2011年9月22日木曜日

自分の目で

エペソ1の21をパウロは
「支配、権威、権力、権勢」と書いたのではありません。
「支配、そして権威、そして権力、そして権勢」と
書いたのです。

ところが、英語訳や永井訳をのぞき、原文に忠実である
とする岩波訳やウイットネスリーの回復訳も含め、私の知る
限りの訳では、この「そして」を全部とりはずしております。
何故あえて、そんなことをする必要があるのでしょうか。

その理由は、彼等の感じるところに従って、
日本語としての美しさや「合理性」を重んじたためなのでしょう。
しかしそれはよくないのです。たとえ、ぶかっこうに見えた
としても、原文の通りに訳してくれないと、真に神のみこころを
聖書から求めようとする読者にとっては、それでは困る筈です。

20~22節
神は・・キリストを天上においてご自分の右に座せしめ、
彼を、すべての支配、「そして」権威、「そして」権力、
「そして」権勢の上におき、「そして」この世ばかりでなく
「そして」きたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上に
おかれたのである。
「そして」万物をキリストの足の下に従わせ・・た、のです。
(計6個の「そして」は全部同じ原語・kaiです)

ここでパウロは・・
今イエスが神から与えられている権威は、
「一つ一つ、一個一個例外なく」サタンや人間の持つ
あらゆる権威に比べて、比較にならない高さにある、
ということを強調したかったのでしょう。

多分当時の読者には
この多くの「そして」に込められた、パウロの
迫力が伝わったのではないでしょうか。

ところで、どんな聖書の訳であっても
「この訳を読んでいれば間違いはない」という訳はないし、
また「彼の解釈ならば全部正しい」という人もいません。
だから可能なら、私達一人一人が少なくも聖書のキー
となる言葉に関しては自分の目でシッカリと確認する必要が
あるはずです。


さて、
「キリストの権威の大きさ・高さ」と言いますが、それは
どれぐらいの程度なのでしょうか。
その答えは「それは無限です」と言うしかないでしょう。
とするならば、他の権威の高さは、それがどんな権威であろうと
「無限に限りなく」低くなる計算になります。

従って私達は「サタンや堕落天使の権威」を大胆に
「無である!」と声高に宣告し、彼等を辱(はずか)しめる
ことができると信じますし、多分、行間に込められた
パウロの主要な意図は正にその点にあったのではないか、
と考えております。

2011年9月21日水曜日

小さな電気工事をしました

今日は一日雨。
でも嬉しいことに明日は朝から晴れです。
それにしても実家の利根川は大丈夫でしょうか。

昨日は一寸した電気工事をしました。きのうまでは
居間に100ワットの電球をつけていたのですが
今日から机に向かう時はたった20ワットですみます。
(デスクワーク用スポットライトです)どうやら
電気工事にも少しはなれて来たようです。


★ウソ力(りょく)★

確かに「ウソ力」というものがあります。
それは、人にリアル性を感じさせるものであり、そこには
ある権威が背後にあり、秩序や活動が存在するのです。

だから、ウソによって建てられた
さまざまな建築物(構造物)は確実に存在します。
(物質の構造物だけではありません)それは多くの場合、
山のように人の眼前にそびえ立ち、私達はそこにリアリティや
勢(いきお)いを覚えざるを得ません。確かにその山々は
「ある現象」には違いないのです。

ところが
ある現象だからと言って、本物とは限りません。
例えば蜃気楼(しんきろう)は、確かにある現象ですが、
本物ではないようなものです。(実は私もそのような現象を
この山で見たことがあります)それらは
間違いなく「ある現象」には違いないのですが、
「実質」ではないのです。だから
「どの現象を信じるか」はとても大切です。

それらウソから出て来た現象の特徴(とくちょう)
としては、一時的、変化する、腐敗しやすい、
「可燃性」である、空虚である、神から人を離す性質
(死の力)を持つ等があげられます。それらは確実に
人をだまし、究極的にはきわめて大きな悲しみの深みに
人を沈めてしまうことになります。

