手探りするあなたの
その手で触れられるものは何も無く
更に何も見えない暗黒の中で、
それでも
神を信じ続けられますように。
積極的な何物をも感じ取れない穴の中で
ただ神を信じること、
それこそが信仰だからです。
神を信じるとは決して
自分の感覚に よりどころを求めること
ではありません。
決してものや現象を信じることでもありません。
何が見えないとしても、全く何を感知出来ないとしても
ただ神の真実と彼の約束を信じること、
目に映る色彩がまるでない
無色と暗黒の中で ただ神を信じることです。
驚くべきことに
あなたに神に向かう口がありさえすれば、
信仰があるのです。
今こそあなたが
声にさえならない深いうめきと共に
その信仰の簡明な言葉を
神にだけ申し上げて下さいますように、
「主よ、それでも私は ただあなたを信じます」と。
2009年12月31日木曜日
2009年12月25日金曜日
遅くなることはない
もっと優れた、いつまでも残る
財産を持っていることを知っていたので、
自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。
ですから あなた方の確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなた方が神の御心を行って、約束のものを手に入れる為に
必要なのは忍耐です。
「もうしばらくすれば、
来るべき方が来られる。遅くなることはない。
私の義人は信仰によって生きる。
もし恐れ退くなら、
私の心は彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく
信じて命を保つ者です。
信仰とは(今この時空間と肉体の中で:Sugar)
「望んでいる事柄」を実体化し、
「目に見えないもの」を確認させるものです。
(ヘブル10の34~11の1)
財産を持っていることを知っていたので、
自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。
ですから あなた方の確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなた方が神の御心を行って、約束のものを手に入れる為に
必要なのは忍耐です。
「もうしばらくすれば、
来るべき方が来られる。遅くなることはない。
私の義人は信仰によって生きる。
もし恐れ退くなら、
私の心は彼を喜ばない。」
私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく
信じて命を保つ者です。
信仰とは(今この時空間と肉体の中で:Sugar)
「望んでいる事柄」を実体化し、
「目に見えないもの」を確認させるものです。
(ヘブル10の34~11の1)
2009年12月23日水曜日
事実の等級
ここに 二種類の事実があります。
一つは 私たちが「毎日 見聞きする
五感や理性で知るこの世界の事実」であり、
もう一つは「見えない」世界の事実です。
この両者の内、どちらの方が「リアル感」に優れているかと言えば
それは間違いなくこの世界の事実でしょう。
にもかかわらず、どうしてキリスト者は一見
「とてつもない」と見える いわゆる「見えない」事実の方に
軍配を上げるのでしょうか。
それは 後者の事実と前者の事実では 同じ事実ではあっても
その両事実の「レベル、等級」が格段に違うからです。
それは格段の差がある と言うだけでは足りません。
「後者の事実の優位性」は「無限に高い」とでも言うしかないのです。
それは比較にならないのです。
あまりにも単純に
「事実であればその価値は決まる、事実であれば問題ない」
と言うわけには行きません。
「事実の世界」には明らかに等級、レベルの差があるからです。
従って「事実」と言われるものには
その事実の等級、レベルを冠せられねばならない筈です。
私達は ある「事実」を信じ、
特に それに「自分の永遠を賭けよう」とするような場合、先ずは、
その事実の等級、レベルの「ラベル」を
よくよく吟味する必要があるのです。
一つは 私たちが「毎日 見聞きする
五感や理性で知るこの世界の事実」であり、
もう一つは「見えない」世界の事実です。
この両者の内、どちらの方が「リアル感」に優れているかと言えば
それは間違いなくこの世界の事実でしょう。
にもかかわらず、どうしてキリスト者は一見
「とてつもない」と見える いわゆる「見えない」事実の方に
軍配を上げるのでしょうか。
それは 後者の事実と前者の事実では 同じ事実ではあっても
その両事実の「レベル、等級」が格段に違うからです。
それは格段の差がある と言うだけでは足りません。
「後者の事実の優位性」は「無限に高い」とでも言うしかないのです。
それは比較にならないのです。
あまりにも単純に
「事実であればその価値は決まる、事実であれば問題ない」
と言うわけには行きません。
「事実の世界」には明らかに等級、レベルの差があるからです。
従って「事実」と言われるものには
その事実の等級、レベルを冠せられねばならない筈です。
私達は ある「事実」を信じ、
特に それに「自分の永遠を賭けよう」とするような場合、先ずは、
その事実の等級、レベルの「ラベル」を
よくよく吟味する必要があるのです。
2009年12月21日月曜日
ある情報
*IN CHRIST に関連して*
William (Bill)Mallon兄弟、
以前ローカルチャーチにいた兄弟ですが、"In Christ" と題して
3つのメッセージをしていますが、
そこでは、"in the sphere of new life of Christ" という
意味だという話しから始め、メッセージを進めています。
詳しくは下記のサイトでダウンロードできます。
そのサイトの一番下の"SCA Winter Conference 2004" にあります。
