この箇所のパウロのことば:
「キリスト者の妻や子供が聖別される」にある「聖別」とは
性質上の聖の所有ではなく、地位的な聖別、言わば神による
区別に過ぎません。元々聖別とは、神の目的の為に分離される事
です。神から見てキリスト者は性質上あまりにも聖い
(キリストの故に)ので「そのキリスト者に属する妻子」
は、地位的に、時空の中、物質世界において、神は彼らを
「他のものから分離、聖別する」のです。
この「地位上の聖」については原則的に
「黄金を聖いものとする神殿」(マタイ23の17)や
「祈りによって聖められる食物」(Ⅰテモテ4の5)
と同じ原則が適用出来るでしょう。
*
真のキリスト者とは、人の霊の中において、
実質上、本質的に、神そのものの命と一つにされた聖なる存在、
即ち聖徒です。だから内的には彼はイエスと全く同じです!
それは神にとってあまりにも貴重な存在です。
故に、その「キリスト者に属する」人さえ、即ち彼の妻子も
「地上的には、物質的には」彼の一部なので、立場上「他の彼に
属していないもの」とは区別して、神は大切に扱って下さるのです。
それが地位的な聖別、分離、区別です。
だからキリスト者の妻子が「永遠の命を頂く」ためには
とても恵まれた場所、救いに極めて近い所にいると言えるでしょう。
しかしある時、彼らでさえ、個人的にイエスに心を開き、
イエスを神の子として受け入れる瞬間が必要です。
その瞬間その人は、神の命を内に頂き、神の国の中へ、何と
「神から生まれる」のです。それは「ある身分の賦与」のみならず
言わば「神の家族の霊的天的な血」*を受け継ぐことです。
それは決定的、本質的、性質上の問題なのです。
*
人が救われる為に、信仰は欠かすことが出来ません。仮にもし
「キリストの血は全世界のためであったから、人は神を信じなくとも
救われる筈である」と人が言うならば、それは神の真理の
根源的な部分を破壊することになるでしょう。
これは決して小さなことではありません。
信仰は恵みと絶対的に一つであり、それらを人の手によって
切り離すことは出来ません。それは「神の定め」なのです。
アブラハムとサラは決して「別れられなかった」のですが、
その場合、サラは恵みを、アブラハムは信仰を表しています。
従って、もしある人が「その一方の信仰」を破壊するならば、
その人は、神の恵みをも破壊することになり、彼はいずれ、
相当深刻な事態を身に招くでしょう。(アブラハム、サラの物語から)
人は、キリストの十字架が「個人的にその人に適用されること」によって
初めて救われるのす。しかし、またもや人が、人は「肉の血縁」によって
救われると言うのならば、彼は神の救いの真理の根幹に触れ、おのずと
「キリストの十字架の価値」と「その適用の必要」の真理に
抵触して行くことになってしまうのです。これは深刻な事態です。
「神の第一級の」性質上の命の救いにはどうしても、人の信仰による
個人的適用が欠かせないのです。
☆
以下は付録として記します。
しかし聖書にこういう他の面はあります。
真のキリスト者は神にとってあまりに尊いので、それ故に
そのキリスト者が艱難に遭遇している時、水一杯をキリスト者
(イエスの兄弟)に恵んだ人でさえ、その行為の故に
その人が「神から頂くある大きな幸い」から逃れることはありません。
その恵んだ人は「神を内に命として頂くという性質上の救い」
に預かることはありませんが「神の救いの領域の中に」救われる
人となるでしょう。そういう人々は最終的には新エルサレムにおいて
「地的領域における諸国民」を形成するでしょう。
また命を分与される「恵みの福音」或いは「天国の福音」でなく、
艱難時代に「永遠の福音」を受け入れた人々も同様です。
(黙示録14)彼らは神を正当に拝む人々となるでしょう。
しかし彼らとて「神の家族、イエスの兄弟」となり、
命・性質において神のものになる、ことはあり得ません。
*
キリスト者、キリストの命を内に持つ者とは、あまりにも卓越した
霊的、天的な存在です。はや千年王国でさえ、彼らの中の
「正常な者達」は「天において」イエスと共に、
地と地の民とを支配するでしょう。
一方「物質的、地的な神の民」ユダヤ人、そのレムナントは
地的領域を支配し、人々に、真の神への礼拝を指導する筈です。
しかしそれらの素晴らしい救いでさえ、あの「第一級の卓越した救い」
には遠く遠く及ばないのです。
今この時代に永遠の命を頂くという稀有な救いに預かる少数の人々は
言わば「気が遠くなるような」恵みに浴するのである、
と言ってもよいでしょう。それは完全に人の思想を超越する事実です。
何と彼らは「神の子となる特権」にあずかるのですから。
注*:
「神の家族の霊的天的な血」と書きましたが
厳密に言って、天には「からだ」はあっても、血はありません。
何故ならイエスの血は、あの十字架において
総てその骨肉から注ぎ出されたからです。
今回、分かりやすさの為、「命の結合」を表現するべく、
敢えてこの言葉を用いました。
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