに争ったような人の足跡 そして何と
黒ずんだ血痕がテンテンとどこまでも、明らかにそれは血。
コレ もしかして真冬の寒村 雪上の・・
イヤ、でもね多分こうでしょう、
ハンターが獣撃って それを手にぶら下げて歩いたあと。
おそらくね、そうでないと困るしネ。
こんな所 一人で散歩する人 私以外絶対にいないのだ。
お願い誰かさん、私を撃たないで。
ホラ また
小雪がチラチラ 落ちて来たよ。
☆
2008年1月4日金曜日
「キリストの中の私」へ(6)
*真の自由はどこに*
私達はよく「人は自由だ」といいますが、実の所 人はあんまり
自由ではないのです。逆に人は相当に不自由な者であり
多くの制限の中に閉じ込められているのです。
先ず人は生きる為に当然沢山の「ねばならない」や義務、種々雑多な営み
の中に閉じ込められています。しかしこれは本来 私達のあるべき姿
なのでしょうか。本来の人間と言うのは その日常生活の中でさえ
本当の自由と解放 そして完全ささえ
味わっているものなのではないでしょうか。
また私達は 弱さ、病、老い、怒り、悲しみ、苦痛、圧迫、人間関係、
憎しみ、争い、戦いの束縛の中にあってひどい不自由を強いられています。
これは今更 言うまでも無いことでしょう。
そして私達は自分の気質、好み、願望や愛情の中に、そしてまた長年
自分がつちかって来た大切な自分の人生観のようなものにさえ
縛られてしまうことがあり得るのです。またあれを手にいれさえすれば
きっと自由になれるのでは という「希望のようなもの」にこそ
強力な「捕らえ」がしばしば潜んでいるのかも知れません。
即ち人は「自分」と言うものの中でさえ そんなに自由ではないのです。
更に話を進めさせて下さい。(こういうことは今まで あまりお聞きに
なったことがないかも知れないのですが・・)
仮に以上述べた項目の総てから全く自由な人がいるとしても
(そんなことは絶対に無いのですが)自分の「物質としての肉体」や
「時間や空間」の制限を受けない人はいないのです。これ当たり前?
でもね 人は何故か時々 大空を悠々と自由に舞う
鳥を見てつくづくと羨ましく思います。
いかがでしょう、人が時折つく奥深いため息はもしかして
実はまだ知らない、しかし本来人が持っているべき
「奥深い真の自由」を求めてのもの なのではないでしょうか。
ここに一つの法則のようなものがあります。それは 時空とそして
時空の中の一切のものには ある働きが作用しており それは絶えず
人を束縛の中に閉じ込めようとしている と言うものです。
今日何もかもが嫌になったと 自らの物質的な肉体に終止符を打ち
無意識の内に 時空(この世界)の外へ逃れようとする人が多くいます。
ある意味で彼らは拘束する煩雑な事柄と時空の束縛から逃れられた、
のかも知れません。
しかし彼の選択は彼に真の自由を与えたでしょうか。当然否です。
決して私達はその様には感じないのです。むしろそこに
とても自然に底知れない悲惨と悲しみとを覚えます。
なぜでしょう。それはそのようにして 彼は最大の束縛と制限の手の中に
落ちてしまったからです。その最大の束縛と制限とは何でしょうか。
それが「霊的な死」です。
死こそ人を極みにまで束縛するものです。死こそ人を最大限に
閉じ込めるのです。先に述べた様々な拘束するものの総てに
死の印があります。それらの一切は常に死の足音を響かせています。
私達は敏感にその音を察知するべきです。
死の力は 時空や光をさえ飲み込んでしまうと言うブラックホールのように
人を恐ろしい究極的な制限の中に閉じ込めてしまうのです。
死の本質の一つは確かに制限、閉じ込めです。
それは 時空とその中の万物には
「強力な死の力を持つある存在」が働いているからです。
☆
しかしながら ここに確かな希望があります。
それは人の思いの中では到底信じ難いことなのですが・・
それは 私達の神は 人が「いかなる」制限の中にも
閉じ込められることを絶対によしとされない と言う事実です。
神に感謝します。神は人に本当に「真の自由」を与えたいのです。
そうです、神は諸々の束縛、拘束、また何と物質や時間・空間から
そして総ての拘束の根源として働く死の束縛からさえ
完全に私達を自由にしたいのです。
そのためにこそ 神は御子を十字架に行かせたのです。
そして私達の為の「実際的究極的な自由」は
ただ十字架を経られた 御子の「復活」の中にあるのです。
復活こそ時空とその中の物質的な一切のもの、そしてそこをより所として
死の力の中で働く 暗黒の中にある一大勢力でさえ 遥かに超越する所の
「永遠と言う性質を持つ非受造の中の領域」なのです。そしてその領域とは
何と天地にある「一人の人」でもあるのです。
「私は復活であり命である。」(ヨハネ11の25)
私達はよく「人は自由だ」といいますが、実の所 人はあんまり
自由ではないのです。逆に人は相当に不自由な者であり
多くの制限の中に閉じ込められているのです。
先ず人は生きる為に当然沢山の「ねばならない」や義務、種々雑多な営み
の中に閉じ込められています。しかしこれは本来 私達のあるべき姿
なのでしょうか。本来の人間と言うのは その日常生活の中でさえ
本当の自由と解放 そして完全ささえ
味わっているものなのではないでしょうか。
また私達は 弱さ、病、老い、怒り、悲しみ、苦痛、圧迫、人間関係、
憎しみ、争い、戦いの束縛の中にあってひどい不自由を強いられています。
これは今更 言うまでも無いことでしょう。
そして私達は自分の気質、好み、願望や愛情の中に、そしてまた長年
自分がつちかって来た大切な自分の人生観のようなものにさえ
縛られてしまうことがあり得るのです。またあれを手にいれさえすれば
きっと自由になれるのでは という「希望のようなもの」にこそ
強力な「捕らえ」がしばしば潜んでいるのかも知れません。
即ち人は「自分」と言うものの中でさえ そんなに自由ではないのです。
更に話を進めさせて下さい。(こういうことは今まで あまりお聞きに
なったことがないかも知れないのですが・・)
仮に以上述べた項目の総てから全く自由な人がいるとしても
(そんなことは絶対に無いのですが)自分の「物質としての肉体」や
「時間や空間」の制限を受けない人はいないのです。これ当たり前?
でもね 人は何故か時々 大空を悠々と自由に舞う
鳥を見てつくづくと羨ましく思います。
いかがでしょう、人が時折つく奥深いため息はもしかして
実はまだ知らない、しかし本来人が持っているべき
「奥深い真の自由」を求めてのもの なのではないでしょうか。
ここに一つの法則のようなものがあります。それは 時空とそして
時空の中の一切のものには ある働きが作用しており それは絶えず
人を束縛の中に閉じ込めようとしている と言うものです。
今日何もかもが嫌になったと 自らの物質的な肉体に終止符を打ち
無意識の内に 時空(この世界)の外へ逃れようとする人が多くいます。
ある意味で彼らは拘束する煩雑な事柄と時空の束縛から逃れられた、
のかも知れません。
しかし彼の選択は彼に真の自由を与えたでしょうか。当然否です。
決して私達はその様には感じないのです。むしろそこに
とても自然に底知れない悲惨と悲しみとを覚えます。
なぜでしょう。それはそのようにして 彼は最大の束縛と制限の手の中に
落ちてしまったからです。その最大の束縛と制限とは何でしょうか。
それが「霊的な死」です。
死こそ人を極みにまで束縛するものです。死こそ人を最大限に
閉じ込めるのです。先に述べた様々な拘束するものの総てに
死の印があります。それらの一切は常に死の足音を響かせています。
私達は敏感にその音を察知するべきです。
死の力は 時空や光をさえ飲み込んでしまうと言うブラックホールのように
人を恐ろしい究極的な制限の中に閉じ込めてしまうのです。
死の本質の一つは確かに制限、閉じ込めです。
それは 時空とその中の万物には
「強力な死の力を持つある存在」が働いているからです。
☆
しかしながら ここに確かな希望があります。
それは人の思いの中では到底信じ難いことなのですが・・
それは 私達の神は 人が「いかなる」制限の中にも
閉じ込められることを絶対によしとされない と言う事実です。
神に感謝します。神は人に本当に「真の自由」を与えたいのです。
そうです、神は諸々の束縛、拘束、また何と物質や時間・空間から
そして総ての拘束の根源として働く死の束縛からさえ
完全に私達を自由にしたいのです。
そのためにこそ 神は御子を十字架に行かせたのです。
そして私達の為の「実際的究極的な自由」は
ただ十字架を経られた 御子の「復活」の中にあるのです。
復活こそ時空とその中の物質的な一切のもの、そしてそこをより所として
死の力の中で働く 暗黒の中にある一大勢力でさえ 遥かに超越する所の
「永遠と言う性質を持つ非受造の中の領域」なのです。そしてその領域とは
何と天地にある「一人の人」でもあるのです。
「私は復活であり命である。」(ヨハネ11の25)
2008年1月2日水曜日
「キリストの中の私」へ(5)
神の御子は 永遠から永遠に至るまで存在するお方です。
しかしある時点でキリストとしての彼は アダムの肉の様で
時空の中に入って来られました。そして彼は彼の中の
「旧創造を包含する最後のアダムの物質的肉の死」において
古い時空とその中の万物を神による死の審判のもとに服させたのです。
もとより旧創造はアダムの罪の故に「永遠の命なる神」から切り離され
死の状態にあったのですが、最後のアダムの死において更に
法的に公的に正式に「神にとって全く不要なもの、棄却されるもの」と
される死の印が付けられたのです。ここに「古い時空とその中の