http://www.seattlechristianassembly.org/Messages/SpecialMsgsEn.html
★
この情報は在米の ある日本人の兄弟から寄せられたものです。
この中で、
当時中国大陸において、
w.ニーの若き同労者の一人であられ
現在なお90数歳の高齢にも関わらず
(彼が唯一人の生存者かも知れない)
主の為に働いておられるスティーヴン・カン兄弟の
メッセージ等も聞くことが出来るようです。
(英語です)
William (Bill)Mallon兄弟、
以前ローカルチャーチにいた兄弟ですが、"In Christ" と題して
3つのメッセージをしていますが、
そこでは、"in the sphere of new life of Christ" という
意味だという話しから始め、メッセージを進めています。
詳しくは下記のサイトでダウンロードできます。
そのサイトの一番下の"SCA Winter Conference 2004" にあります。
http://www.seattlechristianassembly.org/Messages/SpecialMsgsEn.html
★
この情報は在米の ある日本人の兄弟から寄せられたものです。
この中で、
当時中国大陸において、
w.ニーの若き同労者の一人であられ
現在なお90数歳の高齢にも関わらず
(彼が唯一人の生存者かも知れない)
主の為に働いておられるスティーヴン・カン兄弟の
メッセージ等も聞くことが出来るようです。
(英語です)
2009年12月20日日曜日
進むべき行程から
1
「私が進むべき行程」から
少し横道にそれるだけで、唯それだけで、
私の命運は とても容易なものとなるだろう。
しかし、私は確かに知っている、
わが主は 何と過酷な行程を進まれたかを。
2
それ故 私はこの世を全く捨て去り
その結びつきを 総て断ち切る。
私の行く道は なお狭きものとなり
世は総て 私に敵対して立ち上るであろう。
3
人々は 顔をしかめ、軽蔑してあざ笑うとしても
私は 主の笑顔のみを慕う、
ひとえに 彼の「よくやった」を願う、
地上のこの つかの間の時間の中でこそ。
4
偉大さを追い求めまい、
地上の栄光を追い求めまい。
ただ身を低くし 主にのみ仕えたい、
かの日、彼の誉め言葉を得んがために。
5
私は今
「あの裁きの座」から来るその光を見つめる。
総ての私の生き方と働きが、
「かの火のテスト」に耐え得るために。
6
人々は総てをかけ
自分の成功を求め、栄光と富と名声を追求し、
自己の偉大さや 自分の追従者、
そして自身の栄誉を獲得しようとするだろう。
7
しかし私は
魂の中の繁栄ではなく、
ひどい孤独と貧困の中でさえ
「彼」に忠信に従うことを求める、
あのゴールに到達するに至るまで。
8
私は知っている、地上におられた時
主の歩まれた道は唯一つ
あの十字架に向かう道であったことを。
それ故、私も彼と共に
ただ損失をこうむることを願う。
9
総ての私の光栄は「かの前方」に備えられている。
それ故 ここで 私は総てを耐え忍ぶ。
主の御前において、主を差し置き、
今 自分の栄誉を求めることなど出来ようか。
10
しかし、来たるべきかの時、私は誉を賜るだろう、
主御自身 総て私の涙をぬぐい取って下さるという誉を。
それ故 今この時代 忠信に 私はただひたすら前に進む、
私の主が出現される かの日に至るまで。
★
この詩は W. ニーが拘束される かなり以前に
書かれたものです。例の証同様、在米のある日本人が
送って下さいました。ただしこれは
「英語訳からの」一つの試みの訳に過ぎません。
「私が進むべき行程」から
少し横道にそれるだけで、唯それだけで、
私の命運は とても容易なものとなるだろう。
しかし、私は確かに知っている、
わが主は 何と過酷な行程を進まれたかを。
2
それ故 私はこの世を全く捨て去り
その結びつきを 総て断ち切る。
私の行く道は なお狭きものとなり
世は総て 私に敵対して立ち上るであろう。
3
人々は 顔をしかめ、軽蔑してあざ笑うとしても
私は 主の笑顔のみを慕う、
ひとえに 彼の「よくやった」を願う、
地上のこの つかの間の時間の中でこそ。
4
偉大さを追い求めまい、
地上の栄光を追い求めまい。
ただ身を低くし 主にのみ仕えたい、
かの日、彼の誉め言葉を得んがために。
5
私は今
「あの裁きの座」から来るその光を見つめる。
総ての私の生き方と働きが、
「かの火のテスト」に耐え得るために。
6
人々は総てをかけ
自分の成功を求め、栄光と富と名声を追求し、
自己の偉大さや 自分の追従者、
そして自身の栄誉を獲得しようとするだろう。
7
しかし私は
魂の中の繁栄ではなく、
ひどい孤独と貧困の中でさえ
「彼」に忠信に従うことを求める、
あのゴールに到達するに至るまで。
8
私は知っている、地上におられた時
主の歩まれた道は唯一つ
あの十字架に向かう道であったことを。
それ故、私も彼と共に
ただ損失をこうむることを願う。
9
総ての私の光栄は「かの前方」に備えられている。
それ故 ここで 私は総てを耐え忍ぶ。
主の御前において、主を差し置き、
今 自分の栄誉を求めることなど出来ようか。
10
しかし、来たるべきかの時、私は誉を賜るだろう、
主御自身 総て私の涙をぬぐい取って下さるという誉を。
それ故 今この時代 忠信に 私はただひたすら前に進む、
私の主が出現される かの日に至るまで。
★
この詩は W. ニーが拘束される かなり以前に
書かれたものです。例の証同様、在米のある日本人が
送って下さいました。ただしこれは
「英語訳からの」一つの試みの訳に過ぎません。
If From the Right Course I Depart
1
If from the right course I depart,
Then ease my lot would be;
But I remember
How my Lord Did suffer agony.
