2009年4月17日金曜日

高山家の父上、その最後の日

それは今月、3日のことでした。
医学的、数値的には 生きているのさえ全く不思議と言う
ほぼ半年もの間、娘清子さんのもとで楽しく生活しておられた
父上はその前日まで、それまでと全く変わらない
とても安定した暮らしぶりであった、と言います。

しかしその日の朝を迎え、
まずはトイレで十分用を足されたのでしたが
(これは意味のあることなのです)
前日まで驚くほど食欲旺盛であった父上がその朝に限って、
朝食をとられなかったのだそうです。様子がなんだかダルそう
なので、たまたま来ておられた清子さんのお母さんが、
その夫を布団に寝かせたのです。
しかしその内、お母様はフトと、何とご主人の目の瞳孔が
開いているのに気づかれたと言うのです。

その様にして、救急車で病院に送られたお父上は
遂に午後一時に至り、とても穏やかな空気の中
眠るように息を引き取られたのです。

その日、以上の出来事の一こま一こまが総て、
平穏と人々の落ち着きの中で執り行われて行きました。
その不思議さを、今清子さんは感嘆の中で話されるのです。
その4月3日はまた、それも全くの「偶然」だったのですが、
何と親族一同が高山家に揃っておられたのでした。

父上の人生最後の一日、それは、
バタバタするような雰囲気のまるで無い、娘清子さん、そして
親族の皆さん一人一人にとって、全員が十分納得する
最後の「お見送りの日」となったのです。


☆   
以下は
当ブログ昨年10月31日の転載です。

突然入院された高山清子さんの父上92才のその後です。
お父様はおととい深夜、急に苦しみを訴えられ救急車で病院へ。
心不全、腎不全が原因で肺に水が入り、呼吸が苦しくなられたのだ
そうです。肺炎の恐れもあり、重篤な事態を迎える際には、もはや
過分な医療は行わず、自然死を選択すると言う遺族の意志さえ確認
させられたのだと言います。

その時、清子姉妹は正直に主に次の様に祈ったそうです。
「主よ、御心に従います。でもわがままを言わせてもらえるならば、
もうしばらく地上で、父と一緒にいる時間を与えて下さい。
私はまだ父と一緒にいたいのです」と。

「私はまだ父と一緒にいたいのです」と言う娘の祈り、
その結果なのかどうか、その後 医師が投じたある薬の効果が
顕著に現れ、何と病状は急激に改善され、早や昨日の夜などは食事を、
普通の量の三分の二ほども食べらるまでに回復されたのだと言います。

皆様のお祈りを感謝します。
それにしても、改めて主のなさることは不思議と言わざるを得ません。
今後の高山家において、主は一体何をされるお積りなのでしょうか。

大村兄弟から

主の御名を崇め賛美します。
ジュンさんは少し落ち着かれましたか?

私のためにもお祈りくださり、ありがとうございます。
今週の検査の結果を見て順調な回復以上の回復をみせているので
担当医が驚いています。担当医は、軽度から中等度の心不全は
残ると考えておられたようです。しかし、今週の検査結果は、
軽度の心不全の状態まで改善していたのです。
まさに兄姉方のお祈りに主が答えられているようです。
菅原兄とご家族のためには祈り続けます。

☆
「軽度の心不全の状態まで改善していた」!
何ということでしょう、本当にびっくりですね。
ただ主を賛美するのみです。

ハイ、ジュンは今落ち着いています。
しかし昨日も大小4本の缶ビールを飲んだようです。
(日本酒からビールへは改善点かも知れませんが・・)
今日、ジュンと三人で「NPO茨城断酒つくばね会」
と言う所に行って見ようと思っております。
ジュンに関し大村兄弟から何かアドバイスでも
いただけたら幸いです。(薬で治すのは無理としても)
皆様のお祈りに本当に深く感謝致しております。

☆
ジュンさんの状態が落ち着いて本当によかったですね。
依存症には「・・・会」がとてもよいと思います。

アルコールでも、ギャンブルでも、同じことをしても
脳内の神経回路や化学伝達物質が依存症にならない人
とは、違うということが分かってきているようです。
ですから「御霊による自制」のことは横に置いておいて、
依存症になりにくい人々が大脳における自制心が弱い
とか強いとか言える話ではないと思います。

断酒会に行けば、同じ苦しみの中にある人たちに会えます。
ご本人にはそれが大きな慰めと励ましになると思います。
自分だけではない。Aさんは、断酒を決心しても5回も
失敗している、でもまた頑張っているんだ。
という話を聞いたりすることもよいことです。
同じ悩みを持っている人の中では、段々と本当の気持ち
を話せたり、人の話を聞いて自分と同じだと思ったり、
時間はかかりますが、決して依存症のない人たちには
なしえないことが起こると思います。
うまくいっている時は、「よかったね」
飲んでしまったことを告白された時は、「がっかりしないで
何度でも挑戦してみたら」と普通の表情で言ってあげることが
できたらと思います。

大切なことは、とにかく断酒会に行き続けてもらうことです。
断酒会に行けないときには、ひそかに断酒をやめていることも
あります。
時を主に委ねて、とにかくお祈りしています。
大村

神のいのちは

・・・
それは
キリストのからだの肢体たちが、死と復活の中でキリストと
一つになることによってのみ可能です。
この一つを知るまで、私たちのクリスチャン生活は
ほとんど有効ではありません

自分がキリストと共に古い自己に対して死んだこと、そして野心、
欲望、計画、観念、規範いっさいを伴う古い世に対して死んだことを、
最初に一度限り十分に認めることによって、私たちは自分の席に
着かなければなりません。

そして次に、復活のいのちが私たちの間でますます現されるために、
死が私たちの中に日毎に働くことを許さなければなりません。
神のいのちは旧創造の中に来ることはできません。
それは新創造のいのちです。
(オースチン スパークス)
*以上は
ブログ「イエスの愛と満足のために」から。

私たちの自由

礼拝は使徒信条から始まって同じ時間、同じプログラムの
流れに型組みされて・・・・肉はそれで一安心
「今は教会に行っていない」というと「では礼拝はどうして
いるの?」と聞かれる。
「だって、朝起きた時から礼拝でしょ?」と問うと
しばし不思議な沈黙が漂う。

もちろん一日中主を意識して主のことばかりを考えて
いるわけではないけれど、
日曜礼拝をやめてからというもの、主の事柄を考えたりを
主に時間を捧げたりまた、思わぬ交わりが開かれたり、
2年前の状態と比べたら雲泥の差、
こんな豊さがあったのかと思う。

「教会」を否定しているのではない。新生してから教会に躓いた
という思いは一度もしていない。むしろ自分を十字架につける
訓練の良き場であると今でも思う。それほど自分という存在が
厄介であることを教会は私に教えてくれた。
教会をとおして豊かに主が働いてくださったことも大きな事実だ。

だからこそ、そのなかにある「不自由」が悲しい。
でもそれは「きれいごと」だとよく人は言う。
でもわたしは妥協したくない。こけようが躓こうが、この先
小さな教会に導かれようが、主がご自身のいのちをかけて
解き放ってくださったこの自由を何ものとも引き換えに
したくはないからだ。

ただ十字架を日々見上げて生きる事、主の大きな目的に向かって
歩むこと、開かれた交わりを主のなかで慈しむ事 
それはどこで何をしていようと、
「この地」に来てからも変わりない主からの導き。

今朝もささやかな主の語り、
「私がすべてを知っているから いいではないか」
はい、おまかせいたします。

・「キリストはこの自由へと私たちを解き放ってくださったのだ。
それゆえに、あなたがたは堅く立って、
再び奴隷状態のくびきにはまってはならない。」ガラテヤ 5章1節
・「まさに、キリストイエスにおいては、割礼も無割礼もなんの
効力ももたず、むしろ愛をとおして働く信仰が効力をもつの
である。」ガラテヤ 5章6節
(ブログIn Adorationから)

2009年4月16日木曜日

二つの不思議なメール

こんにちは、
ブログでジュン君のことを読んだ瞬間から
祈りよりさきに
私の中におられる方が
祈っておられることを思い知らされました。
祈っています。
(Y)
私も、ジュンさんの上に起こっていることは、
何か、主があらかじめ予定されていたことのように感じています。
必ず、神の御業が現れるように感じています。
主は、うちの兄弟との祈りの中で、明確には答えられていませんが、
主が何かをする、というような感覚を受け取っています。
さらに、祈り続けます。
(T)

☆
お祈り本当に感謝です。

ジュンは長年の精神障害が、近年相当改善し
(とは言え当然、統合失調症は完治したとは
言えない)私ども親は大喜びしていたのです。
所が、これは不覚にも後で分かったことなのですが、4年間
施設で過ごしていた頃、病気からのストレス故の飲酒が習慣化
してしまい、ある程度「依存」傾向も見えていたようです。
それが数日前、飲酒の上の、外出先でのトラブルに
繋がったのです。残念ながら、今ジュンの生活の上で
毎日の飲酒はもう欠かせないほどのものになっています。

極めて深刻なアルコール依存症になってしまう前、遅くも
今のような段階で、なんとかよい方向に方向転換してくれれば、
と言うのが「親としての」正直かつ切実な気持ちです。
*
ジュンは小さい頃から「教会」の集まりに参加しておりました。
しかしこの2・3年、キリストへの関心が相当薄らいでいるような
感じが私には見受けられ、気にしていた所でもあります。

今日のおもしろ一句

*あるメールから*
S兄弟やK兄弟、あるいは 
ほかの兄弟姉妹との交わりを通して、
自分の内側(霊・精神・身体)が
健やかになって行きつつあることを、
メールを読み返すたびに感じるのです。
でも、
甘党だけはどうしようもないようで!

お祈り感謝します

シュガーさんへ
ブログ読みました。すぐに、家で兄弟と二人で祈りました。
これからも、ずっと息子さんたちのために二人で祈ります。
私達は主がそれを望んでいると感じています。

私たちにできることはわずかです。
でも、私たちが心を合わせて主に祈り求めるとき、
必ず主はそれに答えてくださると信じます。
いろいろな苦難がこの地上の幕屋では起きます。
でも、全部主の許しの中で行われていることですよね。

祈り、それこそが私たちに許されている特権です。また
当然ですが、その祈る対象である素晴らしい主である
神がおられること、そして
私たちは決して「みなしご」ではないことを主に感謝します。

また、ジュンさんを縛っているものが、
取り除かれるようこれからも祈ります。

☆
ジュンのこと、お祈り感謝します。
昨日は彼のことで、夜遅くまで八千代市の彼のアパートやら、
病院やらを、3回ほど往復しました。
私にまだこんな力が残っているのか、と思いました。

そのようにして昨晩、
彼をとりあえず実家に連れて来ることが出来たのです。
少し大変ですが、必ず一両日の内には
何とか収束に向かうのではないか、と今感じております。

こんな人を困惑のさ中に閉じ込めるような出来事の中にも、
きっと何らかの主の積極的な意図が隠されているはずです。
先ず私がそれを信じること、
そして、少なくとも霊の中で、神の敵に対する絶対的な
優位な地位と立場を堅持して行きたい、と願っております。

「神の敵に対する絶対的な優位な地位と立場」
それはあのキリストの十字架、復活、昇天、そして
御座によって既に完璧に成就され、そしてそれが
私にも与えられているのですから。

そして、
「ジュンさんを縛っているものが取り除かれるように」
この一句がとても感謝です。
どうか続けてお祈りに覚えて下さいますように。

2009年4月15日水曜日

第三歩目で皆こけた

一歩目は再生、新生です。
聖霊が人の霊を生かし、彼を神の国の中に誕生させます。
これは完全に聖霊の働きでありその時、神と天使、そして人も
大いに喜びます。この段階においては「人のもの」が介入する
余地は皆無と言っていいでしょう。

二歩目は、小さな交わりです。一人の真に新生したキリスト者は
必ず他の新生したキリスト者との触れ合いを慕います。(そうでなければ、
その「クリスチャン」は偽者です。)それは、同じ父から生まれた
神の子供としての、自然な「命の成り行き」であるからです。だから彼は
他の同じ命を受けた少数の兄弟と「交わらない」わけには行かないのです。
この第二歩目・二人、三人の交わりも純粋に聖霊からのものです。

この現象は例えば、今「硬直した組織」の中にいるキリスト者であっても 
偶然出会った他のキリスト者と図らずも小さな交わりを
交わす時などに容易に感知出来るものです。
何故ならその時、彼らがそこで楽しんでいるのは、その純粋な交わり
そのものであるからです。彼らはその時、彼らの「とても難しい背景」を
総て忘れ、ただ「交わりそのもの」を楽しんでいるのです。
これは何と素晴らしいことでしょう。
(しかし仮にそこで、一方のキリスト者がひそかに「ある意図」を抱く
場合、その純粋な交わりは直ちに破壊されるでしょう)

このように一歩目、二歩目においては何の問題もありません。
何故なら、繰り返しますが、この第二歩目までは神を源とする生命現象
そのものであるからであり、その交わりの主導者は聖霊であるからです。
第二歩目までの命の現象「誕生と交わり」は完全に「神のもの」です。

*
それではこれから第三歩目を見て行きましょう。
さてここで仮に、第二歩目までに現れた小さな純粋な交わりが
ある地域に6、7個 現れたとします。
その時 人はどんな反応を示すのでしょうか。

結論から言ってしまえば、人は「その反応」の結果、必ず
この三歩目で「こける」のです。第一歩と二歩目でこけることは
むしろ難しいことでしょう。しかしながら、第三歩目となると
何故か人は実にたやすくこけるのです。

これは何故なのでしょう。
何故なら人がその6、7個の第二歩現象に接するとき、そこに
「人のもの」が巧妙に「入り込まざるを得ない」からです。
悲しいかな、その「人のもの」を完全に防御するのは至難の業である、
と言ってもよいでしょう。だからこの二千年間、どんなに優れた
キリスト者のリーダーであったとしても 
(彼らの総て、と言っても良いかも知れない)
この第三歩目で皆こけたのです。


☆私情報
千葉の八千代市で一人暮らしを始めた
次男のジュン(精神障害を持つ)がこのところ
不安定な状況に陥り、私はいまだに実家におります。
何らかの対応が必要になるかも知れません。
皆様の祈りに覚えていただければとても幸いです。

2009年4月14日火曜日

佐倉訪問

*あるメールから*

もう、何と言ったら良いか分からないほどの
喜びで満たされています。
主は私の願いを、今日かなえてくださり、柄沢登兄弟、そして
その姉妹たちに会わせて下さったのです。

登兄弟の平安に満ちたお顔を拝見し、そして語り合い
「もう主は何というお方だろう!」と主を誉め称えます。
言葉はいらない、会っただけで全てが通じ合うのだ、と分かりました。

W姉妹と再会できたことも感謝です。主が、今日会うための道を既に、
去年の12月から備えておられたのでした。
エゼキエル33章と34章について私が語ったとき、瞬時に彼女が
反応してくれたこと。私はこんなに嬉しいことがないほど喜びました。

主が私を 既にたくさんの人達と繋げてくださっているのだと
今確信しています。主に感謝します。
「この道」は、主が全てを用意されておられ、私たちはそこを
進むだけです。これからも、主に自分の全部を明け渡し、
喜びと平安に満たされて歩くことが出来る!と感じているのです。
主に感謝しつつ。 

2009年4月13日月曜日

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(7)

*余りにかけ離れた二つの情景*

柄沢登兄弟が
本日4月13日、自宅に戻られました。

[医師の判断とその言葉]
黄疸の症状が重く、数値的に極めて悲観的な状況である。
腹内に漏れ、散らばった胆汁を取り出さないと他の臓器の為に危険
である。しかし、胆汁を取り出そうとすれば、危険は更に増大する。
現実はそれほどまでにきびしい。

家族や親族が希望的に見るのは自由であるが、客観的に見て、
急速に日に日に悪化の度を加えており、回復は全くあり得ない、
これは直らない。ハッキリ言うと必ず死にます。だから最期の時、
緩和ケアを受けるか、自宅にするかを決めてもらったのです。
もしも明日、そういう時が来たら、本人が話せなくなり
意識を失った様に見えたとしても、話しかけ続けて下さい、
本人には分かるものです。

[病院内と帰宅の際の登さんの様子]
・登さんの様子と雰囲気:全く無理をしていない様に見える、自然体、
そして苦痛の表情がない。
・退院の前:登さんは一人でシッカリ シャワーを浴びた。
・退院に際しての看護士さんの言葉:柄沢さんは、こちらにミスがあった時も
嫌な顔一つすることなく、いつもニコニコしてくれたこと、本当に感謝です。
・最も病室にいることの多かった妻、良子さんの言葉:とにかく、
一緒にいることの大変さと言うものが全くなかった。

・どうやって帰宅したか:マイカーで帰った。こういう場合、途中の
急変にそなえ、それ用の車両を用いるのが普通であるが、本人の
希望により、良子さんの運転する自家用車で、娘と三人で帰宅した。
途中、スターバックスに寄り、
登さんの好きなアイスコーヒーを買い、楽しんで飲んだ。
・入院中、登さんがよく口にした言葉:有難う、嬉しい、
イエス様を信じてよかった。

*
真実に主を受け入れる前の登さんは、
自分をさらけ出すことなど決してなく、どちらかと言えば、
自分の中に閉じこもる人であったと言います。

今、以上の様な二つの余りにかけ離れた情景を前にし、
姉妹達はただ驚くばかり、
僅かの期間に、登さんをこのように変えてしまわれた主を
ただ賛美するばかりのようです。

祈ります:
「主よ、登兄弟が地上のエクレシアの中で、あなたが彼に与えられた
果たすべき使命を、余すところなく完全に達成するまでは、
主イエスよ、彼がみもとに帰ることを決して許さないで下さい。
それがいつであるか、一体誰に分かるでしょう。
登兄弟の父なる神よ、私達はあなたに完全に信頼し、
一切を委ねます。」

千葉は佐倉、柄沢登兄弟の家、
午前10時、朝ごとの礼拝が あす再開します。

☆  ☆

三つの方法

*あるブログから*
クリスチャンが死に勝利する3つの方法:
(1)私達の働きが終わるまでは死ぬことはないと
信頼することによって。
(2)死が訪れるとしても、死のとげは抜かれてしまった
と知るゆえに、死に対する恐れを全く持たないことによって。
(3)主が戻られる時には取り上げられるのだから、私達は完全に
死から解放される、と信じることによって。

「働きが終わるまでは死を見ない」ということ;
クリスチャンが自分の働きが終わり、もはや(地上に)留まりなさい
という主の要求がないと単純にわかるのでないかぎり、
その人は何としても死に抵抗すべきです。もし死の兆候が既に
体に現れていたとしても、まだ働きが終わっていないなら、
彼は積極的に死とその兆候に抵抗すべきです。彼が抵抗したことに対して、
主が働いてくださることを信じなければなりません。
彼にはまだ成すべきことがあるからです。

それゆえ、任命された働きから解雇されるまでは、身体的に危険な
兆候があったとしても、私達は安心して主を信頼することができます。
主と協力し死に抵抗することで、私達は即座に主が主のいのちによって
死を飲み込む働きを見ることになるでしょう。
(ウォッチマン・ニー著 「霊の人」より 私訳)
*   *
心に大きなアーメンがあります。
emi

☆
Sugar:
「主が戻られる時には取り上げられる」とは
キリスト者が、自分の肉体の死を経験することなく、
天に取り上げられること、携挙。

私を捕囚にせんとする巨大な力、即ち
私を取り巻く環境、感覚と経験(物質界の総ての様相)を
一切無視し、
「私に対する主の御こころ」のみを
「私の意志」として立つ。

2009年4月12日日曜日

死を征服する

*昨晩のメールから*

「霊の人」の最終章を少しずつ読み始めました。
興味深いです。

私達は、罪に服従するべきでないのと同様に、
やすやすと死にさえ服従するべきではないのです!

これには 敵に対してと同様、
「私の態度」と言うものが鍵となるでしょう。

ニー兄弟はひどい持病を持ち、その上
極めて過酷な環境を通らされました。
にも関わらず、70年以上も生きられた。
これはそのことと深く関係がある筈です。

今「主の御心」を知りたい、と
深く願わされております。

2009年4月11日土曜日

あるメールから

・・・
ところである失敗をしてしまいました。
先日、私が「主との調和」などと、御心について語った矢先、
今回、ある品が欲しくて(必要なのではなく)買いに走ったのです。
実は運転しながら「これは少し違うかな」と感じていたのです。
でも「やってみなければ結果はわからない」などと、
自分に言い聞かせながら。
・・そして、遂に買い物、終了。

ところが、
財布、あらゆるカード類・現金・診察券、玄関の鍵・携帯電話etc
一切が入っている大切な手提げ袋、それをちょっと脇に置き、食料品を
カートから袋に移している間に、消えてしまったのです!
「置き引き」というのでしょうか。正に自失呆然、しかしすぐさま
店と最寄の交番に届け出ました。しかし未だ出て来ません。
今日で3日目です。

神とこの世の物 全てが、私に相続財産として与えられている、
としても、私が、自分の自由と自分の力を むやみに行使していい、
と言うことはない筈です。
本当にあの時「これはおかしいな」と思った時点で、やめるべきでした。
その「これはおかしいかな」と思ったことが聖霊からの直覚であったなら
私はそれに従うべきであり、それこそが真の「主との調和」なのだと、
今気が付かせられているのです。
今改めて、自分の肉の強さを思い知らされております。

私たちの「物質的な必要」を打ち明けるべき相手は神です。神は、
神の子たちの必要を満たし、そして私達を感動させて下さるお方です。
以前永い間、宗教的クリスチャンライフを送っていた時でさえ、
神はどんなにか、私の経済的困窮を豊かさに変えて下さったことか。
それも何回も。
そんな経験していながら、今回 無くてもよい物を無理に手に入れよう
として、私は神を試すようなことをしてしまったのです。
でも、これを悔い改めます。

そして今、
「私の体の中でキリストが拡大されることを
求める切なる願い」(ピリピ1の20)
これが、切なる私の願いです。

*Sugar:
「私の体の中で」とは、
「私が肉体に留まっている間、この時空の中で」と言う意味です。

とらわれの身であった当時のパウロを思うとき、
私達が幾多の重い制限の中、この地上で生きると言うことの
意味の深さを思わされます。

その後、パウロはしかし、なおも果敢に生きました。
ピリピ書等 極めて貴重な書簡を残した4、5年あと、
彼は最後のⅡテモテを、再び獄中で書き、そして
ネロの突然の大迫害によって殉教したとされています。

「私は今や注ぎの供え物となります。
私が世を去る時は既に来ました。
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、
信仰を守り通しました。
今からは、義の栄冠が
私のために用いされているだけです。」
(Ⅱテモテ4の6,7,8)
確かに彼は死を征服したのです。

今日のメールから

なぜか、とても、わくわくしています。
広がっていく「この流れ」を感じているのかも知れません。

今日、3時から兄弟と「祈り、聖書を読み、また祈る」という時間を
持ちました。その時に、兄弟に次のようなイメージが主から
送られて来たのです:
太い川があり、そこから無数の細い川が流れ出て地を潤していく。
その細い支流はまるで人の毛細血管のようであったと。
そして、その川の源に主である神が、水を注ぎ入れている、と言うのです。
完全な映像ではないのですが、イメージのように見えた、と言っています。

私も、主は明らかに今、何かを始められていると感じています。
私は、ここのところ2度「見よ、わたしは新しいことをする。
それがもう起きている」という言葉を受けています。
「何だろうね」と私と兄弟は言い合っていますが、具体的には何も
分かりません。しかし、主は「新しいこと」を始められたのです、
今までになかった何かを。

