永遠とは
時空以前 時空以後、 創られ得ない神聖なる神の領域
復活とは
死を経て 人がその永遠の中に入ること。
* *
時空と言う
太古の昔 神がしつらえた 宇宙大のステージの上
繰り広げられて来た 壮大極まりない天地のドラマ。
そして時至り
永遠なる神の子が 人の子として時空の中に下られ
遂に 永遠の御業を完成されたのは
ただ
人の中だけに「永遠」をもたらし
人だけを「永遠」の中に連れてゆく為。
だから 今
信じられない事実:
あなたの中に 復活があり
あなたは 永遠の中にある。
今この時代 この時空の中
私が今暫く 何としても留まらねばならない
この制限多き肉体と
私を取り巻く幾多の事象は:
あの永遠のキリストが 既に完成成就された
「あの至高の所に共にある」と言う圧倒的真理を写し出す為の
御使い達が 固唾をのみ 驚きのまなこで見つめる
今 この時代にだけしか存在し得ない
唯一の 神のスクリーン。
2007年5月11日金曜日
たけし君への手紙
「キリストと一つにされている」
を信じる信仰について
* *
お変わりありませんか。
さて 聖書には
「神は総てのよきものを 唯キリストの中に集結させた」
と言う一大原則が示されております。(君はびっくりするでしょうが
神の言葉によると キリストの中 以外には いかなる「よきもの」も
存在しないのです!「よきもの」の例:キリストの達成、勝利、キリストが
何であられるか、総ての徳、完全さ、美しさetc.)
だから当然 私達には その宝の箱であるキリストと一つになると言う
素晴らしい道しか 残されていない!と言うことになります。
従ってもし たけし君が キリストと一つになる事が出来さえすれば、
キリストの中の 総てのよきものは たけし君の所有となるのです。
所が 何と何と そのキリストと一つになる と言うことさえ
神はもう既に 完成成就し、私達に与えて下さっているのです。
私達は「既成事実」として キリストと同じ木とされている!
(ヨハネ福音15章)「あなた方が キリストイエスにあるのは 神による。」
(Ⅰコリント1‐30)のであって あとは これを単純に
信じればよいだけなのです。何と信仰は簡単でしょう。
感謝します!信仰とは 単に神から「いただくこと」なのです。
ただ ここで ウソつきサタンが 私達に その真理と矛盾した
リアル感十分の感覚を送って その神の真理を信じさせまいと
私達の思いの中で 日夜 勤勉に 必死に働いているが為に、
事は一見複雑そうに見えてしまうのです。
ですから ここで 自分の「感覚、環境、経験」の「3k」を信じないで、
ただ神の言葉だけを 信じる単純な信仰が
極めて重要なキーとなるわけです。
さて サタンのウソをつくこの超能力を前にしては この世のどんな
天才でも 到底タチウチ出来るものではありません。
しかし ウソはウソであり ウソとは真に情けなく はかないものです。
実は 嘘つきサタンに 何を感じさせられようが、構わないのですよ。
私達には 神の言葉という もの凄いものがあるからです。一度この
神の言葉が現れる時 それに対抗出来るものは この宇宙に唯の一つも
存在しないのです。
ですから そういう時こそ 冷静になり、神の言葉と矛盾する
あなたが今リアルに感じている その実感さえも ウソとして退け、
神の言葉の方を選び取り、神の言葉を
サタンの前で静かに「クリック」すればよいのです。
事は単純です。たったそれだけで 神の真理は あなたの為に
直ちにその機能を発効することが出来るのです。
実に この簡単なことこそが 信仰であり、神の真理を認めること
「信仰の行為、信仰の実行」に他なりません。
だから たけし君、一人で ああでもない こうでもないと