総てのものは終わった」とする神の大宣言があったのです。
これは神の御子が命を賭して達成されたことであり、
この事実に異議を唱え それを覆しうる者はありません。
万物は御子の中で創造された(コロサイ1の16)が故に
イエスの死の中で万物は終わったのです。象徴的に言うとこれは
「水と言う死」による審判とある執行でした。ノアの洪水や
エジプトの軍勢を覆った海、水のバプテスマの意味等がここにあります。
しかしながら死(ある終結)とは消滅を意味するものではありません。
それは命からの隔絶なのです。しかし将来、更に終局的究極的
正に絶望的な隔絶が待っています。それこそが第二の死です。
即ちそれは焼却であり永遠の火の池です。(しかしそれとて
消滅ではないのです。)その時には第一の死でさえその機能が終わり
黄泉と共に 永遠の火の中に投げ込まれるのです。
それがイエスが言われた火のバプテスマでもあります。
(遂には海も無くなります)
さて今「第一の死の印」を持つ時空は まだここにあります。
キリスト者とはこの時空の中に ある明確な目的をもって神によって
意図的に「留まらせられている」存在です。基本的にまた本質的に
私たちは キリストの復活にあずかり永遠の中にある天的な存在です。
キリスト者とは元より「地に住む者」ではないのです。
しかしながらそれと同時に私達はこの時空の中 旧創造の中に敢えて
暫くの間留め置かれなければならない極めて稀有な者達なのです。
このような存在はキリスト者を他にしてはどこにも見ることが
出来ないのです。この理由の故に 他の目に見えない極めて高度な
被造物達は正に驚異の眼差しで日夜私達を見つめていることでしょう。
さて私達がこの時空の中に今しばし留まらなければならない理由とは
「神の敵の苦しみの増大と恥辱の増大」の為なのであり、
そのことに含まれる 神に創造された者達への命の福音の宣べ伝え
のためです。これ以外に私たちがこの地上にいる意味はあり得ません。
それではその目的はどのようにして実現されるのでしょうか。
それは私たちが キリストによって達成されたあのB面の原型、
キリスト者が歩むべき行程の為にキリストによって既に完成されている
「復活のキリストと言うあの原型」に信仰によって自分を「はめ込み」
キリストの各面を この時空の中に再現することによって
初めて可能となるのです。
しかしある時点でキリストとしての彼は アダムの肉の様で
時空の中に入って来られました。そして彼は彼の中の
「旧創造を包含する最後のアダムの物質的肉の死」において
古い時空とその中の万物を神による死の審判のもとに服させたのです。
もとより旧創造はアダムの罪の故に「永遠の命なる神」から切り離され
死の状態にあったのですが、最後のアダムの死において更に
法的に公的に正式に「神にとって全く不要なもの、棄却されるもの」と
される死の印が付けられたのです。ここに「古い時空とその中の
総てのものは終わった」とする神の大宣言があったのです。
これは神の御子が命を賭して達成されたことであり、
この事実に異議を唱え それを覆しうる者はありません。
万物は御子の中で創造された(コロサイ1の16)が故に
イエスの死の中で万物は終わったのです。象徴的に言うとこれは
「水と言う死」による審判とある執行でした。ノアの洪水や
エジプトの軍勢を覆った海、水のバプテスマの意味等がここにあります。
しかしながら死(ある終結)とは消滅を意味するものではありません。
それは命からの隔絶なのです。しかし将来、更に終局的究極的
正に絶望的な隔絶が待っています。それこそが第二の死です。
即ちそれは焼却であり永遠の火の池です。(しかしそれとて
消滅ではないのです。)その時には第一の死でさえその機能が終わり
黄泉と共に 永遠の火の中に投げ込まれるのです。
それがイエスが言われた火のバプテスマでもあります。
(遂には海も無くなります)
さて今「第一の死の印」を持つ時空は まだここにあります。
キリスト者とはこの時空の中に ある明確な目的をもって神によって
意図的に「留まらせられている」存在です。基本的にまた本質的に
私たちは キリストの復活にあずかり永遠の中にある天的な存在です。
キリスト者とは元より「地に住む者」ではないのです。
しかしながらそれと同時に私達はこの時空の中 旧創造の中に敢えて
暫くの間留め置かれなければならない極めて稀有な者達なのです。
このような存在はキリスト者を他にしてはどこにも見ることが
出来ないのです。この理由の故に 他の目に見えない極めて高度な
被造物達は正に驚異の眼差しで日夜私達を見つめていることでしょう。
さて私達がこの時空の中に今しばし留まらなければならない理由とは
「神の敵の苦しみの増大と恥辱の増大」の為なのであり、
そのことに含まれる 神に創造された者達への命の福音の宣べ伝え
のためです。これ以外に私たちがこの地上にいる意味はあり得ません。
それではその目的はどのようにして実現されるのでしょうか。
それは私たちが キリストによって達成されたあのB面の原型、
キリスト者が歩むべき行程の為にキリストによって既に完成されている
「復活のキリストと言うあの原型」に信仰によって自分を「はめ込み」
キリストの各面を この時空の中に再現することによって
初めて可能となるのです。
2007年12月31日月曜日
「キリストの中の私」へ(4)
クリスチャン生活とは
多くの苦難を経験することによって私の魂が長い時間を経て
造り変えられその結果 私の生活においてより多くキリストを表現し
より神の御旨を実行することが出来るようになる、
と言う認識は あるキリスト者達にとっては一般的なものと言えましょう。
これを今A面と呼ぶことにします。当然このA面に間違いはありません。
しかしそれはしばしばB面との深い関わりの中で
語られるべきものなのです。
私の個人的な考えによると むしろB面を優先させる実行の中で
初めてA面は「無理なく」現れて来るものであると思われます。
それではB面とは何でしょうか。それは・・・
クリスチャン生活とはキリストによって既に完成した
「十字架、復活、昇天、御座と言うキリストの生活、人生、運命」を
私において再現して行くものである と言うことです。
キリスト者の通るべき全行程は「キリストと言う範囲」の中にしか
存在しないのです。私たちの一切は総てキリストの中にあります。
私たちキリスト者の運命の原型は キリストの御業において
もう成就完成されているのです。
私たちは今のこの時空の時代(恵みの時代と千年の時代)において
そして或いは永遠の時代においても(?)
キリストが達成された原型を、その原型の中に自分を置くことによって
私達がその再現となるのです。
それは栄光から栄光へと至る道でしょう。
それにしても キリスト者に定められた運命とは
何と安全で また言語を絶する驚くべきものなのでしょうか。
それは決して私達がキリストにならって
自分で自分の人生を切り開いて行かなければならない、と言う様な
不確かなものではないのです。
私達は既にキリストの死において彼と一つとされました。
だからそれ以後の私たちの運命も 総てキリストとの一つの中にあります。
私たちの永遠、運命は天おいてもう既に定まっているのです!
ですから私達は今この時代においても 私達に残された時間の中で
その真理を信じ その確固とした事実にしっかりと立ち
今私達からキリストの復活、昇天、御座を表現して行くべきです。
そこから与えられる享受の程度はたとえ「前味」に過ぎないとしても
それは将来と完全に同質の味なのです。
ここでのキーはひとえに信仰です。
信仰だけが その永遠におけるキリストの達成を
今の私の生活と言うこの時空の中にもたらしてくれるのです。
このB面には 従って即時的な一面があります。
唯信仰によって 天にある永遠性の実際が直ちにあなたの中に
そしてあなたの周辺に今日にも現れ出る可能性があるのです。
☆
「一粒の麦が・・死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12の24)
*豊かな実は一粒の麦・原型と性質において全く同じであり、
数多くの再現です。
「あなた方は既に死んだものであり、あなた方の「命」はキリストと共に
神の内に隠されている。」(コロサイ3の3)
*この「命」から生活、人生、運命が再現されて来るのです。
多くの苦難を経験することによって私の魂が長い時間を経て
造り変えられその結果 私の生活においてより多くキリストを表現し
より神の御旨を実行することが出来るようになる、
と言う認識は あるキリスト者達にとっては一般的なものと言えましょう。
これを今A面と呼ぶことにします。当然このA面に間違いはありません。
しかしそれはしばしばB面との深い関わりの中で
語られるべきものなのです。
私の個人的な考えによると むしろB面を優先させる実行の中で
初めてA面は「無理なく」現れて来るものであると思われます。
それではB面とは何でしょうか。それは・・・
クリスチャン生活とはキリストによって既に完成した
「十字架、復活、昇天、御座と言うキリストの生活、人生、運命」を
私において再現して行くものである と言うことです。
キリスト者の通るべき全行程は「キリストと言う範囲」の中にしか
存在しないのです。私たちの一切は総てキリストの中にあります。
私たちキリスト者の運命の原型は キリストの御業において
もう成就完成されているのです。
私たちは今のこの時空の時代(恵みの時代と千年の時代)において
そして或いは永遠の時代においても(?)