2009年4月10日金曜日

辞められない

*あるメールから*

「クリスチャンは辞められない」
これはまた「教会」にも言えることです。
「聖書で言っている教会」は
人がいったん「その中に生まれたなら」
辞めることはもう不可能です。
入会や脱会など無用ですし関係ありません。
これを真に霊の目で見るなら、もはやその人の
右往左往は完全に停止するでしょう。

最近私はその混乱を避けるため、教会でなく
エクレシアと言う原語を使っています。

「物質の十字架を印とするソサイティとしての教会」
は辞めることが出来ます。しかし、
エクレシアは永遠に辞めることは出来ません。

2009年4月9日木曜日

Ⅰコリント7:14、聖別の意味

この箇所のパウロのことば:
「キリスト者の妻や子供が聖別される」にある「聖別」とは
性質上の聖の所有ではなく、地位的な聖別、言わば神による
区別に過ぎません。元々聖別とは、神の目的の為に分離される事
です。神から見てキリスト者は性質上あまりにも聖い
(キリストの故に)ので「そのキリスト者に属する妻子」
は、地位的に、時空の中、物質世界において、神は彼らを
「他のものから分離、聖別する」のです。

この「地位上の聖」については原則的に
「黄金を聖いものとする神殿」(マタイ23の17)や
「祈りによって聖められる食物」(Ⅰテモテ4の5)
と同じ原則が適用出来るでしょう。

*
真のキリスト者とは、人の霊の中において、
実質上、本質的に、神そのものの命と一つにされた聖なる存在、
即ち聖徒です。だから内的には彼はイエスと全く同じです!
それは神にとってあまりにも貴重な存在です。

故に、その「キリスト者に属する」人さえ、即ち彼の妻子も
「地上的には、物質的には」彼の一部なので、立場上「他の彼に
属していないもの」とは区別して、神は大切に扱って下さるのです。
それが地位的な聖別、分離、区別です。
だからキリスト者の妻子が「永遠の命を頂く」ためには 
とても恵まれた場所、救いに極めて近い所にいると言えるでしょう。

しかしある時、彼らでさえ、個人的にイエスに心を開き、
イエスを神の子として受け入れる瞬間が必要です。
その瞬間その人は、神の命を内に頂き、神の国の中へ、何と
「神から生まれる」のです。それは「ある身分の賦与」のみならず
言わば「神の家族の霊的天的な血」*を受け継ぐことです。
それは決定的、本質的、性質上の問題なのです。

*
人が救われる為に、信仰は欠かすことが出来ません。仮にもし
「キリストの血は全世界のためであったから、人は神を信じなくとも
救われる筈である」と人が言うならば、それは神の真理の
根源的な部分を破壊することになるでしょう。
これは決して小さなことではありません。
信仰は恵みと絶対的に一つであり、それらを人の手によって
切り離すことは出来ません。それは「神の定め」なのです。

アブラハムとサラは決して「別れられなかった」のですが、
その場合、サラは恵みを、アブラハムは信仰を表しています。
従って、もしある人が「その一方の信仰」を破壊するならば、
その人は、神の恵みをも破壊することになり、彼はいずれ、
相当深刻な事態を身に招くでしょう。(アブラハム、サラの物語から)

人は、キリストの十字架が「個人的にその人に適用されること」によって
初めて救われるのす。しかし、またもや人が、人は「肉の血縁」によって
救われると言うのならば、彼は神の救いの真理の根幹に触れ、おのずと
「キリストの十字架の価値」と「その適用の必要」の真理に
抵触して行くことになってしまうのです。これは深刻な事態です。
「神の第一級の」性質上の命の救いにはどうしても、人の信仰による
個人的適用が欠かせないのです。

☆
以下は付録として記します。

しかし聖書にこういう他の面はあります。
真のキリスト者は神にとってあまりに尊いので、それ故に
そのキリスト者が艱難に遭遇している時、水一杯をキリスト者
(イエスの兄弟)に恵んだ人でさえ、その行為の故に
その人が「神から頂くある大きな幸い」から逃れることはありません。
その恵んだ人は「神を内に命として頂くという性質上の救い」
に預かることはありませんが「神の救いの領域の中に」救われる
人となるでしょう。そういう人々は最終的には新エルサレムにおいて
「地的領域における諸国民」を形成するでしょう。

また命を分与される「恵みの福音」或いは「天国の福音」でなく、
艱難時代に「永遠の福音」を受け入れた人々も同様です。
(黙示録14)彼らは神を正当に拝む人々となるでしょう。
しかし彼らとて「神の家族、イエスの兄弟」となり、
命・性質において神のものになる、ことはあり得ません。

*
キリスト者、キリストの命を内に持つ者とは、あまりにも卓越した
霊的、天的な存在です。はや千年王国でさえ、彼らの中の
「正常な者達」は「天において」イエスと共に、
地と地の民とを支配するでしょう。
一方「物質的、地的な神の民」ユダヤ人、そのレムナントは
地的領域を支配し、人々に、真の神への礼拝を指導する筈です。

しかしそれらの素晴らしい救いでさえ、あの「第一級の卓越した救い」
には遠く遠く及ばないのです。
今この時代に永遠の命を頂くという稀有な救いに預かる少数の人々は
言わば「気が遠くなるような」恵みに浴するのである、
と言ってもよいでしょう。それは完全に人の思想を超越する事実です。
何と彼らは「神の子となる特権」にあずかるのですから。

注*:
「神の家族の霊的天的な血」と書きましたが
厳密に言って、天には「からだ」はあっても、血はありません。
何故ならイエスの血は、あの十字架において
総てその骨肉から注ぎ出されたからです。
今回、分かりやすさの為、「命の結合」を表現するべく、
敢えてこの言葉を用いました。

2009年4月8日水曜日

emi さんのブログから

姉妹から、K兄弟の病院での様子を聞いた:
主に直結してしまった兄弟。内におられる御霊が、
日々いのちを与えておられる。内なる主の認識、御言葉の近さ。
院内のスタバへ行かれたこと、きびきびとした動き。

今日、生かしてくださる方。
「生きよ」と言われる方。
よみがえりのいのち。
主から流れてくるものが、私たちの内で働き、
また私たちから流れて行く。

神の全能の力の働きによって、私たち信じる者に働く
神のすぐれた力が、どのように偉大なものであるかを、
あなたがたが知ることができますように。

Romans 8:11
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、
あなたがたのうちに住んでおられるなら、
キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、
あなたがたのうちに
住んでおられる御霊によって、
あなたがたの死ぬべきからだをも
生かしてくださるのです。

柄沢兄弟のことば

*柄沢兄弟の為にお祈り下さい(6)*

昨日、妻の良子さんが病室から
帰られたあと、医師が一言
「家に帰っても、もう点滴、いらないですよ」と
言ったという。
いろいろな意味に取れる、この不用意で舌足らずな
医師のことばに、登さんはすっかり落ちこんでしまいました。
このことを知った姉妹は、直ちに励ましの言葉を
登さんに送ったのです。

以下は、それに対する登さんからの反応です。
これは彼が落ち込んだ、それから間もない頃に
書かれたと言います。

☆
主は私のただ中におられます。

「シオンよ。恐れるな。気力を失うな。
私の神、主は、私のただ中におられる。
救いの勇士だ。」

私に、その愛によって安らぎを与える主に
感謝、感謝、感謝 ♪♪(この音符も彼です)
☆

今日登さんの様子は
とても「元気」であったそうです。

2009年4月6日月曜日

同じ思い

*あるメールから*

柄沢兄弟のこと、
どのように祈ったらよいのだろうか、
と思わされ、そして私はある所に行き着いのです・・

人として、自分に体があるならば
癒しを求めるのは当たり前のこと。
でも
本当に価値あることはそれなのだろうか。
ならば、先ずは「神の目に価値あるもの」を
求め、そのために祈れないものであろうか、と。

私に信仰があるとするならば、次に私は
私の総てを真に「神のもの」として欲しい、と思うはず、
だとすれば、私はそれを決心し、そして実際に
私自身を神に捧げるべきではないのだろうか、と。

*
驚ろいたことは
これと同じことを良子さんが思い、
その答えをお姉さんから与えられ・・と言う出来事。
なんと不思議でしょう。
私に与えられた祈りが、
遠く離れた所にいる姉妹たちと
全く同じだったとは。

信じます。
これは本当に
主から来たことに違いありません。

兄弟はこれから、どこでどう過ごそうとも、
身も心も真に主のものです。
ただ神を賛美します。

知覚を超えた喜び

*あるメール交換から*

神に自分を捧げてからは、
自分の苦しみは神の苦しみとなり、
またそれを自覚(理解)することで、苦しみの共有に至る。
生のすべてが主に取って有用となり、価値を持つ。
主が受け取って下さったあとは、
それは霊においてのことがらなので、
意識において何を感じていようと、
あるいは感じることができなくても、
関係ないのでしょう。
私もまた、ただ主を信頼していようと思います。

スタート地点においては「自分の苦しみ」であっても、 
霊において主と共有するのは、それも含む主の
さらに広範囲に渡る苦しみ…
「聖徒たちが完成に至るための苦しみ」なのでしょう。
そこに、共に預からせていただける。何ということでしょう。
理解が深まりました、感謝です。


☆
「意識において何を感じていようと、
あるいは感じることができなくても・・」

そうです。
私達の場合、
苦しみのただ中にいるとしても
「主と共なる苦しみ」であるが故に
「ある深い喜び」が確かにあるのでしょう。
しかし、それは殆ど知覚出来ない、知覚を超えた
苦しみの中の喜び。

しかしかつて
「父と共なる」苦しみをさえ
完全に奪われた、ただ一人の人がいたのです。
しかし「その人」にも、唯一確かな
知覚出来ない喜びがあったのでしょう。
それは、命なる父からさえ、
遠く切り離されたその無限の苦しみと死こそが
正にその父なる神の「御こころ」。

そして、
この苦しみと死は、
復活への只一つの門であり、
かつては神の敵であった、多くの人々をして
「超越した彼御自身」・
「エクレシア」の中へと至らしめ得る絶対確実な門。

☆
「私が(十字架に)上げられるなら、私は総ての人を
自分のところに引き寄せます。」(ヨハネ12の32)

2009年4月5日日曜日

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(5)

*柄沢兄弟の献身*

・「あなた方の手足を不義の器として罪にささげてはいけません。
むしろ、死者の中から生かされたものとして、あなた方自身と
その手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6の13)
・「あなた方のからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として
ささげなさい。それこそ、あなた方の霊的な礼拝です。」(ローマ12の1)

この御ことばについて聞いた姉妹は、すぐにこれを登兄弟に伝えたい
と思いました。そこで、先ず妻の良子さんにそのことを話しました。
するとある不思議なことが分かったのです。と言うのは・・
良子姉妹はその日に至るまで、御前で次のように思い巡らし、
求めていたと言うのです:

「私は夫の為に、これから何をしてあげるべきなのだろうか。
彼が永遠の命を神からいただいたこと、これは言うまでもなく、
感謝なことではある。でも果たしてそれだけでいいのだろうか。
完全な永遠の救いを与えられた今、この貴重な時間の中で次に
「永遠に価値のあること」があるとすれば、それは一体何なのだろうか。
神の御前で、私は夫の為に何を話してあげるべきなのであろうか・・」と。

その時お姉さんから、あの「ロマ書の御ことば」を示された
良子さんは直ちに「それこそ私が神の御前で求めていたもの、
そのものであることが分かった」のです。

病室に登さんを見舞い、その二つの神の御ことばを
彼の前に置いた姉妹達は兄弟に語りました。
「登さん、この御ことばは決して神の強制ではありません。
でもそれは、永遠の命を既に持っている兄弟への神からの勧めです。
だから、あなたは自分の判断でそれを受け入れるかどうかを
自分で決めればいいのです。それで、登さんはどうされますか?」と。

登さんはどうされたと思いますか。
彼はハッキリ「その御ことばを受け入れます」と言われたのです。
ベッドに横たわったまま彼は、次のように祈ったと言います。
「主よ、私はこの私のからだを、あなたにおささげ致します。」

☆
多分あすかあさって
登兄弟は大切な決定をしなければなりません。それは
今後、退院し、自宅で療養を続けるか、それとも
ホスピスのような緩和ケアを受けるのか、と言う決断です。
幸いなことに、
私がお聞きしたところによれば、3日現在、兄弟は、
「大過のない」時間を過ごしておられます。

☆
祈ります:
その献身を喜んで受けられた「柄沢兄弟の神」よ、
あなたの御手の中に置かれた兄弟の霊と魂とからだを、
この時代の中、そして、エクレシア・神の国において、
今こそ生きて働く永遠に価値あるものとして下さい。
そして、神よ、あなたはその御業を
今既に力強く行われていることを信じます。

2009年4月4日土曜日

献身

「あなた方の手足を不義の器として罪にささげてはいけません。
むしろ、死者の中から生かされたものとして、あなた方自身と
その手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6の13)
これは確かに「神の勧め」ですが、決して「神の強制」ではありません。

ここに一つの事実があります。それは、
神は「人の自発性」を事のほか尊重される、と言うことです。
確かに信仰とは「神ご自身がキリストにあって既に達成されたこと」をただ
信じ受け入れることです。それ故にキリスト者の生活とその態度は、総て
「神から受動的に受け入れるだけである」とキリスト者は誤解し勝ちですが、
実は決してそうではありません。

自由意志、これがキーであり、人と神の間にある決定的な要素です。
神はいったん人に自由意志を与えられた以上、神にさえ介入出来ない
「人の部分」と言うものが確かにあり得るのです。
敢えて言えば、神はあの日以来、大いなる制限の中にご自分を
閉じ込められた、と言ってもいいでしょう。偉大な神は、人が自由意志を
行使し、神を拒絶する「権利」をさえ人に与えられたのです!
従って「人の自発性」というものが、神と人の双方にとって極めて重大な
意味を持つのはこのような背景から十分言えることなのです。

それでは、神が事のほか喜ばれる人が実行すべき「その部分」とは
一体何でしょうか。それは「人が自分の自由意志を十分に行使し、立って、
神の御こころ、神の意志を、自分の意志として選らび取ることです。

前述の「自分の手足を神にささげること」はその最たるものでしょう。
人にその義務はありません。しかし、それをあなたが神の心をくんで
自発的に行うとき、神は、あなた自身とあなたの手足とを、事のほか
喜んで引き受けられるのです。これこそが真に聖書的な「神への献身」
です。(現在広く常識となっている「職業的な伝道者に志願する」
等と言う意味は聖書のどこを捜してもありません。)

あなたが、あなた自身を神にささげた日以来、神はあなたの手足、
体の総てを、神ご自身のものとして受け入れられるでしょう。手足とは
何か時間の中の存在です。従って神は、あなたの人生の残された
総ての時間をも、あなたの手足同様、御自分のものとして
ご覧になり、取り扱われるのです。

それは、神と私にとって、
その日までの「私のための神」から「神のための私」への
一大転換の日となるのです。

2009年4月2日木曜日

不思議な導き

*以下はルーク氏のブログからの転載です*

今晩、九州のHさんからお電話をいただいた。
30年以上前にペンテコステ系の"教会"でぼろぼろになり、
その後聖書に立ち返り、個人的な主との交わりにあって真理が
開かれ、結果としてそこを追い出されて、現在は名前もない
兄弟姉妹の交わりを非定期に行っているとのこと。彼は言われた、
「キリスト教とはもう縁を切った。大切なのはいのちであって、
普通の生活を淡々と主と共に生きることです。今のいわゆる
リバイバル運動などは偽者です」と。

驚きました。何か打ち合わせたかのように、私と同じ事を
言われるのです。年齢も私よりも上で、ちょうどSugarさんと同じ位。
55で早期退職をして、主の道に専念し、現在は20人程度の兄弟姉妹と
集まっておられる。「教会はキリストの体だから別に名前をつける
こともない」として、名前もない。しかも毎週集まるわけでもない。
集まる時は兄弟姉妹の交わりを楽しみ、主を賛美するだけ。

こう言った歩みをされている方がいるのです、全国のあちこちに。
キリスト教と言う囲いに閉じ込められることなく、広い牧草地に
出られたことは幸いであったと。かなり厳しいところを通られたよう
ですが、今、主にあって安息しつつ歩むことを願っているそうです。
初めてのお話でしたが、何だかあっと言う間に違和感なく主にある
交わりに入れました。いつかお目にかかる日も近いことでしょう。

☆
これは掛け値なしに素晴らしい。
何か純度を感じさせられます。
敵はこれから、その業をエスカレートさせて行くでしょうが、
主も間違いなく働かれます。このような人々がこの地上のあちこちに
もうすでに準備されていると私は何故か信じているのです。
それは人の汗と熱などとは全く無縁な何かでしょう。
本当にただ主を賛美するだけです。

ある兄弟のメールから

3/31
昨晩の実験はうまく行きませんでした。
今日がリミットのラストデイです。

4/1 朝8時
今電車で東京本社に向かっています。とても残念ですが、
以前から私が会社経営幹部の方々に約束したレベルまでは
到達出来ないまま、リミット3月31を迎えてしまったのです。
今日、他のことも含めて社長に状況を説明します。

しかし、
いかなる状況でも、総ては神の御手の中にあり、自己を死に渡す
絶好のチャンスです。今私は、神の同労者になることの真の
苦悶の中にあると感じております。
状況は違っても、柄沢兄弟も同じこのような苦痛や苦悶、キリストの
十字架の死を通過することができますようにと祈っております。

夜10時
不思議です。
今日の午後4時頃、現在の状況を社長に説明しましたが、驚くことに
社長は「別会社にして、やれるところまでやりなさい」と
言われたのです。そして、更にまた不思議なことには、
先程工場に電話して見たら、目標に達するデータが出たと言うのです。
まさに1日遅れで目標値に達したのです。
本当に不思議です。

ある情報から

アメリカでは、臨死体験者が急増しているようです。
魂が肉体から離脱し、二つを結んでいる銀のひもが
延命治療のために切断されず、魂が天国体験、神体験、光体験等、
超能力体験をして人生が変わる、と言うのです。
東洋でも、神秘体験やヨガの呼吸法などでも、
臨死体験が起こるとされます。
ヒマラヤの神智学、クンダリーニと言われている蛇の覚醒、
チャネリングと称して宇宙意識の声を聴く瞑想。
ブリーヂングと呼ばれている過呼吸法などがあります。
クリスチャンの中にも、臨死体験を十字架の死だと
信じている人もいるそうです。

☆
兄弟、情報をありがとう。
「神はただ、人の霊の直覚を通してのみ
神の御こころを知らせられる」
と言う真理がいまこそ強く主張されなければなりません。
これは神の一大原則なのです。

しかしながら今もう既に、相当の悪影響がキリスト者達を侵害して
しまっていることでしょう。私たちも今、神の前にへりくだり
既に受けてしまったであろう「霊的な」影響を想定し、それらをよく
調べて見る必要があるのではないでしょうか。なぜなら
「空中を源とするこの世に吹く風」を「優しく」ほほに受けた
ことのないキリスト者はほぼ皆無であろう、と考えるからです。

私たちが記憶しなければならないのはこれです:
あまたある人の書物の中で「ただ聖書」のみ、そして
あまたある人の知覚の中で「ただ人の霊(直覚)」のみ、
と言うあまりにも基本的な真理です。

「内側から人の霊に語る聖霊、そして外から語る聖書」オンリー
神が人に語る手段はただこの二つです。これをまとめて言えば
「聖霊」は「聖書」を通して「人の霊」に語る、
と言うことになるでしょう。「おびただしい数の書の中で、
ただ聖書、そして、無数の人の知覚の中で、ただ直覚」だけです。
(この両者、聖霊と聖書は内外で互いに呼応・エコーイングすること
を知るべきです。その両者の実質は全く同じであるからです。)

これは明確な神の定めであり、神はこの二つの為にこれまで敵と
幾多のバトルを繰り返して来られたのです。この時代以後その有様は
必ずその度を増し加えるでしょうが、表面的には敵が優位に立つ
かの様に見えるでしょう。そのような混沌とした状況の只中に住んで
いる故に、真に真理を識別出来る「キリスト者」はごくごく少数に
限られるはずです。人々はいともたやすく諸々の「悪霊」の仕業を、
神の働きとみなし、それらを礼拝するでしょう。ここで礼拝するとは、
それらの現象を尊重し愛することを意味します。
(その場合の礼拝もやはり24時間です。)

もし聖書がなければ、どこに神のことばがあるのでしょう。
そこにあるのはただ混沌です。
もし人の内的な機能である「人の霊」がなければ、
どこで神の声を聞くのでしょう。
そこにあるのはただ大混乱です。
しかし今既に、その混沌と大混乱が地上を埋め尽くそうと
している、と私達は見るべきです。

*
上述の「空中を源とするこの世に吹く風」:それは
「この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として、
今も不従順の子らの中に働いている霊」です。(エペソ2の2)

*
「あまたある人の知覚」について:
これについて述べるとすれば、殆ど際限がないことになるでしょう。
人の感情の持つ無数の知覚、思いに訪れるおびただしい考え、身体の
多くの器官が感ずる諸感覚、それらの一つ一つに対して「他の霊」は
「不思議で素晴らしい」働きかけをすることが十分可能です、
もしもあなたが神の意志を自分の意志として取り、その上に立ち、
「諸霊」に対して断固抵抗するのでなければ・・。

「愛する者達、霊だからと言って、みな信じてはいけません。それらの
霊が神からのものかどうかを、試しなさい。何故ならにせ預言者が
たくさん世に出て来たからです。」(Ⅰヨハネ4の1)

2009年4月1日水曜日

今朝、ある兄弟のメールから

以下はある本の記述です。

『私はキリストのために生きます。
これはどのような意味でしょうか?
多くの人は、主のために生きるとは、「主のために働くこと」である、
あるいは、「主を愛すること」であると思っています。
そうではありません。

主のために生きるとは、神のみこころのため、
神の利益のため、神の王国のために「生きること」です。(中略)

私たちが単に、私たちの自己のために、神からの慰めと幸いを
求めているだけなら、それは神のみこころを行なうことではありません。
(中略)主のために生きるとは、自分自身のために少しの余地も残さず、
進んで自己を完全に死に渡すことを意味します。』

*
さて、
総ての状況は神の御手の中にあり、自己を死に渡す
絶好のチャンスです。実は、私も仕事の上で今
とてもとても苦しい立場に立たせられております。
柄沢兄弟はしかし、比較すら出来ないような、言語に絶する
苦痛、苦悶の中におられます。
にもかかわらず私はこの時、兄弟がその苦しみのさ中においてさえ
主イエスと共に「真の十字架の死」を通過して
行かれるようにと祈らざるを得ないのです。


*
Sugar:
イエスは弟子はおろか、彼が忠実に従われた父からさえ見離され、
全く完全孤独の中、ただ御こころ成就の為に、
一人黙って死の真ん中を通って行かれました。
しかし私達は孤独ではありません。その主御自身が私の苦しみを
共に担われるだけでなく、「キリストの苦しみの交わり」
(ピリピ3の10、原文)をも与えようしておられるのです。

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(4)

幸いなことに、
入院後直ちに受けられた水分の点滴によって
登さんは元気を取り戻し、
その晩はよく眠られたと言います。

しかしながら客観情勢は極めて厳しいものです。
黄だんの症状は重く、飲食物の通過障害が激しく、
更に、もしも胆汁が血液に流れ込み脳に達することがあるならば、
精神的な錯乱もあり得るとのことです。
そのような状況から、担当医師は何と「あと二ヶ月」を覚悟して下さい
と言われたのです。しかしセカンドオピニオン(姉妹達の兄弟
である医師)の判断は更に更に過酷なものであったと言います。