結論を言えば
「キリストの復活から出たもの」
すなわち「永遠性のもの」「不死性のもの」でなければ
いくら人の五感で「あるある」とリアルに感じられた
としても、決してそれらは「実質」ではありません。

聖書とは、この
「キリストの復活から出たもの」と
「ウソ力から出るさまざまな現象」との比較を
見せている本なのでしょう。

今朝、新しいスポットライトの下
雨を見ながら、そんなことを考えておりました。

*「可燃性」である、とは
いずれ神によって燃やされると言う意味です。

2011年9月19日月曜日

今日からは内装工事です

きのうまではとても順調に
マキ小屋・第二屋根の工事が進行しておりました。
そして今日は
15本のネタ(タルキ)を渡せるはずでしたが、
朝から霧雨となり、
(昨晩はあんなにクリアな満天の星空だったのに)
外の工事はムリでしょう。だから
今日から木曜日までは内装工事となるはずです。


★無言の神★

聖書は偉大な「矛盾の書」です。例えば
「神の平安」ということばがピリピ書にあります。
(4の7)だから神には
サタンも動かし得ない平安があります。その意味では
誰も神の幸福を揺るがすことは出来ません。
これが基本の真理です。

しかし創世記を見ると神の心が、その創造の結果について、
「よかった」と感じた日と「とてもよかった」という日と
神が大きな安息に入られた7日目があるのを見ます。

しかしまた、注意深く聖書を読んで見ると
神が「無言になられた日」というのがあるのに気づきます。
当然この無言の日とは、神の心が「よかった」とは
感じられなかった日です。

このように神は、私達以上に「きわめてデリケートな」
感情をお持ちであることが分ります。
(創世記の一字一句にミジンの「でたらめ」もありません。)
必ずそこには深い真理が隠されています。)

それを人のことばで表現するならば
神はその日、アンハッピーであったと言える
のではないでしょうか。

さてそれでは今日という日(即ちこの時代)
神の敵がこんなにも横暴(おうぼう)を極めており、
あらゆる手をつくして「神のみこころ」に反対している
というのに
神は「よかった」とか「はなはだよかった」とかと
言うことが出来るでしょうか。それは不可能なことです。

神が無言だった日というのは二日目です。
何故かと言えば、実はその二日目にはサタンが
関係していたことが考えられるからです。
(そのワケについては後日に)
暗闇の陣営の介入があると時に神は無言になられます。
(私達はしばしばそうです。)

一方神が「とてもすばらしい」といわれた日は6日目です。
何故でしょう。それはいよいよその日は
人が造られた日であったからです。そして
「グッド」と言われた日は第1、3、4、5日目です。
それは人が造られるための準備の日々であったからです。
(こう見ると、私達の神はまるで
誕生する赤ちゃんの為のお母さんのようです。)

このように何と神の創造の焦点は人間であり、
神の心の焦点は人です。

しかし、私達はその背景には
サタンの悪事がありまた「無言の神」がおられる事実を
忘れるべきではありません。
このように、人が造られた理由は
「人によって神が幸福になられるため」
であることは明らかです。


かの日確かに私達は、神には一点の矛盾もなかった
ことをしかと知るでしょう。

2011年9月18日日曜日

マキ小屋、第二屋根工事へ

きのうの作業はトントンと進み、感謝なことに
マキ小屋の屋根の合板張りが、70パーセントは終わった
のです。今日は「第二屋根」にかかれるでしょう。
屋根が一枚だけだと、色んな点で不都合が生じますので、
第一屋根の上部に第二屋根がおおいかぶさるような構造に
したのです。第二屋根は母屋の壁から張り出すように
下がります。

★立ち上がり過ぎと立ち上がらな過ぎ2★

以上が
今日の人類の姿であり、もはや人に
「敵に対抗するべき神の形、姿」は全くありません。
キリスト者でさも、その影響下にあるので、
「人が治める?トンでもない。
何もしないのがクリスチャンじゃないですか?」などと、
聖書のどこにも無い、ひどいカン違いをしているのです。

これはルッターや先人達の「ごく一部の教え」を
キリスト者の生活総てへと拡大解釈したものです。
聖書は明らかにどこもかしこも、各種の「するな」や
「しなさい」で満ちています。