キリストが達成された原型を、その原型の中に自分を置くことによって
私達がその再現となるのです。
それは栄光から栄光へと至る道でしょう。
それにしても キリスト者に定められた運命とは
何と安全で また言語を絶する驚くべきものなのでしょうか。
それは決して私達がキリストにならって
自分で自分の人生を切り開いて行かなければならない、と言う様な
不確かなものではないのです。
私達は既にキリストの死において彼と一つとされました。
だからそれ以後の私たちの運命も 総てキリストとの一つの中にあります。
私たちの永遠、運命は天おいてもう既に定まっているのです!
ですから私達は今この時代においても 私達に残された時間の中で
その真理を信じ その確固とした事実にしっかりと立ち
今私達からキリストの復活、昇天、御座を表現して行くべきです。
そこから与えられる享受の程度はたとえ「前味」に過ぎないとしても
それは将来と完全に同質の味なのです。
ここでのキーはひとえに信仰です。
信仰だけが その永遠におけるキリストの達成を
今の私の生活と言うこの時空の中にもたらしてくれるのです。
このB面には 従って即時的な一面があります。
唯信仰によって 天にある永遠性の実際が直ちにあなたの中に
そしてあなたの周辺に今日にも現れ出る可能性があるのです。
☆
「一粒の麦が・・死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12の24)
*豊かな実は一粒の麦・原型と性質において全く同じであり、
数多くの再現です。
「あなた方は既に死んだものであり、あなた方の「命」はキリストと共に
神の内に隠されている。」(コロサイ3の3)
*この「命」から生活、人生、運命が再現されて来るのです。
2007年12月29日土曜日
「キリストの中の私」へ(3)
私達人の観念では、
神は私達一人一人に別個にそれぞれ救いや恵みを提供してくださる
と言うものです。しかしそれは全くの誤解です。
神の方法は、ただ一人の人の中に総てを結集し
次に他の人々をこの一人の人の中に置く、或いはその一人の人と
一つにして下さると言うものです。
ただ一人の人において総てをなさり、他の総ての人々を
その一人の人の中に入れ込むのです。
*罪の裁きとその執行、そして古き人を終わらせることにおいて
神は私達の自己改善の努力を全く評価しません。それどころか二千年前
神は私の存在そのものでさえ忌むべきものとして始末し
墓の中に放り捨てたのです。その墓の中で私は今腐乱死体と
なっていることでしょう。そうなる前「あの最後のアダム」が木の上に
釘付けられていました。しかしあの罪人(ざいにん)は実は
神によって呪われるしかなかった「私やあなたと言う罪の肉のかたまり」
なのです。そこにいたのは他でもないあなたや私だったのです。
どうしてあれが「あの無垢なるお方」である筈などあり得ましょうか。
しかし事実イエスはそこにいたのです!そうです、そのようにして
イエスはあなたとその死において一つとなられたのです。
呪われた木の上の罪のかたまり、それが私と言う人に対する
究極的神の見方に他なりません。
そのようにしてあの時点であなたは処罰され 死んだのです。
もうあなたに対する神の処刑は終わり、
あなたと言う存在は絶たれたのです。
しかしこれは何と幸いなことでしょう。
何故なら神はもう二度と あなたを処刑することが出来ないからです。
最後のアダムとの一つの中で あなたは神の恐るべき
刑罰をもう受けたのです。これが神の方法です。
私達一人一人が自分の罪を嘆き悲しむことによって、
或いはあなたがあなたを十字架に付けることによって、その努力によって
神は私を赦してくれるのではありません。もう既に神はあなたに対して
正当に刑の執行を執り行ったのです。あの一人の人において正当に
そして法にのっとりあなたに対する処刑を既に完了されたのです。
ですから、ここで私たちは 私への罪の裁きは終わっていること、また
私が神の為に良き業を遂行する上でも 私は何も出来ない所か、
神にとって私は忌むべき墓の中の腐乱死体であることを知り
神に対する一切の義務感から解放されるべきなのです。
木に釘付けされた肉の塊りや墓の中の腐乱死体が神の為にどんな
良きことをなし得るでしょうか。腐乱死体が 墓から抜け出して神の為に
「良きこと」等をしようとするべきではないのです。
さてそれでは なぜ以上の様なことが可能なのでしょうか。
なぜ物理的には時間も空間もはるかに離れたあなたに
イエスの十字架が適用され得るのでしょうか。
それは神が十字架上でイエスとあなたを一つにされたからです。
あなたはアダムであり 彼は最後のアダムだからです。
神の目に人類は一人の大きなアダムであり
最後のアダムは総てのアダムの総合計であったからです。
そのようにして神によってあの十字架上に
I in HIM と言う事実が存在したのです。
これが神の方法です。
神は 総ての人を包含したただ一人の人の上でのみ
総てを行われたのです。
神は私達一人一人に別個にそれぞれ救いや恵みを提供してくださる
と言うものです。しかしそれは全くの誤解です。
神の方法は、ただ一人の人の中に総てを結集し
次に他の人々をこの一人の人の中に置く、或いはその一人の人と
一つにして下さると言うものです。
ただ一人の人において総てをなさり、他の総ての人々を
その一人の人の中に入れ込むのです。
*罪の裁きとその執行、そして古き人を終わらせることにおいて
神は私達の自己改善の努力を全く評価しません。それどころか二千年前
神は私の存在そのものでさえ忌むべきものとして始末し
墓の中に放り捨てたのです。その墓の中で私は今腐乱死体と
なっていることでしょう。そうなる前「あの最後のアダム」が木の上に
釘付けられていました。しかしあの罪人(ざいにん)は実は
神によって呪われるしかなかった「私やあなたと言う罪の肉のかたまり」
なのです。そこにいたのは他でもないあなたや私だったのです。
どうしてあれが「あの無垢なるお方」である筈などあり得ましょうか。
しかし事実イエスはそこにいたのです!そうです、そのようにして
イエスはあなたとその死において一つとなられたのです。
呪われた木の上の罪のかたまり、それが私と言う人に対する
究極的神の見方に他なりません。
そのようにしてあの時点であなたは処罰され 死んだのです。
もうあなたに対する神の処刑は終わり、
あなたと言う存在は絶たれたのです。
しかしこれは何と幸いなことでしょう。
何故なら神はもう二度と あなたを処刑することが出来ないからです。
最後のアダムとの一つの中で あなたは神の恐るべき
刑罰をもう受けたのです。これが神の方法です。
私達一人一人が自分の罪を嘆き悲しむことによって、
或いはあなたがあなたを十字架に付けることによって、その努力によって
神は私を赦してくれるのではありません。もう既に神はあなたに対して
正当に刑の執行を執り行ったのです。あの一人の人において正当に
そして法にのっとりあなたに対する処刑を既に完了されたのです。
ですから、ここで私たちは 私への罪の裁きは終わっていること、また
私が神の為に良き業を遂行する上でも 私は何も出来ない所か、
神にとって私は忌むべき墓の中の腐乱死体であることを知り
神に対する一切の義務感から解放されるべきなのです。
木に釘付けされた肉の塊りや墓の中の腐乱死体が神の為にどんな
良きことをなし得るでしょうか。腐乱死体が 墓から抜け出して神の為に
「良きこと」等をしようとするべきではないのです。
さてそれでは なぜ以上の様なことが可能なのでしょうか。
なぜ物理的には時間も空間もはるかに離れたあなたに
イエスの十字架が適用され得るのでしょうか。
それは神が十字架上でイエスとあなたを一つにされたからです。
あなたはアダムであり 彼は最後のアダムだからです。
神の目に人類は一人の大きなアダムであり
最後のアダムは総てのアダムの総合計であったからです。
そのようにして神によってあの十字架上に
I in HIM と言う事実が存在したのです。
これが神の方法です。
神は 総ての人を包含したただ一人の人の上でのみ
総てを行われたのです。
「キリストの中の私」へ(2)
私たちは内にキリストを頂いたら(HE in me)その時、直ちに
更に「私はキリストにある」こと「私はキリストと一つであること」
(I in HIM)を教えられ、その事実を見、信じ、その事実に安息し、
それを現実の生活の中に適用しなければなりません。
(私たちはそうするべきだったのです。)
だからポイントは そこにある事実、あなたがキリストと一つであることを
「見ること」にあります。
総ての解決はキリストにあります。だから もしもあなたが本当に
キリストと一つであるならば 何の問題も無いのです。
なぜならあなたは既に「解決」を持っているからです。
神はただ一人キリストにおいてだけことをなさるのです。あの人だけが
キリストなのです。キリストは他にどこにもいません。ただあのイエスだけが
キリスト(仕事をなさる方)なのです。
そしてキリストにおいて 総ての神の業は既に完成されています。
その時点においては、仕事をすると言う事においては
あなたは神と何の関係もありません。
神がなさることを あなたはかたわらで黙って眺めているだけです。
キリストの業においてあなたに可能なこと 出来ることは
ただの一つも無いのです。
次に神は「その総てなるキリスト」とあなたを一つにするのです。
つまり、「その総てなるキリスト」をあなたに与えるのです。
そして何と そのことさえも既に終わっているのです。
だからあなたには何をする必要もありません。
そのキリストとの一つの中に留まっていさえすればよいのです。