今、その「覚悟」について触れるならば、
登さんは、神に対する様々な願いは願いとして
「主に一切を委ねる」と言う心積もりは、
相当以前から持っておられたようです。

今、登さんをもまじえた姉妹達の交わりの中で、
世に言ういわゆる「禁句」のようなものは一切無いと言います。
死について、覚悟について、彼らの間でその他必要な会話を阻害する
壁は、彼ら主の復活にあずかった聖徒達の間からは、
ことごとく取り払われてしまった、と言えそうです。

*
旧約聖書から、ゼパニヤ書、3章の14節から17節。
これは妻の良子さんが、
ご主人の為にと主から与えられた神の御ことばです。
これを登さんは病室で、
今、毎日のように読んでおられるのです。

☆
シオンの娘よ。喜び歌え。
イスラエルよ。喜び叫べ。
エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。
主は、あなたへの宣告を取り除き、
あなたの敵を追い払われた。
イスラエルの王、主は、
あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。
その日、エルサレムはこう言われる。
シオンよ。恐れるな。気力を失うな。
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。
救いの勇士だ。
主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、
その愛によって安らぎを与える。
主は高らかに歌って、
あなたのことを喜ばれる。
☆

「主は、あなたへの宣告を取り除き、
あなたの敵を追い払われた。
イスラエルの王、主は、
あなたのただ中におられる。
あなたはもう、わざわいを恐れない。」

2009年3月31日火曜日

あるメール交換から

今、ブログを読みました。
柄沢兄弟のこと、
読んでいて涙が止まりませんでした。
兄弟が、主を受け入れられた時、
心から主に祈るとき、主はそれを聞き届けて下さること、
主は生きておられ、私たちの声に応じてくださること、
みなとても感謝です。
必ず、柄沢兄弟のことを家族で祈ります。

実は私の夫も
まだ完全に主を受け入れていると言う訳ではないのです。
でも、主がその時を、今から準備されているのだと信じます。
人が救われること、それに勝る喜びはないのです。

☆
感謝です。
ゼヒゼヒ、柄沢登兄弟の為にお祈り下さい。

佐倉、酒々井の交わりには、確かに今「主の生ける何か」が
流れているようです。その中の一人の姉妹が言われました:
状況はとても過酷なのですが、何故か私達の間に、人からではない
不思議な深い平安があるのです。いつも顔を見合わせる時、
必ず言うのです「この平安は一体何でしょう」と。

さて、登さんの為に祈る時、その祈りよって、
遠くにいる私達も、彼らの交わりそのものの中に、
今直ちに入りこむのではないでしょうか。
そしてその交わりは同時に、父なる神と
主イエスキリストとの交わりなのです。(Ⅰヨハネ1章)
この交わりこそが、エクレシア・教会の
実質、本質そのものに違いありません。

この尊いエクレシアの交わりが、
今苦しみの只中にある登兄弟の奥深い霊にも達し、
そこから神御自身の何ものかが、兄弟の中へと
確実に伝達されるに違いありません。

このエクレシアの真実な交わりを思うとき、
私達はただ、神を賛美するだけなのです。
なぜなら、それはみな
神御自身の真実から、だからです。

だから主よ、登兄弟を、そしてかれの肉体を
あなたの「その真実」の中にゆだねます。

ある試み「腑に落ちる」

A:人への神の直接的な語りかけは、人の霊以外の場所に対して
行われることは絶対にない。他の、人の機能(魂や体)への
ダイレクトな感覚はむしろ神の敵からの感覚であることが多い。
だからキリスト者は「人の霊」に対する神からの「感覚を超えた
かすかな感覚」をキャッチしなければならない。
これはキリスト者にとって極めて重要かつ、
実際的実践的な日々の課題である。」

B:しかし、とは言っても、上記のことの実行は容易なことでは
ありません。何故ならこれを実行する為の基礎部分には、
単なるハウトゥでは片付かない多くの「深い学び」が
要求されているからです。

しかし私は、もしも主が許されるのであれば、
ここである試みをして見たいと思うのです。それは今述べたBと言う
「深く重い学び」はとりあえず脇に置き、いきなりAに入り込んで見たら
どうなるのか、と言うことです。(実際経験では、AとBとは、後になり
先になりして進んで行くものでしょうが・・。)

*
そこでここに、ある兄弟の体験を紹介します。
しかし当然のことながら私は、この兄弟の記述と経験が、神の真理に
照らした上で、全く総て正しいと言いたいのではありません。
これはあくまで、彼独自の追及と実行に過ぎません。
また「彼にはBの学びがない」などと言うつもりも毛頭ありません。

ただ確かに言えることは、この兄弟の体験は、私達にとって大いに
参考になり、そして多分私達の助けにもなると思われることです。
少なくとも今この兄弟には、ややもすると私達に見失われがちな
主を思う心と若さ、そして実践力があるのです。これは貴重な要素
であることは明白です。主は御自身の為に「夢中になっている魂」を
愛されることはいつの世においても否定出来ない事実なのです。
 

N兄弟:
いわゆる「腑に落ちる感覚」というものが一番大事かと思います。
魂の部分で「こうだ!」とか、「こういう啓示を受けた」と思っても、
内側がざわめくとき、それは決して上手くいきません。

しかし逆に、魂の部分で「嫌だな」と思っていても、内側の霊に
深い安息と、時として沸き立つような喜びがあるとき、それは必ず
上手く行きます。魂の部分と内側が同調して、魂も内側も深い安息と
沸き立つような喜びがあるとき、それは絶対に上手く行くのです。
それを私はまとめて「腑に落ちる」と言っています。

以上が、私が短い「経験測」より導き出した答えです。霊の語りかけが
不明確でささやかなとき、私が行うことは「主よ、しもべはここに
おります、聞いております。どうぞお語りください。」という短い祈りです。
するとそれは御言葉による祈りですから、邪霊やサタンは引き下がり、
御声がはっきり聞こえるようになります。

ただし、この前提として必要なのは、
・主は生きておられ、私に対して明確に語る御方であると知ること。
・「何でも内なる油に聞きなさい」ということを知ること。
・そして、その二つを、自分に適用するという意味において、
自分の意志を用いて信じることです。
もっと簡単に言うと「霊に語られる言葉は神様の言葉である。
神様とケンカしても勝てないから、逆らわないのが利巧」である、
要は「聖なる打算」の下に、神様に「白旗」を上げることである、
と私は考えております。

それでも、自分の思いか御声かわからないときには、
神様に丸投げしています。

2009年3月30日月曜日

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(3)

*入院に至る*
「昨晩 眠れたことを感謝します」と彼が祈ったその日はまた
吐き気の為に水を飲むことが困難な日ともなってしまいました。
その夜のことです:
入浴をした登さんは、ひどくノドの渇きを覚え、一人で次のように
祈ったのです「主よ、水が飲みたいのですが飲めないのです。どうか
助けて下さい!」その時です、登兄弟は「今飲みなさい」と言う
語りかけのようなものを感じたと言うのです。直後、ムカつきは直ちに
おさまり、シッカリ水を飲むことが出来たのです。これには登さん
自身がとても驚き、翌日の集まりの際に、皆にこれを証ししたのです。

その朝の集まりの中、彼は次の様にも祈りました。
「主よ、私には、見たいもの、聞きたいものがあり、そして
行きたい所もまだ多いのです。だからもっと生きたいのです」と。

しかし、
過酷にも症状は更に進み、登兄弟の頭の中は常にセミが鳴いて
いるようになり、腹部、胃の張りはひどく、更に背中に強い痛みを覚え、
そして黄だんの症状も現れてしまいました。しかし最も深刻に懸念
されるのは、体の脱水状態です。
このようなぎりぎりの状況の中、つい数日前の3月25日、自宅療養は
今、既に限界に達してしまったと判断するに至ったのです。

あるメール交換から

N兄弟:
私達は、どんなことがあっても、周りでどんな教えの風が
台風のように吹き荒れても、イエスにとどまり、御言葉に
留まり、そして御父に留まるべきと考えます。

Sugar:
アーメン!それこそが信仰の真髄です。
信じるということの本質は、実は感覚よりも意志の中にあります。
「神の御こころ・御ことば・神の意志」を、私の意志として取り、
受け入れ、その上に堅く立つのです。その時に、私がどう感じようが
何を思おうが、その感覚や考えに神はあまり関心を寄せられません。
神は、私達がただ彼のことばを率直に信じて欲しいのです。

私自身のことを言えば、信じた後、強い幸福感をよく経験する者
なのですが、その時喜び過ぎて、その感覚を見つめることは
決してよい結果を生みません。下手をすると、私はこんなにも
臨在感覚や天的感覚を感じることが出来るのだから、きっと霊的に
大いに進歩したに違いない等と思うかも知れません。
それは実にこっけいな状況なのです。

そのような時、キリスト者はいつの間にか、キリスト御自身や御言葉
よりも、この世界に存在するリアル感に満ちた無数の物達の影響
によって引き起こされる私の感覚、雰囲気、環境を信じ、それを
追いかけ、遂にはそれらに振り回されるようになってしまうのです。
この状態は大いに危険です。

もしそうであれば、キリスト者が、幸福感とは逆のマイナス感覚
や逆境などの状況に四方八方取り囲まれる時、自分を見る影も無く
哀れなものと感じ、信仰さえなくなってしまったのかと
大いに誤解し落胆するのです。これがよく私達が経験する
キリスト者のアップダウンです。

真に信じるとは、物質から来るリアル感、常に変化する様々な
状況などに影響されることなく、不動の「見えないもの」
神の真理に目を注ぐことです。
信仰とは3K、自分の感覚、環境、経験が総て入っているガラスコップの
「背後に」立ち「その小さなコップの中の3Kの総て、笑いと嵐を」を
静かに見おろすのです。
そして自身は何の上に立つのか。
それはただ神の真実と真理、動くことの無い神のことばの上にです。

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(2)

残念ながらこの三月に至り、柄沢登兄弟の病状は進行しつつある
と言えそうです。胃の圧迫感、吐き気、食欲不振がその度を
加え、柄沢兄弟を苦しめているのです。

しかし3月10日に至り、主はあることを開始されました。
それは登さんのもとに3姉妹が毎朝集うことです。登さんは、
吐き気が強いため、そばにビニールの袋を用いして、集いに
加わわられます。彼はそこで姉妹達に、祈って下さいと
言いました。皆で賛美を歌い、次に姉妹達は声を出して次々と祈る時、
皆さんの祈りの後で登さんもアーメンと言います。

ある日、彼は夜、眠れなくて苦しいと言いました。その機会をとらえ
ある姉妹が「登さん、そのつらさをそのまま、声を出して主に
訴えてごらんなさい」と勧めました。その時、登さんは「主よ、辛いです。
夜も眠れないし、食べることも苦しいのです。助けて下さい」と
祈ったのです。翌日の集まりで、どうだった?と聞かれると、
彼は「眠れました!」と言ったので、今度は「それではそのことを
主に感謝して見たら」と勧めました。そして彼は「主よ有難う。
吐き気はありますが、眠れたことを感謝します」と言ったのです。

*
今しかし
状況は予断を許さないほど深刻であると言えます。エクレシアにある
皆様方の、緊急なお祈りが急務であることは極めて明らかです。

「登兄弟を愛し、その命をも捨てられた主よ、
あなたが今 彼に御自身を現わされますように。そしてあなたの御こころが
あますところなく、彼の上に実行されますように。しかし主よ、私達の願いは
彼が今、その苦しみから解き放たれ、その肉体が癒されることです。」

今現在 彼は入院中です。

2009年3月29日日曜日

ある質問に答えて

復活とは
Aを消滅させ、天からのBを、Aのあった所に入れ換える事ではなく、
AはあくまでAとして、その古き要素は捨て置き、Aそのものの中に
天的要素を入れ込むことです。

人そのものについて言えば、十字架において
神は人を全く消滅させること等決してなく、復活において
人に復活の天的要素を入れ込む、或いは人を
「復活という要素」と一つとする、と言うことだと思います。

人の魂の機能をエンジンの機械部分とし 
その魂の命を電気(或いはガソリン)に例えるならば
機械も電気も「旧物質」であり、旧創造なので、これらは
十字架と言う手段によって墓に捨て置かれなければなりません。
しかし、その意味は、神が人の魂の機能と命(機械と電気)の
総てを墓の中で永遠に消滅させると言うことではありません。

神は
A「人の復活した電気」(復活した魂の命)と
B「天的な電気」(聖霊)とを一つにして下さるのです。
そのようにして一つとされた天の命(エネルギー)によって、
私達は将来 永遠の中で、いつまでも人として生きることに
なるのです。聖霊には死と復活は必要ありませんし、
あり得ません。余談ですが、神は人(物質)となられたイエス
において、死が初めて可能となったのです。

神は神が創造された人のいかなる部分、人の魂の機能と
魂の命も失敗作として「完全破棄」されることは決してなく、
それを天的な要素と一つに結合されるのです。
その為には先ずもって、古き要素だけは必ず、
十字架において破棄されなければならなかったのです。

*
それにしても、復活とは不思議です。
死による完全な終結の後で、その原型を留めたまま、
それが、天の成分、復活と言う要素で満たされ得るのです。
(或いはこれを「新物質」と呼んでも許されるかもしれません!)

しかし、これは人の知性にとって、その理解は極めて困難です。
何故なら、人の辞書では、死・終結とは、新しい開始など
絶対にあり得ない完全な「終わり」を意味するからです。
人の「旧物質である頭脳」の知的能力は、その対象がただ旧物質
と言う範囲内に留まらざるを得ないのであり、それが死と復活と言う
経験を経由すること無しに「新物質」に及ぶことはあり得ないからです。

神は、彼がせっかく創造されたキリスト者の
いかなる部分(魂の命でさえ)も決して完全消滅されません。
実の所、消滅されないどころか神はどうしてもそこに、
復活という要素をプラスされることを永遠の過去において、彼の
喜びの中で計画されたのです。これは真に人には及びもつかない
途方も無いアイデアであったと、私達は畏れと驚嘆の中で
言わなければならないのです。

十字架は完全な死であり完璧な終結なのですが、
しかし何と、その後、それに復活の要素を入れ込むことを
可能とするお方が私達の神なのです。

もともと「時間の中における人の創造」にも終結と言うものは
無かった筈です。しかしこの場合は、単にエンドレスな時間という
意味での「永遠」に過ぎませんでした。しかし単にエンドレスな
時間というものには決定的に何かが欠けているのです。それは
究極的な満足を神に与えることはあり得なかったのです。
復活なくして、神が永遠に満ち足りることは絶対にありません。
復活こそ、神の心なのです。

そこで神は、サタンの故に、サタンから出てきた
終結(死)というものを、神の至高の知恵によって、
時間の中においてそれを「活用された」のです!

時間の中で死は完全終結です。従って時間の中に存在する
旧創造・旧物質は死によって完全に終結されます。しかし、もしも
ここに、キリスト・イエスにある神御自身が介入されるのであれば、
イエスの復活において、死・終結は完全打破されるのです。それは、
神に創造されたいかなるもの(時空と万物)も創造者御自身に勝る
ことなどあり得ないからです。敵によって汚染された万物を完全終結し、
しかもその万物を生かして、それを「新物質」とする唯一の手段、
それが死と復活であったのです。
ここに初めて人は復活において「卓越した永遠」と
一つに結合されることが可能となったと言えます。

当然この場合の「卓越した永遠」とは、繰り返しますが単に「旧物質」
であるエンドレスの「旧時間」ではありません。それは全く異質の
超越した実質です。敢えてそれは何かと問われるならば、卓越した
永遠とは、イエスの死と復活を経過して初めて人の中に導入されるべき
現在のキリスト・イエス御自身にある「永遠なる神」である
とでも言わざるを得ないでしょう。

信仰とは結合を意味します。従って信仰がなくては「復活と
卓越した永遠」に対して人が結合されることはあり得ないのです。
しかし人はイエス・キリストとの信仰による結合において、
今既にそして未来において
「復活を伴う卓越した永遠」そのものを内にいただき、同時に
「復活を伴う卓越した永遠」の中へと入り込むことが可能となるのです。

☆おことわり:
以上の文は、ある人のある質問に答えたものです。従って
分かりにくい所も多いのではないかと懸念しております。

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(1)

千葉県の佐倉、酒々井(しすい)地方に
主によって3名の姉妹達(この世の姉妹関係でもある)
が起こされ、今明らかに、その3姉妹を中心にした
交わりがエクレシアにおける、キリストの活動の
一つの基点・前線となっております。

その中の一人の姉妹の御主人が柄沢登氏です。
氏はホンの一年ほど前、奥さんからの信仰の勧めに対し、
人がびっくりするほどの、思いがけなくも、強烈な拒絶反応を
見せたのでした。それは一つには奥さんの一計を案じた
伝道方法等に強く反発したもの、でもあったようです。
しかし不思議なことに、この出来事以来、主はこの家族に対し
とても色濃くそして深い働きを始められたようです。(人が
真に正直であることは、何と神をも引き付ける一要素なのです。)

さて話はさかのぼる5、6年前、氏は胃ガンの摘出手術を
受けられました。(その際、明らかに認められていた6センチ
ほどの腫瘍が、開けて見たらその実体はどこにも見当たらず、医師も
首をかしげていたと言う一つの逸話があります。)
その手術の前、氏は勧められるままに「一応」キリストを受け入れ
られたと言うことなのですが、残念ながらその後の氏に、
主を真剣に求める様子等は見受けられなかったと言います。

そして、去年に至り、ガンの転移が発見されたのです。
ところが実に不運なことに、その部位(腹壁あたり)は手術が
出来ない場所であっただけでなく、放射線治療さえも不可能
であったのです。あとは抗癌剤しか残されていないのですが、
今度はそれへの拒否反応(おうと、視力の著しい減退、歩行困難等)
が余りにも苦しく、遂に氏は総ての医学的方策を放棄せざるを得ない
と言うぎりぎりの状況に追い込まれてしまったのです。
ただ自覚症状は回復し、視力も戻り、ある結婚式にも参列する
ことが出来たほどでした。
にも関わらず、今年一月遂に、ガンは2、3センチの大きさ
となってその姿を現したのです。

しかしこの間、
主は同時に、このご夫婦の間に明確に介入されたのです。ある時
姉妹はシッカリと信仰に立ち、まっすぐご主人に対されたのです。
即ち、その時姉妹は内にあるメッセージを次の様に
御主人に告げることが出来たのです:「今ゼヒあなたは、あなたの
人生の中でどうしてもしなければならない大切な選択をして下さい。
それは、あなたの意志で明確に主を受け入れるかどうか、
と言う選択です」と。

それは完全に主の御導きでした。
その時、姉妹の単純さから来るイエス御自身の清さが、聖霊の中で
登さんに触れ、その結果登さんは明確にキリストを受け入れられ、
そしてバプテスマをされ、その様にして、神そのものの中にだけ存在する
「永遠の命」をいただき、明確に神の国へと誕生したのです。即ち
柄沢氏は確実に、イエスと同じ父と、全く同じ父からの命を持つ、
柄沢登兄弟となったのです。
思えば、これは何たる神の御業だったことでしょう。
私達は、ただ主の御名を高く高く掲げるのみです。

2009年3月27日金曜日

神の御こころ3

ある書物によると
「御こころ」と訳された原語の意味は、
旧約では、
①心、内部、真ん中、等の意味、
②好意を持つ、と言う意味
③喜ぶ、と言う意味、
新約では
①意志、思い、から
②望む、志す、から
③計画、目的、等から「御こころ」と訳された、
と言うことになっています。
これが正しければ、日本語の「御こころ」と言う訳語は
問題なく的を得ていると言えそうです。

当然ですが、ここで私達が読み取るべきポイントは
御こころは、単なる神の「冷徹な計画」と言うことに留まらず、
神の心が強く反映されている何か、であると言うことです。
それは神の心からの願望、熱望なのです。

もしも、神が、旧新約の神の民にとって、真の「主君」である
とするならば(神が主であるならば)、主君の「心からの計画」
や「心からの望み」を、愛する主君の為に、それを実現して
差し上げたいと「お家」の家臣達が念願したとしても、
それは当然のことだったのでしょう。

さて、聖書とは「神の御こころを書き綴った書」であると言っても
そんなに間違いはないでしょう。従って、歴代の忠信なる神のお家の
家臣達は、先ずは聖書を懸命に読み調べ、そして彼らは遂に、神の
御こころを突き止めるに至ったのです。それ故、彼らは大いに喜び勇み、
そして、彼らの中のある者たちは、彼らの為に真実を捧げ尽くされた
愛する主君の御こころ実現の為に、彼らの命さえも喜んで捨てて行った
と言う無数の歴史的事実は、余りにも当然の成り行きであった、
と言えるでしょう。

私達が、今でさえ赤穂の忠臣の話に心を打たれるのは、それを
聞くとき、私達の意識を超えたある認識の中で、目には見えない
「真の」主君や、宇宙にある「真の」お家、と言うものに、
その時、私達の心が深く繋がって行くから、かも知れません。

2009年3月26日木曜日

今日のメールから

今日は実に楽しいメール、
ホンとに有難うございました。

長年、相当○○を勉強されたんですね。
一度ぜひ拝見させて下さい。
メールを読ませてもらって、何だかあなた様のこれまでの半生、
私にも「結構見えたっ」と言う感じがしたんですよ。
ま、そういうこともないんでしょうが・・

大学も千葉県の大学で・・もう完全に千葉の人ですね。
私は茨城県ですが、駅は千葉県です。だから皆さん、あの辺は
「チバラキ圏」だ、などと言っているようです。
(でも私、もともとは秋田県出身ですが)
あなたの次回の「あかし的文章」がとても楽しみです。

それにしても、
今改めてつくずくと「キリストは凄い!」と思います。
私の人生もこれまで、まーイロイロありましたが、
数年前、山で一人でいるとき、
「ただ一点小さなキリスト」に集中してみたら、何と直ちにです!
「私を取り巻く大変な状況の一切」が、その日その瞬間を区切りに、
正に確実に、全部が実によい方向へと、ゆっくりと
回転し始めたのです。これには正直 驚きました。
でも神様だからあたりまえか、とも思いましたけどね。
(その回転は今でも続いているのです。
それに、どうも加速度が付いてるよ)

クリスチャン人生と言うのは、ある意味では 
とても「ラクチン」なものです。
こんな素敵な人生の秘訣、ほかには絶対にありません。
キリストは正に宇宙の中心、これホンとです。
それでは また。 

神の御こころ2

聖書を見るとき、新約聖書だけでも「御こころ」と言うフレーズが
相当頻繁に登場することに気づきます。その一部をあげてみると・・

・マタイ6の10:御こころが天に行われる通り
地でも行われますように。
・マタイ7の21:私に向かって、主よ、主よと言う者が皆
天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御こころを
行う者が入るのです。
・マタイ26の42:父よ、どうしても飲まずに済まされぬ
杯でしたら、どうぞ御みこころの通りをなさって下さい。
・マルコ3の35:神の御こころを行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、
また母なのです。
・ヨハネ4の34:イエスは彼らに言われた。「私を遣わした方の
御こころを行い、その御わざを成し遂げることが、私の食物です。」
・ヨハネ7の17:誰でも神の御こころを行おうと願うなら、
その人には、この教えが、神から出たものか、私が自分から語って
いるのかが分かります。
・使徒22の14:私達の先祖の神は、あなた(パウロ)に
御こころを知らせ・・
・Ⅱコリント8の5:神の御こころに従って、まず自分自身を主にささげ、
・コロサイ1の9:神の御こころに関する真の知識に満たされますように。
・ヘブル10の5~7:キリストは・・こう言われるのです。「神よ、
あなたの御こころを行うために・・」
・ヘブル13の:御前で御こころにかなうことを私達の内に行い、
あなた方が御こころを行うことが出来るために・・
・Ⅰペテロ4の2:あなた方は、地上の残された時を、もはや人間の
欲望のためではなく、神の御こころのために過ごすようになるのである。
・Ⅰヨハネ2の17:世と世の欲とは滅び去ります。しかし、神の
御こころを行う者は、いつまでも永らえます。