このアダムの誤解から生じた弱腰に乗じて今日、
一部の人間の
「私があなた方クリスチャンを治めてあげます。
だから私の所に身を寄せなさい。」が
普通のごとくまかり通っているのです。

以上の理由のために
「総てのキリスト者」
(私達は聖書によると全員が神の王達、祭司達です)
に対して、パウロやペテロが、あなた方は
「サタンに対して立ち上がりなさい、悪魔に対抗しなさい」と
強く主張しているのではないでしょうか。

2011年9月17日土曜日

立ち上がり過ぎと立ち上がらな過ぎ1

ルシファーもアダムも、神によって万物を治めるべく
「立ち上がるように」と命じられました。
しかしある時から、ルシファーは「立ち上がり過ぎ」
アダムは全く立ち上がらなくなりました。
この二つが根本的な問題です。

ルシファーの立ち上がり過ぎはヒドイもので、
総ての彼の所有(王、祭司、預言者の身分)は神からの
もらいものなのに、何と彼の背後の「真の王・頭・主」
である神の子に嫉妬し、対抗したと言うのです。
本当に彼はあきれた「大行き過ぎ番頭(ばんとう)」です!
(それまでは大いに良かったのです)

このために、パウロは今日、サタンの手下である悪霊や
堕落天使に対して
「実は真の頭、主はサタンでなくイエスだよ!」と宣言し
サタンの王国をかく乱しているのです。(とは言え彼等が
悔い改めることは不可能です。後悔はするでしょうが!)

これとは逆に
アダムには、①番頭どころか、何とルシファーにはない「神の姿と形」
さえある上に、②三で一の神は「彼に万物を治めさせよう」と
明言れされたにもかかわらず、ある時アダムは、だらしなくも
腰が引けてしまったのです。(それまでは良かった筈です)

それは彼に対する妻の影響が大き過ぎたせいもあるようです。
彼が立ち上がるべき正にその時が来たというのに
彼は結局、恐らく妻への「愛情」の故に、サタンの①いないフリと
現れたとなったら②サタンの美しい変装術と③話術に、まんまと
妻と共に乗じられてしまったのです。

それが「私達のお父さん」の基本的な性質なのですから、
今日この三つのサタンのウソに打ち勝てる子孫はいません。
(そして人間関係にも)

それにしても「正しく」(即ち過不足なく)立ち上がることは
何と重要なことでしょう。


アダムには多分、
真相がある程度分っていたのではないでしょうか。
しかし「分っていた」だけでは「かの日において」神に対して
何のいいわけにもなりません。その上、今日「後ろ指をさされる」
代表はエバではなくアダムです。

2011年9月16日金曜日

マキ小屋作りの再開

昨日はマキ置き場のヤネが完成し
今日からいよいよマキ小屋作りを再開しております。

既に、床と北側の柱は終わっていましたので
今日は南側の柱からでした。それも今日の午前に
終えたので、午後は多分南北にネタを渡す所まで
行くでしょう。

ネタは2バイ4を半分に割って使用します。
ネタ(タルキ)の距離が180センチから220センチ
くらいなのでそれでも大丈夫の筈です。
(ヤネが雪の重さにたえるか、ということです)

マキ小屋ですので、暑さ、寒さ、スキマ風などは
全く考える必要はありません。
「当たり前でしょう」と言われそうですが
私にとってはこれがナンだか嬉しいのです。

私の山小屋作りは、これまでの20年間、
雨やスキマ風とのタタカイであったからでしょうね。

明日からは連日・雨模様とのこと、
今日は一日、貴重な外仕事の日となるでしょう。
さて、それでは・・

2011年9月15日木曜日

マキ置き場にヤネをかけます

昨日は何と、森に散らばっているマキを全部、
(一年分はあると言う)
完成したマキ置き場につむ所まで行ったのです。

今日はマキ置き場にヤネをかけます。
当たり前ですが、
屋根をつければ、生木も早く乾(かわ)くからです。


★コロサイ2の10の別訳(やく)★

あなた方(エクレシア)は、総ての
「支配たち・権威(けんい)たち」の頭(かしら)キリスト
の中で(キリストに)満ち満ちている。

支配達、権威達とは、天にいる
サタンの手下である堕落(だらく)した「もと」天使達です。
彼らはサタンの大幹部(かんぶ)です。
地上の悪鬼達とは、その幹部の「下ばたらき」達です。