悶々としている時間は なるべく避け そこから 早く抜け出し
日に何度でも(30回でも!)事あるごとに
「神よ 私はイエスキリストと今 一つです。それを信じます。」
と口に出して ハッキリと言って見てください。
またサタンに対しても「サタンよ、私とイエスとは
今一つである、これは神の言葉なのだ!」と 声に出して
力強く宣言宣告し、その神の真理をサタンにぶっつけて見てください。
その時 あなたが その真理の上に休み 安息することが出来れば、
まことに上出来なのですが 始めのうちは難しいかもしれません。
ですから 先ずはとにかく「回数多く 事あるごとに 口に出す」を
実行して下さい。
しかし そうこうする内に 或いは あなたの上に
今まで経験したことがないような
喜びに満ちた 甘い不思議な実感が訪れることになるかも知れません。
それはそれで すばらしいことです。そのような時には じっとその
中に浸り 感謝してその喜びをとことん味わえばよいのです。
しかし、それは あなたの信仰の結果なのであり
あまり そのような感動や実感のみを追い求めるべきではありません。
最も価値あるものは ただ単純に 神の言葉を信じる信仰なのです。
何時でも ただ信仰に戻る、私達の生活の土台は 信じること
とするべきです。
私達は ひたすら「信仰によって生きる」のです。
それでは 今日はこの辺で。
またお便り下さい。
を信じる信仰について
* *
お変わりありませんか。
さて 聖書には
「神は総てのよきものを 唯キリストの中に集結させた」
と言う一大原則が示されております。(君はびっくりするでしょうが
神の言葉によると キリストの中 以外には いかなる「よきもの」も
存在しないのです!「よきもの」の例:キリストの達成、勝利、キリストが
何であられるか、総ての徳、完全さ、美しさetc.)
だから当然 私達には その宝の箱であるキリストと一つになると言う
素晴らしい道しか 残されていない!と言うことになります。
従ってもし たけし君が キリストと一つになる事が出来さえすれば、
キリストの中の 総てのよきものは たけし君の所有となるのです。
所が 何と何と そのキリストと一つになる と言うことさえ
神はもう既に 完成成就し、私達に与えて下さっているのです。
私達は「既成事実」として キリストと同じ木とされている!
(ヨハネ福音15章)「あなた方が キリストイエスにあるのは 神による。」
(Ⅰコリント1‐30)のであって あとは これを単純に
信じればよいだけなのです。何と信仰は簡単でしょう。
感謝します!信仰とは 単に神から「いただくこと」なのです。
ただ ここで ウソつきサタンが 私達に その真理と矛盾した
リアル感十分の感覚を送って その神の真理を信じさせまいと
私達の思いの中で 日夜 勤勉に 必死に働いているが為に、
事は一見複雑そうに見えてしまうのです。
ですから ここで 自分の「感覚、環境、経験」の「3k」を信じないで、
ただ神の言葉だけを 信じる単純な信仰が
極めて重要なキーとなるわけです。
さて サタンのウソをつくこの超能力を前にしては この世のどんな
天才でも 到底タチウチ出来るものではありません。
しかし ウソはウソであり ウソとは真に情けなく はかないものです。
実は 嘘つきサタンに 何を感じさせられようが、構わないのですよ。
私達には 神の言葉という もの凄いものがあるからです。一度この
神の言葉が現れる時 それに対抗出来るものは この宇宙に唯の一つも
存在しないのです。
ですから そういう時こそ 冷静になり、神の言葉と矛盾する
あなたが今リアルに感じている その実感さえも ウソとして退け、