「神の御こころ」に意味上は極めて近いと思われる「神に喜ばれること」
なども加えたら、それはかなりの数に上るでしょう。

2009年3月25日水曜日

神の御こころ

以下はあるキリスト者の言葉です:

サタンの目的は 
人間を得て神の御心に挑むこと。
それゆえ サタンが最も恐れるのは
神の御心を行う人。
神の目的は、
サタンのすべての働きを破壊する人を得ること。
「神よ、イエス・キリストの中で
兄弟姉妹一人一人が
神の御心で満たされますように」
(コロサイ1:10b)Dr.K訳

☆
キリスト者にはどうしても
「神の御こころ」と言うフレーズにフト
しかしシッカリと捕らえられる日がなければなりません。
キリスト者が「神からいただいた新しい命」は、
(もしそれが本物であるならば)
必ずある日、
神の御こころへの関心と愛を喚起します。
この不思議な働きは
天来の霊的な活動によって初めて可能です。

しかしこれは神と私の、容易ならざるラブストーリーの
記念すべき新しい開始の日となるのです。

2009年3月24日火曜日

北の国から

「遠い遠い」北国に転勤が決まったとか。
ごめんなさい、他人のことながら、
私は勝手に信じていたんですよ、
「きっとそれは主からである」と。

ところが今日、何と何と、同じ北の国の「ある教会」から
突然電話があって「兄弟、ゼヒ交わりに来て下さい」と。
でもこれ、どうなってるの?!
私はこういう状況を前に一体どうすればいいんですか。

ハイ、でもすぐ分かりましたよ。
「私」がすることなどホンとに何も無い、と言うことが。
私のすることは、ただ総ての肩の力を抜いて
次のように祈ること:
「あなたの御こころは、必ずあなた御自身が実行されます。
主よ、私は一歩一歩、あなたについて行くだけです」と。

環境の中、
「神からの?なんらかの語りかけ」があったら、祈りによって
その語りかけを「そっくりそのまま」神にお返しします。
そうすれば、その後で、きっと神様はまた、私の環境と
私の魂の静けさの中で「私の霊」へと、
彼の繊細な御声として「何か」を投げかけられるのです。
私はそのような繰り返しの中で、その度ごとに、小さな一歩一歩を
主の前で「おそるおそると」踏み出して見るだけです。
それにしてもこれは何とワンダフル(不思議一杯)で
楽しい主との「道行き」でしょうか。

さあ、それでは早速祈りましょう。
これ第一回目。

*
環境の中、
「神からの?なんらかの語りかけ」について:

電光石火のヒラメキのごとき、人の意志を
無視したような「語りかけ」にはむしろ、
要注意です。(総ての「神がかり現象」は
「他の霊」からであると思うべきです。)

神は、私達の奥深い霊の中で「圧迫するような、重苦しいような、
何かを語っているような、語りかけではないような、しかし
時間の中では一定不変、しかしあくまであなたの自由意志・人格を
尊重される何ものか」として語りかけられます。ですから
あなたがそれを今、意図的に無視しようとすれば「一時的には」
それはあなたから退かれるでしょう。☆☆:

私達は旧約の預言者とは根本的に違います。以上のような姿が
今の時代、神が一人一人のキリスト者に対して望んでおられる
「神とのお付き合い」なのです。それが究極的には
「私達がキリストを生きること」に繋がって行くのでしょう。

ですから、どうしても
「おそるおそる」や「一歩踏み出してみる」「神との
キャッチボールのような地道な祈りの作業」は欠かせないのです。
その様にしてまで、神は私達に祈らせたい、
神に対して問いかけさせたい、神を待ち望ませたい、のです。
それは私達の日常生活一歩一歩において、私達が遂には、100%
真実に神により頼むようになるためです。目の不自由な人が、手を
引いてくれる人により頼まなければ、全くただの一歩も歩けない様に。

☆☆:
この人の霊の「直覚」を通して、軟膏をあなたの肌に「指先で微妙に
優しく塗る」ような聖霊の語りかけは、私達が普通「感覚」と呼ぶ
ものとは全く次元の異なったものである、と言えます。人の所有する
感覚はそれが外の器官であればあるほど、分かりやすく、しかし
より荒々しくなります。(体の感覚はその最たるものです)
しかし魂の感覚とは言え、それはあくまで被造物のそれです。しかし
聖霊は基本的に「被造物ではない」のであり、それはあのイエスの
中に存在した「真の命が持つ無限の繊細さ」を持っているのです。

多くの場合、初めその深い「感覚」は一体それが何であるのかさえ、
把握出来ません。ですから、私達はそれを無視するのが普通です。
また霊を取り巻く私の魂の活動(感情、思い)が一日中、余りにも
にぎやかあるならば、その繊細な霊の動きに私達が気が付く
可能性さえないでしょう。(なお、霊の一機能・良心も直覚を介して
私達に感知されます。)

さて
聖霊はこの直覚を通してだけ、人に語りかけられるのですから、
私達は内におられる聖霊というお方に対して深い敬意と
愛とそして十二分の注意深さをもって、接しなければなりません。

さて
私達がしばしば聖霊からの感覚を無視してしまうもう一つの大きな
理由は、聖霊の意図はあなたの理性や感情とは関わりなく、直接
神から来るという事実です。(だから直覚と呼ばれるのでしょう)
聖霊が私の理性や理屈、好みに問い合わせすること等ありません。
従って普通私達は「ある聖霊の意図」を感知したとしても、「そうは
言われても、そんなに簡単に服従するわけには行かない」と
軽率に反応してしまうのです。

にもかかわらず、聖霊があなたに対して彼の意図をたやすく変更する
ことはありません。しかし、あなたに語りかける静かな語りかけに
対して、あなたが長期間 服従することをせず、敢えて何度でも
無視するならば、遂には「そのレベルでの」聖霊の働き・あなたへの
神の意図を、あなたは決定的に遠ざけてしまう結果となるのです。
しかし、それは神とあなたにとって、
極めて大きな損失であることは言うまでもありません。なぜなら
それはあなたに対する一つの「聖霊の譲歩」であったからです!

2009年3月23日月曜日

今朝のメールから

結局 私達の戦いは、
「目に見えないものども」との戦いのようです。
彼らが私達を攻撃するのは「あらゆることで」
であるのでしょう。
もしもその攻撃が本当に「あらゆることで」であるならば
私達は当然「絶えず目を覚まして」いなければ
ならないことになります。

それは戦場に送られた兵士達の絶えざる心配りを
少し考えるだけで容易に分かることです。
「あなた方の霊、魂、体が完全に守られますように」
(Ⅰテサロニケ5の23)

*
O兄弟からメールがありました。
仕事と静養と運動をバランスよくしっかり実行して
おられるようですよ:
「400-700m位を普通の人の半分の速さで歩いています。」

Oさん今「キリスト者の標準」を再読されているとか。
本当に嬉しいことです。

*
今日は石膏ボードを買いに 
大越町まで行かなければなりません。
それにしても石膏ボードを買いに行くとき、
どうやって目に見えない悪鬼どもに対して
自分の霊、魂、体を完全に守るのかな。

2009年3月22日日曜日

世に死なない命

メールを有難うございました。
「真理は世に死なない命を証された」
が特に嬉しかったです。

そのようにして 光に照らされた正にその分だけ 
私達は主に仕えることができるのでしょう。

何回も言うようですが、
先日の兄弟との出会いは、私にとって非常に
意味深いものでした。
これからも、この交わりは「主からのもの」として
大切にするべし、と明確に感じさせられた思いでした。

交わりこそが、総ての主の行動の前線と基点です。
私達が何もしないとしても(否、むしろ総ての人の意図等
捨ててしまった方がいい)そこにささやかな
真の交わりさえあれば、確実に主自らが動かれます。
本当にそれだけでいいのだと思っております。

小さな交わり、
その中に存在する、人の知らないある不思議な力には、
私達が今はその全貌など把握するすべもない、
天的で無限の可能性が秘められていることでしょう。

ps:
すみません。
例の「直覚と意志」はその後、だいぶ付け加えて
しまいました。わずらわしいことでしょうが、
もし、再読して下さるならば幸いと存じます。

2009年3月21日土曜日

今、山です

先ほど、小屋に着きました。
のどかな春の日差しの中、はるばる
太平洋を望む6号線と福島路を走って来ました。

山も平和そのものの無風快晴ですが、さすがに少し寒い。
やはりここは3月になってもストーブは十分必要なのです。
(4月になっても、かな)
予報を見るとあさってあたり、何と雪になるとか。

多分今回は丁度2週間の山暮らしでしょう。
床の野地板張りと壁工事はどれぐらい進むのでしょうか。

その間、三春の滝桜を見たいと言う東京のカップルとの
「早朝4時の花見」は本当に実現するのかな。
未明の薄明かりに浮かぶ樹齢千年の
ベニシダレザクラとはどんなでしょうか。

例の「三階建て4層鍋」での「世界一の手抜き料理」がおいし
過ぎて、あれ以来、確実に太り気味。対策は「間食をひかえる」
と言うことで、今、結構努力しているのです。

だから、お腹が空きましたね。
今日の鍋の中は、一寸さびしく、ほうれん草と豚肉だけですが。

そうそう、途中、いつも寄る水戸近くの露天の八百屋さんで、
絶対に、ゴミ袋いっぱいはある、大量の人参が何と
たったの380円。
だから、明日から当分毎日人参です!
(マルシアよ、こんなときはどうしたらいいのかな)

2009年3月19日木曜日

直覚と意志

基本的なこと:
①ただ御ことばと私の霊の中の直覚において、
②聖霊の啓示によって神の意志(みこころ)を知り、
③それを私の思いで理解、確認し、
④私の意志を行使して(サタンの意志を拒絶し)
その神の意志を選択し受け入れ、
⑤聖霊への全き依存の中で、神と同労する。
以上が基本です。

*
しかし、以上の基本的なことには2つの大きな前提があります。
1
旧創造を一掃する為に、死に向かい、死を受け入れ、そして新創造導入
の為に、復活し、御座につかれたキリストの経験を真に認識し、
それらのキリストの経験をキリストとの一つの中で
自分のものとして日々経験すること。(これはおもに積極面です)
2
キリストにおいて既に達成されているが故に、それを根拠に
私の罪、肉、この世、魂の命(機能ではない)の除去を
私において達成すること。キリストの死と言う霊的世界における
決定的分離を時空の中のわが身に適用すること。(これは消極面です)

*
基本①②の説明:
神が、私たちの霊の一つの機能である直覚以外の場所で、直接に神や
神の意志(細かなその人に関わる神の御こころを含め)を人に知ら
しめることはあり得ません。このことの認識が無いとキリスト者は
たやすく、人の霊以外の場所(魂と体)に働きかける敵から来る
感覚を神からのものであると誤解します。これは大きな悲劇です。

例えば、キリスト者が最高度に評価する、不思議で
超自然的な感覚:「燃えるような愛」「臨在感覚」「第三の天の感覚」
「聖霊からの火のような感覚」、時には体のしびれや、目によって
不思議なものを見る等、敵が送る種々の超自然的感覚がそれです。
極端な場合、例えばある人達は「彼らの」目によって「イエス」の姿を
見たと公言します。これはさまざまな宗教や修行に見られるいわゆる
「深み」です。これらの魂や体の感覚はある程度、外側から人の霊に
さえ(聖霊にではなく)影響を与えるので、彼らはそこに「ある深さ」
を感じ「これは神が与えた神からの感覚である」と誤解するのです。
そのようにして彼らは確実に彼らの世界の中で、
ある種の崇拝と座が与えられるのです。

しかしながら、私達は、これらの殆どは、特にキリスト者をターゲット
にした神の敵のかく乱や真理からおびき出す巧妙な「エサ」であること
を知るべきです。私達はそのエサに決して食いついてはなりません。
堕落した天使長から来る虚偽と光の偽装の深さは殆ど無限であり、
自らの破滅の運命を予知する彼の究極的な狙いは
「彼と共なる死」「滅亡への道ずれ」なのです。

キリスト者は、特に今後の世界において、神の敵が多くの不思議、
奇跡を行うことを忘れてはなりません。それは遂には全世界の
神を憎む人々が、こぞって「物を言う偶像」を礼拝するようになる
と言うクライマックスに確実に至るでしょう。ですから今、敵は彼が
憎むキリスト者達の魂と体に対してさえ、超自然的な業を少しずつ
始めている、としても何の不思議もありません。もしかして敵は
「不思議崇拝」の世界的な潮流を先ずはキリスト教徒から
始めたいのかも知れません。

私達は知るべきです、神が評価するのはただ信仰であり、信仰は
感情や思いとは直接には関わりがない、ということを。(思いや
感情で信じるのではない、と言う意味)信仰は人が、自分の感覚、環境
経験(3K)以上に神に信頼を置くが故に、ただ神のことばを
「選択する」と言う冷静な意志の中にこそ存在するのです。
それこそが、神が喜ばれるものです。

当然、キリスト者が真に信じた後で、神がよき感覚を与えられる
可能性は十分あり得ます。しかし「神から来る幸せな感覚」にさえ、
過大な評価を与えることは危険です。決して「天的多幸感覚の獲得や
不思議体験」そのものがキリスト者の切望であってはならないのです。
私達の切望はひとえに真理そのものと、それが私の霊に啓示される
ことであるべきであり、その後に訪れるものがどんなに素晴らしい
ものであったとしても、それらを決して抱きしめてはならないのです。

「リアリティ」の獲得も感覚や思いによってではありません。それは
キリストとの結合に対する信仰によるのです。なぜならキリストこそ
そのリアリティそのものであり、信仰とは結合であるからです。

③の説明:
この時、私達は決して受身的な態度に陥らず、状況を判断し、冷静に
聖霊によって新しくされた「思いを用いる」必要があります。ここに
おいて、直覚で得られた真の知識を思いの中での理解によって
確認するのです。しかしそれは先ず霊において知るということ
(啓示)がなければ、何の意味もないことです。だから
キリスト者は総てにもまして神からの啓示を求め、待つべきです。
しかしその聖霊による啓示は、必ず唯あなたの「霊の中の直覚をとおして
のみ」であることを正確にしゅん別する必要があるのです。

④の説明:
宇宙には3つの意志があります。神の意志、サタンの意志、人の意志です。
この3者は完全に独立しています。ですから人は自分の意志を固め、
サタンの意志を拒絶し、神の意志を選択する必要があります。これは
完全に人の役割です。神が人に代わって神の意志を選択してあげること等
絶対にあり得ません。「神が人に自由意志を与えた」これは神の大原則
であり、今更、神でさえそれを覆すことは不可能です。神の願いは、
(あの時のエバのようにふにゃふにゃせずに)人が自らしっかりと立ち、
神と神のことばを自由意志の中で選択することなのです。

今日この点の誤解は広く行き渡っており、キリスト者は何もせず、ただ
「来るもの」を受け入れるのが素晴らしい信仰であると考えます。元より
神は人の自由意志を尊重して動きません。所が人は何もせず、時には
意識的に自分の思いをさえ振り払って、唯何かを待ちます。従ってここに
「何でも」受け入れてしまうと言う危険な状況が発生するのです。

そんな時に何が起こるのでしょうか。「第三の意志」が待ってました
とばかりに巧妙なだましの手口で行動するのです。その時、敵の対象は
人の体の機能と感覚、そして人の感情と思いであり、終局的には
人の意志でさえ麻痺させてしまいます。程度の差こそあれ、今日
このタイプのキリスト者は何と多いことでしょう。それは人の最も大切な
機能・自分の意志を神の御前で明確に働かせなかった結果なのです。

これは霊的世界の法則に従った現象です。即ちある原因があれば必ず
その結果が伴うと言うことです。だから私達は決して、夏の家畜小屋のハエ
のようにこの地上におびただしく実在する所の、極めて知的で超自然的能力
を持つ、目に見えない人のような生物・悪霊達が、私達の魂と体に付着する
原因を作ってはなりません。(悪霊共の意志はとても明確)そしてその原因を
排除できるのは、あなたの思いと感情に働きかける敵、に対する断固とした
拒絶と神のことばのみを受け入れるしっかりとした意志なのです。

⑤の説明:
「自分の十字架を負い、魂の命を失うべし」と言うイエスのことばが
ここにおける関連です。魂の「物質的」エネルギー・命
(魂の個性や機能ではなく)を十字架に渡すと言う日々の私の作業があって
初めて、聖霊の命と性質が、人の魂の機能を通して、神の意志を
この地上に表現することが可能となるのです。

2009年3月16日月曜日

あるメールのやり取りから

Sugar:
「家の中で長男とこれからも一緒に祈る時間をとり、主に触れて
もらい歩んでいきたいと思っています。・・・
一番小さな単位である家庭を大切にしていきたいのです。
自宅というものを、互いに愛し合いながら、何でも話が出来て
のんびり出来るところにしたいというのが私の願いです。」
と書かれたあなた様の言葉に接し、とても感動しました。
「一番小さな単位である家庭を大切に・・
何でも話が出来て のんびり出来るところ」

ホンとにアーメンです。姉妹、どうかこれからも
おっしゃられたことを、この上もなく大切なものとして下さいますように。
そのこと、実はエクレシア・教会でも一番大切にしなければならない
ことに違いありません。何故なら教会こそ「真の家庭」なのですから。

これから、あなたの町やその近辺でも、そのようなキリスト者の
集まりがそこここに現れますように。その為には先ずは
「小さな2、3人の交わり」を大切にしなければなりません。
主の再臨に至るまで、これからあちこちに現れるであろう、
そのささやかな交わりこそが「神による」真の働きの
基点や前線になって行くことでしょう。
それでは また。

ps おうかがいします:
上のやりとりを 個人名は出さずに、一部を変えて
私のブログに載せてもよろしいでしょうか。

☆
T姉妹:
今晩はです。
私の言葉に「感動した」と言って頂いて嬉しいです。
これからも、そのことを第一にして楽しい家庭にしていきたいと思います。
兄弟の 
「それこそが教会に求められることです」という言葉を目にして、
小さく「あ!」と声が出てしまいました。本当にそうだと思います。
でも、たくさんの祈りをしましたが、なかなかその理想に教会が到達しない
現実を見るにつけ、主は別のことを望まれているのか、とも思いました。

このことを主に祈って行きたいと思います。主の御こころがなんであるのか?
祈りがかなわないとき、別の道が用意されていることもあるのですよね。
「わたしの願うようにではなく、あなたの御こころのようになさってください」
と主イエスが祈られたように祈っていきたいと思います。

今日は礼拝のあと、先日主をオープンに受け入れられたOさん、そして
Nさんと三人で食事をしながら交わりを持つことができました。Oさんが
しっかりした思いを持っていることを確認できて安心しました。
これからも、たくさんの兄弟姉妹たちとの“良い”交わりを
持ちたいと願います。まだ主を知らない人との交流も大切にしたいです。
それもこれも、すべて主のみ手に委ね、感謝しつつ祈っていきます。

ブログにのせてくださるという件、喜んでOKです。
実名でも全くかまいません(笑)良くある名前ですし・・・。
主イエスのみ名のゆえに集められ出会うことができたことを、
主に感謝しつつ。

2009年3月15日日曜日

キリスト者が集まる

少数のキリスト者の自然な集まり、それこそがエクレシア(教会)
の前線であり、神の働きの基点です。「その小さな2、3人」
からのみ、神は事を始められるのです。従って神の働きの上で
少数のキリスト者の集まりほど大切なものはありません。

1 
キリスト者のあつまりは実に単純なものです。(複雑なものには要注意)
先ず、集まる理由はただ「会いたいから」です。私達はただ兄弟姉妹に
会いたいから万難を排して会いに行くのです。更に言葉を加えるとする
ならば、それは「私の中のキリストが他のキリスト者の中のキリストに
触れたいから」なのでであり、そこには、キリストの人への愛の力が
作用しているから、と言う事になるのでしょう。私達はただ
その理由の故に「どうしようもなく」集まってしまうのです。
そこに存在するとても自然でしかも不思議なある種の吸引力、
この「単純な衝動」がキリスト者が
「集まってしまう」と言う生命現象の説明です。

しかし気の毒なことに今日多くのキリスト者達はあまりに複雑にされて
いるのです。本当は集まりたくない場合でも、他のいろいろな理由の為に
集まっています。従ってそこには、本来エクレシアにあってはならない
複雑怪奇で不自然なものがいつの間にか積もり積もってしまうのです。

2
次に「他のキリスト者の中のキリスト」への愛は聖霊の中にあって必ず
私をしてキリストの十字架へと導きます。これはある深い法則です。それ故、
キリスト者の集まりの為の重要な条件は十字架と言うことになります。
キリスト者が集まる場所の入り口は実のところ死・十字架で構成されている
のです。ですから、なんびとも十字架を経過することなしに、他のキリスト者
に出会うことは不可能です。本当の所、その前に、キリスト者の上には
四六時中絶えずキリストの死が働いているのです。(Ⅱコリント4の11:
「私達 生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。」)
この意味は、キリスト者は絶えず(日常的に)キリストの死の中に留まって
いなければならない、それは人に対するとても厳然たる基本的な神の意図
である、と言うことです。ですから、他のキリスト者にあなたが出会う時、
そこには最早「あなた」は存在することが出来ません。遅くとも集会所の
入り口であなたは「殺され」なけばなりません。ですからもしもそこで、
あなたが真に「呪いの木」に釘付けられることを神に許すならば、
集会の場所に座っているあなたはキリストと共に復活した「別のあなた」
でしょう。その新しいあなた・キリストとの一つの中で復活したあなた
だけが、神とエクレシアにとって初めて益となり得るのです。

そうでなければ、あなたは十字架に付けられることを拒んだ古いアダムの
血肉をエクレシアに持ち込むことになり、エクレシアに変質をもたらして
しまうのは避けられません。それこそが極めて大きな問題です。
今日のキリスト教の姿が「神の外観をまとい、十字架を拒んだ古い人類の
一切を現している」のは無理からぬことです。それは人々が
「十字架とは何であるかを実際には殆ど知らない」と言う深刻な事実を
如実に示していると言わざるを得ません。十字架の認識とその実際的な
経験の欠如、それが今日見る一切の混乱の唯一の理由であると
極言できるのです。

3
ですから、他のキリスト者と集まる時、私たちに何の意図もあるはずが
ありませんし、誰かが他の人を「仕切る」ことなどあり得ません。何故なら
一人一人の意図は、遅くも集会所の入り口で総て「神の呪いの故に」木に
釘付けられてしまうからです。
ですから、集まりの中、私達が感じることはただ「復活のキリストよ、
これはあなたの教会・エクレシアです。少なくもこの2、3人は
その一部です。ですから、この集まりの一切は総てあなたのものです。
そうです、この集まりの総責任者はただあなた・キリストです。ですから、
この集まりの始めから終わりまで、一切をあなたが取り仕切って下さい」
なのです。もしも真に「その祈りの心」が私たちにあるならば、初めて
聖霊は「キリストの意図」を集会に現されることが可能となるのです。
その時こそ、人の汗と肉に全く無縁な復活のキリストの意図がその小さな
集まりの中で、生ける言葉として一人一人に明確に、タイムリーに
表れされることが期待できるのです。

ただ今生きている復活のキリスト御自身によって、今日のための
「キリストの意図」を集まりの中で各人に明瞭に表現していただく、
これのみが私たちが集まる目当てであります。

2009年3月14日土曜日

喜びのメール

兄弟姉妹の皆様
千葉市のNです。夜分遅くに失礼いたします。

報告があります。
本日ただいま、О君が、イエス様を心に受け入れると
意思表示を致しました。
今О君は私と共に、主を受け入れる祈りをささげました。
私の心はうれしくて仕方ありません。洗礼者ヨハネの
心境とはこのようなものかと、感じているしだいです。
取り急ぎ、報告までに。
栄光在主 N.T.