問題はそのキリストとの一つについて 私達は無関心であること、
真剣でないこと、知らないこと、信じないことだけなのです。
更に「私はキリストにある」こと「私はキリストと一つであること」
(I in HIM)を教えられ、その事実を見、信じ、その事実に安息し、
それを現実の生活の中に適用しなければなりません。
(私たちはそうするべきだったのです。)
だからポイントは そこにある事実、あなたがキリストと一つであることを
「見ること」にあります。
総ての解決はキリストにあります。だから もしもあなたが本当に
キリストと一つであるならば 何の問題も無いのです。
なぜならあなたは既に「解決」を持っているからです。
神はただ一人キリストにおいてだけことをなさるのです。あの人だけが
キリストなのです。キリストは他にどこにもいません。ただあのイエスだけが
キリスト(仕事をなさる方)なのです。
そしてキリストにおいて 総ての神の業は既に完成されています。
その時点においては、仕事をすると言う事においては
あなたは神と何の関係もありません。
神がなさることを あなたはかたわらで黙って眺めているだけです。
キリストの業においてあなたに可能なこと 出来ることは
ただの一つも無いのです。
次に神は「その総てなるキリスト」とあなたを一つにするのです。
つまり、「その総てなるキリスト」をあなたに与えるのです。
そして何と そのことさえも既に終わっているのです。
だからあなたには何をする必要もありません。
そのキリストとの一つの中に留まっていさえすればよいのです。
問題はそのキリストとの一つについて 私達は無関心であること、
真剣でないこと、知らないこと、信じないことだけなのです。
2007年12月28日金曜日
「キリストの中の私」へ(1)
キリストと私との関係を見るとき
A「私の中のキリスト」と B「キリストの中の私」があります。
この二つは双方とも極めて大切な事実なのですが
私たちは どうも前者のみにこだわり過ぎる傾向があるように思われます。
確かにキリスト者のスタートは新生であり、それは「私の中のキリスト」
の開始です。これが無ければ何も無いわけで それはそれでよいのですが、
キリスト者は新しく生まれた時 同時にBをも知り初めなければならない
と言うとても大切な事実を見落としてしまっているようです。
B 無しでA のみを突き進むならば さまざまな困難に直面します。
そのようなキリスト者は「霊から始まった救いは 次に魂が造り変えられ
将来は体にさえ完全な救いが及ぶ」とするワンパターン思考しか
持っていません。その結果、彼は常に自分を見つめ 自分を意識し
何とか困難な環境の中でこの我が魂が造り変えられなければならない
と願うのです。もちろんこれは間違っているとは言えません。
しかし彼には極めて重要なB が欠落しており、
もしそのBの実際に徐々に入って行くという学びが着実になされなければ
「造り変え」などあるはずが無いことに気づいていないのです。
私自身の経験から そのようなキリスト者の傾向として
次のような事柄があげられるかも知れません。
「自分は変化したか といつも自分を見つめので 常に一喜一憂し
自分の感覚に左右され 喜びと落ち込みの落差が激しい。
自分を見つめ過ぎるだけでなく 他のキリスト者をも観察し、
自分と比較し 時には過大にあるキリスト者を評価するか
或いはあるキリスト者達を区別してしまう(ここにも分派の根がある。)
人の前で「変化した私」を演じることさえあり得る(キリスト者を
振舞う。)要するに神の前でなく人の顔の前で生き行動する。
また時には自分は造り変えられ 少しは霊的な人間になったのかしらと
錯覚することさえあるかも知れない。」
この傾向の共通点は
キリストと聖書を自分の前に置き、それを目標に
辛い環境の中で自分を神によって変えていただきたい
という単一路線にあるのです。これはキリスト者の歩むべき道の総て
であるように見えますが、それのみでは全く不十分なのです。
確かに そこには必要不可欠なとても重要な認識が
決定的に欠けているのです。
☆
A「私の中のキリスト」と B「キリストの中の私」があります。
この二つは双方とも極めて大切な事実なのですが
私たちは どうも前者のみにこだわり過ぎる傾向があるように思われます。
確かにキリスト者のスタートは新生であり、それは「私の中のキリスト」
の開始です。これが無ければ何も無いわけで それはそれでよいのですが、
キリスト者は新しく生まれた時 同時にBをも知り初めなければならない
と言うとても大切な事実を見落としてしまっているようです。
B 無しでA のみを突き進むならば さまざまな困難に直面します。
そのようなキリスト者は「霊から始まった救いは 次に魂が造り変えられ
将来は体にさえ完全な救いが及ぶ」とするワンパターン思考しか
持っていません。その結果、彼は常に自分を見つめ 自分を意識し
何とか困難な環境の中でこの我が魂が造り変えられなければならない
と願うのです。もちろんこれは間違っているとは言えません。
しかし彼には極めて重要なB が欠落しており、
もしそのBの実際に徐々に入って行くという学びが着実になされなければ
「造り変え」などあるはずが無いことに気づいていないのです。
私自身の経験から そのようなキリスト者の傾向として
次のような事柄があげられるかも知れません。
「自分は変化したか といつも自分を見つめので 常に一喜一憂し
自分の感覚に左右され 喜びと落ち込みの落差が激しい。
自分を見つめ過ぎるだけでなく 他のキリスト者をも観察し、
自分と比較し 時には過大にあるキリスト者を評価するか
或いはあるキリスト者達を区別してしまう(ここにも分派の根がある。)
人の前で「変化した私」を演じることさえあり得る(キリスト者を
振舞う。)要するに神の前でなく人の顔の前で生き行動する。
また時には自分は造り変えられ 少しは霊的な人間になったのかしらと
錯覚することさえあるかも知れない。」
この傾向の共通点は
キリストと聖書を自分の前に置き、それを目標に
辛い環境の中で自分を神によって変えていただきたい
という単一路線にあるのです。これはキリスト者の歩むべき道の総て
であるように見えますが、それのみでは全く不十分なのです。
確かに そこには必要不可欠なとても重要な認識が
決定的に欠けているのです。
☆
2007年12月25日火曜日
二人でも三人でも
去る11月 我孫子市での集まりに
一度だけ参加された中町さんは
お体の具合等でそれっきりになってしまった。
しかし素晴らしいことにこの中町姉妹はそれまで
ご主人を導きながら自宅でたった二人で
聖書を開く時をしばしば持っていたのであった。
そこで私は思った、
ああそうであるならば 無理に我孫子の集まりに来ることも
ないではないか、と。
その時 私はあることを感じ、この姉妹にウオッッチマンニーの
小さなメッセージ集を一冊お送りしたのであった。
で 今日たった今 姉妹との電話でのやり取りに至るのである。
その電話でこの姉妹は何と
「この本のメッセージは私の中にスウッと入ってくる。
私の求めていたものはここにあった」と言うようなことを言われたのである。
この方がこの類のメッセージに触れたのは今回が初めてのようであった。
この寄る辺なき初老のご夫婦による小さな教会の集まりがここにもある。
これも確かに教会の一部なのだ。いや、これこそ教会の原点、或いは
少なくとも教会の有力な一単位と言えるであろう。
「二人でも三人でも、私の名の中へ集まるところには、私もその中にいる。」
(マタイ18の20)
一度だけ参加された中町さんは
お体の具合等でそれっきりになってしまった。
しかし素晴らしいことにこの中町姉妹はそれまで
ご主人を導きながら自宅でたった二人で
聖書を開く時をしばしば持っていたのであった。
そこで私は思った、
ああそうであるならば 無理に我孫子の集まりに来ることも
ないではないか、と。
その時 私はあることを感じ、この姉妹にウオッッチマンニーの
小さなメッセージ集を一冊お送りしたのであった。
で 今日たった今 姉妹との電話でのやり取りに至るのである。
その電話でこの姉妹は何と
「この本のメッセージは私の中にスウッと入ってくる。
私の求めていたものはここにあった」と言うようなことを言われたのである。
この方がこの類のメッセージに触れたのは今回が初めてのようであった。
この寄る辺なき初老のご夫婦による小さな教会の集まりがここにもある。
これも確かに教会の一部なのだ。いや、これこそ教会の原点、或いは
少なくとも教会の有力な一単位と言えるであろう。
「二人でも三人でも、私の名の中へ集まるところには、私もその中にいる。」
(マタイ18の20)
山の2日目
何を書くでもなくブログに向かっています。
やはり山だと何か書く気分になるんですよ。
昨日、狙い通りまだ暗くなる前4時頃小屋に着くことが出来ました。
今山の昼下がり、何にも聞こえない冬の静けさ、やはり山はいいです。
これからでしょう、雪あり、大雪あり、吹雪あり 大風ありは。
それもまたよしとしないとね。(週末一つ来そうです)
これから階下に降りていつもの煮物を作ります。これを大量に作っておけば
ここの冬は小屋の中至る所冷蔵庫なので腐る心配もなく
数日そればっかりを食べて過ごせるのです。
☆
ごった煮作りを終えて今4時前、
FMから「くるみ割り人形」が聞こえて来ます。
今日も人間との生の会話ゼロの日となりそうです。
山の中でブログに向かうのはそれとも「人恋しさ」なのかなー。
山を歩き出すとそれも変わってくるでしょうが・・
☆
困ったことや、辛いことがある時
キリストの死をいただかないのはとても惜しいことに違いない。