神の言葉の方を選び取り、神の言葉を
サタンの前で静かに「クリック」すればよいのです。
事は単純です。たったそれだけで 神の真理は あなたの為に
直ちにその機能を発効することが出来るのです。
実に この簡単なことこそが 信仰であり、神の真理を認めること
「信仰の行為、信仰の実行」に他なりません。
だから たけし君、一人で ああでもない こうでもないと
悶々としている時間は なるべく避け そこから 早く抜け出し
日に何度でも(30回でも!)事あるごとに
「神よ 私はイエスキリストと今 一つです。それを信じます。」
と口に出して ハッキリと言って見てください。
またサタンに対しても「サタンよ、私とイエスとは
今一つである、これは神の言葉なのだ!」と 声に出して
力強く宣言宣告し、その神の真理をサタンにぶっつけて見てください。
その時 あなたが その真理の上に休み 安息することが出来れば、
まことに上出来なのですが 始めのうちは難しいかもしれません。
ですから 先ずはとにかく「回数多く 事あるごとに 口に出す」を
実行して下さい。
しかし そうこうする内に 或いは あなたの上に
今まで経験したことがないような
喜びに満ちた 甘い不思議な実感が訪れることになるかも知れません。
それはそれで すばらしいことです。そのような時には じっとその
中に浸り 感謝してその喜びをとことん味わえばよいのです。
しかし、それは あなたの信仰の結果なのであり
あまり そのような感動や実感のみを追い求めるべきではありません。
最も価値あるものは ただ単純に 神の言葉を信じる信仰なのです。
何時でも ただ信仰に戻る、私達の生活の土台は 信じること
とするべきです。
私達は ひたすら「信仰によって生きる」のです。
それでは 今日はこの辺で。
またお便り下さい。
2007年5月10日木曜日
ドイツに行ってきます
5/21~6/13まで ドイツに行ってきます。これは
シュツットガルトの近く チュービンゲンと言う町の教会の長老が
以前から私を招いてくれていたもので とうとう今回 多分実現するだろう
と言うことになっているのです。
実現するだろう と言うのは 総ては神の手の中にあり、また
私も 積極的に一切を主に委ねたい と言う意味です。
目的はただ 交わり:
諸教会が集まるチャンスもありそうです。ぜひ 彼らから流れて来る
生けるキリストに あずかりたいものですし、また私が最近 主によって
見せられ 経験したものをも交わって来たいと思っております。
* *
交わりとは 不思議なものです。それは決して
話し合いや説得ではありませんし また「教えてあげる」でもないのです。
真の交わり、その中からは うるおし供給するもの、そして何か光りを発し、
また 生きて流れ、また飛び出して来るようなものさえあるのです。
それは単なる会話ではなく ある「天的実質」であり、
その実質は 後日 必ず時空の中で「実体化」するのです。
なぜなら 交わりのリアリティは 復活のキリストご自身であるからです。
更にもう一つ:
もしも、交わりと言うものの実際が、そして教会と言うものの実際が
総ての聖徒間を流れる 今日の奥義的キリストご自身であるとするならば、
私達が 少数のキリスト者間の小さなな交わりに過ぎないと
思っているような交わりでさえ 必ずある影響力を キリストの体全体に
与えずにはおかない ことになるのです。
「生きている体」とは そういうものではないでしょうか。
従って 例えば 私が日本の千葉県で持つある交わりと、いずれドイツの
チュービンゲンで持つ交わりとは キリストの体の命の中では
完全に一つの中にある と言えるでしょう。