ここでパウロはあえて、
「堕落天使達の頭は(サタンでなく)キリストである」
と言っています。
この真理は悪霊達(堕落天使達、悪鬼達)を
大いに悩ませる宣言となりえます。なぜなら、
サタンの手下どもは、一時的にせよ、それを聞くと
大いにドッキリとし、誰に従ったらよいか分らなくなるからです。
結局、彼等はにげるしか手がなくなります。(法をつきつけ
られると「地上の悪い人間」も同様の反応をしますが、
これは悪人の法則です。)

もう一つ素晴らしいことは、パウロが
「エクレシアは、そのキリストと一つであり、
そのキリストに満ち満ちている」と言っていることです。
エクレシアの中には、この事実があるからこそ、創世記で、神が人に
ついて、エデンの園の中のかくれた悪者達を「治めさせよう」と
言われた言葉は、今現在においてこそ有効(ゆうこう)なのです。

またこれはイエスが
「キリスト者をこの地上につかわす」
と言われたこととも一ちします。(ヨハネ福音17ノ18)
しかし、私たちが、たとえ遣(つか)わされたとしても、
(実際総てのキリスト者はつかわされてはいるのですが)
ヘビ、サソリを治めないで、逆に彼等悪霊に支配されている
としたら、その「遣わされ」にどんな意味があるでしょう。

まとめて言うと、
キリスト者には(少なくもこの地上では)
神の子・キリストに「なり代わり」、三で一の神を「代表して」
ヘビとさそりを従わせる役目が与えられている、
と言えるのです。これは「エライこと」には違いありませんが、
明らかな聖書の主張です。


ピリピ2の10,11も同じ効果(こうか)があります。

2011年9月13日火曜日

「薪置き場」作りを再開しました

今度の冬のマキには、もう間に合わないかも知れませんが
ようやくきのう「マキ置き場」作りを再開しました。

森の木を切って来て、二本を線路状に並べ、その上が平らに
なるように板を置いて釘で固定する、と言うやり方です。
昨日二つ目が完成しました。今日はもう二箇所作りたいです。
それが終われば森に散らばったマキをそこに積める
というものです。そのマキ積みが終われば「マキ小屋作り」も
再開できるでしょう。


★最も深刻な問題★

全聖書を見るとき
「支配する」は最重要テーマの一つです。聖書を簡単に
説明して見れば、創世記から黙示録まで、神とサタンの
二者が「支配する王権」を争っている、とも言えるのです。

(とは言え、当然サタンは被造物という限界を超えることは
不可能であり、神はやはり神です。これについては今回は
触れません。)

したがって、聖書のどこででも「支配する」という意味が
現れる場合は必ず「神の、サタンに対する支配」という意味が
根底にあるはずです。(「人の問題」よりも更に深い所に)

その際に用いられている主要な語は
新約ではバシレウ、旧約ではラダという原語のようです。
ですから、新約でこのバシレウという同じ言葉が時には
「支配する」と訳され、時には「王である」と訳されています。
当然「その支配」は、全聖書の主要テーマである
「神の国や天国」における支配のことです。

このように、
聖書で「支配する、治める」という場合、それは必ず
「王として」支配する、治めるという意味です。
(民主主義的に、ではありません)

ですから、その治め方には必ず、静かな力と権威を秘めた
天の高貴さ、ロイヤリティの気品が漂っていなければならない
ことでしょう。従って人にとって「何が真の天の高貴さなのか」
の識別力・感知力がとても大きな分岐点となってしまいます。

何故なら人にそれをリクツで教えることは不可能ですし、
その点においてこそ、あのだます者のウソが巧妙に人々
(キリスト者をも)をかく乱するからです。

さて黙示録の最後に、全聖書の結論のように、
「人が人なる」キリストと共に「王と祭司として万物を治める」
が書かれています。これが神の究極的な願いに他なりません。
ポイントは「人」です。

所がそもそも、この王権と祭司職は、太古においては
堕落する前のサタン・高貴な「御使い」であるルシファー
に与えられておりました。

しかしながら
何と今現在にいたるも、その王権がサタン・神の敵によって、
神への反乱の中で不法に乱用されているのです。
それはあたかも、とても大きな権能を与えられていた
「侍従長の大反逆」のようです!