もしもそれだけであれば それは「ただの苦労」で終わってしまう。
私たちは「キリストの包括的死」をもっと気楽に日常的に
「使用」していいのではないかと思います。
ここに2者があります。私と私の対象物です。
キリストの死を適用するのは
この両方でも良いし、何なら片方でも良いのです。
これがパウロが死についてあんなにも強調する理由では無いでしょうか。
キリストの十字架は絶対に有難ーい飾りもの等ではありません。
眺めて褒め称えていればよいと言うものでもありません。また
あなたの一世一代の大事業でもありません。
それは人々によって日常的に使用に供せられるための物であるはずです。
「私には、十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架によって、世界は私に対して十字架に付けられ、
私も世界に対して十字架に付けられたのです。」
(ガラテヤ6の14)
やはり山だと何か書く気分になるんですよ。
昨日、狙い通りまだ暗くなる前4時頃小屋に着くことが出来ました。
今山の昼下がり、何にも聞こえない冬の静けさ、やはり山はいいです。
これからでしょう、雪あり、大雪あり、吹雪あり 大風ありは。
それもまたよしとしないとね。(週末一つ来そうです)
これから階下に降りていつもの煮物を作ります。これを大量に作っておけば
ここの冬は小屋の中至る所冷蔵庫なので腐る心配もなく
数日そればっかりを食べて過ごせるのです。
☆
ごった煮作りを終えて今4時前、
FMから「くるみ割り人形」が聞こえて来ます。
今日も人間との生の会話ゼロの日となりそうです。
山の中でブログに向かうのはそれとも「人恋しさ」なのかなー。
山を歩き出すとそれも変わってくるでしょうが・・
☆
困ったことや、辛いことがある時
キリストの死をいただかないのはとても惜しいことに違いない。
もしもそれだけであれば それは「ただの苦労」で終わってしまう。
私たちは「キリストの包括的死」をもっと気楽に日常的に
「使用」していいのではないかと思います。
ここに2者があります。私と私の対象物です。
キリストの死を適用するのは
この両方でも良いし、何なら片方でも良いのです。
これがパウロが死についてあんなにも強調する理由では無いでしょうか。
キリストの十字架は絶対に有難ーい飾りもの等ではありません。
眺めて褒め称えていればよいと言うものでもありません。また
あなたの一世一代の大事業でもありません。
それは人々によって日常的に使用に供せられるための物であるはずです。
「私には、十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架によって、世界は私に対して十字架に付けられ、
私も世界に対して十字架に付けられたのです。」
(ガラテヤ6の14)
2007年12月23日日曜日
明日 山に戻ります
前回も申したように
「下」にいると、なぜかブログなど書く気がしないというのは
どうしたことなのでしょうか。
イモクボ氏は「下の世界が既にパソコン見たいな雑多な世界なので
何ももう一つの雑多なパソコンと言う世界に向かう気が
しないからではないか」と言われていましたが、
一寸当たっているかな。でもこれ「山人間」の共通項なのかも知れません。
ケンは今 パートの求職中:
彼には これからこの世の中に出て行き、人々の間で時間を過ごすことへの
恐怖心のようなものがあるらしいのです。(もっともなことです)
でももし世の中に出て行くことが主から来ているとするならば
そこには必ず御導きがあるだろうと話し合ったり祈ったりしている所です。
まーでも よくぞここまで というのが私の実感です。
実は今日 山に戻るはずなのでしたが天気が悪いので 明日ですね。
やはりきれいな天気の中をドライブしたいし、
冬至の暗さの中 ジトジト雨や雪に濡れながら
たった一人 冷え冷えした小屋に荷物を運び入れると言うのは
少し辛いものがあるのです。
でも これ随分贅沢な話ですよね。
☆
キリスト者のあり方と言うのは
「キリストの再現」と言うことなのではないだろうか
と言う思いに改めて今日の朝 捕らえられました。
と言う見地で聖書を見てみると実にうなずく点が多い。
私と言う要素は 神の御旨遂行と言う点では300%不合格であり
従って十字架に付けられた。これは事実である。
そうするならば残るのはキリスト、復活のキリストしかないのです。
だからその「キリストの中に自分を置くこと」しか
私にはすることがないはずである、
ということになるのです。
そしてその再現はナザレのイエスの再現だけではない、
復活後のキリストの再現でもあるわけで、従って
イエスはあの晩餐の席上 次のように言われたのではないでしょうか。
「真に、真にあなた方に告げます。私を信じるものは、私の行う業を行い、
またそれよりも更に大きな業を行います。私が父の元に行くからです。」
(ヨハネ福音14の12)
「下」にいると、なぜかブログなど書く気がしないというのは
どうしたことなのでしょうか。
イモクボ氏は「下の世界が既にパソコン見たいな雑多な世界なので
何ももう一つの雑多なパソコンと言う世界に向かう気が
しないからではないか」と言われていましたが、
一寸当たっているかな。でもこれ「山人間」の共通項なのかも知れません。
ケンは今 パートの求職中:
彼には これからこの世の中に出て行き、人々の間で時間を過ごすことへの
恐怖心のようなものがあるらしいのです。(もっともなことです)
でももし世の中に出て行くことが主から来ているとするならば
そこには必ず御導きがあるだろうと話し合ったり祈ったりしている所です。
まーでも よくぞここまで というのが私の実感です。
実は今日 山に戻るはずなのでしたが天気が悪いので 明日ですね。
やはりきれいな天気の中をドライブしたいし、
冬至の暗さの中 ジトジト雨や雪に濡れながら
たった一人 冷え冷えした小屋に荷物を運び入れると言うのは
少し辛いものがあるのです。
でも これ随分贅沢な話ですよね。
☆
キリスト者のあり方と言うのは
「キリストの再現」と言うことなのではないだろうか
と言う思いに改めて今日の朝 捕らえられました。
と言う見地で聖書を見てみると実にうなずく点が多い。
私と言う要素は 神の御旨遂行と言う点では300%不合格であり
従って十字架に付けられた。これは事実である。
そうするならば残るのはキリスト、復活のキリストしかないのです。
だからその「キリストの中に自分を置くこと」しか
私にはすることがないはずである、
ということになるのです。
そしてその再現はナザレのイエスの再現だけではない、
復活後のキリストの再現でもあるわけで、従って
イエスはあの晩餐の席上 次のように言われたのではないでしょうか。
「真に、真にあなた方に告げます。私を信じるものは、私の行う業を行い、
またそれよりも更に大きな業を行います。私が父の元に行くからです。」
(ヨハネ福音14の12)
2007年12月15日土曜日
キリストは死なず
いやいや皆さん しばらくでした。
ノートパソコンは こうして手元にあるのですが どうしてでしょう、
この数日ブログの更新にあまり食指が動かなかったのです。
ま これまで連日何かあり(外出とか)の毎日ではあったのですがね。
13日は ケンの退院祝いの夕食を家で。
妻は料理作りに奮闘 食事は実に楽しかったのです。
これに 八千代市にある精神障害者を
自立に向けさせる施設にいる次男のジュンも来てくれました。
昨日夕方、そのジュンを施設に送って行ったのですが
その途中 ココスで一寸嬉しいことがあったのです。
実はしばらく前、あろうことか このジュンに突然
「お父さん、僕はクリスチャンではないと思うよ」と言われ
それが今まで私の小さなショックとなっていたのでした。
そのジュンが何と次のようなことを話してくれたのです:
高校3年生の頃、精一杯の自己表現の努力の果て
総てのことに行き詰まって
精神的にギリギリの所まで追い詰められてしまった。
でもそんな時 とうとう何故か
そういう弱い自分を認めてあげる自分が現れて
そのことが小さな救いとなり、それが彼の原点になったのだと。
その後発病し、本当に長年の紆余曲折の後
しかし徐々に快方に向かい、来年の春あたり施設を卒業出来る見込み
と言う段階に現在至っているのです。
しかしこの施設内では いろいろと気苦労が絶えなかった、
いや実は本当に大変だったのだ と言うのです。
さもありなん、ホンとにジュンはよくぞここまで来た と私も思う。
しかし、その中でようやく到達した場所というのが
かつて高校生の時に経験したあの原点だったのだ と。
つまり単純に何も出来ない自分を黙って認めてあげること。
でもそうする時に 連日そのような大変な状況の人々の渦のなかで
そんな自分がいつの間にか人々に慕われる存在になっていた、
と言うのです。
幼い頃に受け入れたジュンの中のキリストは死なず。
思いの中でああだこうだ「自分はクリスチャンでない」
などと考えたとしても
人の奥深きに一旦入り込んだ復活のキリストが死ぬはずなどない。
どっこい こんなジュンの中でも あの古代ハスの種のように
不滅のキリストは今その小さな芽をのぞかせた。
ノートパソコンは こうして手元にあるのですが どうしてでしょう、
この数日ブログの更新にあまり食指が動かなかったのです。
ま これまで連日何かあり(外出とか)の毎日ではあったのですがね。
13日は ケンの退院祝いの夕食を家で。
妻は料理作りに奮闘 食事は実に楽しかったのです。
これに 八千代市にある精神障害者を
自立に向けさせる施設にいる次男のジュンも来てくれました。
昨日夕方、そのジュンを施設に送って行ったのですが