2
I'll utterly forsake this world,
And sever all its ties.
My path may narrow more and more;
And all against me rise.
3
Though men may scowl and laugh to scorn,
I only want His smile.
His "well done" only I'd secure
While here this little while.
4
Not after greatness do I seek,
Nor glory here desire,
But humbly I would serve the Lord,
His praise that day acquire.
5
I'm daily gazing at the light
Shed from His judgment seat,
That all my living and my work
The test of fire may meet.
6
Let others seek for great success,
For glory,wealth,and name;
Let them procure their grandeur here,
Their followers and fame.
7
In solitude and poverty,
Though prospering not in soul,
Yet faithfully I'll follow Him
Until I reach the goal.
8
I know that when on earth He dwelt
His lot was but the cross;
And that is why I only wish
With Him to suffer loss.
9
Since all my glories lie ahead,
I must to patience cleave.
I will not go before my Lord
And glory here receive.
10
That day my honors I will have;
The Lord will dry my tears.
So faithfully I'll still press on
Until my Lord appears.
★
ある方の要請に応え、
10月27日のW.ニーの詩「進むべき行程から」の英訳
(原文は中国語でしょう)を載せました。
次に御批評を仰ぐために、また参考の為に
私の訳を次に再掲載致します。
If from the right course I depart,
Then ease my lot would be;
But I remember
How my Lord Did suffer agony.
2
I'll utterly forsake this world,
And sever all its ties.
My path may narrow more and more;
And all against me rise.
3
Though men may scowl and laugh to scorn,
I only want His smile.
His "well done" only I'd secure
While here this little while.
4
Not after greatness do I seek,
Nor glory here desire,
But humbly I would serve the Lord,
His praise that day acquire.
5
I'm daily gazing at the light
Shed from His judgment seat,
That all my living and my work
The test of fire may meet.
6
Let others seek for great success,
For glory,wealth,and name;
Let them procure their grandeur here,
Their followers and fame.
7
In solitude and poverty,
Though prospering not in soul,
Yet faithfully I'll follow Him
Until I reach the goal.
8
I know that when on earth He dwelt
His lot was but the cross;
And that is why I only wish
With Him to suffer loss.
9
Since all my glories lie ahead,
I must to patience cleave.
I will not go before my Lord
And glory here receive.
10
That day my honors I will have;
The Lord will dry my tears.
So faithfully I'll still press on
Until my Lord appears.
★
ある方の要請に応え、
10月27日のW.ニーの詩「進むべき行程から」の英訳
(原文は中国語でしょう)を載せました。
次に御批評を仰ぐために、また参考の為に
私の訳を次に再掲載致します。
2009年12月15日火曜日
2009年12月13日日曜日
あるメールから
メール感謝でした。
あなたが書いておられた「主の御名において」
の実質は当然 パウロが172回も用いたあのフレーズ
IN CHRIST です。
それでは IN CHRIST の IN とは何でしょう。それは、
イエスとあなたは 相似形の二つの三角形のように
一つになり得る状態、そして更に言えばピタッと合同でさえある、
と言う「永遠の状態」のことです。
一面 兄弟は地上にいる小さな三角形です。しかしその小さな
地上の三角形は 天の三角形(御座のキリスト)と相似なので
天のキリストと合同にもなるのです。
それが今 キリストと共に天の御座に座すあなたです!
