「遠い遠い」北国に転勤が決まったとか。
ごめんなさい、他人のことながら、
私は勝手に信じていたんですよ、
「きっとそれは主からである」と。
ところが今日、何と何と、同じ北の国の「ある教会」から
突然電話があって「兄弟、ゼヒ交わりに来て下さい」と。
でもこれ、どうなってるの?!
私はこういう状況を前に一体どうすればいいんですか。
ハイ、でもすぐ分かりましたよ。
「私」がすることなどホンとに何も無い、と言うことが。
私のすることは、ただ総ての肩の力を抜いて
次のように祈ること:
「あなたの御こころは、必ずあなた御自身が実行されます。
主よ、私は一歩一歩、あなたについて行くだけです」と。
環境の中、
「神からの?なんらかの語りかけ」があったら、祈りによって
その語りかけを「そっくりそのまま」神にお返しします。
そうすれば、その後で、きっと神様はまた、私の環境と
私の魂の静けさの中で「私の霊」へと、
彼の繊細な御声として「何か」を投げかけられるのです。
私はそのような繰り返しの中で、その度ごとに、小さな一歩一歩を
主の前で「おそるおそると」踏み出して見るだけです。
それにしてもこれは何とワンダフル(不思議一杯)で
楽しい主との「道行き」でしょうか。
さあ、それでは早速祈りましょう。
これ第一回目。
*
環境の中、
「神からの?なんらかの語りかけ」について:
電光石火のヒラメキのごとき、人の意志を
無視したような「語りかけ」にはむしろ、
要注意です。(総ての「神がかり現象」は
「他の霊」からであると思うべきです。)
神は、私達の奥深い霊の中で「圧迫するような、重苦しいような、
何かを語っているような、語りかけではないような、しかし
時間の中では一定不変、しかしあくまであなたの自由意志・人格を
尊重される何ものか」として語りかけられます。ですから
あなたがそれを今、意図的に無視しようとすれば「一時的には」
それはあなたから退かれるでしょう。☆☆:
私達は旧約の預言者とは根本的に違います。以上のような姿が
今の時代、神が一人一人のキリスト者に対して望んでおられる
「神とのお付き合い」なのです。それが究極的には
「私達がキリストを生きること」に繋がって行くのでしょう。
ですから、どうしても
「おそるおそる」や「一歩踏み出してみる」「神との
キャッチボールのような地道な祈りの作業」は欠かせないのです。
その様にしてまで、神は私達に祈らせたい、
神に対して問いかけさせたい、神を待ち望ませたい、のです。
それは私達の日常生活一歩一歩において、私達が遂には、100%
真実に神により頼むようになるためです。目の不自由な人が、手を
引いてくれる人により頼まなければ、全くただの一歩も歩けない様に。
☆☆:
この人の霊の「直覚」を通して、軟膏をあなたの肌に「指先で微妙に
優しく塗る」ような聖霊の語りかけは、私達が普通「感覚」と呼ぶ
ものとは全く次元の異なったものである、と言えます。人の所有する
感覚はそれが外の器官であればあるほど、分かりやすく、しかし
より荒々しくなります。(体の感覚はその最たるものです)
しかし魂の感覚とは言え、それはあくまで被造物のそれです。しかし
聖霊は基本的に「被造物ではない」のであり、それはあのイエスの
中に存在した「真の命が持つ無限の繊細さ」を持っているのです。
多くの場合、初めその深い「感覚」は一体それが何であるのかさえ、
把握出来ません。ですから、私達はそれを無視するのが普通です。
また霊を取り巻く私の魂の活動(感情、思い)が一日中、余りにも
にぎやかあるならば、その繊細な霊の動きに私達が気が付く
可能性さえないでしょう。(なお、霊の一機能・良心も直覚を介して
私達に感知されます。)
さて
聖霊はこの直覚を通してだけ、人に語りかけられるのですから、
私達は内におられる聖霊というお方に対して深い敬意と
愛とそして十二分の注意深さをもって、接しなければなりません。
さて
私達がしばしば聖霊からの感覚を無視してしまうもう一つの大きな
理由は、聖霊の意図はあなたの理性や感情とは関わりなく、直接
神から来るという事実です。(だから直覚と呼ばれるのでしょう)
聖霊が私の理性や理屈、好みに問い合わせすること等ありません。
従って普通私達は「ある聖霊の意図」を感知したとしても、「そうは
言われても、そんなに簡単に服従するわけには行かない」と
軽率に反応してしまうのです。
にもかかわらず、聖霊があなたに対して彼の意図をたやすく変更する
ことはありません。しかし、あなたに語りかける静かな語りかけに
対して、あなたが長期間 服従することをせず、敢えて何度でも
無視するならば、遂には「そのレベルでの」聖霊の働き・あなたへの
神の意図を、あなたは決定的に遠ざけてしまう結果となるのです。
しかし、それは神とあなたにとって、
極めて大きな損失であることは言うまでもありません。なぜなら
それはあなたに対する一つの「聖霊の譲歩」であったからです!
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