その点にこそ全世界、古今東西の、総ての痛み、悲しみと
苦しみ、そして全宇宙におけるあらゆる混迷の源が存在
していると言えます。

創造主・全能なる神にとってさえ
サタンをはじめとする邪悪な霊どもの巨大な組織や体系
(コスモス、聖書でいうこの世)
の中で働いている「暗闇の支配」をどう対処して行くかは、
「この時間の中においては」
きわめて困難で深刻な問題であると言わなければなりません。

(Ⅰペテロ2の9、黙示録20の6,22の5、
エゼキエル28、等)

*ちなみに、全聖書中、上記の意味では
ギリシャ語バシレウ、basileuō、βασιλεύω、は18回使用され
ヘブル語ラダ、radah、רָדָה、は22回使用されている
とのことです。

2011年9月10日土曜日

トタン板の接着工事

ロフトデッキの古い床の防水工事です・・
昨日、床を全面トタンでおおったのですが
トタンの接合部分にはある接着剤を使用しました。
しかし既に
腐食した部分の合板の上に、他の板を重ねてしまって
いたので床の表面の凹凸が激しいのです。これでは
高性能の接着剤でも、効果は最悪ゼロになって
しまいます。その接着がうまく行ったのかどうか、
今日はその点検と手直しです。


★キリスト者の自治について★

自治と言う意味は
「自分が自分を治めること」ですが、この「二つの自分」の
意味は異なります。それは即ち、自分Aが、他の自分Bを
治めるという意味です。(この相違については後日に・・)

さてある注解によると
この自治という言葉は原語ではἐγκράτεια(エグクラテイア)で、
自分の欲望、特に感覚的な「食欲」を支配する人の徳・・
と言う意味で用いられているのだそうです。
この場合「支配する」がキーとなります。

この言葉を、有名なガラテヤ書5の23では
「聖霊の実である徳の一つ」として「自制」と訳しています
(新改約)。他の箇所では「節制」と訳している場合もあります。

自制や節制という訳は誤訳とは言えませんが、
パウロが意図した意味は、単なる自制「自分をおさえること」
ではありません。人は「自制」や「節制」と聞くと
「なんだ宗教的ガマン」かと思ってしまうかも知れません。
そうではありません。要点はガマンではなく、支配です。

人にとって、特にキリスト者にとって、
自治・支配すること、治めることはきわめて重要です。

2011年9月9日金曜日

うまく行くかな、デッキの床の防水工事

今日、ロフトデッキの床を全面・濃いみどり色のトタン板で
カバーし、床を雨から守る工事をします。下に守るべき板が
あるのですから、釘は絶対に使えません。だからポイントは
よい接着剤です。しかし、素人大工にとって防水工事ほど難しい
ものはないのです。うまく行くとよいのですが・・


★キリスト者vs悪鬼★

真の夫・イエスは天に帰られました。
従って地上に取り残された私達は「あのやもめ達」です。

さて聖書によると、
主イエス対サタン、「父なる神」対この世、聖霊対肉
という3つの対比が見て取れます。

サタンはイエスキリストのマネがたくみです。だから今彼は
天(多分第三の天ではないと思われます)にいて、
堕落した天使達(彼等は別の天、空中にいるのでしょう、
エペソ6ノ12、コロサイ2ノ15)をさしずしているのですが、

近い将来サタンは「ある一人の人物」に受肉して、地上に
現れます。その魅力は甚大(じんだい)で「地に住む人々」は
彼を救い主として喜んで礼拝し、全世界、全人類は一つに
統一されるでしょう。それはある意味で彼等が今心に
抱いている理想(ヒューマニズム・人間主義)の実現です。