その途中 ココスで一寸嬉しいことがあったのです。
実はしばらく前、あろうことか このジュンに突然
「お父さん、僕はクリスチャンではないと思うよ」と言われ
それが今まで私の小さなショックとなっていたのでした。
そのジュンが何と次のようなことを話してくれたのです:
高校3年生の頃、精一杯の自己表現の努力の果て
総てのことに行き詰まって
精神的にギリギリの所まで追い詰められてしまった。
でもそんな時 とうとう何故か
そういう弱い自分を認めてあげる自分が現れて
そのことが小さな救いとなり、それが彼の原点になったのだと。
その後発病し、本当に長年の紆余曲折の後
しかし徐々に快方に向かい、来年の春あたり施設を卒業出来る見込み
と言う段階に現在至っているのです。
しかしこの施設内では いろいろと気苦労が絶えなかった、
いや実は本当に大変だったのだ と言うのです。
さもありなん、ホンとにジュンはよくぞここまで来た と私も思う。
しかし、その中でようやく到達した場所というのが
かつて高校生の時に経験したあの原点だったのだ と。
つまり単純に何も出来ない自分を黙って認めてあげること。
でもそうする時に 連日そのような大変な状況の人々の渦のなかで
そんな自分がいつの間にか人々に慕われる存在になっていた、
と言うのです。
幼い頃に受け入れたジュンの中のキリストは死なず。
思いの中でああだこうだ「自分はクリスチャンでない」
などと考えたとしても
人の奥深きに一旦入り込んだ復活のキリストが死ぬはずなどない。
どっこい こんなジュンの中でも あの古代ハスの種のように
不滅のキリストは今その小さな芽をのぞかせた。
2007年12月9日日曜日
あるメールから
おっしやる様に「道は何と単純なことでしょう!」
このたびの兄弟のメール ことごとくアーメンです。
私は今こういう立場にいるからそれでいい
等と言うことは全く無いのですね。
実際に 主のおられるところにいなければ
そんなものは殆ど 塵あくたなのでしょう。
ピリピ書で言っているパウロの意味は
正しくそれ なのではないでしょうか。
私にとって得だと思っていたあのような事柄は
ことごとく実は「損」だったのです、
今現在のキリストの中にいるのでなければ・・。
だからこそ
この「キリストとの一つ」「主にあること」
「キリストとその復活の力とを知ること」を
真に追い求めなければならないのでしょう。
あの晩年のパウロでさえ そうであったのですから・・
それにしても 今
兄弟との間に このような真実な交わりがあることを
何と言って主に感謝しましょうか。
☆
昨日 ケンが千葉・我孫子での集まりに出席しました。
皆さんとても喜んで下さいました。
今日 パートの仕事の電話をする等と言っております。
私としては だいじょうぶかなあと思うのですが・・
いずれにしろ感謝なことです。
ケンのこと 総ては主でした。
このたびの兄弟のメール ことごとくアーメンです。
私は今こういう立場にいるからそれでいい
等と言うことは全く無いのですね。
実際に 主のおられるところにいなければ
そんなものは殆ど 塵あくたなのでしょう。
ピリピ書で言っているパウロの意味は
正しくそれ なのではないでしょうか。
私にとって得だと思っていたあのような事柄は
ことごとく実は「損」だったのです、
今現在のキリストの中にいるのでなければ・・。
だからこそ
この「キリストとの一つ」「主にあること」
「キリストとその復活の力とを知ること」を
真に追い求めなければならないのでしょう。
あの晩年のパウロでさえ そうであったのですから・・
それにしても 今
兄弟との間に このような真実な交わりがあることを
何と言って主に感謝しましょうか。
☆
昨日 ケンが千葉・我孫子での集まりに出席しました。
皆さんとても喜んで下さいました。
今日 パートの仕事の電話をする等と言っております。
私としては だいじょうぶかなあと思うのですが・・
いずれにしろ感謝なことです。
ケンのこと 総ては主でした。
2007年12月5日水曜日
ノートパソコン持ち歩き
今度 山と実家の行き来はパソコンを持ち運んで と言うことになります。
このハイテク音痴の私が車にノートパソコンを積んで旅するなんて!
これ私の中では正に隔世の感ですね。
これからは多分 ケンをひとり立ちさせるために今まで以上に
実家での暮らしが多くなることが予想されます。
その際 やっぱりパソコンが無いとどうしても不便。
でこの数日 今までの必要事項をノートパソコンに移す作業とか、
それ以上にハード面のあれやこれやで いやはや大変なことでした。
またまたお隣の(とは言っても車で10分)パソコンの師匠イモクボさんの
助けが無ければ、到底今日の運びとはならなかったことでしょう。
と言うわけで早速 明日は車にパソコンを積んでの
実家への初旅なのである。これ一寸大げさな物言いですが
何だか、年がいも無く実に嬉しいのです。これどうしてなんでしょうねー。
今度 山に戻るのは12月の中旬でしょう。
今回の旅 ケンを新しい病院に連れてゆくことがメインの目的です。
その病院の分院が近くの取手市にあると言うことで、
これだと ケンは自分で薬をもらいに病院に通えるのです。
それが社会復帰への小さな第一歩ということになるでしょう。
それにしても液晶の画面は美しい。
いやそれ以上に このロフトの小部屋が
デスクトップパソコンのコード類のごちゃごちゃが無くなって
実にスッキリと。いいですねー。
思えばイモクボ氏だけではない。
パソコンのことでこれまで私を助けてくれた諸氏に
今私は心から感謝の念を禁じえないのであります。
皆さん 有難うございました。
このハイテク音痴の私が車にノートパソコンを積んで旅するなんて!
これ私の中では正に隔世の感ですね。
これからは多分 ケンをひとり立ちさせるために今まで以上に
実家での暮らしが多くなることが予想されます。
その際 やっぱりパソコンが無いとどうしても不便。
でこの数日 今までの必要事項をノートパソコンに移す作業とか、
それ以上にハード面のあれやこれやで いやはや大変なことでした。
またまたお隣の(とは言っても車で10分)パソコンの師匠イモクボさんの
助けが無ければ、到底今日の運びとはならなかったことでしょう。
と言うわけで早速 明日は車にパソコンを積んでの
実家への初旅なのである。これ一寸大げさな物言いですが
何だか、年がいも無く実に嬉しいのです。これどうしてなんでしょうねー。
今度 山に戻るのは12月の中旬でしょう。
今回の旅 ケンを新しい病院に連れてゆくことがメインの目的です。
その病院の分院が近くの取手市にあると言うことで、
これだと ケンは自分で薬をもらいに病院に通えるのです。
それが社会復帰への小さな第一歩ということになるでしょう。
それにしても液晶の画面は美しい。
いやそれ以上に このロフトの小部屋が
デスクトップパソコンのコード類のごちゃごちゃが無くなって
実にスッキリと。いいですねー。
思えばイモクボ氏だけではない。
パソコンのことでこれまで私を助けてくれた諸氏に
今私は心から感謝の念を禁じえないのであります。
皆さん 有難うございました。
2007年12月2日日曜日
主に丸投げ
コージさん:
イエスは言われた。
「わたしには天においても、地においても、
いっさいの権威が与えられています」・・
もう一度この「一切の、総ての、あらゆる」と言う
主の言い方を確認すべし。
私:
総ての、一切の と言う言葉は聖書に沢山出て来ますが
私達はそれを相当 割引きして読んでいるように思われます。
イエスは文字通りの意味で「一切の」権威と言われているのに
私達ははなから即座に
その意味を半分くらいに割り引いてしまうようです。
更にしかし それをいざ 自分の現実生活で適用する段になると・・
わたしは「信者」だと言うのに一体どの程度 信じているのでしょうか!
神が真剣に言われている一字一句、
私もそれに真剣に向かい合いたいものです。
コージさん:
シュガーさん ようこそです。
人間都合が良くて、御言葉を額面どおりには受け取らないですよね。
時には10パーセント、良くて50パーセントです。
ほとんどのクリスチャンが、この部分を突っ込まれると
口ごもってしまうのではないでしょうか?
いずれにせよ 私たちは
「どうしようもない自分」を主に丸投げするしかない存在です。
主に従う事にこそ特に、
主御自身の助けがないと何も出来ないことを
ますます 感じています。
私:
「主に丸投げ」ですって?!コージさん、
どこからそんな素晴らしい発想が出てきたのですか。
このフレーズ 丸ごといただき!
そうか、「主には丸投げ」でいいんだ。
よかった 私は何もすること無いんだ。
イエスは言われた。
「わたしには天においても、地においても、
いっさいの権威が与えられています」・・
もう一度この「一切の、総ての、あらゆる」と言う
主の言い方を確認すべし。
私:
総ての、一切の と言う言葉は聖書に沢山出て来ますが
私達はそれを相当 割引きして読んでいるように思われます。
イエスは文字通りの意味で「一切の」権威と言われているのに
私達ははなから即座に
その意味を半分くらいに割り引いてしまうようです。
更にしかし それをいざ 自分の現実生活で適用する段になると・・
わたしは「信者」だと言うのに一体どの程度 信じているのでしょうか!
神が真剣に言われている一字一句、
私もそれに真剣に向かい合いたいものです。
コージさん:
シュガーさん ようこそです。
人間都合が良くて、御言葉を額面どおりには受け取らないですよね。
時には10パーセント、良くて50パーセントです。
ほとんどのクリスチャンが、この部分を突っ込まれると
口ごもってしまうのではないでしょうか?