*
この日 千葉市で第一回目の小さな集まりがありました。
従ってこのメールはその夜の出来事なのでしょう。

2009年3月11日水曜日

あるメール交換から

O兄弟:
使徒の働き14章19~20節を読みました:
私の場合、パウロと同じようなことはまだ兆候も見えません。
時は神様のものですが、それと同時に「このこと」が神様から来たもの
なのか、自分の大脳の中の働きによるものなのかは識別できないので、
どうなるのか期待だけしています。主からのものであるならば
成就するように、とそれだけを祈りました。

*
Sugar:
兄弟は確かに「現在の時代における最も重要なポイント」を
探っておられると知り感動させられました。
そうです、現在私達の間でも、パウロの時代と「同質のもの」が、
私達の周辺にも日常的に起こって来ないとすればそれは
どこか私たちが間違っているに違いないのです、スケールの差は
やむを得ないとしても・・。それとも「聖霊の質」が今日では
低劣化してしまったのでしょうか!?

「神様から来たものかどうか」の見極め:
これが正に今日、キリスト者の間で大混乱を呈しているものです。
敢えて言えば、サッパリ検討が付かないのです。もっと言えば
今日行われているものは大部分聖霊でない「ある霊」が行っている
とさえ言えると思います。これは明らかに極めて深刻な事態です。

かの日「地上で私が行ったことが総て、全く聖霊とは無関係であった」
と言う悲劇にだけは決して遭遇したくはない、と心から思うのです。

*
O兄弟:
メールを感謝します。
今、退院後の検査から帰ってきました。
入院中、重症の心不全になり、肺に水がたまって、深呼吸しようと
しても少ししか空気が入らないような時もありましたが、
今日の検査結果は、だいぶ良くなり、肺の水は全くなく、心不全も
軽度となり、家の周囲を散歩してもよいことになりました。心電図も
心配なしとのことです。担当医からは「疲れたら休息をとれば
よいですよ。」ということでした、まだ、散歩距離は500m位ですけれど。
しかし、退院後今日までは、家から全く出れなかった
のですからとても嬉しいです。

ウォッチマン・ニーのコピーの<直覚>について読みました。
私の状態は「理解する」>>「知る」という状態だな、と思いました。
「知る」という体験も多くありますが、「魂によって理解する」
ということがはるかに多かったな、と思います。
・・・報告と感謝まで。

☆
注釈:
少し詳しく述べると次のようになります。
聖書で「知る」とは神の啓示から、霊の中で聖霊によって神の御旨を
知ることです。この時点においては思い・頭脳の関与は全くありません。
それには一方的な神からの啓示を待たねばなりません。
次に一定時間を費やして、或いは瞬時に、直覚を通して「知った」
内容を思いを用いて理解するのです。
換言すれば、直覚によって「知った」ことを、次に思いを用いて
理解、確認するのです。この段階に至ってキリスト者は初めて他人に
説明も出来るのです。(だから思いは極めて大切です)しかし霊の中で
「知る」があって、次に初めて思いを用いてそれを理解出来るのです。
先ず「知る」がなければ「理解する」はあり得ません。この優先順序は
動かし得ないものです。あくまで霊の中の直覚が主導なのです。
繰り返しますが、それ故に啓示によって「知って」はいるが、その人自身
まだそれが何のことなのか理解出来ないし、人に説明も出来ない
と言うことはあり得ることなのです。

2009年3月7日土曜日

ただ神の祝福さえあれば

総ては、神の祝福にかかっています。

それがなければ、何もないでしょう。

そしてその祝福は ただ真実な交わりと十字架の実際

から来るのです。

最上の方法も その二つと比べるならば、

全く何ものでもありません。

今日、そのような交わりを下さった主に

ただハレルヤ。

2009年3月6日金曜日

ある兄弟へのメールから 3

インターネットで広告を一瞥しただけですが
兄弟が疑問を持たれたと言われる「レフトビハインド」は
人の頭とコマーシャリズムから出てきた単なるフィクション
ではないのですか。

それにしても現代アメリカ流のセンセイショナルなものに、
たやすく踊らされてしまう風潮に深い憂いを覚えます。
そう言うやり方は決して神の方法ではありません。

そうではなく、私たちは注意深い御ことばの学びと
内なる聖霊の細き声から(油塗りの教えから)一人一人が、
明確に主の導きを受けるべきです。その為には、
私達にとって十字架の学びは欠かせないものとなります。

十字架は私達を聖霊に導き、聖霊は十字架に導くのです。
キリストの十字架を経過しない、ダイレクトな、人の魂にじかに
触れに来て、人の情感を掻き立てようとする多くの企てが
今日の特徴であり、この傾向はこれから益々、いわゆる
キリスト者達をさえ大いに惑わすことでしょう。
新約聖書の預言によれば、この潮流は防ぎようのないもの
であると私は考えております。

啓示は、キリストの復活と御座を経由して初めて
私たちに到達するものですから
私たちも先ずは、十字架の死の経験を通らせられるために、
日夜さまざまな「死の環境」が神によって私達の為に
許されているのではないでしょうか。

*
今日は終日 雨のようです。

2009年3月5日木曜日

ある兄弟へのメールから 2

今のところ次のように考えております。率直に書きます。

肉や「生まれながらの私達の本質そのもの」が「よくなる」こと等
期待できません。しかし、もしも私達の「肉・魂への認識」が真に
深まるならば、肉・魂が起き上がろうとする様な小さな兆しにさえ、
キリスト者は極めて敏感に反応するようになります。(その点からこそ
相違が生じるのです。)

その様な時、その人には(自分の決意を固めて肉に勝利しようとして
奮闘することなど最早なく)「あわてて直ちに」自分の
魂・肉を「キリストと私の共同の死という十字架」に
持って行くしか他に方法がなくなるのです。それは、おのれに関する
真の「知識」とその人の幾多の失敗体験から来る、
自分に対する一種の「恐怖反応」と言ってもよいものでしょう。

今理解の為に、敢えて「あわてて」とか「恐怖反応」などと言う強い
言葉を用いましたが、自分の肉を十字架にもたらす行為やその結果
その人に現れる振る舞いは、実際には他の人に不自然で大げさな印象を
与えることはないでしょう。その人の真の認識の故に、それらは
ごく自然に(多くは無意識的に、或いは内的に)行われる筈です。

(その様な時、或いはその後、十字架、即ち完全な死の向こう側に
おいてキリストの復活現象が現れます。しかし、キリストの復活現象は
夜明け前、あのマリヤにだけ現れたように、決して広く世間の耳目に
知られることはありません。)

この様な事は「いわゆる霊的知識」だけでは決して体得出来る
ものではないと思います。再度言いますが神の目から見て、決して
「天然の人」自体がよくなって行くことはないのです。

「生まれながらの人間」を改善する、これは何と「全能の神」にさえ
不可能なことでした!それ故、その神の唯一の決断は「神のあの行為」
「人」を全面的に徹底的に廃棄する、に至らざるを得なかったのです。

あるキリスト者達は「造り変えられる」と言う真理に関して
大きな誤解をしていると私は考えております。その誤解から、
他人と比較した落胆或いは不遜が生じて来るのではないでしょうか。
その落胆や不遜こそ、正に己なのです。

どんな人であっても、その正体は神に呪われた墓の下の腐乱死体
に過ぎないことを私達は決して忘れてはなりません。
だから自分の実態を真に見た人に、他人と比べた「うぬぼれ」など
あろう筈がないのです。ある腐乱死体が他の腐乱死体に
どんな自慢をするのでしょうか!

よく私を含め、キリスト者は自分の中に、ある変化を感じる時に
たやすく「もしかして私は霊的になったのかな」等と、と錯覚しがち
ですが、それは多くの場合「自分の肉・魂の正体を神によって
まだ見せられていない」明確な証拠に過ぎません。

いわゆる霊の切り分けは、魂側からの切り分け、即ち
「自分の魂の正体への深刻な認識」からもたらされるものでもある、
と私は思っております。

☆
これから下山です。雪の林に朝の光が輝いています。

2009年3月4日水曜日

ある兄弟へのメールから

聖書の総ての真理に接する時、私達は絶対的に「遠近法」を
間違えてはなりません。焦点はただ生けるキリストです。
それも復活され、キリスト者と一つとなられた「今日のキリスト」です。
もしもそのキリストへのフォーカスが正当に行われるならば 
もろもろの他の真理は必要に応じ、適宜神によって開かれるでしょう。

とは言え今、神の目は「キリストの再臨」に向かっていることは
明らかです。近い将来、今第三の天の御座におられるキリストが、
外的に目に見える形で、全世界に臨もうとしております。
それは天と宇宙に時代の転換をもたらすでしょう。

更に、その天から地への外的なキリストの出現は、私達の日常に
おける私達の内面からの目に見えないキリストの出現(私達の肉体から
この時空・私達の環境へのキリストの出現)と必ず呼応するものであると
私は信じます。即ちそれは、キリストと反キリストの外的な動向を
私達の内的な動向から知ることが出来る、と言うことです。
ですから、破滅が突然私たちを襲うことなどあり得ません。

☆
明白に神が働かれようとするとき、神の敵は密かに、
キリストの背後から、彼の御からだ、足のかかとに攻撃を加えます。
これは真に必然です。どうか今、兄弟が、ただ神の言葉を信仰によって
摂られ、その真理(敵の頭が砕かれたこと)を敵の眼前に
「かざされる」ようにと願ってやみません。

2009年3月3日火曜日

マルシアから、そのほか

こんにちは、
皆さんお元気でしょうか?
愛莉が1ヵ月半になり、元気に成長しています。1ヶ月検診では
生まれたときと比べ、1キロ増加し、2cmも伸びていました。
今、成長の過程によく見られる乳児湿疹が出てきたので、
顔がぶつぶつです。
ちょっとの間、可愛い顔をお見せできないのが残念です。

まだまだ授乳回数が多く、1日があっと言う間に過ぎてしまうような
感じですが、このところ私に心の余裕が出てきたような気がします。


Sugar:
私では難しいと思っていた赤ちゃんの写真を載せられたのは
ある方の御好意があったから。
ところで近いうち、松戸までほんものの愛莉ちゃんを
見に行くことになりそうですよ。
皆さん、有難う。

*
あさって下山です。10日間くらいは下にいるでしょう。
今はまだよい天気ですが、これから数日あまりパッとしない予報です。
でもこれも暖かい春へのきざし、どこか嬉しいですね。

*
今日とあす、壁に石膏ボードをはります。
居間の西面は野地板の縦張りと決めているのですが、
それは後になるでしょう。
この小屋、何と17、8年もかかってようやく今、お化粧段階に到達した
と言うところなのでしょうか。こんなの、他ではめったに聞かない話です。
しかしこのお化粧時間も、またまた相当長いものとなるでしょう。

*
この間(カン)電話で、あの野田の高山家のお爺さんの情報が入りました。
高山姉妹からですが、お父さんは腎臓の機能が正常値のわずか
2%しかない。透析が絶対必要なのだが、弱い心臓の為にそれは不可能。
それでも、今お医者さんが不思議がるくらい食欲は旺盛で、
すこぶる元気な93歳なのです、との姉妹のお話でした。
とは言え、こういうお父さんのケア等で大変な日々には違いなく、ただ
聖霊に従うことをしっかり学んで行きたいと言う高山姉妹でした。

もう一つの姉妹からの情報:
あの有名な三春の滝桜を全国から押し寄せる人の波をのがれて
鑑賞する方法とは、早朝4時ころ出かけること。
「なるほどなるほど、地元の強みでそれが出来るか。
じゃー今年は出不精の私も行って見ようかな。」
高山姉妹は三春が田舎なのです。
 

2009年3月1日日曜日

大村兄弟から

主の御名を崇め賛美します。
菅原兄弟
お祈り、御配慮を心より感謝します。

入院中は、娘に頼んで兄弟にメールをしてもらいました。

2月28日に少し無理を言って退院しました。
ただし、自己管理のもと自宅療養をしながら仕事をするというものです。
担当医からは、医学的には、再度心筋梗塞を起こした場合には
死ぬ可能性が大きいということでした。また、心不全をとても
起こしやすいのでその場合にも死の危険があるというものです。
その理由は、心筋細胞がかなり死滅しているからです。現在、
私は200m位はゆっくりと歩くことができます。自宅で寝たり
起きたりしながら仕事をする分には何ら問題がないと思っています。
首から上は元気なのですが、首から下の不具合に合わせて
生活する必要があるという状態です。

それにしてもお顔を拝見したことのない兄弟姉妹にもお祈り
いただきそれゆえに、兄弟姉妹お一人ひとりのうちに働く主の働きに
感動しています。ありがとうございました。
主にあって感謝しつつご祝福をお祈りいたします。

大村富栄

☆
「キリストの再臨へと向かうこれからの神の大きな御旨」が
それを成就させる一点一点の進行において、
この私達の時代の只中で、
それらが神の敵によって決して遅れさせられることなく
速やかに成就されますように。

その御旨と絶対に無関係であるはずがない
大村兄弟のこれからの生涯の歩みの一こま一こまが 
その御旨の中、聖霊によって永遠の価値を有し
復活されたキリストの溢れる命を
この地上に流すものとされますように。
そのために、兄弟のお体と、そして御家族の必要が
ことごとく完全に満たされますように、
と祈ります。

主イエスよ、来たりませ!

2009年2月28日土曜日

よきサイト発見

例の青年が紹介して下さったのです:
「ジェシー・ペン-ルイス、ガイオン夫人、マーレー
等の著作が日本語で読めるサイトです。」
http://nakamurafamily.net/library/
から開始。

*
彼らは、私達に正しく真理を告げていることでしょうが、
それ以上に、それらの言葉の多くがイエスによって
死の水から変えられたよぶきどう酒の「純度」
を保有している所に価値があるのです。
しかし
「この世界と人の能力、その汗と熱」から「切り離された」
彼らの言葉が今、多くのキリスト者達の視界から
遮断されている事実は何たる悲劇でしょう。

今日大村兄弟が退院する!

昨晩、有季さんからのメールです。

****
菅原さま
今日は横浜でも雪がちらつく寒い一日でした。
身を強張らせる寒さの中、神様は暖かい知らせを送ってくださいました!
父が明日の午前中に退院することになりました!!

多くの兄弟姉妹の熱く、そして温かいお祈りをいただき、
術後の回復も驚異的なほどに順調でした。
手術した次の日には、入院期間中ずっと外すことができなかった点滴と
モニタリングされている心電図が外れ、少し長めの歩行訓練、
階段の昇降訓練が行われました。
本日は、治療も特に行われなかったとのことです。

「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ」と聖書にはありますが、
私には今回のことが大きすぎて、主のすばらしさのごくごく
一部しか味わえていないように思います。

このたびの父のことを通して、私も菅原さまと主にあるお交わりを
させていただき、また、菅原さまを通して多くの主にある兄弟姉妹に
お祈りしていただき、神様のなさることは実に奇しく、人の思いを
はるかに超えていらっしゃることか、とただただ驚きとともに、
神様に感謝するばかりです。

これから時間をかけて神様のすばらしさを十分に味わい、
見つめることがゆるされるよう求めつつ、
一つ一つ感謝していきたいと思います。

あまりにも興奮しているために、文章がまとまりません。
父からもご連絡させていただきますが、
取り急ぎ心からの感謝とともにご報告いたします。

菅原さまと主にある多くの兄弟姉妹のお祈りに感謝しつつ、
神様からの豊かな豊かな祝福が注がれますよう
お祈りさせていただきます。
主にありて

大村 有季

2009年2月27日金曜日

「霊の人」と言う本

ある青年:
本は「見事に」本棚にありました。
その中で、第一巻 第二部の(3)十字架と聖霊、が
目に止まったので読んでみました。

はじめの私の思いは「あれ、俺は聖書と言うか、実際の歩み方
において相当な勘違いをしていたなあ」という示しとでも
言うのか、啓示とでも言うのか、とにかく「あれ、そうだったの」
てな感じでした。
ただもちろん総てを理解できたわけではありません。しかし少しずつ
今までの歩み方が是正されていくだろう、と言う感じを受けたのです。

何とこの本はその小項目一つ一つでも完結しています。これは
確かにこの本の一つの部分が全体であり全体が部分なので、
ゆっくりと読み続けて行く間に、聖霊が少しずつ真理を開いて
行ってくれるような気がしております。
それも当然、日常生活の中での経験とおり混ぜながらでしょう。
聖霊の導きに合わせて読んで行きたいと思っています。

また、第三巻の「思い」の項に私の長年の問題の答が
あったことは感謝です。

Sugar:
とてもアーメンです。
あなたがこの間言われた「この本の著者とゆったり対話する
積もりで、或いは一人の兄弟と交わりをし続ける積もりで
読んで見ます」と言う言葉は確かにその通りだと思います。
聖書を読む時も同じなのですが、この本を読破してやろうとか、
人に先んじて理解して人々に尊敬されようとか、
「霊的成長」を速やかに達成してしまおうとかと言う読み方は
むしろ敵の介入を招く原因になるでしょう。そのようにして
この本は 幾多のとんでもない誤解を受けて来たのです。

読書の目的とは:
「私達普通のキリスト者」が
「神の真理を真に見、経験し、実際的にこの時空の中に、
今は見えないキリスト御自身の現象を日常的に現し出すようになる」
こと以外にはあり得ない筈です。

2009年2月26日木曜日

有季姉妹から、そのファイルです

下記は、発作が起こった時から、CCUでの治療、また祈りについて、
父が病床で自分の携帯電話から自分のパソコンに分割してメールで
送信したものを一つのファイルにまとめたものです。

*******
2月7日土曜日午後8時ロイス(犬)の散歩から帰宅してロイスの足を
洗い始めたところ胸の重苦しさを感じ始めた。ロイスの足を洗うのに
大した時間を必要としないが、ロイスの足を洗って家に入る頃には
胸の痛みが激しく二の腕の痺れがひどくなった。ひどい狭心症か
心筋梗塞の発症であろうと想像した。脈をみると緊実である。
漢方では激しい疼痛に見舞われたときに現れる脈の一つである。
しかしその後脈は沈遅微弱に変わった。胸部の痛みは益々激しく
その痛みは形容し難い。両腕は全体的に痺れている。
ブクリョウシギャクトウを服用しニトロダームを貼った
(ニトログリセリン舌下錠を探したが見つからなかった故)。しかし、
好転せず痛みは悪化していく。薬で治せる病態ではない。
緊急を要する状態である。急いで妻のいる二階へ行き、もう一度脈を
確認したらもう脈はかすかに触れる程度となっていた。妻に客観的に
理解してもらうためテーブルの近くにあった手首で測る血圧計で
計って見せた。ショック状態のように低下しているようで最高血圧が
50になってもまだ数値が出なかった、と妻は後で教えてくれた。
妻には電話で救急車を依頼してもらい、私は救急隊員にすぐに
搬送してもらうために一階の玄関のところに行こうと思った。

しかし、意識がはっきりしていたのはこのあたり迄であった
ということを後で娘から聞いた。私が二階のエレベータの前に
立っているところに娘が来たそうである。その時、娘の見た光景は、
私がエレベータのボタンの前で手と体を震わせ左手で胸を叩いて
いたとのことです。私は自分でエレベータのボタンを押しエレベータに
乗ったと思ったがそうではなかったのである。そうすると犬を家に
入れてからエレベータの前で意識を失うまでは
3-4分位のことであったと思う。

さて、エレベータの前で私が意識を失っていた時何が行われていたのか。
これも聞いた話であるが、妻は消防署との話、娘は私の体を支えて
いる時に主イエスから「祈りなさい」というみ声を聞き、声を出して
「お父さんを強めてください。」と祈ったというのです。
私には娘が祈った記憶はありません。ただエレベータの中で足に力が
入って自分で立っているという感覚は覚えています。その時娘は
何で私を支えているのだろう?と不思議で、お父さんは自分で
立っていられるよ、という意味のことを言ったことを覚えています。

娘の話を聞き、恐れを感じた。
自分で何かをしていると思ってもそれは他の人の祈りによる答えである
場合があるということを如実に体験したのである。今までは知識として
であったが。これと同じことは今までどれだけあったのか?霊的知覚の
鈍さ故…ただただ低くさせていただくのみである。

私は、エレベータからでて救急車が来る迄玄関の前の廊下に横になった。
玄関の前に横になり痛みの為に唸っていた。救急車が到着し救急隊員が
自分で動けますか?と聞いてきたがその時には自分の体を自分では
動かせなくなっていた。只唸っているだけである。息を吸い、
息を吐くときに「主よ」と主の御名を呼ぶことを痛みが軽くなるまで
続けていた。聖書に「主の御名を呼ぶ者は誰でも救われるのです。」
「主に信頼する者は失望させられることがありません。」とあるからです。

救急車に乗ってから出発するのに30-40分位かかったそうですが私には
15分位にしか感じられませんでした。どうやらちょくちょく意識が
遠のいていたようです。救急隊員の人が頻繁に「声が聞こえますか?」
とか「しっかりしてください」みたいなことを語りかけてくるのです。
あとになって意識が時々途切れていたのだなと理解しました。
相変わらず胸部の疼痛は激甚です。呼吸と共に祈りは意識があっても
なくても続いていたようである。救急車が走り始めたらあっという間に
ついてしまった。瀬谷から浦舟なのであっという間に到着するはずは
ないのである。妻の話では救急車はかなり揺れたとのことであるが、
私にはゆりかごの中にいるようで気持ちよくゆらゆらしている
ようであった。胸の疼痛は強いが痛みとはまた分離した感覚である。
生死の境をさ迷っているのに、痛みは激しくても死の不安を感じない。
かえってイエスさまから永遠の命を与えられていることを感謝した。

病院に到着した。イエス様が迎えに来ない。
まだ地上にいるのかな?と思った。
救急車が病院に到着した。
直ちに治療が始まった。相変わらずイエスさまは迎えに来ない。

治療している医師たちの話声が聞こえる。「うわー、太い血管だ」
右側が太くて長い。話し声からすると何か大変そう。
相変わらず私は胸部疼痛激甚の為「主よ」と唸っていた。
治療開始からどのくらいたったのかわからないが22:00頃には痛みが
大分減少してきた。妻のことが心配になった。きっと動悸がひどいに
違いない。妻はバセドー病だから死ぬときは心不全のことが多い。
治療を受けながら妻のことを祈り続けた。治療が終わりCCUに移動した
頃には痛みはなくなって胸部の圧迫感のみとなっていた。
CCUへ移動する途中、医師の会話が聞こえた。
「この人は○○先生の友人のお父さんで薬剤師なんだ。」
息子が、横浜市立大医学部時代の同級生に連絡をとってくれていた
のである。息子の出身校の附属病院であったので医師や看護師は
とてもよくしてくれた。病棟の教授までお話ししに来られた。