(もしもそれが 真の交わりであるならば)
* *
私は今 これからの私のドイツ滞在が そのような
キリストの体の中における 命の交流の日々になることを
ひたすら主に願っているのです。
皆様方も このことを是非 お祈りに覚えて下さるよう
お願い申し上げます。
PS. もし可能であれば、
ドイツでも「山暮らしのキリスト」を
発信したいと思っているのですが・・・
シュツットガルトの近く チュービンゲンと言う町の教会の長老が
以前から私を招いてくれていたもので とうとう今回 多分実現するだろう
と言うことになっているのです。
実現するだろう と言うのは 総ては神の手の中にあり、また
私も 積極的に一切を主に委ねたい と言う意味です。
目的はただ 交わり:
諸教会が集まるチャンスもありそうです。ぜひ 彼らから流れて来る
生けるキリストに あずかりたいものですし、また私が最近 主によって
見せられ 経験したものをも交わって来たいと思っております。
* *
交わりとは 不思議なものです。それは決して
話し合いや説得ではありませんし また「教えてあげる」でもないのです。
真の交わり、その中からは うるおし供給するもの、そして何か光りを発し、
また 生きて流れ、また飛び出して来るようなものさえあるのです。
それは単なる会話ではなく ある「天的実質」であり、
その実質は 後日 必ず時空の中で「実体化」するのです。
なぜなら 交わりのリアリティは 復活のキリストご自身であるからです。
更にもう一つ:
もしも、交わりと言うものの実際が、そして教会と言うものの実際が
総ての聖徒間を流れる 今日の奥義的キリストご自身であるとするならば、
私達が 少数のキリスト者間の小さなな交わりに過ぎないと
思っているような交わりでさえ 必ずある影響力を キリストの体全体に
与えずにはおかない ことになるのです。
「生きている体」とは そういうものではないでしょうか。
従って 例えば 私が日本の千葉県で持つある交わりと、いずれドイツの
チュービンゲンで持つ交わりとは キリストの体の命の中では
完全に一つの中にある と言えるでしょう。
(もしもそれが 真の交わりであるならば)
* *
私は今 これからの私のドイツ滞在が そのような
キリストの体の中における 命の交流の日々になることを
ひたすら主に願っているのです。
皆様方も このことを是非 お祈りに覚えて下さるよう
お願い申し上げます。
PS. もし可能であれば、
ドイツでも「山暮らしのキリスト」を
発信したいと思っているのですが・・・
早朝 5時 山歩きレポート
☆
樅谷山あたり
山吹の黄色が あそこにも ここにも灯(トモ)り
あたり一面 むせかえる木々の若みどりの中
オペラ歌手クロツグミと ソプラノ、ウグイスの
激しい競演。 でも
遠くの のんきな ツツドリの控えめな低音も いいな、
の中で思ったこと:
古きものの一掃が キリストの十字架だとすれば
今 存在するものは 復活のキリストのみ の筈。
だとすれば この時空の中の「リアルな諸事実」そして
今ここにいる 私は 何? 何の為?
それは
「神にある永遠の真理」の証明の為に
その真理を写し出す 時空の中のスクリーン、
に違いない。
樅谷山あたり
山吹の黄色が あそこにも ここにも灯(トモ)り
あたり一面 むせかえる木々の若みどりの中
オペラ歌手クロツグミと ソプラノ、ウグイスの
激しい競演。 でも
遠くの のんきな ツツドリの控えめな低音も いいな、
の中で思ったこと:
古きものの一掃が キリストの十字架だとすれば
今 存在するものは 復活のキリストのみ の筈。
だとすれば この時空の中の「リアルな諸事実」そして
今ここにいる 私は 何? 何の為?