いずれにせよ 私たちは
「どうしようもない自分」を主に丸投げするしかない存在です。
主に従う事にこそ特に、
主御自身の助けがないと何も出来ないことを
ますます 感じています。
私:
「主に丸投げ」ですって?!コージさん、
どこからそんな素晴らしい発想が出てきたのですか。
このフレーズ 丸ごといただき!
そうか、「主には丸投げ」でいいんだ。
よかった 私は何もすること無いんだ。
温かな「寒いお話」
パウダースノウさん:
「この間かすかだけれど
もうサンピラーが出ていました。
オレンジの柱は
とても柔らかな色で・・」
私:
「サンピラー!どんなのでしょうか。福島では無理なのかな。
私の小屋の外で今までの最低が-8度、これぐらいではね。
でもとにかく冬と言うのは絶対的に素敵なもの。
裸の林を歩いていると 私を妨げるいかなる物も無く、あるのは
真冬の鋭い空気と高い空だけ、と言う感じがいい。
でも北見の空はもっともっと高く青いことでしょう。
なんだか今 林に飛び出したくなった。」
パウダースノウさん:
「シュガーさん、いらっしゃいませ。^^
先日は、たまたま前の日が-15℃近くまで冷え込み
翌朝が快晴だったので条件が揃ったようですね。
サンピラー それこそ陽の柱という感じ。少ーしだけでしたがね。
私が若い頃は
よく北大雪という所に行ってたんですが、もしかしたら
日本で一番寒いスキー場でしょうかね。
空気が肌をさすほど冷たく、頂上から見る景色が素晴らしかった」
コージさん:
「横から失礼します。
なんだか無償に北見に行きたくなりました。」
「この間かすかだけれど
もうサンピラーが出ていました。
オレンジの柱は
とても柔らかな色で・・」
私:
「サンピラー!どんなのでしょうか。福島では無理なのかな。
私の小屋の外で今までの最低が-8度、これぐらいではね。
でもとにかく冬と言うのは絶対的に素敵なもの。
裸の林を歩いていると 私を妨げるいかなる物も無く、あるのは
真冬の鋭い空気と高い空だけ、と言う感じがいい。
でも北見の空はもっともっと高く青いことでしょう。
なんだか今 林に飛び出したくなった。」
パウダースノウさん:
「シュガーさん、いらっしゃいませ。^^
先日は、たまたま前の日が-15℃近くまで冷え込み
翌朝が快晴だったので条件が揃ったようですね。
サンピラー それこそ陽の柱という感じ。少ーしだけでしたがね。
私が若い頃は
よく北大雪という所に行ってたんですが、もしかしたら
日本で一番寒いスキー場でしょうかね。
空気が肌をさすほど冷たく、頂上から見る景色が素晴らしかった」
コージさん:
「横から失礼します。
なんだか無償に北見に行きたくなりました。」
2007年11月30日金曜日
網状結合
エペソ 4の10から16
コロサイ2の19から3の3
網状結合と言う言葉の方が、
ネットワーキングよりもずっといいですね。
ネットワークと言うとなんだか商売などが思わされますが
網状結合と聞くと 人間の体内、各部分の神秘的とも言える
命の結合を連想させられます。
頭(かしら・キリスト)から来る健康な命の力によって
微細な結合や癒しがいつの間にか体のあちこちに発生し
そのようにして体は健康を得、成長して行く。
そこには自然に無理なく 滋養分、癒し、他の部分への慈しみ、
温かさ、エネルギー、そして必要な情報の実質でさえ
生ける交流の中で必要な部分に届けられる。
この網状結合においてとても大切なことは
各部分が 頭の命に直接繋がっていると言う一点だけなのであって
「一つになろう」等とスローガンを叫ぶことではないのです。
なぜなら「かしら」の命にしっかり結合している所からは
自ずと麗しい一つが生み出されて行くからです。
健全な縦関係があってこそ初めて健康な横関係が生み出されて行く
のではないでしょうか。
(誰かこれを「人体学的に」説明してくれないかなー)
エペソ書、コロサイ書をこのような見地から再読してみると、
キリストの体のその健康なあり方と その中で必要な癒しと成長が
容易に無理なくそして新鮮に理解出来るように思われます。
キリストのからだは 時代の教えの風と掛け声や汗等によって
人々が「立ち上げ」なければならない「組織」とは全く無縁です。
きっとパウロはここでそんなことを言いたかったに違いありません。
かしらなるキリストによって神聖な命の中の網状結合が
日本国中 あちらにもこちらにも そして今日も明日も
生み出されて行きますように!
☆

*emiさんのブログに寄せた私のコメントを転載しました。
コロサイ2の19から3の3
網状結合と言う言葉の方が、
ネットワーキングよりもずっといいですね。
ネットワークと言うとなんだか商売などが思わされますが
網状結合と聞くと 人間の体内、各部分の神秘的とも言える
命の結合を連想させられます。
頭(かしら・キリスト)から来る健康な命の力によって
微細な結合や癒しがいつの間にか体のあちこちに発生し
そのようにして体は健康を得、成長して行く。
そこには自然に無理なく 滋養分、癒し、他の部分への慈しみ、
温かさ、エネルギー、そして必要な情報の実質でさえ
生ける交流の中で必要な部分に届けられる。
この網状結合においてとても大切なことは
各部分が 頭の命に直接繋がっていると言う一点だけなのであって
「一つになろう」等とスローガンを叫ぶことではないのです。
なぜなら「かしら」の命にしっかり結合している所からは
自ずと麗しい一つが生み出されて行くからです。
健全な縦関係があってこそ初めて健康な横関係が生み出されて行く
のではないでしょうか。
(誰かこれを「人体学的に」説明してくれないかなー)
エペソ書、コロサイ書をこのような見地から再読してみると、
キリストの体のその健康なあり方と その中で必要な癒しと成長が
容易に無理なくそして新鮮に理解出来るように思われます。
キリストのからだは 時代の教えの風と掛け声や汗等によって
人々が「立ち上げ」なければならない「組織」とは全く無縁です。
きっとパウロはここでそんなことを言いたかったに違いありません。
かしらなるキリストによって神聖な命の中の網状結合が
日本国中 あちらにもこちらにも そして今日も明日も
生み出されて行きますように!
☆

*emiさんのブログに寄せた私のコメントを転載しました。
外形も内容も
「神は言われた、
我々のイメージの中で、我々に似せて人を造ろう。」
「見よ、それは非常に良かった。」(創世記1の26、31)
これは何たる言葉であろうか。
この段階でさえ人は既に神の敵に対してある程度の支配権を
行使していたようである。(悲劇はその後に起きたが)
ところが2千年前に人は外形のみならず 命として神の実質さえも
人の内容として有するに至った。
しかもイエスの肉において
敵の足場となり得る一切が死に処せられてしまったのである。
現在 神の敵が人に隠しておきたい事実の総てがここにある、
と言えないであろうか。
ただその真贋(しんがん)の判断と
真への信仰のみが人の分に他ならない。
我々のイメージの中で、我々に似せて人を造ろう。」
「見よ、それは非常に良かった。」(創世記1の26、31)
これは何たる言葉であろうか。
この段階でさえ人は既に神の敵に対してある程度の支配権を
行使していたようである。(悲劇はその後に起きたが)
ところが2千年前に人は外形のみならず 命として神の実質さえも
人の内容として有するに至った。
しかもイエスの肉において
敵の足場となり得る一切が死に処せられてしまったのである。
現在 神の敵が人に隠しておきたい事実の総てがここにある、
と言えないであろうか。
ただその真贋(しんがん)の判断と
真への信仰のみが人の分に他ならない。
2007年11月26日月曜日
今日の独り言
コロサイ3の2に「あなた方は既に死んでおり・・」とある。
この神の言葉によれば
聖なる働きに関する限り 私は死んでいるのである。
そこには一切 私の分などと言うものは無い。
しかしこれは何という解放であろうか、何という安らぎであろうか!
神の敵が拠り所にしていた「この時空」という古く極めて有限なものを
キリストはその肉において十字架に釘づけてしまわれた。
だから敵は今その働き場を失ってしまっているのである。
その上でキリストは
「復活と言う超越した新しい時空そのもの」となられた。
この新しい創造に敵は近づき触れることさえ出来ない。
否、それは敵にとって大いなる恐怖でさえあるのだ。
私はこの超越した神の事実(真理)を当然の如くに信じ、
今目に見えている「低次元の現実」を足の下に踏み
その遥か上空を歩むべきである。
この神の言葉によれば
聖なる働きに関する限り 私は死んでいるのである。
そこには一切 私の分などと言うものは無い。
しかしこれは何という解放であろうか、何という安らぎであろうか!
