イエスはある人について
「その人が盲目に生まれついたのは
神の業がその人に現れるためである」と言われました。
盲目に限らずこの世界は不幸、不快、苦痛、圧迫、不自由、争い、
老化、病、肉体の死等々
大小ありとあらゆる様相の死で満ち満ちています。
人生は泣いて生まれ涙して死ぬ 正に「生老病死」なのです。
それではキリストの贖いが完了しているにもかかわらず、
なぜキリスト者にさえ 生老病死があるのでしょうか。そして
イエスの言われた神の業とは一体 どのような業なのでしょうか。
それは ひとえに
神の敵が恥辱をこうむる為に
「サタンから来る死を起源とする不幸」の只中から、
正に不快そのものの真ん中から、復活を出現させ そこに鮮やかな
死と復活のコントラストを見せるためなのです。
不幸の度合いが強ければ強いほどコントラストは
その鮮やかさを増すでしょう。コントラストとはそう言うものです。
神は 彼の万能のさじ加減を用いて日々総てのキリスト者の
状況にちょうどふさわしい色々な「不快」の到来を敢えて許すのです。
(人が 全知全能なる愛の神の手によるそのさじ加減に対し
何らかの異議を申し立てることはなかなか難しいことです。)
様々な顔を持つ死のあなたへの到来 それはひたすら
私達の人生のあらゆる場面において あのキリストにおける
「死と復活と言う宇宙最大のコントラスト」を 正に「あなたの現場」
において再現させ それによってサタンをもう一度驚愕させ もう一度
彼に恥をこうむらせる為なのです。いわゆる世に言う不幸、それは
とても短いこの時代と人生において 神の明確な意図のもとに 敢えて
わざととっておかれた「第一の死」なのです。
当然のことながら 水によって象徴されるこの第一の死は キリストの復活
によってたやすく悠々と征服され得ることを神は十分にご存知です。
(問題はその神を信じることが出来ない私達にあると言ってよいでしょう。)
神は 未だに残されている時空の中
キリスト者にさえ降りかかるこの第一の死の只中から
悠然と出て来ることが出来るキリストの命の偉大さを
この世のありとあらゆる場所において鮮明なコントラストとして
全宇宙に対して 何度でも何度でも展覧しようとされるのです。
その際、その背景としてどうしても必要とされるもの、
それがこの時代における「情けない引き立て役ども、ささやかな不幸達」の
どうにも割に合わない役どころです。
神の業 それは単に「死のど真ん中から復活の命を悠然と生じさせること」
に他なりません。
6 件のコメント:
神の業 それは単に「死のど真ん中から復活の命を悠然と生じさせること」
に他なりません。
アーメンです。日々交わってくださっている私たちの主は神なのです。ハレルヤ。
徹底的な死以外、復活は無い。
そこには、主のお情けも無い。
そこには、妥協は一切無い。
よみがえりの鍵は、ただ、これだけ。
これしか無い・・・・・主に感謝します。
死の、ど真ん中に居さえすれば、復活が
自動的に流れ出す。
この法則は、私の命です!
私に下さった十字架を抱き締めます。
こんばんわ!
いつも読ませてもらっています。
私は、主のお命にあずからせていただきたいなあというのが心の願いです。
ある兄弟は 上を見上げ
歩きながらよく言ったそうです
「彼は神です!」
人にはこの事実の他 何もいらない、
と思うことがあります。
これこそ唯一の「法則」なんでしょうね。
トクメイさん、今日 復活の命を
経験されますように。
それはキリストの死を通し
この日のあなたの為に用意されたのです。
こんにちは。
これまで、匿名でコメントさせていただいていた者ですが
他にも、匿名の方がご登場なご様子なので
今後はHNでコメントさせていただきますね。
yurimariaと申します。
山へのお誘い、とても感謝しております。
日本の真ん中の、小さな箱の中で暮らしています。
回転する大きな北斗七星と、虹を
小さな裏庭から眺めながら
息をしています。
ユリマリア いい名前ですね。
ゆりは百合ですかね。
日本の真ん中とは、岐阜か長野でしょう。
長野は 霧が峰、七島八島、
よく行きましたよ。
山は寒いが、
2月は事の外 明るいです。
やはり春が待たれるこのごろです。
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