CCU2日目
担当医や看護師たちは頻繁に心電図をとりに来、胸部の疼痛はどうか、
圧迫感はどうかとしつこく尋ねる。先生の説明を聞くとそれもそのはずで
心筋は広範囲に壊死し、左側の環状動脈には90%詰まっている
ところがあり、そこが詰まったら死んでしまうということでとても
気をつかっているということです。今の状態でも排便の時にいきんだら
心筋の壊死で心臓の筋肉が薄くなっているので心臓が破裂する
場合があるというのです。

さて、無事3日目に入ってCCUから一般病棟に移ることが出来ました。
その翌日200mの歩行テストを受けて無事通過したのです。これに
合格しないと自分でトイレに行くことができません。

*
さて、問題は翌翌日から起こり始めました。心不全を併発したのです。
肺に水が溜まり、深呼吸をしても空気が少ししか入って行かないのです。
この時から毎日胸部のレントゲンをとり、一回はCTをとるということで
毎日放射線被爆です。利尿剤を二種類内服してもお小水は増えません。
それゆえ利尿剤の内服を続けながらさらに利尿剤の静脈注射を
併用しました。対象療法ですが一週間で肺に溜まっていた水は
無くなりました。しかし、この治療をしないとまた溜まるかもしれません。
25日には90%詰まっているところを治療します。それ以外にも四ヶ所
ボロボロのところがあるのだけれどそれは治療不可能とのことです。

<祈りについて>
(ローマ8:34)「よみがえられた…キリスト・イエスが、神の右の座に着き、
私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
(エペソ2:6)「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、
ともに天の所にすわらせてくださいました。」
(コロ3:3)「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、
キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」

今回の入院で横浜シオンの兄姉やシオン・キリスト教団の兄姉方、
イムマヌエルの知り合いの教職や信徒、大村塾のクリスチャンの塾生や
その兄姉方の所属している教会の兄姉方、メールで恵みの分かち合いを
している兄弟と私の会ったこともないその兄弟の知り合い多数。
なんと多くの兄姉方に祈られていることだろう。キリストがキリストに
ある兄姉方のうちに働いて祈りを導いていかれる。目には見えない
けれどもキリストのからだのキリストの愛による有機的働きの
素晴らしさに驚嘆する。

私は、自分自身に対しては、良くなるようにとか癒されるようにとか
祈っていなかった。「生きることはキリスト、死ぬことは益」、
私はどちらでも良かった。妻がとても具合が悪そうだったので
「よく休んで元気になって」と言ったら「富栄が元気になることが
私の元気につながる」と言うのでそれはもっともだと思い、自分自身で
元気になるようにと祈ったらどうも霊的に調子が悪い。自分のことは
いつも主に委ねてあるので、それによっていつも主との間が具合が
良いのに自分の肉の思いで祈り始めたことにより、霊調を崩してしまった。
それでまた、癒しについては祈らなくなった。
癒しについては多くの兄姉方が祈っている。

「キリストとともに死に、キリストとともによみがえらせられた」
(コロ3:1-3)私。主の用意してくださっておられる恵みの素晴らしさ。
主は一人一人にそれぞれ祈りのことばを与えているのでしょう。
キリストは天にいる、同時に私の内にも兄姉の内にもいる。
私たちキリスト者はキリストと共に天の所に座している。
「(御)霊によって祈りなさい」
「私たちには、キリストの思いがある」
「キリストは私たちに志を立てさせ、事を行わせてくださる」
キリストは、祈りの思いを一人一人に与え、祈らせてくださる。
しかも、キリストと共に。霊の世界は見えないけれど、
御言葉はそのように語っているとすると、
私たちの霊の活動の範囲の何と広いことか。

****

吉報!有季姉妹から

菅原さま

主の御名を心から賛美します。
父のこと、心に深く留めて、お祈りしてくださり、
ありがとうございます。
そして、私のメールをブログに載せていただき、主にある
多くの兄弟姉妹から神様にお祈りを届けていただいて
ありがとうございます!

多くの兄弟姉妹のお祈りに支えられ、父だけでなく、
母も私も強められ、一日一日を過ごさせていただいていること、
神様のすばらしさをただただ感謝するばかりです。
お祈りしてくださった兄弟姉妹お一人お一人に神様からの溢れる
ばかりの豊かな祝福が注がれますようお祈りいたします。

本日、父の容態が落ち着いていたので、予定通り狭窄していた
血管のステント拡張術が行われました。
拡張術は二時間かかりましたが、元気に病室に戻って来ました。
今までも、主の平安に満たされ、穏やかな表情をしていましたが、
今日の術後では、父の表情から、苦しさ、というか痛みを堪えて
いるような様子が消えており、また、深呼吸ができるようになった
とのことです。さらに、前回の心筋梗塞で視力がだいぶ落ちて
しまったのですが、血の巡りがよくなって、
視力が回復しつつあるとのことでした。

このまま順調に経過していけば、今週末には退院も
可能であるとのことでした。
引き続き回復のためにお祈りいただけますと幸いです。

*
前回のメールで、父が病床で倒れた時のことなどを
まとめている話をさせていただきました。
父に菅原さまとのメールでのお交わりやブログに載せてお祈り
いただいていることなどを話したところ、まとめたものを読んで
いただきたいとのことでした。

このメールにMS Word 2003ファイルを添付させていただきます。
ファイルが開かないなど何か不具合がありましたら、ご連絡ください。
お送りしているファイルは、父の携帯電話から自分のパソコンに
分割してメールを送っているものを私が一つのファイルにまとめた
ものです。文章が前後していたり、つながっていないことも
あるかもしれませんが、ご了承くださいませ。

主ゆるしたまわば、次のメールは父から菅原さまに
お送りできることを祈りつつ。
主にありて

大村 有季

2009年2月25日水曜日

純度の高い言葉

私たちは純度の高い言葉を語らなければなりません。
何と私の言葉は純度が低く、混ざり物が多いことでしょう。
私達に神の言葉や神の力が無いのではありません。
しかし最も大切なものが欠落しているのです。
それは私の言葉の純度です。

聖書の言葉はなぜ時を超え、空間を超えて常に新鮮な様で必要な
人に届くのでしょうか。それはその一字一句の純度が極めて
高いからです。その一字一句の内容は完全に聖霊そのものです。
聖霊と聞くとき私たちはその極めて高い純度を感じるのです。
その純度の極限的な高さのゆえに聖霊は神の御心を完全に達成
し得るのです。これこそ今日の神の働きの方法です。

サタンと人の方法はおおむね勢いやパワーを多用します。しかし、
神が私に要求するものは、諸々の強力なパワーよりも純粋さです。
光ほど純度の高いものは他にありません。もしも私の言葉の純度が
高ければ、たとえ私の力が「微弱」であったとしても地球にいる
人間の目にさえ届く億万年光年かなたの星の光のように、私の
光を帯びた小さな言葉はいずれ必ずターゲットに達し、それは
神によってさえ真の働きとして数えられるでしょう。

純度の高い言葉を発するには、絶対的に「私自身そのもの」の
純度が高くなければなりません。そして私自身の純度を得るには
私があのキリストの十字架の不純物除去の作用を
いただく以外に他の方法はありません。

しかしそれは、私への十字架の除去の力の作用の適用によって
「私に付着した神にふさわしくないもの」を一つ一つ「捨て去る」
と言う私の実際的な意志の発動と私の行為をも要求するのです。
これは必ず大きなテストとなります。しかしただ私の「意志の発動」
と十字架への信頼があって、初めて除去の力は私に作用し、
ちょうどその分だけ私の純度は高くされるのではないでしょうか。

これが今朝、私が語られたことばです。

2009年2月22日日曜日

再度緊急な祈りのお願い

シュガー様
先日はメールをいただきありがとうございました。
少しご無沙汰しておりました。

主にある多くの兄弟姉妹のお祈りのおかげで
父も今日まで守られています。
祈りに支えられ、父は精神的に大変安定しており、
病院へ行くと、明るくたわいない話をします。
病床で時間をもてあまし気味なので、倒れた時のことなどを
文章にしてまとめたり、同室の方とおしゃべりしたりしています。

本日は、お祈りに覚えていただけたらと思い、
メールさせていただきました。
今週の水曜日(2/25)に、もう一つの狭窄している血管の
ステント拡張術を行います。
現在、心不全をおこして、肺に水が溜まっているため、容態をみて
行われる予定ですが、主の最善の時に最善のことがなされますよう
お祈りいただけますと幸いです。

寒暖の差が激しい今日この頃ですので、シュガー様もお体どうぞ
ご自愛くださいませ。
主にありて。
有季

2009年2月21日土曜日

今度こそパソコンが直りました

柏の修理屋さんが私のpcに移植手術でもしたのかな、とにかく
直りましたよ。反応が格段に早くなり、パソコンがグンと若返った
感じです。少しお金はかかったけれど、まあよかったかなと
思っております。

明日、山です。今回は少し頑張って小屋の床と壁を貼る積もりです。
以前から壁は断然漆喰と決めていたのですが、あちこちの漆喰を観察して
見ると、漆喰や人気の珪藻土も思ったほどキレイでないなー、
と感じたのです。下手をすると塗り壁はうす汚くなってしまう恐れさえある。
それよりも杉の板を縦張りにしてペンキを塗る方が私好みに合うし、第一
工事が比較にならないほど楽なのです。それで今日、ホンダへ行って
日本では一番安い無垢の板・ノジ板を買って来ます。
リチギな日本の大工さんは、野地板など畳の下材などにしか使わない。
人目に触れる場所にこれを使うことは絶対に無いのではないか。
みっともないし?フシが至る所にある。乾燥が十分でないから後で
どうしても隙間が出来てしまう。しかし、野地板はとにかく安いのです。
山小屋だから隙間やフシももいい味になるだろうと私は踏んでいるのです。

アンクルウエート、やってますよ。最初は片方0.5キロでしたが
昨日から1キロにしました。片足1キロとなると実にズッシリ来ます。
計2キロなのですが、2キロ体重が増えた場合はこんな実感は絶対に
無いでしょう。この両者の感覚の差は著しい。これは当たり前と言えば
当たり前ですが、私達は体重が3キロ増えたとか何とかと平気で
言っている。しかしそれは大変なことですよ。なにしろ24時間3キロの
ウエートを身につけて動き回っていることになるのですから。その差は
いつの間にか3キロ増えるのと急に3キロ増えるのとの
違いなのでしょうが・・。とにかくことウエートに限らず
「いつの間にか」と言うのは恐ろしい。

2009年2月13日金曜日

今日下山します

パソコンについて:
先回の更新後、案の定やはり我がパソコンは完全にダウン、即ち
死に体状態になってしまいました。当然メールもだめでした。それで
私も全くあきらめてしまったのですが、今日になってこれから下山する
にさいして試しにオンにして見たところ、この通り何とか動くのです。

それでもやはりこれは時間の問題であることは明らかです。
出来れば、今日中に柏の修理屋さんに持って行きたいと思っております。
これは「或るディスクがあれば、治るかも知れない」と言う修理屋さんの
言葉にすがって最後の賭けをする、と言うことでしょうね。
と言うわけで、次回のブログ更新はいつになるのでしょうか。
*
さて、霊的な領域のことに一言触れるならば:
今主は明らかにある新しい段階へと進みつつあるように思われます。
当然神の業はキリストにおいて二千年前に完成しております。
今神が事を進められると言うのは、その完成された御業に基づき、
神の命を所有する稀有な人々(即ち真のキリスト者)を神が
取り扱われることに関してです。

今私達は、聖霊がキリスト者の「霊の中の直覚」を通してなされる
聖霊のデリケートな語りかけにとても敏感にならなければなりません。
(直覚とは神の油塗りが個人個人のキリスト者に教える場所です。)それが
「目を覚ましているように」と言う御言葉の意味であろうと思われます。

もしそうでなければ、私達は必ず乗り遅れるでしょう。(たとえ
「次の時代」には乗車するとしても)それはキリスト者を無感覚の
心地よい眠りに誘いこむ多くの強力な力が日に日に増し加わって
いるからです。それに抗するのは容易なことではありません。
それには神の大きな憐れみが(或いは切実な人の願いが)
どうしても必要とされることでしょう。

その主の業は必ずある隠れた方法で実行される筈です。
(ですから人の覚醒と探し出す意欲が必要なのです。)一世紀から今日に
至るまで「その主の業の流れ」は決して途絶えたことはありません。
それは黙示録を見る時、あの暗黒の時代においてさえ「勝利者」が存在して
いた事実を知れば明らかです。私達の深い感覚は「その流れが今日一体
どこにあるのか」を感知出来るほどまでに敏感でなければなりません。

今日この日、実行的に私達がもしも「あの龍」を足の下にしていなければ、
いずれキリスト者と言えども必ず実際的にあの龍の無慈悲で残酷な迫害に
遭遇するでしょう。そうであってほしいと言う思いがないではありませんが、
残念ながら?艱難の時代の前に全キリスト者がある日、自動的に
無意識的にのん気に空中に携え上げられる等ということは
決してあり得ません。(携挙には幾つかの段階があるからです)
これがキリスト者に対する新約聖書の明確な警告です。

私達が相手にしているのは神です。神は神です。

2009年2月11日水曜日

今朝のパソコン

昨晩は案の定、あの後 ダウン。
それで今朝も当然ダウン状態に違いないとは思いつつ、
オンにしてみると、英語の説明が何だかんだと出て来る。
その通り様子を見ていると何と立ち上がったのです。
しかしその間、たっぷりと1時間。これじゃーね。

と言うわけでまたダウンが来る前に急いでこれを書いているのです。
今日はカナからの変換等は正常です。でもいつダウンになるかは
一寸先も分かりません。これからメールへのレスをするつもりですが
中途半端になってしまう可能性が大です。その時はごめんなさい。

それにしても今回分かりましたよ。
ヤッパリ私にはこの小屋とパソコンは必要なのだ、と。
ですから、このパソコンがもし寿命だと分かったら、新しい
ノートパソコンを購入しようと思っております。

☆
今朝のカリマン、エも言われない美しさです。
もう春ですねー、等と言っているとあした真冬が来たりして。

2009年2月10日火曜日

小屋に着きました

暖かい雨です。福島路、雪はどこにも殆ど見えません。
それでも道程最後の小屋へと至る「ロイヤルロード」は
しっかり雪の道でした。
さすが阿武隈の奥の細道カリマンです。

今回はパソコンを治すためのディスクを取りに
はるばる来たのです。
それでパソコン、この通り、何とか動くのですが、
その反応は極めて奇妙です。
それにしても、実家では完全ダウンなのに、ここでは少しは動く、
これもヘンなことです。と言うわけで、
せっかくいただいたメールへのレスも思うにまかせません。
これだけ書くのに30分はかかっているでしょう。
そろそろここでも完全ダウンなのかも知れませんよ。

帰るのは多分、あさってでしょうか。
訂正:14日下山にしました。

☆
続けて大村さんの為にお祈り下さい。
その後のことは分かっておりません。
主は分かっております。

2009年2月9日月曜日

大村兄弟の事など

先ずはパソコンについて、
昨晩のブログとメールは全く正常でした。
しかし今朝一番にもう既に異常が現れ始めております。
これまでの経過から判断するに、この更新を最後に、またまた
機能停止に陥る可能性が大いにあります。

修理屋さんは言います、何とかと言うディスクがあれば
治るかもしれない、と。そういうわけで、そのディスクを
取りにわざわざ小屋に行くことも今考えております。

もし機能停止になれば連絡は同番号のファックスか
電話しかありません。どうぞよろしくお願い致します。

☆
さて、
大村兄弟と御家族の為に続けて祈りたいと思います。
私のブログによくコメントを下さった「でもクリさん」が
実は大村兄弟です。薬関係の自営をなさっている方で、
今回の私の風邪についても適切なアドバイスをして下さったのです。

敵の一切の企ては2千年前に既に「最後のアダム」(イエス)の
肉において木(十字架)に釘付けられました。その事実を根拠に、
「この神の勝利の真理」が今、兄弟の病と大村家において
再現されますように!
ウソと小ざかしい知恵を用いて「神の選民」をさえ惑わそうとする
神の敵がこのたびの出来事によって大いに恥辱を受けますように!
だから今 キリストの御業の大岩のような堅固さと確実性に信頼し、
ただ神に賛美を捧げたいと思います。

2009年2月8日日曜日

21時54分、有季さんから

早速返信をいただきありがとうございました。
菅原様のメールを拝見し、大変心を強められ、
神様の臨在を覚えます。
私とは初めてメールさせていただいているのにもかかわらず、
主にある兄弟姉妹としてお交わりさせていただき
ありがとうございます。

夕方、病院へ行ったところ、
主に守られ、このような状態に置かれても
神様からの平安をいただいて病床についている父の姿を見て、
家族で通っている教会の方々が祈っていてくださることを
強く感じました。菅原様のブログに載せていただき、主にある
兄弟姉妹の方々にお祈りしていただけたら感謝です。

お言葉に甘えまして、父の病気の発生と現在の状況、および
問題を少しお話させていただきます。私は父とは違い、
医療従事者ではないので、話が分かりづらいと思いますが、
ご了承ください・・・

昨晩、胸の重苦しさと詰まる感じを訴え、血圧の急低下を伴った
ため、救急車を呼び、急性心筋梗塞として集中治療室での治療が
始まりました。狭窄していた血管は、心臓に栄養を送る太い血管であり、
そこにカテーテルでステントを挿入し、血管を拡張しました。

一命は取り留め、現在は容態が安定していますが、病院搬送までに
一時間強の時間を要したこと、また、大きな心筋梗塞であったことを
考慮すると、その間のダメージがどれほど心臓に影響を与えているのか
現在ではまだ分かっていないとのことです。
さらにもう一本狭窄している血管が発見され、そちらは、
昨晩行った治療の経過次第で、ステントを挿入して
血管を拡張する治療を行うとのことです。

病床では明るい声で、時に微笑んだ表情で会話をしておりましたが、
予断は赦さない状況にあります。主にある兄弟姉妹の方々に
お祈りしていただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
主にありて

大村 有季

緊急な祈りのお願い

今まで一度も会ったことさえないある兄弟(大村兄弟)と
今週お会いし、御交わりの機会を持つことになって
おりました。

ところが先ほど、メールを開いて見たら大変なことに
なっていたのです。そのメールは大村兄弟の娘さんからの
ものでした。以下は彼女の文面です。

*
菅原様
はじめまして。父の代わりに娘(有季)がメールを送付させて
いただいております。
昨日(7日)、父が急性心筋梗塞のために倒れ、一命は取り留めて
おりますが、現在集中治療室で治療を行っております。
そのため、菅原様にお会いすることになっておりましたが、
お約束が叶わぬ状況となってしまいました。
せっかくお時間を作っていただいたのに、大変申し訳ございません。
父も菅原様とお会いすることを大変楽しみにしておりました。
お祈りいただけますと感謝です。
取り急ぎご連絡させていただきました。
有季

*
有季様
了解しました。

大変なことになりましたね。
ゼヒ、祈らせていただきます。

私は何故か今
お父様は必ず、主の御こころの中にあることを
信じていることが不思議なのです。そして「神の」平安さえ覚えます。
一度もお会いしたこともないのにとても不思議です。
それはきっと私達(お父様、有季さん、私)の一つが
主イエスとの完全な一つの中にあるからでしょう。
それは神の一つです。

仮に神の敵が働らいたのだとしても
敵は神の御手の中の小さな存在に過ぎません。
キリストの復活は既に敵の死を粉砕したのです。

この度のお父様のことにおいて
ただ主の御業、復活の御業が現されますように、
と祈ります。

「私達の交わりは父、ならびに主イエスキリストとの交わりです。」
(Ⅰヨハネ1の3)

☆
多くのキリスト者達にも祈っていただくべく、
このことをブログに載せたいと思いますが・・

パソコンがまたまた変です!

本当に変です。
最初に現れたあの不調現象がパソコンにまたまた出現し、遂に
昨日機能停止になってしまったのです。この現象これで三度目です。
奇妙なのは修理屋さんに持って行くと、それだけで完全に
治ってしまうことです。しかし、それで「ああよかった」と、家に
持って帰るとまた数日でおかしくなってしまうというわけなのです。

ついさきほど、柏の修理屋さんから、勝手に治ってしまった
パソコンで今これをあわてて書いております。
と言うわけなので、我がパソコン、またまた変になる可能性が
大いにあると覚悟しなければなりません。

それで次の作業は、いただいたコメントやメールに返事を
書くということなのですが、
「パソコンよ、お願いだから
またおかしくなるのはどうか、その後にしておくれ。」

2009年2月6日金曜日

パソコンが本当に治った

長らくメールもブログも書かなかったのは
以下の二つの理由からでした。
①パソコンが動かなかったこと。
柏の修理屋さんに治してもらって1/15の最新の更新をしたら 
何とその直後すぐまた動かなくなってしまったのです。
更新するべくログインしようとすると、変な警告が貼りつき、
それがどうしても自力では除去できなかった、と言うことでした。

しかし、数日前メール機能は回復しました。
しかしブログは駄目、それもいつ治るのかトンと検討がつかない状況
だったのです。(山に戻ってイモクボさんに
お願いしないと駄目かな等、と)

②もう一つの理由は1/16以後
風邪をこじらせ、つい数日前まで寝ていたことです。
(仕事もない気楽な身、この際無理せず慎重にと言うことで・・)
でも体はもう大丈夫です。

それにしても67歳、健康には注意しなければなりませんね、
今回つくずくそう思いました。
これからは風邪をひかないように細心の注意をすること
と(数年ぶりの風邪でした)寄る年波に抗して
「体力の増強に努めなきゃ」等と思わされたのであります。
(それであの三浦雄一郎氏のまねをして、おととい足首に巻く
ウエイトを柏の東急ハンズに注文して来ましたよ。果たして
首尾はいかに!)