神の敵が拠り所にしていた「この時空」という古く極めて有限なものを
キリストはその肉において十字架に釘づけてしまわれた。
だから敵は今その働き場を失ってしまっているのである。
その上でキリストは
「復活と言う超越した新しい時空そのもの」となられた。
この新しい創造に敵は近づき触れることさえ出来ない。
否、それは敵にとって大いなる恐怖でさえあるのだ。
私はこの超越した神の事実(真理)を当然の如くに信じ、
今目に見えている「低次元の現実」を足の下に踏み
その遥か上空を歩むべきである。
2007年11月25日日曜日
皆さんのお祈りに感謝
昨日夕方、小屋に戻りました。
11/9の一泊を除けば、何と24日ぶりの山の空気です。
やはり山はいいです。
夕べぐっすりと眠って 早朝ロフトのデッキに出たら西に沈む未明の
白く大きな月がほほ笑んでいるかのようでした。
もう木々はすっかり葉を落としています。
さてケンのこと:
ホンと この事態をどう説明したらよいのか私にはわかりません。
とにかく状況はこれ以上はあり得ない程の嬉しい結果になったのです。
発病して10年、これまで何度もひどくこじらせ 病状をぶり返し
入退院を繰り返して来た統合失調症の患者がこれほどよくなる
ものだろうか、と思う程の回復なのです。
11/9の失踪もどうやら健常者の感覚に近くなった彼が
病院の雰囲気にいたたまれなくなって
つい取ってしまった行動のようです。
とにかく何故かこのたび 我が家にあり得ないことが突然起こりました。
この不思議としか言いようの無い感覚はきっとこれからの私をしばしば
幸福にしてくれることでしょう。
と言うわけで主治医の太鼓判のもと、20日ケンは正式に退院、家に戻り
これから社会復帰に向けてその歩を踏み出して行くことになります。
この度の明確でそして一見急激とも見える「主の介入」:
思えば私がある促しを感じ ケンについて「恥も外聞もなく」ブログに
載せられたこと これが一つのきっかけになったように思わされます。
(これは 神とサタンと人間の前にケンをそして私を置いた
と言う事なのかも知れない)
その結果 多くの聖徒達の関心がケンに注がれることになり 沢山の
真摯な祈りが神に捧げられたことを私は感じたように思われます。
キリスト者の生活と言えども決してその実態はハッピー、順調、ラブ
ラブだけなどと言うことなどあり得ません。一皮むけば、むしろ悲惨で
悲しく大変な現実が沢山あり得るのです。むしろその方が自然であると
言うべきも知れません。
しかし私たちの主イエスはむしろそのような局面の只中に喜んで
来ようとされるお方なのではないでしょうか。
福音書はそのような例に満ちているように思われます。
「主よ、私の実情はこの通りです。この悲惨さが私の実力です。
でも主よ 私はこの総てを全能のあなたの手の上に置くことが出来ます。
主よ私は自分の弱さを誇ります。なぜならその私の弱さにおいてのみ
あなたはあなたがお働きになるチャンスを得ることが出来るからです」
この度 私が小屋を留守にいていた間
わが息子ケンのことを覚えて頂いた方々、
それからこのブログにコメントをお寄せ頂いた皆さん、
本当に有難うございました。
☆
下の写真は居間:
未だに断熱材むき出しのこの部屋も
光が少ないと美しくさえ見える。
11/9の一泊を除けば、何と24日ぶりの山の空気です。
やはり山はいいです。
夕べぐっすりと眠って 早朝ロフトのデッキに出たら西に沈む未明の
白く大きな月がほほ笑んでいるかのようでした。
もう木々はすっかり葉を落としています。
さてケンのこと:
ホンと この事態をどう説明したらよいのか私にはわかりません。
とにかく状況はこれ以上はあり得ない程の嬉しい結果になったのです。
発病して10年、これまで何度もひどくこじらせ 病状をぶり返し
入退院を繰り返して来た統合失調症の患者がこれほどよくなる
ものだろうか、と思う程の回復なのです。
11/9の失踪もどうやら健常者の感覚に近くなった彼が
病院の雰囲気にいたたまれなくなって
つい取ってしまった行動のようです。
とにかく何故かこのたび 我が家にあり得ないことが突然起こりました。
この不思議としか言いようの無い感覚はきっとこれからの私をしばしば
幸福にしてくれることでしょう。
と言うわけで主治医の太鼓判のもと、20日ケンは正式に退院、家に戻り
これから社会復帰に向けてその歩を踏み出して行くことになります。
この度の明確でそして一見急激とも見える「主の介入」:
思えば私がある促しを感じ ケンについて「恥も外聞もなく」ブログに
載せられたこと これが一つのきっかけになったように思わされます。
(これは 神とサタンと人間の前にケンをそして私を置いた
と言う事なのかも知れない)
その結果 多くの聖徒達の関心がケンに注がれることになり 沢山の
真摯な祈りが神に捧げられたことを私は感じたように思われます。
キリスト者の生活と言えども決してその実態はハッピー、順調、ラブ
ラブだけなどと言うことなどあり得ません。一皮むけば、むしろ悲惨で
悲しく大変な現実が沢山あり得るのです。むしろその方が自然であると
言うべきも知れません。
しかし私たちの主イエスはむしろそのような局面の只中に喜んで
来ようとされるお方なのではないでしょうか。
福音書はそのような例に満ちているように思われます。
「主よ、私の実情はこの通りです。この悲惨さが私の実力です。
でも主よ 私はこの総てを全能のあなたの手の上に置くことが出来ます。
主よ私は自分の弱さを誇ります。なぜならその私の弱さにおいてのみ
あなたはあなたがお働きになるチャンスを得ることが出来るからです」
この度 私が小屋を留守にいていた間
わが息子ケンのことを覚えて頂いた方々、
それからこのブログにコメントをお寄せ頂いた皆さん、
本当に有難うございました。
☆
下の写真は居間:
未だに断熱材むき出しのこの部屋も
光が少ないと美しくさえ見える。
2007年11月10日土曜日
長男失踪
昨日夕方小屋に到着して程なく、現在精神病院に入院中の長男ケンが
病院から失踪したと妻から連絡がありました。
ケンの病院失踪はこれで2度目です。
直ちにとんぼ返りするのは体力的に無理だったので、
今日これから山を下ります。
この5日、もう一人の精神障害者である次男と妻、私そしてケンとで
実家に集まった際にはケンはとてもよい状態だったのです。
ですからあのケンがまたこんなことをするなんてと
まるで出会い頭の不意打ちをつかれた感じです。
(事はいつもこのようにして起こりますね)
警察への捜索願いは出したので
後は本人からの連絡を待つしかありません。病院からの情報によれば
所持金は僅かとのことなので「無事だとすれば」ケンからの連絡は多分
今日中にはあるだろう、と踏んではいるのですが・・。
しかしもちろん「あらゆる事態」を
想定内に入れておかなければなりません。
昨夜、夜中に起きて改めて主の前に出ました。
きのうあたり、主との楽しみの時が
少し欠けていたかな、と感じさせられました。
(でも御血を適用したらあまり自分を見つめてはいけません。)
いずれにしろ 今私に出来ることはあまり複雑ではない筈です。
要するにそれはただ主を信じ、今私のなすべきことの中を、
今私に与えられている諸々の事象の中を
平静に淡々と歩んで行くだけなのです。
私の内面に、精神に、肉体に、私を取り巻く諸々の環境に
たとえどんな激動があろうとも、
「今日天地におられるただ一人の人復活のキリスト」に
どんな変化もあるはずがないからです。
だからそのキリストと一つにされている私そしてケン、
その不動の事実に安息するべきです。
その神と人の一つが神の喜び(ピリピ2の13)であるが故に
そこに留まるべきです。
確かに敵は何かをしているのでしょう。
しかし私は神に信頼します(今宣言します)
なぜなら神の方法、その行動の原則は殆どの場合、
あの十字架の時と同様その計り知れない叡智の中
サタンの攻撃を見事に逆手に取ることなのだから。
それでは後日。
病院から失踪したと妻から連絡がありました。
ケンの病院失踪はこれで2度目です。
直ちにとんぼ返りするのは体力的に無理だったので、
今日これから山を下ります。
この5日、もう一人の精神障害者である次男と妻、私そしてケンとで
実家に集まった際にはケンはとてもよい状態だったのです。
ですからあのケンがまたこんなことをするなんてと
まるで出会い頭の不意打ちをつかれた感じです。
(事はいつもこのようにして起こりますね)
警察への捜索願いは出したので
後は本人からの連絡を待つしかありません。病院からの情報によれば
所持金は僅かとのことなので「無事だとすれば」ケンからの連絡は多分
今日中にはあるだろう、と踏んではいるのですが・・。
しかしもちろん「あらゆる事態」を
想定内に入れておかなければなりません。
昨夜、夜中に起きて改めて主の前に出ました。
きのうあたり、主との楽しみの時が
少し欠けていたかな、と感じさせられました。
(でも御血を適用したらあまり自分を見つめてはいけません。)
いずれにしろ 今私に出来ることはあまり複雑ではない筈です。
要するにそれはただ主を信じ、今私のなすべきことの中を、
今私に与えられている諸々の事象の中を
平静に淡々と歩んで行くだけなのです。
私の内面に、精神に、肉体に、私を取り巻く諸々の環境に
たとえどんな激動があろうとも、
「今日天地におられるただ一人の人復活のキリスト」に
どんな変化もあるはずがないからです。
だからそのキリストと一つにされている私そしてケン、
その不動の事実に安息するべきです。
その神と人の一つが神の喜び(ピリピ2の13)であるが故に
そこに留まるべきです。
確かに敵は何かをしているのでしょう。
しかし私は神に信頼します(今宣言します)
なぜなら神の方法、その行動の原則は殆どの場合、
あの十字架の時と同様その計り知れない叡智の中
サタンの攻撃を見事に逆手に取ることなのだから。
それでは後日。
2007年11月1日木曜日
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