2008年12月16日火曜日

でもクリさんへ

1ヨハネ1:7の「・・・神が光の中におられるように、
私たちも光の中を歩んでいるなら・・・」私たちが光の
中を歩んでいる状態は、罪の中を歩んでいない状態であると
考えていたのです。このへんのところがよくわかりません。
その状態は罪のない状態だと思ったのです。
このあたりのことが今でもすっきりしません。


「私達が光の中を歩んでいる状態は、罪の中を歩んでいない状態である」
と言うでもクリさんの御指摘は全くその通りでしょう。だからもしも仮に
私達が24時間、完全に光りの中にい続けることが出来るならば、私達は
複数形の罪一個でさえ犯す可能性はないことになります。

にもかかわらず、仮に私達がそういう状態であったとしても、それは、
罪の根が完全に根こそぎにされている、と言う意味ではありません。
罪の根(the Sin)はやはりそこにあるのです。

しかし、一つの法則であるthe Sinと「魂の機能やからだ」を
「仲立ちする肉」が今や十字架上で除去されてしまったので、
the Sinの力は「魂の機能や体」にはもはや届かず、
the Sinは今や、言わば職場を失った状態と言えるでしょう。
(その前の状態:大文字の罪→肉→魂の機能とからだ)

この状態をパウロは次のように描写しています。
「私達の古い人(肉)がキリストと共に十字架に付けられたのは、
罪のからだが滅びて私達(魂の機能とからだ)がもはやこれからは、
罪の奴隷でなくなるためである。」(ローマ6の6)

この場合の「罪のからだが滅びて」の「滅びて」と言うのは原文では
「不能、失業状態にされて」と言う意味だそうです。
今やからだや魂の機能は「罪に対しては」不能状態にされたのです。


ここで私達は更にハレルヤと叫ばなければなりません。
と言うのは、いまや私達の内側には、私達が新しく生きる為の
神の力「キリストイエスにある命の霊の法則」(ローマ8の2)が
存在しているからです。

もしも私達がその法則の力を真に信じ、その力に自分を委ねることが
出来るならば、現実にその法則が私達の魂とからだを支配して下さる
素晴らしい状況を、私達はそのかたわらに立って見ていることが
出来る筈です。今私達はこの法則の力を現実的に経験し、
それを十分に楽しむ必要があるのです。

「こう言うわけで、今はキリストイエスにある者が罪に定められることは
決してありません。なぜなら、キリストイエスにある、命の霊の法則が、
罪と死の法則からあなたを解放したからです。」
(ローマ8の1、2)

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ありがとうございました。SUGARさんとウエスレーさんのいっている違いがよく理解できました。主を崇めます。感謝です。

Mr.Sugar さんのコメント...

ホンとにお役に立てたのでしょうか。
もしもそうであれば、
こんなに嬉しいことはありません。

これからも共に
主の道を前進して行きましょう。

またいつでもお寄りください。