しかしこのことの序曲は既に始まっているようです。それは
人々が「自分を救ってくれるかのように見える美しい存在」を
「自分の神」(アイドル)として慕い愛すること等です。

さて福音書を見ると
①サタン②堕落天使以外に、悪の勢力がもう一つあることが
分ります。それは③悪鬼(悪霊)達です。この悪鬼達は
サタンや堕落天使達とは違って、天ではなく、明らかに
地上に存在しています。この時代、その表れはとても
顕著(けんちょ)です。

太古において、堕落する前、彼等は人に似た、霊を持つ高度な
生き物として地上に存在していたのですが、アダム以前に
神の裁きによって体が奪われた結果今、彼等は日夜、付着する
べき人の体の機能を求めているのです。その体には、
キリスト者の体も十分に含まれます。

だから私たちは自分の体(目、耳、口、手、足、舌・胃袋等)を
シッカリと治める必要があります。それこそが真の自治です。
私が何を見、何を聞き、何を語り、何に触れ、どこに行き、
何をどう食べるか、は神の御前に、決して軽いことでは
ないでしょう。
(堕落天使には自分の「霊の体」があるので、人の体に
取り付く欲望はあり得ません。)

以上を見るとき、一つの結論が出てきます。
それは神の陣営の中で、明らかに地上に残されているのは
キリスト者であり、悪の陣営の中で明らかに地上に存在するのは
悪鬼達であるという事です。

ですから私達は特に、この悪鬼達を治める必要があるのです。
何故なら、実に日常生活の只中で、絶えず私たちの体に直接
触れようとしているのは、地上をはい回る見えない邪霊(サソリ)
達であるからです。従って上記の「真の自治」なしに、この地上に
神の国が現れることはあり得ません。神は言われたのです、
人に「地をはう総ての生き物を支配させよう」と。
(創世記1の26)

この事実は、かつて地上におられた時の人の子なるイエスの言動を
見れば明らかです。だから「神の国の表れ」と「悪霊達の後退」は
完全に同じ意味です。(注:これはいわゆる「悪霊追い出し」
とは全く異なります。)

今キリストの体は地上でなく天にあるのですから、
今悪鬼に対抗する存在は「キリスト人」しかありません。
そしてこの両者・キリスト者と悪鬼の争点は、
人の体を経由した人の魂です。

「私が・・悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国は
あなた方の所に来ているのです。」(マタイ12の28)



真の自治とは:
自分にぞくする総て、即ち魂と体のあらゆる機能は
真の自分、即ち私の霊が治めるという意味であり、
それらを他者に治めさせない、触れさせない、侵入させない
ということです。

この他者というのは、人の体の機能に付着し、その機能を占拠し
ついには根城(ねじろ)にするべく絶えず付けねらっている
上記の高度な見えない生き物達です。

もしもそのような意味での自治がなければ、人の自由は
あり得ません。何故なら他者が私を治めているからです。

2011年9月8日木曜日

当時のお金

当時のお金の価値を実感するには
1デナリが当時の一日の賃金であったことから考えると
分りやすいです。
やもめのレプタは、1デナリの128分の1だそうです。
だから、今の日本での一日の賃金を仮に1万円とすると
1レプタは大体78円、レプタ銅貨2つで156円ですから
このやもめの貧しさはかなりのものなのでしょう。

また、マルコに出てくるコドラントはローマのお金であって
「2レプタは1コドラントに当たる」とマルコは、当時のローマの
読者の為に書いています。当時のローマの大衆用銭湯の料金が
1コドラントであったことはおもしろい情報です。
これからすると、やもめの全財産とは、ローマ大衆のたった
一回の入浴料だった、と言えるようです。

さて
キリスト者であるならば例外なく必ず与えられている
と言う「主にある働き」の為の「最低保証の資本金」
1タラントとは以下のようになりそうです。

これは、やもめの話とは大違いで、
1タラントは何と6000デナリに当たるそうです。
ですからそれに1万円をかけて見ると
6000×10000=60,000,000円
(6千万円)にもなります。

こうなるとクリスチャンでありさえすれば、神の働きのために
既に最低でも6千万円と言う大金が与えられていることになり、
神に対して「私はたった1タラントしか頂きませんでしたので」
等と言う言いわけはかなり難しいことになりそうです。
(マタイ25の14~30)