御座は一つしかないんですよ。(エペソ1の20、2の6)
そこで天地はキリストとあなたにおいて完全に繋がるのです。
その天地をつなぐはしご(そのはしごも人の子・新しき人)
を今現在 御使い達が上り下りしております。(ヨハネ1の51)
ナタナエルやパウロだけでなく 総てのキリスト者は
ゼヒともこのはしごを内的に見る必要があります。
*
しかし、他面、今まだ
この肉体・時空の中にいる私たちは、
自分の内側から生じて来る or
外から自分に粘着して来る汚れや不義、「人間関係」を
むしろ自分と一緒にグルグル巻きにして、それらを
キリストの死の中に
毎日何度でも置き続ける必要があります。言い換えれば
「古い自分をも含んだ梱包されたそのゴミの塊」を墓に持って行き
そこに置き去ると言う清掃作業は欠かせないのです。
死は正に分別、隔絶です。(ある時 不要物は焼却炉の中に入れられ
それはエンドレスに燃え続けるでしょう。)
もし私たちが「思いを切って」それをすることが出来るならば
(しかし御存知のように 物質的なゴミ・不要物でさえ
「本当に捨て去る」のはそんなに簡単なことではありません)
その後いつの間にか
私達から自然に現れて来るのが真の神の力 復活のキリストです。
その時私達は そこには何らの汗の努力やがんばりは
全く必要でないことを真に知るでしょう。
これこそが、キリスト者の本当の楽しみです。
あなたが書いておられた「主の御名において」
の実質は当然 パウロが172回も用いたあのフレーズ
IN CHRIST です。
それでは IN CHRIST の IN とは何でしょう。それは、
イエスとあなたは 相似形の二つの三角形のように
一つになり得る状態、そして更に言えばピタッと合同でさえある、
と言う「永遠の状態」のことです。
一面 兄弟は地上にいる小さな三角形です。しかしその小さな
地上の三角形は 天の三角形(御座のキリスト)と相似なので
天のキリストと合同にもなるのです。
それが今 キリストと共に天の御座に座すあなたです!
御座は一つしかないんですよ。(エペソ1の20、2の6)
そこで天地はキリストとあなたにおいて完全に繋がるのです。
その天地をつなぐはしご(そのはしごも人の子・新しき人)
を今現在 御使い達が上り下りしております。(ヨハネ1の51)
ナタナエルやパウロだけでなく 総てのキリスト者は
ゼヒともこのはしごを内的に見る必要があります。
*
しかし、他面、今まだ
この肉体・時空の中にいる私たちは、
自分の内側から生じて来る or
外から自分に粘着して来る汚れや不義、「人間関係」を
むしろ自分と一緒にグルグル巻きにして、それらを
キリストの死の中に
毎日何度でも置き続ける必要があります。言い換えれば
「古い自分をも含んだ梱包されたそのゴミの塊」を墓に持って行き
そこに置き去ると言う清掃作業は欠かせないのです。
死は正に分別、隔絶です。(ある時 不要物は焼却炉の中に入れられ
それはエンドレスに燃え続けるでしょう。)
もし私たちが「思いを切って」それをすることが出来るならば
(しかし御存知のように 物質的なゴミ・不要物でさえ
「本当に捨て去る」のはそんなに簡単なことではありません)
その後いつの間にか
私達から自然に現れて来るのが真の神の力 復活のキリストです。
その時私達は そこには何らの汗の努力やがんばりは
全く必要でないことを真に知るでしょう。
これこそが、キリスト者の本当の楽しみです。
2009年12月12日土曜日
このごろの思いです
神があの木に釘付け、滅ぼそうと意図されたのは
私・旧創造でした。(そうでなけば、不合理です。)
そして正に 神はそれを2千年前に実行されたのです。
ですから、あの時
十字架上に磔(はりつけ)になったのは
私以外の何物でもありませんでした。
ところがその時、実際にそこにおられたのは
イエス・キリストでした。
ここに大きな真理が啓示されています。
それはその瞬間 キリストと私は全く一つとされたのです。
「私はキリストと共に 十字架に付けられた。」(ガラテヤ2の20)
「私が地上から(木に)上げられるなら、私は総ての人を
私に引き寄せます。」(ヨハネ12の32)
*
人については 語らずに祈る方がよい。
私が語るのは ただ
「キリストそのお方について」でありたい。
★
ようやく雨が上がりました。
今日から、風で飛ばされた三枚の透明屋根の
修復にかかります。明日には終わるでしょう。
私・旧創造でした。(そうでなけば、不合理です。)
そして正に 神はそれを2千年前に実行されたのです。
ですから、あの時
十字架上に磔(はりつけ)になったのは
私以外の何物でもありませんでした。
ところがその時、実際にそこにおられたのは
イエス・キリストでした。
ここに大きな真理が啓示されています。
それはその瞬間 キリストと私は全く一つとされたのです。
「私はキリストと共に 十字架に付けられた。」(ガラテヤ2の20)
「私が地上から(木に)上げられるなら、私は総ての人を
私に引き寄せます。」(ヨハネ12の32)
*
人については 語らずに祈る方がよい。
私が語るのは ただ
「キリストそのお方について」でありたい。
★
ようやく雨が上がりました。
今日から、風で飛ばされた三枚の透明屋根の