それは
「神にある永遠の真理」の証明の為に
その真理を写し出す 時空の中のスクリーン、
に違いない。
2007年5月8日火曜日
2007年5月7日月曜日
2007年5月6日日曜日
レストランの客 と 店長
レストランのメニューは 実際に料理を注文し食べて楽しむ為にある。
もしもメニューを眺めて喜んでいるだけの客や
サンプルの料理を鑑賞するばかりの 変な客がいたら
店長は立腹し、その客を店から追い出すであろう。
聖書の真理も 単に有難がったり、鑑賞する為にあるのではない。
その真理の能書きを知ることは必要であろうが、その後、オーダーを取り
そして 出された料理を実際に自分のものとして実際の生活に適用し、
その真理がいかに有効に機能するかを体感し楽しむためにある。
例えば「キリストと共に十字架につけられた」は高嶺の花の
有難い教えなどではない。今日直ちに 小学校5年生の兄弟でさえ
その効き目の有効性を楽しむためのものである。
パウロは 当時の一般の人々の日常生活で 直ちに効き目を発効する
キリストにある真理を紹介した「手紙」を書いた積りであって、
偉い先生方の研究や もったいぶり とりすましたメッセージの材料を
提供するつもりなど 毛頭なかったはずである。
真理のメニューを見た後 その客が 自分が楽しむべき料理を
しっかりと選び、注文し、そしてその料理を実際に食べて
楽しんだかどうか、
我らの良き まことのレストランの店長の着目は
その点にのみ集中しているのである。
この店長は料理の味、栄養には絶対の自信がある。
しかし もしその点で不満を感じたら 遠慮なく店長に直接交渉すれば
よいのである。私達は客であり
店長は私達を招いてくださったのであるから。
この店長は 客のそのような「フランク正直な態度」が大好き
という点で 極めて個性的な方なのだ。
この愛と配慮に満ち その上何と ありとあらゆる能力を
十分にお持ちの店長さん 多分そのようなあなたを別室に招いて
時間をタップリと取り 一対一の対話の中で
あなたの健康状態のチェックや その料理の正しい食べ方まで
実に懇切丁寧に教えてくれるのではなかろうか。
総てはあなたの 料理と店長に向かう
真っ直ぐ率直な態度にかかっているのである。
遠慮など無用なのだ
さあ、今すぐ 皆で この素晴らしいレストランに繰り出し
大いに食べて楽しもうではないか!
もしもメニューを眺めて喜んでいるだけの客や
サンプルの料理を鑑賞するばかりの 変な客がいたら
店長は立腹し、その客を店から追い出すであろう。
聖書の真理も 単に有難がったり、鑑賞する為にあるのではない。
その真理の能書きを知ることは必要であろうが、その後、オーダーを取り
そして 出された料理を実際に自分のものとして実際の生活に適用し、
その真理がいかに有効に機能するかを体感し楽しむためにある。
例えば「キリストと共に十字架につけられた」は高嶺の花の
有難い教えなどではない。今日直ちに 小学校5年生の兄弟でさえ
その効き目の有効性を楽しむためのものである。
パウロは 当時の一般の人々の日常生活で 直ちに効き目を発効する
キリストにある真理を紹介した「手紙」を書いた積りであって、
偉い先生方の研究や もったいぶり とりすましたメッセージの材料を
提供するつもりなど 毛頭なかったはずである。
真理のメニューを見た後 その客が 自分が楽しむべき料理を
しっかりと選び、注文し、そしてその料理を実際に食べて
楽しんだかどうか、
我らの良き まことのレストランの店長の着目は
その点にのみ集中しているのである。
この店長は料理の味、栄養には絶対の自信がある。
しかし もしその点で不満を感じたら 遠慮なく店長に直接交渉すれば
よいのである。私達は客であり
店長は私達を招いてくださったのであるから。
この店長は 客のそのような「フランク正直な態度」が大好き
という点で 極めて個性的な方なのだ。
この愛と配慮に満ち その上何と ありとあらゆる能力を
十分にお持ちの店長さん 多分そのようなあなたを別室に招いて
時間をタップリと取り 一対一の対話の中で
あなたの健康状態のチェックや その料理の正しい食べ方まで
実に懇切丁寧に教えてくれるのではなかろうか。
総てはあなたの 料理と店長に向かう
真っ直ぐ率直な態度にかかっているのである。
遠慮など無用なのだ
さあ、今すぐ 皆で この素晴らしいレストランに繰り出し
大いに食べて楽しもうではないか!