或は間違いがあるかも知れませんので
お気づきの方はお知らせください。

貧しいやもめの献金

ルカ21の1~4、マルコ12の41~44:
福音書に出てくる貧しいやもめの献金の話ですが・・

それはたったのレプタ銅貨2つでした。これは
私の計算によると、今の日本では156円に相当します。

所がイエスはこの200円にも満たないお金の価値は
神の前では極めて大きいとされました。その理由は、やもめは
神の前で実質・彼女の「生活費全部」を投げ入れたからです。

さてしかしイエスはここで私たちに(物理的に)
常に生活費全部を献金することを勧めているのでしょうか。
そうではないでしょう。何故ならそれは不可能であるからです。
そういうケースも時にはあるかも知れませんが、原則として
神が不可能なことを人に無理強いされることはありません。

所が、不思議なことに
私の「生活費の大もと」、即ち私にぞくする総ての生活の手段、
要するに「私自身と私の力の総て」を主の足元に投げ出すことは
どんな人にでも、どんな場所にいても、どんな瞬間でも可能
なのです。「私たちの総て」とは、私の体、魂、霊の総てと
私の所有物(私の能力、私に残された人生の総ての時間をも含め)
に他ならないでしょう。

言いかえれば
神が私たちに望むことは、どんな瞬間でも、総てを神に開き
自分自身と自分の所有物を自分の手で少しも握(にぎ)らないこと
であり、いかなる事物でも自分の為には少しもとって置かない事、
なのではないでしょうか。この原則は、臨終のベッドに横たわる
人でも、健康な大金持ちでも全く同じであり、これが
この話におけるイエスの真意であるはずです。

この原則
(これは実は献金の話ではない)
に従って歩む人生は、私たちの予測に反し、常にいかなる不足も
生じることがなく、最も身軽で喜びに満ちたものとなるのでは
ないでしょうか。

「主は私の羊飼い、私には乏しいことがない。」
(詩篇23編)これはやもめの対極・一国の王ダビデの実感です。

2011年9月7日水曜日

大道と小道

主よ、あなたの道を私に知らせ、
あなたの小道を私に教えてください。
(詩篇25の4)

主には大道と小道があるようです。
それは主の大きな「みこころ」と小さな「みこころ」です。
しかし結局この二つの道は一本であり、
そのいずれも人にとって唯一の道なるキリストです。

ダビデはこの「ただ一本の道」を知っていたのです。
彼の人生をたどれば、常に彼の目は一つの目的地と
そこにいたる只一本の道に注がれていたことが分ります。

しかし彼の最小の小道とは、ダビデの日常生活において
些細でこまごまとした出来事の中で歩むべきものでした。
当然ダビデにとって、その小道をどう歩むかについて
決していい加減にすることは出来なかったでしょう。
何故なら大道と小道は結局同じ一本の道であるからです。

私たちも
大きな「みこころ」を知り、まじめにその上を前進しようと
する心さえあるならば、主は必ず小さな「みこころ」も教えて
下さり、間違いなく主が意図(イト)されている正しい目的地に
連れて行ってもらえると信じます。

山小屋に行くには第一に
先ず国道6号線に入らなければなりません。
これは大道であり、これを間違えたら元もこもなくなります。

その正しい大道を進むと、徐々に
より小さな道に導かれます。それは
県道や林道であり、最後は草深い私道です。
そうするならば、確実に山小屋に着くことが出来ます。
くりかえしますが、
最後まで私の必要は「唯一の道」であられるキリストです。

2011年9月5日月曜日

今朝の通読から

新約:ルカ18の17
「真にあなた方に告げます。
子供のように、神の国を受け入れる者でなければ、
決してそこに入ることは出来ません。」

ここのみならず、ルカの18章あたりのイエスの
切実な力説に接する時、多くの人々の慰めの言葉に反し
正直、神の国に入ることはきわめて難しいはずであると
感じざるを得ません。