修復にかかります。明日には終わるでしょう。
2009年12月10日木曜日
山に来ております
昨日 夕方小屋に着くと何と
9月に代えたばかりの南デッキの透明屋根が
3枚 みごと風に吹き飛ばされているではないか。
やはりここの風は馬鹿にならないのです。
それにしても全部でなくてよかった。
今日はあちこちの見回りと 補修の幾つか、
それに、水道管凍結対策をやらないといけません。
(まだ完全ではないのです。)
今日は比較的暖か、
やはり山の清浄で穏やかな空気は格別です。
そして明日はと言うと
例の車屋さんに行って、スタッドレスタイヤを付けて
もらわなければなりません。
今年は暖冬なのかな、しかしここの生活では仮に
これから全く雪が降らないとしても
まさか冬タイヤを付けない
と言うわけには行かないのです。
下山は早16日の予定です。
昼までにそれでは もう一作業やりますかね。
9月に代えたばかりの南デッキの透明屋根が
3枚 みごと風に吹き飛ばされているではないか。
やはりここの風は馬鹿にならないのです。
それにしても全部でなくてよかった。
今日はあちこちの見回りと 補修の幾つか、
それに、水道管凍結対策をやらないといけません。
(まだ完全ではないのです。)
今日は比較的暖か、
やはり山の清浄で穏やかな空気は格別です。
そして明日はと言うと
例の車屋さんに行って、スタッドレスタイヤを付けて
もらわなければなりません。
今年は暖冬なのかな、しかしここの生活では仮に
これから全く雪が降らないとしても
まさか冬タイヤを付けない
と言うわけには行かないのです。
下山は早16日の予定です。
昼までにそれでは もう一作業やりますかね。
2009年12月7日月曜日
真理の学びの目的
状況がどうであろうと(即ち 前途が明るく感じられるときも、
暗黒しか感じられない時も)
私たちが「ただ主を信じぬく」ことが出来ますように。
「聖書の真理の学び」については 心配しないで下さい。
必ず主は兄弟に そのための道を開いて下さいますから。
しかし実のところ、真理の学びと言っても その目的は
要するに どんなことが環境の中に起ころうとも
私たちが「神を信じ抜くようになること」です。
決して 何か難しい教理を記憶したり ああだこうだと
自分の知識や経験を 人に宣伝したり議論したりすることでは
ありません。それは「キリストご自身を持つこと」が既に
「総ての解決を持つこと」であるとの信仰を持ち、更に
その事実を 生活の中で経験的に知ることです。
ですから、今 八寺兄弟姉妹は 本当の意味で
環境の中で真理の学びをしていることになります。
主よ「総ての解決そのもの」であるあなたを
生活の中で経験するという学びを 今日も学ばせてください、
と祈り、そのことで神に信頼するなら それが本当の学びです。
これは いつどこにいても 誰にでも出来ることです。
神は誰にでも とても公平なお方です。
でも人はすぐ 学びと自分の日常生活を切り離してしまいます。
それは大きな間違いです。何故なら、
神は絶えず総ての環境の背後におられ、
「どんなことがあったとしても 神を信じ抜くこと」を
学ばせようとして、私たちの環境を適宜に こまごまと
絶えず 微調整さえして整えておられるからです。
ですから毎日 目が覚めた時から 眠りにつく瞬間までが
学びのときです。それには一瞬の例外もありません。
私もよくあることなのですが、
私に対するその神の意図を退け、神が与えられた環境を軽視し、
その神を意識的にさえ離れ 好き勝手な自分の好き好みだけを
追求するという この日常的な誘惑から
どうか私を今日も守って下さいますように。
暗黒しか感じられない時も)
私たちが「ただ主を信じぬく」ことが出来ますように。
「聖書の真理の学び」については 心配しないで下さい。
必ず主は兄弟に そのための道を開いて下さいますから。
しかし実のところ、真理の学びと言っても その目的は
要するに どんなことが環境の中に起ころうとも
私たちが「神を信じ抜くようになること」です。
決して 何か難しい教理を記憶したり ああだこうだと
自分の知識や経験を 人に宣伝したり議論したりすることでは
ありません。それは「キリストご自身を持つこと」が既に
「総ての解決を持つこと」であるとの信仰を持ち、更に
その事実を 生活の中で経験的に知ることです。
ですから、今 八寺兄弟姉妹は 本当の意味で
環境の中で真理の学びをしていることになります。
主よ「総ての解決そのもの」であるあなたを
生活の中で経験するという学びを 今日も学ばせてください、
と祈り、そのことで神に信頼するなら それが本当の学びです。
これは いつどこにいても 誰にでも出来ることです。
神は誰にでも とても公平なお方です。
でも人はすぐ 学びと自分の日常生活を切り離してしまいます。
それは大きな間違いです。何故なら、
神は絶えず総ての環境の背後におられ、
「どんなことがあったとしても 神を信じ抜くこと」を
学ばせようとして、私たちの環境を適宜に こまごまと
絶えず 微調整さえして整えておられるからです。
ですから毎日 目が覚めた時から 眠りにつく瞬間までが
学びのときです。それには一瞬の例外もありません。
私もよくあることなのですが、
私に対するその神の意図を退け、神が与えられた環境を軽視し、