オールドアウルス
昨日 あのカップルと一緒に 例のバザーを覗いた際
偶然 この都路村に何と とても雰囲気のある
北欧風 ホテル&レストラン
「オールドアウルス」を発見したのです。
たった千円で おいしいランチを食べさせてもらえると言う。
あなたも 今度 来村の際は ご一緒しましょう、是非是非。
* * *
最後の 「マルシア 力作の」
心のこもった美味しい夕食のあと、
9時30分
ヨタカの遠くの声と 森の涼風の中
2人は 渋滞がほぼ間違いない高速道路へと向かう。
「今度は秋におじゃまします」と
セージの おだやかでまじめな白い顔。
帰宅は 多分早朝になるのでしょう。
☆
偶然 この都路村に何と とても雰囲気のある
北欧風 ホテル&レストラン
「オールドアウルス」を発見したのです。
たった千円で おいしいランチを食べさせてもらえると言う。
あなたも 今度 来村の際は ご一緒しましょう、是非是非。
* * *
最後の 「マルシア 力作の」
心のこもった美味しい夕食のあと、
9時30分
ヨタカの遠くの声と 森の涼風の中
2人は 渋滞がほぼ間違いない高速道路へと向かう。
「今度は秋におじゃまします」と
セージの おだやかでまじめな白い顔。
帰宅は 多分早朝になるのでしょう。
☆
2007年5月5日土曜日
今日 山は夏
2007年5月4日金曜日
死について6
一粒の麦 もし死なずば
(ヨハネ12‐24~26)
ヨハネ12章の場合 種まく人がいるとすれば それは主であり、
種とはあなた自身であると言えるであろう。
そしてここに あなたと言う種の籾殻(もみがら)に 光、吸引力、
不思議、そして言葉なる キリストが命として内包されている、
と言う驚くべき事実がある。
種蒔く人は この世で(25節)一日に何回でも、事ある毎に
様々な人間生活の情況、場面にあなたを蒔いておられるのである!
その時 その状況場面を選ぶ権利はあなたには 殆どなさそうである。
種蒔く人の手から落下した種は 当然のことながら
その人の保護を離れ 必ず 土の中へと埋め込まれることになる。
言うまでもなく 蒔かれた種の向かう方向は
私達が夢想する上昇ではなく下降である。種が 上に舞い上がり
天国に行ってしまった等と言う話しは聞いた事がない。
一時は風に吹かれた タンポポの羽毛についた種でさえ
いずれは地表に着地するのだ。
これは 蒔かれた種というものの運命であるとしか言いようがない。
更に あなたは その上 埋められた地下の 死の状況の只中に
入り込まなければならない。
そこにあるのは 死の 「水分と地熱と暗闇」である。そこでは
あなたと言う麦の 籾殻が打ち破られ、破損し 遂には
麦の命を閉じ込めると言う籾殻の機能が 失われてしまうまで
死の作用は終わることはない。
その時間の長短は 或いは あなたが死の状況をどう受け入れるかに
かかっていることであろう。
しかしここで 敵からのものであろう その死の状況でさえ
見えざる神、真の農夫の偉大なる手の中にあること、
そして あなたの内におられる 命なるキリストご自身が
正に今この時 あなたと共に あなたの死の内を経過して下さっている
と言う事実を あなたは信じることが出来るのである。
そして、遂にその死の作業が完了するやいなや 直ちに、種に
驚くべき生命活動 復活現象が現れ始める。
即ち その同じ死の要素だったもの:水分と熱と暗闇が 今度は
発芽現象と言う奇跡をあなたにもたらすのである。
その後引き続き その種と主の御からだに いかに偉大な生命現象が
現出されて行くかについては 今ここで言うまでもない。
* * *
ヨハネ12‐24の一粒の麦は明らかに主イエスキリストご自身
である。しかし、それに続く節で主は この一粒の麦の原則は
一人一人のキリスト者にも適用されなければならないことを
明言しておられる。
(ヨハネ12‐24~26)
ヨハネ12章の場合 種まく人がいるとすれば それは主であり、
種とはあなた自身であると言えるであろう。
そしてここに あなたと言う種の籾殻(もみがら)に 光、吸引力、
不思議、そして言葉なる キリストが命として内包されている、
と言う驚くべき事実がある。
種蒔く人は この世で(25節)一日に何回でも、事ある毎に
様々な人間生活の情況、場面にあなたを蒔いておられるのである!