旧約:詩篇27の5
主が「その幕屋のひそかな所に私をかくまい。」

私はエクレシアの「ひそかな所にかくまわれている」のでしょうか。
それとも人目につくにぎやかな場所を獲得したいと
願っているのでしょうか。


利根川のほとり
小さな秋を楽しんでいます。

2011年9月3日土曜日

デッキの床にトタンを張るか

昨日も雨の合間に
ロフトのデッキの床の数箇所、その腐食の修理をしました。
今度、修理したこの木の合板の上に、防水状にトタンを
張ろうと思っております。床にトタンとはあまり聞かない
話ですが、トタンは意外と雨でもすべりにくいのです。
それにしても「石巻合板」の合板はすごい。なにしろ
戸外の床に使用して10年以上もったのだから。


有名な創世記3の14、ヘビに対する主の言葉ですが
新改訳では「お前は一生腹ばいで歩き、チリを食べ
なければならない」と訳しています。

しかしここの「ねばならない」は全く余計です。
口語訳でも「総べての英語の訳」でも、ここに「ねばならない」
はありません。どうしてここに、原語にない「ねばならない」を
加えたのか、はなはだ疑問です。

チリとは人であり、ここは「サタンは人を食して生きる
ことになる」と言う意味であって、神は「サタンよ、あなたは
人を食べなければならない」と言ったわけではありません。
この差異は小さくはないでしょう。

日本語としての「美しさ」などはどうでも、原語の意味を
愚直に示すことだけを目的としら日本語訳が待たれます。
(それはきわめて困難な仕事であることは分っておりますが・・)

ちなみに、詩篇27の2
「悪を行う者が私(ダビデ)の肉を食らおうとして」と
ありますが、この「食べる」はヘブル語のakalであり、
この語は創世記3章のヘブル語と同じです。

またこの「肉」はヘブル語のbasarであり、新約聖書の
肉・sarxに該当する語であることは意味が深いです。

サタンの食料は人であることは明らかですが、サタンは何も
人の全体を食べるわけではなく、彼が食べたいのは、ひたすら
ただ人の肉だけなのでしょう。キリスト者の中には、サタンが
食べたいどころか「近寄りたくも、考えたくもない」という部分が
きっとあるのです。

それにしても、サタンがこの地上で、食料にことかくように
なるのは、一体いつのことでしょうか。

2011年9月2日金曜日

完成する前にクサレかけた

昨日は雨の合間を見て
とても古くなったロフトのデッキの修復にかかりました。
この小屋はまだ完成していないのにもう腐りかけている
のです。(これは何かを表していないでしょうか。)


聖書の通読、旧約は今まだ詩篇です。詩篇26の4~8:

①私は不真実な人と共に座らず、偽善者と共に行きません。・・
②主よ、私は手を洗ってきよくし、あなたの祭壇の回りを
歩きましょう。
③感謝の声を聞こえさせ、あなたの奇しき御業を余す
ところなく、語り告げましょう。
④主よ、私はあなたのおられる家と、あなたの栄光の
住まう所を愛します。

この旧約時代のダビデの言葉の中に
新約の②キリストの血と③私達の宣言と、そして④エクレシアが
あります。

②祭壇とは新約では十字架です。ここにおいてダビデは
動物の血から見る真の子羊・主の血を、彼の生活の場において
あり難くいただき、日常どうしても自分の手が触れてしまう
小さな罪やけがれ、過失、失敗をさえ、ただイエスの血によって
そのツド洗っていたことでしょう。

③「くすしき」とはヘブル語のpala'で
「ワンダフル 不思議な、考えられないような」と言う
意味だそうで、正に新約とピタリです。
これは明らかにキリストの十字架、復活、昇天、御座を
言っています。私達はこのイエスの圧倒的な勝利と敵の敗北を、
総ての造られた者達に日々「声に聞こえさせ、余すところなく、
語り告げる」必要があります。

④神の家は当然新約ではエクレシアです。私たちが愛すべきものは、
ただ主とそして神が愛するもの、即ち神の家以外にはありません。

①しかしまた私達は「この世との交流」には十分気を配る
必要があります。私達は絶対に修道院に行くべきではありませんが
この世と「共に座り、行く」べきでもありません。