*
そして遂にとうとう
今日の午後、龍ヶ崎のパソコントラブル解決会社に来てもらって
目出度くブログも再開の運びとなったと言うわけなのです。

☆
このたびの病気等によって、私の内側にはっきりしたある変化が
あったように思われます。今後このブログにその変化はどんなふうに
現れるでしょうか。私にとってもそれは一つの楽しみです。

2009年1月15日木曜日

パソコンが治った

パソコンが不調になったのは10日くらい前でしょうか。
徐々に症状は悪化し、遂におととい?機能停止に至ったのです。
これは困った、あれやこれや考え、Kズ電気に行って見たら、
もう寿命だと思います、修理代は高いですよ、みたいなことまで言われ、
思いと感情が交差し、我が魂は散らかった部屋の様になってしまいました。
もうこれは買い替えは避けられないようだな、
ウーンそれにしても高い出費は困る、と悩みました。

その時「あ、この時だな」とフト気がついたのです。
そこで力を全部抜き「霊の中の聖霊よ、導いて下さい」と
心を主に向けることが出来たのです。
後は全部主に任せて直ちに昼寝。

そしたら何と昼寝のさい中に、ある電話があったのです。その結果、すぐに
「パソコン診療所」と言う修理屋さんに行くことになり、すぐに柏まで車を
飛ばしたのです。着くと修理屋のおじさん、何とかと言うディスクが無いと
難しいかな、と言ったので私「あ、それなら多分阿武隈の山にあるから」と
応えたところ、解決は次回山から降りる今から2、3週間後であろうと
言う結論にあい至ったのです。以上が昨日のこと。

そして今日のお昼ごろ何と、昨日のおじさんから、ニコニコ顔で
全部直りましたよ、と言う電話があったのです。おじさん
ビオス プログラムとかいうものを書き換えたのだそうで、
彼によると、こんなサービスはめったにありませんよ、と言うことでした。
出費は計2万円、パソコンは当分使えそうです。

2009年1月12日月曜日

キリスト者の道程と神の御心

キリスト者には明確な進むべき道があります。
それは大まかに言って
①御血による複数形の罪の清め(御血の認識)
②キリストの十字架によって「身体に関わる罪」に対して死ぬ経験に
入ること(ガラテヤ5章にあるような際立つ汚れた肉からの解放)
③魂に関わる「隠れた精神的な肉」の対処の為に自分の魂の命を死に
渡すべく日々自分の十字架を負うことです。

換言すれば②と③は
私の霊が「罪・この世」と「私」から解放され、唯聖霊にのみ
従うことが出来る段階です。それは即ち
私の魂は②「体の肉の奴隷状態」の中にいるのか、更に進んだ段階として
③私の霊は「魂の束縛」の中にいるのか、と言うことです。いずれの
場合にしろ、私の魂は速やかに私の体の肉の拘束から自由になる必要が
あるのであり、更に私の霊は私の魂の抑圧から解放される必要がある、
と言うことです。

そのようにしてもしも私が
②と③の段階をクリアしたとするならば、私の霊の中の聖霊の命は
私の「魂の機能」を支配下に置き、私の魂を経由して私の体から
この世にさえ流れ出て行くことでしょう。

これらは、イスラエルの民が出エジプトをし、「全く必要の無かった
荒野での長年のさまよい」を経て、ヨルダン川を渡ったことによって
象徴されるでしょう。当然、彼らの真の目的、イスラエルの民が
速やかに到達するべき場所はカナンのよき地でした。

*
このことをパウロはⅠコリントの2章で、肉的なキリスト者→霊的な
キリスト者の描写によって描いているようです。
(しかし実際には①肉的なキリスト者→②魂的なキリスト者→③霊的と
魂的が混ざったキリスト者→④霊的なキリスト者と言う段階がある
ことをも暗示しているかも知れません。)

Ⅰコリントで示されているもう一つのことは
①のキリスト者が④に至る時間は長くても数年を超えてはならない、
と言うことではないでしょうか。即ちコリントの信者が「真理を語る
ことば」の能力や「霊的な知識」に卓越していること、いろいろな
「神の賜に欠けることが無かった」(1の5、7)にもかかわらずに 
未だに①の肉的な状態(赤ちゃん状態)に留まっていることに
あきれ果てているパウロがこの書に明示されているのです。(汚れた
罪の横行するコリントに住む彼らは、その影響から脱することが出来ず、
またキリストと真理に対して根本的な誤解があったと思われます。)

*
先ずキリスト者は、自分は一体どの段階にいるのかを真に神によって
示していただく必要があるのであり、自分勝手にスキップすることなく、
順を追って確実に前進する必要がある筈です。

そのようにして、キリスト者が速やかに到達するべき段階は④です。
なぜならこの段階に至って初めてキリスト者は神の為に、神の敵と戦う
ことが可能となるからです。(赤ちゃんや幼子は戦えない)
霊的なキリスト者とは毎日、歓喜に溢れてばかりいるキリスト者
などでは決してなく、神の目的の為に見えざる神の敵・悪霊と格闘する
人々であるようです(エペソ6章)。それはカナンの良き地に入った神の
民の生活を見ると容易に分かります。彼らの生活は荒野での敵に勝る
更に多くの敵達との激しい戦いの日々でした。

しかし良き地(霊の中)における霊的なキリスト者の激しい戦いの
目的は更にその向こうにあったのです。そこにこそ、
この時代における究極的な神の目的、神の御心が存在するのです。

☆
私のパソコンがとても不調です。今日は調子がいいので慌てて
これを書いています。しかしいつまた動かなくなるか分かりません。

2009年1月5日月曜日

K兄弟と「でもクリさん」へ

K兄弟:
今日、Aさんとの交わりの中で、Organic Churchという話題が出ました。
Organicとは有機栽培のことで、今までの牧師 ワンマンショー型の教会
ではなく、一粒の種の中に必要なすべての 栄養分が入っていて、それを
ポンと蒔くと自然に芽が出て育ってい くという考えに基づいた教会
のことを言うのだそうです。いまアメリカだけでなく世界各地で
そのような動きが出てきており、僕自身も主がこのことをなされて
いるのだなと感じさせられています。

Sugar:
オーガニックにはまた「有機的な」と言う意味もあって、
生命的結合を連想させられますよね。確かに聖書で言うエクレシアとは
そういうものでしょう。ある一定の時間と場所を区切ってショウを催す
と言うのではなく、24時間の日常の中で自分と隣人の命を育てる、
そんな中にこそ「教会」の実際がなければなりません。
しかしその「世界各地の動き」の実態はどんなものなのでしょうか。
情報があったらお知らせください。

*
でもクリさん、ホンとに有難う。
何だかほんわりと心が暖められたのです。

私はとても元気です。
それどころか、今前途を見据える時、そこにある確かな希望に
とてもワクワクしている、とさえ言えると思います。

ただこの様な形でこれまでとても気楽に意見を発表して来た自分を
今一度主に問い直している、と言っていいのかも知れません。

そのワクワクと「主に対するある畏れ」の内容を話し出すならば、
時間がいくらあっても足らないことでしょう。しかしいずれにしろ、これは
「よいこと」それも相当によいことです。あまりよいことなので
今はどうしても書けない、と言った所でしょうか。
一度お会いしてゆっくりお話が出来るといいと思います。

2008年12月21日日曜日

山に来ております

今朝(けさ)の山:
春のような暖かい陽光がさんさんと降り注ぎ、
正に気持ちのよい阿武隈の師走です。

今回19日に、一緒に山に入ったケンが、昨晩から今朝にかけて
精神的に「悪い底を打った」という感じがすると、今朝一番に
嬉しそうに私に報告してくれました。これは、或いはとてもよい
キザシなのかも知れないと私も大層喜んでおります。
しかし実は私自身も、これから一つのコーナーを(いつの日か!)
首尾よく曲がり切れるといいな、と真面目に思わせられているのです。

*
キリスト者はいつまでも肉と罪(そして「この世」)の奴隷状態に
あるべきではありません。即ちそれは、私達の魂が肉と罪から
自由にされると言うことですね。
 
しかし、更に何と「私達の霊」は「私達の魂」からも自由にされる
必要があるのです。なぜなら、もしそうでないと「私達において」
キリストにある神はこの地上で大きな制限を受けることになるから
です。そしてキリスト者も本当を言って真の自由を享受すること等
絶対にあり得ないだろうと私は心底思っているのです。

*
しかし、この問題は実は極めて見えにくいのです。
実はこの数日、この問題が改めて私の前に浮上し、と言うか、
私自身にとって正直この問題があまりに大きく解決不可能にさえ見え、
それに全く打ちのめされていた、と言った方が正確かも知れません。

キリストの十字架は旧創造の一切を解決しました。しかし、
私達はそのキリストにある勝利の事実を今この時空において証明し、
神への信仰と従順によって、今この私達の環境において追体験する
必要があるのです。(それはおもに、神の敵の故です。)

しかし、そのあまたの旧創造に含まれる事項の内、この「魂の命の問題」
(魂の性質や機能ではなく)ほど無視されている重大な問題はありません。
何故ならそれはとても見えにくいからです。見えていないのだから、
人々にとってそれが問題視されることなどある筈がありません。私は
そのようなコメントや声をこの数年、或いは数十年間どこからも殆ど聞いた
ことさえ無いのです。だからなおさら、この問題の深刻さ、
困難さがあると言えるでしょう。

26日に下山する予定です。
話が中途半端ですみません。

2008年12月17日水曜日

霊融合

聞く所によると、
ある物質の分裂(1→2の原則)は相当のエネルギーを発散するが、
汚染等の恐ろしい弊害を持つのに対して、物質の融合(2→1の原則)
にはその恐れは無く、何と融合から生ずるエネルギーの実用化には、
或いは人類の未来の希望がかかっているかも知れないとある識者達
(あのルーク氏も)は考えておられるようです。

*
さて神の「命の息」が人の体に吹き込まれた時に人は生きた魂となった、
と創世記2の7は告げています。従ってその命の息こそが人の霊であると
考えられます。(しかし、この段階においては人は神の命そのものを
所有したわけではありません。)

しかし後に、キリストは「命を与える霊」となられ(Ⅰコリント15の45)
弟子たちに「息を吹きかけて・・聖霊を受けよ」と言われました。
(ヨハネ20の22)従ってここに、人の霊の中に永遠の命である
キリストの霊、聖霊が入り込み二つの霊が一つに融合したと言う驚くべき
事実を見るのです。このことをパウロも「主と交われば、一つの霊となる」
(Ⅰコリント6の17)と断言しております。

従ってキリスト者とは「少なくとも霊の部分においては何と
神と一つになっている存在」であると言えるのです。
これこそ、正に途方も無い主張ではないでしょうか。しかしながら聖書を
神の言葉であると信じる人であるならば、このとてつもなく見える言葉
でさえも信仰によって受け入れることが出来る筈です。(その完全な知的
理解は不可能でしょう。しかし、信仰の後にその実感を
体験することは可能なのです。)
さて、もしもこれが事実であるとするならば、
更に幾つかのことが言い得るでしょう。

・今やキリスト者の霊は復活のキリストの霊と一つである故に、
そこは完全に「聖域」(至聖所)であり、神の敵が
入り込むことは全く不可能であることです。
ただしキリスト者の霊に対してさえ、外部からある影響を間接的に
与える可能性は排除できないかも知れません。しかしこと人の「魂や体」
に対しては悪しき霊は直接的な関わりを持つことが可能です。
福音書はまた、悪しき諸霊が動物や物質(水中など)に入り込む
と言う事例をも見せています。

・二つの霊が融合して、一つになった霊には膨大な(実は無限の)
エネルギーと能力が秘められております。
しかしながらそのエネルギーの表れは決して爆発的なものではなく、
生命現象的に現れます。従ってそのエネルギー、命の表現には必ず
美しさ、他のものとの調和、静けさ等が伴うのです。それはあたかも、
核分裂のような破壊的凄まじいエネルギーによって焦土と化した大地も
いつの間にか、静かな生命のエネルギーの多種多様な出現によって
覆われてしまうようなものでしょうか。

・最後に「一人一人のキリスト者がこの上なく重要である」ことが
指摘されます。なぜならば上記のようなエネルギーを内に秘めているのは、
一人一人総てのキリスト者であるからです。そこには例外はありません。
従って「一人の有能で魅力的な人物の周りに多くの人々を付着させよう
とする」キリスト教に普通に見られる図式や動向に対して、
聖霊が同意する等と言うことは決してあり得ません。何故なら、
そこには一人一人のキリスト者が持っている天的で聖なる命、エネルギーを
抹殺してしまおうとする敵の意図がアリアリと明白であるからです。

2008年12月16日火曜日

でもクリさんへ

1ヨハネ1:7の「・・・神が光の中におられるように、
私たちも光の中を歩んでいるなら・・・」私たちが光の
中を歩んでいる状態は、罪の中を歩んでいない状態であると
考えていたのです。このへんのところがよくわかりません。
その状態は罪のない状態だと思ったのです。
このあたりのことが今でもすっきりしません。

*
「私達が光の中を歩んでいる状態は、罪の中を歩んでいない状態である」
と言うでもクリさんの御指摘は全くその通りでしょう。だからもしも仮に
私達が24時間、完全に光りの中にい続けることが出来るならば、私達は
複数形の罪一個でさえ犯す可能性はないことになります。

にもかかわらず、仮に私達がそういう状態であったとしても、それは、
罪の根が完全に根こそぎにされている、と言う意味ではありません。
罪の根(the Sin)はやはりそこにあるのです。

しかし、一つの法則であるthe Sinと「魂の機能やからだ」を
「仲立ちする肉」が今や十字架上で除去されてしまったので、
the Sinの力は「魂の機能や体」にはもはや届かず、
the Sinは今や、言わば職場を失った状態と言えるでしょう。
(その前の状態:大文字の罪→肉→魂の機能とからだ)

この状態をパウロは次のように描写しています。
「私達の古い人(肉)がキリストと共に十字架に付けられたのは、
罪のからだが滅びて私達(魂の機能とからだ)がもはやこれからは、
罪の奴隷でなくなるためである。」(ローマ6の6)

この場合の「罪のからだが滅びて」の「滅びて」と言うのは原文では
「不能、失業状態にされて」と言う意味だそうです。
今やからだや魂の機能は「罪に対しては」不能状態にされたのです。

*
ここで私達は更にハレルヤと叫ばなければなりません。
と言うのは、いまや私達の内側には、私達が新しく生きる為の
神の力「キリストイエスにある命の霊の法則」(ローマ8の2)が
存在しているからです。

もしも私達がその法則の力を真に信じ、その力に自分を委ねることが
出来るならば、現実にその法則が私達の魂とからだを支配して下さる
素晴らしい状況を、私達はそのかたわらに立って見ていることが
出来る筈です。今私達はこの法則の力を現実的に経験し、
それを十分に楽しむ必要があるのです。

「こう言うわけで、今はキリストイエスにある者が罪に定められることは
決してありません。なぜなら、キリストイエスにある、命の霊の法則が、
罪と死の法則からあなたを解放したからです。」
(ローマ8の1、2)

2008年12月14日日曜日

「本当の私」に留まる

A兄弟へ:
「私が後悔していること・・・」
↑
このあなたの言われる「失敗」は御血によって既に
清くされています。神が既にそうされたのだから、
あなたがこだわるのは変と言うものです。
*
大切なのは今これからです。
さて事実「Aさんの総て一切、あなたそのもの」は
十字架に釘付けられ、今墓の中です。

そして、本当のあなた「A兄弟」は復活し、今天に座し、
総ての暗闇の勢力を足の下にして安息しています。
これは、神御自身がそのように見ておられると言う
「本当のあなたの姿」です。

何故こんな「とてつもないこと」を私は言うのでしょう。
それは:「どうにもならない古いAさん」を神が
十字架に付けた時に、イエスキリストがそこにいたからです!
従ってその時古いあなたはキリストと共に死去したのです。
これは、あのキリストの十字架において
全能の神が達成された永遠の事実です。

しかしあなたは引き続き、キリストと一つの中にいるので、
墓の中からキリストと共に復活し、何と今は天に座しているのです。
これこそが確かに神が見ておられる所の「本当のあなた」です。

だから今 あなたがするべきことは:
①一切の「ねばならない」を無視し!
決して何もしないこと、動かないことです。そして
②神の目から見える「現実のあなたが今どうであるか」即ち
キリストと一つである「あなたA兄弟の真の状態」に安心して留まり、
その勝利の陣地に堅く立ち、そこからおびき出されないことです。
*
しかし
敵は必ず「墓の中の古いAさん」を黄泉から引っぱり出して来て、
それをあなたに対し実にアリアリと見せようとすることでしょう。
しかしそれは絶対的にウソです。
だからそんな場合には「今の本当のあなたの姿」を、神の真理の
立ち場に立ち、何度でも「そのウソつき」の顔面に
「声に出して」たたきつけてやるべきです:
「私は今、キリストと共に復活の中にあって天に座している!
それをお前はチャンと知っているくせに、
何を言うかこのウソつきめ!」と。
それこそが、あなたがなし得る最上の「奉仕」・仕事である、
と私は思っています。

*
要は、「何を信じるのか」と言う問題です。あなたは
自分の推論と感覚が「自分の永遠」を委ねることができる程に
信頼に足るものであると本当に思われるのでしょうか。

それとも、物質界を超えた極めて高次元に位置する神の真理を、それが
神とイエスの言葉であると言う理由だけで受け入れようとするのでしょうか。
神の言葉であるが故に、完全に理解不可能であることでさえ
受け入れること、それを信仰と言うのです。

*
そのようにして私達が信じるならば、それに引き続き:
今日におけるキリスト御自身の「あなたの時空内での御業」を
あなたは日々かたわらに立って「見物」することになるのです。

「キリスト」と言う意味はごく平たく言うと「仕事人」です。そして、
実にあのイエスのみがキリストです。ですから当然、あなたはキリスト
ではありまりません。従ってあなたには仕事をする必要など全くない
のです。あなたのするべき事は只、あの唯一人の仕事人・聖霊
として働かれるキリストの仕事ぶりを日々楽しむことだけなのです。

2008年12月12日金曜日

肉と罪(SIN) 2

1.
肉の中に罪(Sin)があるとしたら、肉からの開放は、Sinからも
解放されるということにならないでしょうか?私は、このあたりの
ことがよく分からないのです。
2.
(1ヨハネ1:8)と(1ヨハネ1:7)の関係も
釈然としないのです。

☆
二つの疑問の内 
1.については更に検討しなければならないでしょう。
やはり難しい問題です。それは後日に回しましょう。
(しかし、これからもこれらの大切な問題について、お互いに
交わりあうことは素晴らしいことだと思います。)

ただ、
神は「あなたの罪を根絶するように」とはどこにも言われていないので、
実際生活において私達は「肉を対処するだけでよい」のではない
でしょうか。しかしそれだけでも実際にはたやすい事ではありません。
(罪と肉の問題の他に「この世」や「己」の対処の問題があります!)

*
2.は簡単です。それは いわゆる複数形の罪の問題であり、sins は
キリストの御血によって総て洗い清められます。「総ての罪」の中には
大小様ざまな罪、赦されそうな罪、赦されそうに思えない罪、覚えている罪、
無意識の罪、過去の罪、明日犯す罪、その他総てのありとあらゆる罪が
含まれますのでその告白をし、神の言葉を信じるならば、複数形の罪に
関する限り直ちに平安が得られるはずです。

しかしそれは、私がいつの日か、複数形の罪を一切犯さなくなる
と言う意味では全くないわけで、そこで複数形の罪の根源である
私(肉、古き人)の死が必要となるわけです。
御血によってsins が清められ、十字架上での「私の死」によって、
私の肉が取り除かれるのです。

実際上の罪の対処に関して、聖書で取り扱っているのはこの分野まで、
ではないでしょうか。罪の抜本的な根絶はこの時代にはあり得ないと
私は思っています。それは次の時代を待ちましょう。

しかし
「信仰による先取り」によって、千年期や永遠における勝利や完全を
この時代の中でさえ「前味わいする」と言うことが聖書にはあります。
何しろ聖書の真理は時間を超えた永遠の中にあるのですから。
前味わい、これもこの時代における
キリスト者の大いなる楽しみの一つです。

肉と罪(SIN)

*でもクリさんへ*

罪(Sin)は肉の中にあります。
「それを行っているのは、最早私ではなく、私の内に住みついている
罪なのです。私は、私の内、即ち私の肉の内に善が住んでいない
ことを知っている。」(ローマ7の17)

「私の内に住み着いている罪」、
この場合の「私」は、その後の記述から分かるように「肉」です。
このことはローマ3の20、ヨハネ3の6、更にガラテヤ2の16
「なぜなら律法の行いによって義と認められる肉(原文)
は一人もいない。」などからも明らかでしょう。

*
肉は、罪深いものへのどうにもならない傾向、傾き、即ち人の根源的な
「罪の性質」です。そしてその肉の中に単数形の「あの罪」が宿って
いるのです。罪とは「ある不思議な力」であると言えるでしょう。
それはこうです:罪とは肉を動機付け、呼び覚まし、掻き立て、遂には
肉の欲を全解放するように強いるある奥深い力です。

その結果、私達は多くの罪(複数形の罪)を犯します。これに
抵抗する「すべ」を人は一切持っていません。
解決はただキリストにおける十字架上の肉の「割礼」にあるのです。
結論として、肉は罪へ傾く傾向そのものですが、それを発動させる
強力な力が肉の中に住んでおり、それが罪(the Sin)である、
と言えるのではないでしょうか。

*
しかし、以上のような知識は、ただ知識として持っているだけでは何の
役にも立ちません。必要なのは実際生活上での「魂の、肉からの解放」
です。聖書はこの時代における「罪の根絶」について語っているとは
思えません。何故ならヨハネは「罪が無いと言うなら・・真理は
私たちの内にありません。」と言っているからです。(Ⅰヨハネ1の8)
しかし、肉からの解放については聖書は何度も明確に語っています。
それ故、もし神の言葉に偽りがないのであれば、キリスト者はキリストの
達成とその命によって、現実に肉から解放され得る筈です。

ですから私達は自分の生活の中でその勝利を求め、その為に神から啓示を
与えられ、キリストが十字架上で達成された事実に安息することにより、
実際的に肉からの解放、即ち「罪に対して死んだ私達」(ローマ6の2)
を経験するべきです。

*
以上がキリスト者の勝利の為の消極面です。私達は積極面においても、
更にキリスト者の霊の中にある「勝利する命」「命の御霊の法則の力」
をも同時に知り、経験することが出来るのです。

2008年12月10日水曜日

魂の機能と魂の性質・肉

魂の機能(魂の器官)は当然
魂の性質、魂の強い傾き、魂の強烈な傾向、即ち肉とは異なります。
肉は神が創造された人の中には無かったものです。肉はある時に
人の体を通して魂の領域にまで進入し、人に根本的な「傾き」、罪深い
モノへ傾く強い傾向を与えてしまいました。(ここに人類は大問題を
抱えることとなったのです。)

本来キリスト者とは神の性質・傾き(神の徳)を「神の命、
エネルギー」によってのみ表現するべき存在です。即ち私達は
神の性質を神の命によって表現するべきです。その際、神の命・
神の力は当然「キリスト者一人一人の個性的な魂の諸機能」を経由する
わけです。(即ち魂の機能・器官を神の命・力が発動させると言うこと)

神は人の魂の機能までも十字架につけることはなさいません。
除去されるべきは外部から進入した肉です。

人の魂に存在する諸々の徳、知情意などの機能・器官
(その機能には個性がある)を神は永遠に守られます。
なぜならそれらこそ、神のイメージ、神のかたち
(創世記1の16、17)であるからです。

ですから、A兄弟は永遠においてさえやはりA兄弟であり、千年期や
永遠においてAさんが突然Bさんになったり、別の生き物になったり
と言う様な奇妙なことを神が決してなさいません。(それは
人の宗教の発想です。)

なぜなら神は一つ(それはキリストにある)の中の多様性を
重んじられるからであり、それによって神の偉大さを展覧なさりたい
からです。一項目「神の知恵」においてさえ、その多種多様な現れを
神はエクレシアに対して望んでおられます。(エペソ3の10)

取り除かれるべき要素は「魂に強烈な影響を与える肉」です。肉とは
人の罪深い性質・傾き・強い傾向です。ですから古き人である本来の
私はどうしても罪に傾くのです。肉はあたかも私になってしまった
かのようです。(肉から生まれるのは肉であり、古き人、古き私は
肉であるからです)しかし、ハレルヤ、私達の肉(傾き)は
既に十字架に釘付けられてしまったのです。「私達の古い人が
キリストと共に十字架に付けられたのは、罪のからだが滅びて私達が
もはやこれからは、罪の奴隷でなくなるためである。」
(ローマ6の6)

従って今まだ「罪の根」はそこに存在しているとしても、罪は
肉の除去により人の魂の機能にまで達することが出来ません。
私の中の肉・古き人は罪に対して死んだからです。

*
私達はこの「魂の、肉からの解放」を私の生活において現実的に
経験するべきであり、来る日も来る日も肉の支配下で生活する
べきではありません。もしもキリスト者が繰り返し、汚れた肉の
奴隷状態にいるとすれば、それはむしろ不自然です。魂が肉から
解放されること、それは決して私たちの手の届かない所にある
のではありません。何故ならば、
それはキリストによって既に解決済みであるからです。