その神を意識的にさえ離れ 好き勝手な自分の好き好みだけを
追求するという この日常的な誘惑から
どうか私を今日も守って下さいますように。
2009年12月5日土曜日
2009年12月4日金曜日
2009年11月30日月曜日
天地の人
いわゆる最後の晩餐で語られたイエスの言葉は
全聖書の中でも大きなピークを形成します。
14章2、3節:
あなた方のために、
「私」①は
「場所」②を備えに「行く」③のです。私が行って、
あなた方に「場所」②を備えたら、
また来て、
あなた方を「私自身」④に迎えます。
「私のいる所」⑤に、あなた方もおらせるためです。
*
「私」①とは
これから正に十字架に向かおうとしておられたイエスです。
「行く」③とは、
即ち十字架に付くことです。
「場所を備える」とは
イエスが十字架に付けられ、復活することです。
次に 少々むずかしいのですが、
「場所」②と「私のいる所」⑤とはどちらも
復活後のキリスト 即ち「私自身」④です。
今既に
「その場所、イエスのいる所、イエスキリスト御自身」の中へと
彼は わたし達信じる者達を迎え入れました。
15章に来ると
復活のキリストを信じる者達をも含んだ
言わば「天地にあるキリスト」を彼は
宇宙的一本の「ブドウの木」にたとえておられます。
最後の晩餐における他のことばも総て
一つこの思想の表明の為であったのであり、
そして全聖書の総ての糸は
「一点この天地のキリスト」に集結されている
とさえ言えるのではないでしょうか。
旧約のヤコブ、イザヤ、エゼキエル、
新約のナタナエル、ステパノ、パウロ、ヨハネ達が
見させられ、畏れ 倒された幻の本質とは
実はこの「天地にある現在のキリスト」です。
ですからわたし達も 今ゼヒとも この現在のキリストを
見、畏れ、倒され、わたし達の全生涯を、ただその幻によって
支配、制御していただく必要があるのです。
全聖書の中でも大きなピークを形成します。
14章2、3節:
あなた方のために、
「私」①は
「場所」②を備えに「行く」③のです。私が行って、
あなた方に「場所」②を備えたら、
また来て、
あなた方を「私自身」④に迎えます。
「私のいる所」⑤に、あなた方もおらせるためです。
*
「私」①とは
これから正に十字架に向かおうとしておられたイエスです。
「行く」③とは、
即ち十字架に付くことです。
「場所を備える」とは
イエスが十字架に付けられ、復活することです。
次に 少々むずかしいのですが、
「場所」②と「私のいる所」⑤とはどちらも
復活後のキリスト 即ち「私自身」④です。
今既に
「その場所、イエスのいる所、イエスキリスト御自身」の中へと
彼は わたし達信じる者達を迎え入れました。
15章に来ると
復活のキリストを信じる者達をも含んだ
言わば「天地にあるキリスト」を彼は
宇宙的一本の「ブドウの木」にたとえておられます。
最後の晩餐における他のことばも総て
一つこの思想の表明の為であったのであり、
そして全聖書の総ての糸は
「一点この天地のキリスト」に集結されている
とさえ言えるのではないでしょうか。
旧約のヤコブ、イザヤ、エゼキエル、
新約のナタナエル、ステパノ、パウロ、ヨハネ達が
見させられ、畏れ 倒された幻の本質とは
実はこの「天地にある現在のキリスト」です。
ですからわたし達も 今ゼヒとも この現在のキリストを
見、畏れ、倒され、わたし達の全生涯を、ただその幻によって
支配、制御していただく必要があるのです。
2009年11月27日金曜日
キリスト者の戦い
ここに二者があります:
①あなた自身 と
②あなたに迫り 取り囲み 粘りつき、あなたに固着し、
閉じ込め 圧迫し、押しつぶすようにして
あなたを何とかして 命なる神から切り離そうとする
有形無形の暗闇からの死の力です。
そこであなたは
この二者①と②を むしろ一つにして(もう一つとなっている!)
「今 正に十字架に釘付けられようとするイエス」の中に
しっかりと置かなければなりません。
どのようにして置くのか?それは:
それを意識し 神に祈り、そして次にハッキリと声に出し
「全宇宙に対して」宣言することによります。
「宇宙の全被造物よ、私は今、
①私自身と
②私に付きまとい、私に固着し、私を閉じ込め、圧迫する
この状況の一切をイエスの中に置きます!」と。
こここそ最大のポイントです。
もしも あなたが以上のことを 神の御前にて、
真実を込めて行うならば
間もなく 永遠のイエスの完全な死の効力が
今 時空の中にある①と②に伝達され
イエスの死が ①と②を切り離し、隔絶して下さるでしょう。
なぜなら 死は決して消滅ではなく、
死とは分解であり、切り離しであり、隔絶であるからです。
そして3日後に(しかるべき時に)神は
①だけをイエスと共に 復活の超越へともたらして下さるでしょう。
②即ち、旧創造に属するものは墓と黄泉へと送られ、いずれ火で
焼かれます。以上がキリスト者のなすべき戦いの多くの
ケースであると 私は考えております。
それはあたかも まるで あの時のイエスのようです。
あなたは信じられるでしょうか、彼は文字通り、
サタンから来る一切の死の状況を静かに受け入れたのです。
ああ、それこそがイエスに対する神の御こころだったとは!