その時 その状況場面を選ぶ権利はあなたには 殆どなさそうである。
種蒔く人の手から落下した種は 当然のことながら
その人の保護を離れ 必ず 土の中へと埋め込まれることになる。
言うまでもなく 蒔かれた種の向かう方向は
私達が夢想する上昇ではなく下降である。種が 上に舞い上がり
天国に行ってしまった等と言う話しは聞いた事がない。
一時は風に吹かれた タンポポの羽毛についた種でさえ
いずれは地表に着地するのだ。
これは 蒔かれた種というものの運命であるとしか言いようがない。
更に あなたは その上 埋められた地下の 死の状況の只中に
入り込まなければならない。
そこにあるのは 死の 「水分と地熱と暗闇」である。そこでは
あなたと言う麦の 籾殻が打ち破られ、破損し 遂には
麦の命を閉じ込めると言う籾殻の機能が 失われてしまうまで
死の作用は終わることはない。
その時間の長短は 或いは あなたが死の状況をどう受け入れるかに
かかっていることであろう。
しかしここで 敵からのものであろう その死の状況でさえ
見えざる神、真の農夫の偉大なる手の中にあること、
そして あなたの内におられる 命なるキリストご自身が
正に今この時 あなたと共に あなたの死の内を経過して下さっている
と言う事実を あなたは信じることが出来るのである。
そして、遂にその死の作業が完了するやいなや 直ちに、種に
驚くべき生命活動 復活現象が現れ始める。
即ち その同じ死の要素だったもの:水分と熱と暗闇が 今度は
発芽現象と言う奇跡をあなたにもたらすのである。
その後引き続き その種と主の御からだに いかに偉大な生命現象が
現出されて行くかについては 今ここで言うまでもない。
* * *
ヨハネ12‐24の一粒の麦は明らかに主イエスキリストご自身
である。しかし、それに続く節で主は この一粒の麦の原則は
一人一人のキリスト者にも適用されなければならないことを
明言しておられる。
2007年5月3日木曜日
山は まだ桜の花が
きのう 午後遅く 山に着く。
こちらは 今がようやく樹々の本格的な芽吹きの時、
何とソメイヨシノの花がまだ咲き残っているのです。
春爛漫は正にこれから。
7時から合唱の練習へ。村の人々と
「うるわしの白百合、ささやきぬ昔を」(賛美歌)と歌う。
帰りの真っ暗な山影、その上空に ポッカリと明るいおぼろ月。
さて 今朝の「眺め山」の下 あたり一面を おおい尽くす
タチツボスミレが 朝日に輝いて 私の道を完全に通せんぼ!
正にメルヘン、童画の世界。
これだから 山暮らしはやめられないのです。
今しがた 連休の渋滞を避け 松戸の教え子夫婦が
「今晩遅く小屋に着く」と言う連絡。
彼らと一緒に食べたかった てんぷらにするとタラノメよりも美味と言う
小屋のデッキから採れるコシアブラがまだ一寸早すぎるのだ。
これ残念しごく。
こちらは 今がようやく樹々の本格的な芽吹きの時、
何とソメイヨシノの花がまだ咲き残っているのです。
春爛漫は正にこれから。
7時から合唱の練習へ。村の人々と
「うるわしの白百合、ささやきぬ昔を」(賛美歌)と歌う。
帰りの真っ暗な山影、その上空に ポッカリと明るいおぼろ月。
さて 今朝の「眺め山」の下 あたり一面を おおい尽くす
タチツボスミレが 朝日に輝いて 私の道を完全に通せんぼ!
正にメルヘン、童画の世界。
これだから 山暮らしはやめられないのです。
今しがた 連休の渋滞を避け 松戸の教え子夫婦が
「今晩遅く小屋に着く」と言う連絡。
彼らと一緒に食べたかった てんぷらにするとタラノメよりも美味と言う
小屋のデッキから採れるコシアブラがまだ一寸早すぎるのだ。
これ残念しごく。
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