しかし、これらの神の真理に対する信頼がなければ、その事実が
「あなたの現実」に降りて来ることはあり得ません。何故なら
真理はただキリストの中にあるからです。即ちそれはキリストの
復活の中にある永遠の領域にのみ存在するものであるからです。
従って人の側から見るとき、総ては信仰にかかっている、
と言えるでしょう。

2008年12月9日火曜日

二つのこと

主は必要に応じ、当然多人数のキリスト者の集まりを与えて
下さいます。この多人数の集まりは相互間の重要な「情報」の交換の場
として用いられます、スポーツの試合におけるミーティングの様に。
しかしエクレシアにおける、主要な敵との戦いの前線と神の働きの基点は
むしろ一人、或いは二、三人にあるでしょう。(マタイ18章等)

なぜならキリスト者が一人、二三人でいる状況は、人の生活にとても近い
からです。神は人の命、生活、人生即ち人のLIFEを愛されます。
しかし神の敵も人のライフをめぐって昼夜働らいているのです。

*ロゴスとレーマについて*
どちらかと言うと、多くの集まりで語られたロゴスは一人、或いは
二三人の場において「レーマ化」することが多いようです。ロゴスとは
恒常的な神のことばです。しかし白黒の新旧約聖書の神のことば・ロゴスを
ただ所有しているだけであるならば、それは死んだ文字に過ぎません。
それはそのままでは何の役にも立たないだけでなく、もしも私が他人に
対してそれをナマのままで用いるならば何と私はその人を殺すことになる
でしょう。(Ⅱコリント3の6、この場合パウロが言った文字とは
明らかに旧約聖書の文字です)

しかしある時、あなたが記憶していたロゴスがあなたの内でレーマ化
する時即ち神がそのロゴスを用いてあなたに直接に語りかけられる時
神のことばが初めてあなたに対して効力を発揮することになるのです。
記憶されたロゴスが即時的に、その時の状況に応じて神からの生きた
言葉としてあなたを照らし、あなたの霊に直接触れ、あなたを生かす
ならば次に、そのことばがレーマとしてあなたを通して人々に対し真に
役に立つものとなるのです。

なぜならエクレシアとは「今日の天地にある生けるキリスト」が私達と
言う「人間性を通して」表現されたものであるからです。今日の
キリストが命のない何物とも、即ち生きていないキリスト以外の
どんなモノとも融合することなど決してないからです。

*
ここに一つの危険性があります。
それは人が「誤謬なき正当なロゴスを振り回す」ことです。例えば、
大音量の拡声器で人の滅亡について伝える無機質な声を人々に聞かせ、
説得しようとすることなどです。これは殆ど効果がありません。なぜなら、
ロゴスが人の霊と人の生活を経由することによってレーマ化していない
からです。多くの場合それはむしろ人々を神のレーマ(神からの直接的な
語りかけ)から遠ざける働きをするだけでしょう。

私たちにも危険性があります。
それは私達が例えば、ある「霊的な人」のことばを取ってそれを、
ナマのまま他人の説得に用いようとすること等です。そのことばが、
その霊的な人の口から発せられた時はレーマであったとしても、それを私が
「権威ある霊的な人のことばとして」人の説得に用いようとするとき、
殆どの場合それは「正統で無機質なロゴス」に過ぎません。そのような
方法でそれらの「正しいことば」を用いる私は正に「トラの威を借りる狐」
のようなものです。私達はキリストの十字架によって自分の中に住む
「狐」を日々対処しなければならないのです。(雅歌2の15)

このように私達には「霊的なことば」を「新しい律法」に変化させる
危険性さえあるのです。それは一つの「宗教」を立ち上げるのに役に立つ
だけでしょう。そういう時、そこに働くのは宗教的権威です。ですから、
その宗教的な権威の力の故に私が発したロゴスは或いは相手を
平伏させることに成功するかも知れません。しかしその平伏は決して
「今日の天地にある生きたキリスト」とは相容れないものです。

むしろそれは確実に神の敵に用いられるでしょう。神の敵もロゴスを
用いるからです。(しかし彼は決してレーマに触れることは出来ません。
なぜならレーマには天の成分、十字架と復活の成分が
含まれているからです。)

*
たとえそれが
「聖書通りの誤謬のないロゴス」であったとしても
私達がそれを用いる時に「必ず経過しなければ
ならないもの」が幾つかあります。
それは「私の魂の機能と体」即ち
私と言う個性的な人間性であり、そしてまた
日々の「古き私」を死に至らしめる十字架です。

私達は神のことばを「新しい私」を通して語らねばなりません。その時 
神のことばは他人からの借り物ではなく「人間であるイエスとあなたの
ことば」となるでしょう。神のことばは今日「十字架を経られたキリストと
あなたの一つ」を通して語り出されなければならないのです。何故なら
今の時代、神は、天使の口によってではなく、原則として
「キリスト・者、キリスト・人」を通してのみ語り出されるように
定めておられるからです。

あるメールから(14)

先日の土曜日の集会は初めてお会いする方達もおられたせいか、
集会の印象がいまいち自分の中ではっきりしていませんでした。

ところが、今夜 我が家ではなぜか、土曜日の集会の話になり
参加されたお一人お一人の名前を思い出したり
どんな話をされたか、とか、とりあげられた御言葉とか
頂いたプリントの内容、とか 思い出しながら
二人で話していました。

そうしましたら、あの時には分からなかった事や
気づかなかった事を主が明らかに語ってくださり
なんと豊かに主が流れていて下さったことかと
一日おいてやって実感がわいてきたと言いますか
消化されてきた感じです。

やはりミーティングには肢体分の豊かさがありますね。
その豊かさに与(あずか)れましたことを感謝します。

また、御言葉をロゴスでなくレーマとすると言う事は
御言葉を自分の経験にするということでしょうか!?
朝読んだ御言葉もお昼には忘れてしまっていますが
いつかレーマとなることを願い、与り続けたいと思います。
このたび、兄弟姉妹と共に主に与れましたこと、感謝します。

2008年12月7日日曜日

あるメールから(13)

昨日の集まりで、私も一言、話させていただいたのですが、
どうも私は話し下手で、後で言い足りないなーといつも思うのです。
そういうわけで、昨日の話に補足させて下さい。

以前行っていた「教会」の姉妹たちが集まると必ず世間話しになって
信仰の面を語り合うことができなくて、そんな状態が続くうちに、
私が「神様に直接訴える」という事を実行するようになりました。
それをしていたある時ウオッチマン ニーの「神を知る道」と言う本を
読んでいたら「神に直接話す、神に直接訴える」ということが書いて
ありました。その時「ああ、これは私が今やっていることだ」と分かり、
私はとても喜びました。とはいえ、それはやむを得ず、仕方なしに
やっていたことでした。しかしとにかくその時以来私は、神様に直接
向かうようになったのです。

それからは、自分の問題を直接神様に向かってあーだのこーだのとやる
ようになり「総ての解決は内住のキリストにある」と思うように
なったのです。そして、クリスチャンとして生きてゆく土台は、自分
ではなく「あの内住のお方」なのだと確信し、その結果それまで
行っていた「教会」を去る決心がついたのです。

今は、真に神様が願われている教会・エクレシアの姿や本当の交わり
について、そしてまた内住のお方によって生きることとは何かを
少しずつ教えられて幸を得ているのです。

*
もう一つ、クリスチャンはよく愛を語り、愛のある行為とは何か
と言うことについてよく話しますが、それでは一体「最も」愛のある
行為とは何か、についても教えられたように思います。

ヨハネ 15:13に 人がその友のために「いのちを捨てる」という、 
これよりも大きな愛はだれも持っていません とあり
Ⅱコリ 4:12には 死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたの
うちに働くのです、とあります。

私が自分に死ぬ、即ち「自分の魂の命」を死に渡すことの結果として
初めて、復活のキリストの命が私の友の内側にも到達するのである
と言うこと、そしてそのような愛の行為・即ち自分の魂の命を死に渡すこと
以上の愛と言うものは、他にはあり得ないのだと思うようになっています。
それは私の色々な親切な行為より、はるかに勝るものではなかろうか
と理解するようになったのです。
ということで、これからもよろしくお願いします。

★原文は公開用のものではありません。それで申し訳ないのですが、
出来るだけ本人の意を汲んで?私が補充したところがあります。
御了承ください。

2008年12月6日土曜日

ある会話

Dさん:
このたび経験したことと言うのは・・・
キリストの中では(飛行船の中では)もし
それが「人の発案」ではなく「主の発案」から始められた
ことならば、部分的な祝福ではなく、まったき祝福となり
すべての事において主のバックアップを見るのです、という
ある兄弟の言葉の体験であったと思うのです。

「主の発案」は人が介入できない事柄のなかへ主が介入
され、事が主のなかで自然に運ばれて行く事。
それを見ていく事ほど楽しく胸ときめく事はありません。

sugar:
飛行船、いいですねー。
何かみたいにキンキンする爆音もなく汗も流さず、
高き所にいて地の景色を見下ろし、
スガスガしい天の空気を沢山吸いながら。

そんな風にして、
彼の運転に総てを委ね、
ただ運ばれていただけとはね

Dさん:
はい、夢のようでした。(*^_^*)
でも、今思い出したのですが今回の旅立ち?の前にアチコチの
兄弟姉妹たちが「私たちって何もやらなくっていいんだよねエ~」
とささやいているのを小耳にして出かけましたから、これもまた
予言的なささやきだったかなって驚いています。 
あの不思議がいろいろなところまだまだ隠れていそうです。

2008年12月3日水曜日

マルシアからです

お久しぶりです。お元気ですか?
私はやっと月曜日から産休に入り、赤ちゃんを迎える準備をし始めた
ところです。予定日通りには行かないと思うので、今日は早速入院の
荷造りをし、明日は退院時の赤ちゃんの服を揃えれば、もういつ陣痛が
来ても大丈夫です(^-^)。

一時はお腹が張り過ぎて早産の可能性があり、産休の予定より早く休ま
なくてはならないとの心配がありましたが、もっと細かい検査して見たら
正常範囲内だと分かり、予定通りに産休に入りました。

しかしお腹が大きくなり、ちょっとした動作ですぐ疲れてしまいます。
仕事している時、あまり眠れないことも悩みでした。産休に入って、
家でのんびりできるので、夜は眠れなくても、いつでもお昼ねできるから
よかったです。眠れないことや眠りが浅いことは、これから子どもの世話を
するための、一つの体の準備と聞きました。「なるほどだね」と思いました。

仕事をしていたおかげで、あまり体重が増えず、脚がむくんだりすることも
ありませんでした。もちろん仕事をすること自体は毎日疲れましたけど・・・・

現在私の体重は5kg弱しか増えなかったけど、休みに入ったことで
これから増えるかもしれません。少なくても、2kg以上は増やしたくない
と思います。全体の体重が増えなくても赤ちゃんが元気に成長していれば
問題ない、と医者から聞きました。最近の妊婦は太り過ぎると
注意されるそうです。

赤ちゃんは元気に相変わらずよく動いています。性別が分かるための
「大事なところ」がこれまで何回も隠れていたけれど、8ヶ月目に入って
やっと見せてくれました。医師が間違えてなければ女の子です。2回も見て
頂いたので、大丈夫だと思います。

最後の検診では赤ちゃんは2400gまで成長していました。今のところは
逆子ではないことが分かりました。よく動く子なので、これからぐるっと
回って逆子にならないで欲しいなと願っています。37週目まで逆子に
ならなければ自然出産ができるとのことです。現在34週目に入った
ばかりです。

出産後、皆様にその報告をしたいと思います。最後まで、
出産という大きな仕事を問題なくやり遂げられるように願っています。
では、(^-^)

PS:
この子を連れて、また山小屋に行ける日を楽しみにしています。
またね(^^)

sugar:
本人が「日本語の変な所は直して下さい」とのことでしたが、
それはごく僅かでした。
日本語が全く分からなかったブラジル生まれの小さな娘が、
総て独力で高校、大学を経て、遂にここまでに至ったこと、
ホンとに偉いと思います。
無事な出産と、赤ちゃんを連れてまた山に
来てくれることを心から祈るばかりです。

明日、下山します。

*
その後のマルシアからのメールです↓
「いまだに日本語に自信がありません。
直して頂き、ありがとうございました。
新しい鍋が届き、よかったですね。私達が栄養の
あるものを作りに山に行かなくても、ちゃんと作っている
ようで、安心しました。下山なさるなら松戸にもお立ち寄り下さい。
大きなお腹は期間限定ですから、今しか見られませんよ。
(^-^)では。」

希望・神は人の霊を守られる

宇宙には種々の霊が存在しますが、人の霊は特別です。
それは何と神の命の息でした。

しかし、それは神御自身ではありません。即ち霊としての神
ではないのです。しかし人の霊は、間もなく「永遠の命」としての
神を迎えるための存在ではあったのです。

従って当初の人の霊は当然ながら、神によって純粋に守られた
のです。今日の人々の霊でさえ、神はそれを守っておられると私は
信じています。だからどんな人にでも、まだ希望があるのです。
その魂(感情と思いと意志)と体において汚れ果てた「悪人」の
霊(良心を含む)でさえ、彼の霊だけは「ある意味で」聖域です。
(ですから私達は福音を伝える時、自分の霊を用いて、その人の
思いや感情に対して、と言うよりも、その人の霊に向かって
彼の霊に触れに行く必要があるのではないでしょうか。)

本論に戻ります。しかしながら、ご存知のように 人の霊は
アダムにおいて死んでしまったのです。この場合の死とは、その
機能の停止です。即ちそれは「神との交流の停止」と言う意味での
死です。人の霊は神に対する正常な機能を失ったのです。従って
今日、時に人は神を思うことがあったとしても、彼の神観念は
正に支離滅裂なのです。(だから先ずはとにかく、人の
「死んだ霊」が新しく生まれる必要があるのです。)

なぜ人はそのようになってしまったのでしょうか。それは、
人が「永遠の命」を拒否し「善悪を知る」を選択したからです。
即ち彼は神の命に依存せず、自分の魂の命のエネルギーによって
生きる生き方を選んでしまったからです。

その日以来、彼の魂はその分限を超えて「成長」し続けました。
その結果、度を越えて肥大した魂の力によって、遂に魂は、本来
魂の主人であるべき霊に絡まり抑圧することにより、霊と魂の
本来の地位関係を完全に逆転してしまったのです。人が神から
独立する道を選択したことは、かように人の内面に不秩序と混乱を
生じさせると言う実に巨大な代償を払う結果となったのです。

しかし事はそれで終わりではありませんでした。
更に人は坂道を下り続け、遂には、何と体の「肉」が魂を制圧する
に至りました。即ち肉が人の総ての王権を握ったのです。これが
人の終着点でした。その事実を聖書では「人は肉に過ぎない」
と表現しています(創世記6の3)。もはや人の意志が正常に機能
するはずもなく、人の理性や感情も肉の力に圧倒されてしまった
のです。これは「霊を総てのよりどころとする、霊→魂→体」と
言う人本来のあるべき姿から見るならば何たる恥辱でしょうか。

しかし、この状態こそ昨今普通に見られる世情の真の有様では
ないでしょうか。しかしこの全世界的傾向はこれからも更に
増大し続け、人々は必ずある極点を迎えることになるでしょう。
正に今は「大洪水」前であるからです。
(このような圧倒的世情の只中で「真の箱舟」を
建造せんとするのは一体誰でしょうか。)

*
しかし私達はそれでも神を賛美するのです。なぜなら今でさえ
人の霊は「聖域」であるからです。神に感謝します、どんな人で
あろうと、神は彼の霊を守られます。なぜでしょう、それは
人はこれから、その場所・彼の霊の中に、あの「人の子となられた
聖なる永遠の復活の霊」を迎え入れる可能性が
いまだに残されているからです。

ですから、人の必要は唯 真の命によって彼の霊が新たに
生まれる事、次に「主と一つになった彼の霊」(Ⅰコリント6の17)が
正常に機能するために、次第に成長、円熟して行くことなのです。

2008年12月2日火曜日

あるブログのコメントから

candyさん:
交わりの喜び、いのちを共有していることが、多くの説明を必要と
しない、嬉しい交わりですね。いのちの成長が、個人のものだけ
ではなく、共に成長させられていることを感じさせられます。

sugar:
交わりの本質、交わりの真の中身、即ち「~間を」行きめぐる今日の
キリストそのものこそが、エクレシアであると信じます。
今、姉妹の近辺にそのエクレシアが生きて存在しているのである、と
感じさせられ、こんな嬉しいことはありません。
ただ、神に感謝を捧げます。

candyさん:
アーメン!御父と御子との間にある同じ親密さの中へ入れられただけ
でなく、その喜びを真に味わい、楽しむように導かれていることは
なんと素晴らしいのでしょう。主の下に引き寄せられたいのちの
交わりの内に、神の現存を見出す喜び、あぁここにも主がおられる・・
その安心はなんと深いものでしょう。
ただ、ただ主ですね。私たちは主がしてくださることの中に、安らいで
いるだけ。贈り物に満ちた主の恵みは今日も本当に十分ですね。

5層三階建て高級ステンレス鍋

実際に使って見ると、あの私のダッチオーヴンにも、
多少デメリットがあることが分かって来ました。
少し小さいのですよ。なるべく沢山作り置きして調理を怠けたい
私にとってはそれはイマイチです。その上、前に書いたように、
調理後の洗いが結構面倒、更に、当たり前だが結構重いのです。
結論的に、アウトドアとか時々ならいいが、これからの人生
毎日三度三度ダッチオーヴンじゃ、やはり大変です。

その時です。
何と突然、この5層三階建てステンレス高級鍋が与えられた
のです。(おとといの午後くろねこヤマトが運んで来た)
5層とは鍋の本体のステンレスが5層と言うことです。(だから
結構重い)鍋の壁が5層であることによって鍋としての数々の優れた
機能が生ずると言うのです。三階建てとは一度に一階、二階、三階の
三つの部屋で三種類の食材を同時に蒸すことが出来るということです。

使って見ると中々いいのです。ダッチオーブンの機能は全部備えて
いるし、これで何とも前述の幾つかの欠点は見事全部解消して
しまったのですよ。実際料理して見るとすぐに分かりました、
ああこの鍋、一生ものだなと。鍋の世界もバカにならないものです。
全く知らなかったよ、こんな鍋がこの世にあったなんて。

*
それにしても、どうにも不思議です。またまた、絶妙の
タイミングで私の調理のトラブルが全部見事に解消してしまった事。
それも、私が全然意図しない所から降って沸いたように突然。
何と言ったらいいのでしょう、正直、主はまるで「これでもか
これでもか」と私の食生活をケアして下さっていると言う感じです。
これただの偶然?それにしては出来過ぎです。

要するに主は例外なく、私の生活のすみずみに至るまで、
「私の総ての必要」になられたいお方である、
と言うことなのでしょう。しかし実の所、言うはやすしです、
「主をして私の総てとならしめる」と言うのは。

PS:
ダッチオーブンの方は焼き芋用にまわしました。
ダッチオーヴンのジャガイモ、
バターをつけたりして結構いけますよ。

2008年12月1日月曜日

霊、魂の問題

ある点について霊、魂、の問題が提起されました。
この機会にこの問題に関して私が日頃感じていることに
少し触れて見たいと思います。

いずれにしろ、人がこの問題に真剣に向き合うと言うことは、
素晴らしいことだと思います。僭越ながらもしも「人・自分の内面
がどうなっているのか」について真摯な関心がないとするならば、
キリスト者として、どんな前進も殆ど期待出来ない
と私は真剣に思っているからです。
さて私は先ず、二つのことを確認する必要があると考えます。

①この「自分の内面がどうなっているのか」の追求の目的は
私たちの普段の生き方が、私達からキリストが表現され、それによって
神の敵が、即ち「この世の悪の根源」があばかれ退却する事に確実に
繋がって行くようになるためです。即ちそれは神と人の
実際的な益のため、でなければならないと思います。

この時代において、キリストはキリスト者と言う「存在」を通してのみ
初めて地上に表現されます。だからこそ、私達は自分と言う「存在」の
中央部分に関する正確で真の「知識」を必要とするのです。

しかしもしもこの目的を別にして、この霊と魂などと言う途方もない
問題(それはあまりにも膨大で深い背景を持っている)に入り込む事は
正に雲をつかむようなことになってしまい、たちまち壁に
ぶつかるか、仲たがいするか、疲れ果てるか、でしょう。
「知的好奇心から」だけでは、労多くして、益はあまりに少ないのです。

②これらの問題の底はどうしても「永遠と言う領域」にさえ触れて
行かざるを得ません。そして何とそこには生ける神が存在するのです。
即ち、これらの問題の根は「神の真理に直接触れざるを得ない」
と言うことです。更に言えば、その「神の真理の実質」とは単なる
事実・モノなどではなく、今日の生けるキリスト御自身に
他なりません。真理とは実に「神聖で純粋なあのお方」なのです。

この時空の中の、あれやこれやのモノ・事象については、随分詳しく
知ることが出来るのに、人類は自分にとって一番大切な「人の根源的問題」
についてはどうして何も分からないのでしょう。なぜなら、その様な人の
根本的問題の底は「神の真理」に繋がっており、更にその真理とは
生ける神、復活のキリストだからです。そしてキリストは神の「奥義」
であります。(コロサイ2の2)

当時の群集は十字架以前の「イエスの物質的な体と魂」に物質的に
また心理的に触れることは確かに可能でした。しかし復活後の
キリストに触れることは、当時のキリスト者といえども
なかなか難しいことだったようです。
そのキリストに触れる秘訣は何でしょうか。それは唯、
マリヤのように、ひたすらイエスのみを慕う心を持つことと、
弟子達のように単純に信じることだけでした。

ですから、私達の限られた知性のみで真理なるこの復活のイエスに
触れることなど絶対に不可能であると言えるでしょう。
もしも単なる被造物・人間の限定された知性のみで、この霊・魂の問題
が全部分かるとするならば、世の頭のよい人々は皆、神と人に関する
根本的な問題についてきっと「正しい知識」を持つ筈です。しかし現実は
その逆です。もしも私達でさえ、自分の意志を振り絞り「頭だけで」
霊と魂について知り尽くそうとするならば、そのような時イエスは多分
あなたの知性のみの追求を敢えて妨害しに入って来られることでしょう。

パウロなどは(極端にも?)次のように断定しているほどです。
「生まれながらの人(原文では魂の人)は神の霊に属することを受け入れ
ません。・・またそれを悟ることが出来ません」と。(Ⅰコリント2の14)
しかし、感謝です、主イエスは「その方、即ち真理の御霊が来ると、
あなた方を総ての真理に導き入れます。」(ヨハネ16の13)と
言われました。

私がもしも聖霊により頼み、神が必ず私の心の目を開いて下さる
(エペソ1の18)と言うことを信じ、そして焦ることなく主を待つ
ことが出来るならば、神は必ず私を導き、真理に触れさせ、
神と人の為に真の益に繋がる素晴らしい結果を、私の普通の
生き方から、生み出させて下さる事でしょう。
それは実に軽やかで楽しい道であるに違いありません。

★お知らせ
6日に来られるはずであった台湾の楊さんですが、今回はどうも無理
のようです。と言うのは、6日にどうしても、ある人と会わなければ
ならない必要が生じてしまったからだそうです。何とか調整できない
だろうかと色々工面されたようですが、私は「どうか無理なさいません
ように、主は逃げて行きませんから」と言いました。
あしからず御了承ください。