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樅谷山あたり
山吹の黄色が あそこにも ここにも灯(トモ)り
あたり一面 むせかえる木々の若みどりの中
オペラ歌手クロツグミと ソプラノ、ウグイスの
激しい競演。 でも
遠くの のんきな ツツドリの控えめな低音も いいな、
の中で思ったこと:
古きものの一掃が キリストの十字架だとすれば
今 存在するものは 復活のキリストのみ の筈。
だとすれば この時空の中の「リアルな諸事実」そして
今ここにいる 私は 何? 何の為?
それは
「神にある永遠の真理」の証明の為に
その真理を写し出す 時空の中のスクリーン、
に違いない。
2 件のコメント:
>「神にある永遠の真理」の証明の為に
その真理を写し出す 時空の中のスクリーン、に違いない。
例えば「愛」。あるメッセージで、黙示録の描写、御座の前ではもはや「愛」という言葉はなく、神の「聖さ」のみ。それは、愛は当たり前にそこにあるから、ということが語られたのを覚えています。
愛を知らなかった罪人が完全な愛を知り、味わい、満たされるようになる・・・
それをディスプレイできるのは、やはりこの時空の中のスクリーンなのでしょうね。
知らなかったものを知るようになる。なかったものがその人から現れる。これはすごいことです。
キリストの業は永遠性のもの、その勝利も完成も。
サタンや人類が いまだに時空の中に留め置かれているのは、彼らがその永遠の事実証明の為のステージだからなんでしょうね。
主役は 時空と永遠の双方を所有しているかよわき不思議な存在。
今 有限の彼らから無限性の何かが 日々リリースされるべきなんでしょう。それが 期間限定の「時空スクリーン」に投影される。だから 毎日少しでも 復活という永遠性の中に生きないと、ということになるのでしょう。
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