しかし、私たちは神を賛美します、その情景の背後に、
敵の小ざかしく邪悪な策略を 遥かに凌駕する
「神の超越した英知」が存在したのです。
ですからそのような時に あなたは愚かにも
目に見える形であなたに襲いかかるこの世の不正に対し 人の魂を
起源とする小さな「正義」を振りかざして戦うようなことをしては
なりません。(それは何と キリストの十字架を無効にする行為
であることを知るべきです!)キリストの十字架の効果が及び
得ない所、確かにそこには あなたを更なる死(神の敵からの死)
と言う泥沼へと引きずり込む敵の謀略が待ち構えているのです。
その時 あなたに要求されることは
唯 あの時のイエスのように
崇高な愛と 絶大な能力を秘めた神への完全な
信頼なのです。
*
しかしながら、以上は 決して
あなたがぼんやりと 総てに対して受身になることを
意味しているのではありません。
それは敵に対しては むしろ極めて危険です。いついかなる状況に
おいても 私たちは 自分の意志を堅く保ち、しっかりと
神の御心の側に立つ必要があります。
ですから、
私たちは もう一つのキリスト者の戦いの側面 即ち:
「初めから 敵に対して 復活の命によって対抗しなければ
ならない戦い」についても知り、それに練達しなければなりません。
これらについては 今後更に 学んで行きましょう。
①あなた自身 と
②あなたに迫り 取り囲み 粘りつき、あなたに固着し、
閉じ込め 圧迫し、押しつぶすようにして
あなたを何とかして 命なる神から切り離そうとする
有形無形の暗闇からの死の力です。
そこであなたは
この二者①と②を むしろ一つにして(もう一つとなっている!)
「今 正に十字架に釘付けられようとするイエス」の中に
しっかりと置かなければなりません。
どのようにして置くのか?それは:
それを意識し 神に祈り、そして次にハッキリと声に出し
「全宇宙に対して」宣言することによります。
「宇宙の全被造物よ、私は今、
①私自身と
②私に付きまとい、私に固着し、私を閉じ込め、圧迫する
この状況の一切をイエスの中に置きます!」と。
こここそ最大のポイントです。
もしも あなたが以上のことを 神の御前にて、
真実を込めて行うならば
間もなく 永遠のイエスの完全な死の効力が
今 時空の中にある①と②に伝達され
イエスの死が ①と②を切り離し、隔絶して下さるでしょう。
なぜなら 死は決して消滅ではなく、
死とは分解であり、切り離しであり、隔絶であるからです。
そして3日後に(しかるべき時に)神は
①だけをイエスと共に 復活の超越へともたらして下さるでしょう。
②即ち、旧創造に属するものは墓と黄泉へと送られ、いずれ火で
焼かれます。以上がキリスト者のなすべき戦いの多くの
ケースであると 私は考えております。
それはあたかも まるで あの時のイエスのようです。
あなたは信じられるでしょうか、彼は文字通り、
サタンから来る一切の死の状況を静かに受け入れたのです。
ああ、それこそがイエスに対する神の御こころだったとは!
しかし、私たちは神を賛美します、その情景の背後に、
敵の小ざかしく邪悪な策略を 遥かに凌駕する
「神の超越した英知」が存在したのです。
ですからそのような時に あなたは愚かにも
目に見える形であなたに襲いかかるこの世の不正に対し 人の魂を
起源とする小さな「正義」を振りかざして戦うようなことをしては
なりません。(それは何と キリストの十字架を無効にする行為
であることを知るべきです!)キリストの十字架の効果が及び
得ない所、確かにそこには あなたを更なる死(神の敵からの死)
と言う泥沼へと引きずり込む敵の謀略が待ち構えているのです。
その時 あなたに要求されることは
唯 あの時のイエスのように
崇高な愛と 絶大な能力を秘めた神への完全な
信頼なのです。
*
しかしながら、以上は 決して
あなたがぼんやりと 総てに対して受身になることを
意味しているのではありません。
それは敵に対しては むしろ極めて危険です。いついかなる状況に
おいても 私たちは 自分の意志を堅く保ち、しっかりと
神の御心の側に立つ必要があります。
ですから、
私たちは もう一つのキリスト者の戦いの側面 即ち:
「初めから 敵に対して 復活の命によって対抗しなければ
ならない戦い」についても知り、それに練達しなければなりません。
これらについては 今後更に 学んで行きましょう。
2009年11月25日水曜日
エクレシアの集まりは
エクレシアの集まりは
変幻自在、伸縮自在、臨機応変、そして神出鬼没です。
ですから、一度たりとも そこに先回と全く同じもの
ある固定、安定、形式が感じられるとしたら、それは
復活のキリスト以外の何ものか であると見なすべきです。
多分それは
先ずは私が率先して、キリストと共に十字架上で
死ななければならないことを示唆しているに
違いありません。
変幻自在、伸縮自在、臨機応変、そして神出鬼没です。
ですから、一度たりとも そこに先回と全く同じもの
