パウロの文書を見ると 彼は「真面目に」
キリスト者は「今既に 死んでいる、復活している、天にいる」
と言う。
だから、彼は「キリスト者をキリストと同一視している」と分かる。
これ以外にこの途方もないパウロの言い分を説明する手段はない。
従って当然これらの事実は(多く誤解されているように)
キリスト者の目標として提示されているのではない。
(こんなことをどうやって目標とすること等出来ようか。)
それは出発点や前提であり 当たり前のこととして随所に
さりげなく示されているのである。
(「主にあって」と言う表現もその一つ)
しかしながら
これらのことは「永遠と復活に属するもの」として見る
のでなければ理解は到底不可能である。だからこそここに
信仰と言うものが不可欠となる。
信仰によってそれらを当たり前のように私達の生活の前提、出発点
とするとき初めて それらの永遠と言う次元の事実を
この時空の中においてさえ 徐々に体験することとなるのである。
今日 私は何度 この出発点に立つことが出来るのだろうか。
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