ある固定、安定、形式が感じられるとしたら、それは
復活のキリスト以外の何ものか であると見なすべきです。
多分それは
先ずは私が率先して、キリストと共に十字架上で
死ななければならないことを示唆しているに
違いありません。
2009年11月22日日曜日
あるメールから
・・・
さて
兄弟に対する「その語りかけ」
それは確かに上から なのでしょう。
「ある聖霊の促しを感じる→しかし応じ切れないor
どうしたものかと思案する→心が騒ぐ、落ち着かない→
ある実行or 不実行と言う服従によって静かな平安を得る。」
これは推論、理屈、私の都合等を超えて
「御心把握」への一つの行程です。
「この道」とは ある意味
一人一人が 主の前で「その単純作業」をするだけでよい
と言う簡明な道であると思います。
その場合 恐らく「人の非難」を受け、恥辱をこうむるという
「私の魂が傷を負い、そして魂が失われる苦痛」は避けられない
ことさえあります。しかしそれは
「営所(宗教)」の外に引き出され 主と共に暗黒の谷間を通り
遂には十字架に付けられると言う ヘブル書13章に見る
極めて貴重な時間帯となります。しかしこのことは
ある経過をへて、兄弟が一人 主の復活を確かに目撃し そして
「密かな真の礼拝」をささげるという栄光ある時間に繋がるでしょう。
これこそが
生ける復活の主の御業を地上、時空の中で拝する
ための唯一の条件ではないでしょうか。
1世紀も21世紀も これ以外の方法で
「永遠の主の業」が「時空に」出現することはあり得ません。
ますます兄弟が、人ではなく
「主のみに」従われますようにと願ってやみません。
さて
兄弟に対する「その語りかけ」
それは確かに上から なのでしょう。
「ある聖霊の促しを感じる→しかし応じ切れないor
どうしたものかと思案する→心が騒ぐ、落ち着かない→
ある実行or 不実行と言う服従によって静かな平安を得る。」
これは推論、理屈、私の都合等を超えて
「御心把握」への一つの行程です。
「この道」とは ある意味
一人一人が 主の前で「その単純作業」をするだけでよい
と言う簡明な道であると思います。
その場合 恐らく「人の非難」を受け、恥辱をこうむるという
「私の魂が傷を負い、そして魂が失われる苦痛」は避けられない
ことさえあります。しかしそれは
「営所(宗教)」の外に引き出され 主と共に暗黒の谷間を通り
遂には十字架に付けられると言う ヘブル書13章に見る
極めて貴重な時間帯となります。しかしこのことは
ある経過をへて、兄弟が一人 主の復活を確かに目撃し そして
「密かな真の礼拝」をささげるという栄光ある時間に繋がるでしょう。
これこそが
生ける復活の主の御業を地上、時空の中で拝する
ための唯一の条件ではないでしょうか。
1世紀も21世紀も これ以外の方法で
「永遠の主の業」が「時空に」出現することはあり得ません。
ますます兄弟が、人ではなく
「主のみに」従われますようにと願ってやみません。
2009年11月19日木曜日
世界一の車屋さん
実は11日
家内が自動車事故の当事者になってしまいました。
詳しいことは今言いませんが
まー何と幸いなことに、被害者、加害者とも人身への
損傷は全く皆無だったのです!
ま、話はそこまでは極めて「めでたし」だったのですが、
しかし結局 妻の愛車・パジェロミニは哀れ廃車となって
しまったのです。
「かかりつけの」地元の業者は 次の車の値段について、
手練手管で、随分高いことを言います。私は一寸腹が立ちました。
車両保険にも入っていなかった妻は「もうパジェロミニには
乗れない、更に安い軽自動車を買うしかない」と
覚悟を決めたのです。
そこで私は
遠い福島から車を買うなんてとてもムリ、とは思いつつも
念のため、山で車のお世話になっている郡山はカタソネマイカー
の社長に 相談だけはして見ようと思い立ったのでした。
ここで面倒な話は総てハショリます。結局どうなったか:
何と何と極めてリーズナブルな値段で、社長は妻の為に
ワインレッドの パジェロミニをお世話して下さったのです!
実家の妻の歓喜は言うまでもありません。それは今社長の
奥さんが乗っているパジェロミニを事もあろう 私の妻に回す
という裏業を彼は発揮されたのでした。
このカタソネマイカーの社長が どうして
世界一の中古自動車屋さんであるのか、それを
ここで詳しく述べる煩に私は今耐えません。しかしとにかく
結論として この社長は世界一の車屋さんなのです。
人生 私は新車なるものを一度も買ったためしがありません。
何故なら、この社長に一言頼むだけで、車について私は
一切何も考える必要がないからです。
こんな楽チンことはないではないですか。
私が中古車購入について、
どうしようもない偏見を持っていることは明らかでしょう。
しかし今回もまた、私はこの社長こそ、間違いなく世界一の
車屋さんであるとの確信を一段と深め、強めたのでした。
それは あなたも一度だけでいい、彼から車を買って見れば
直ちに分ることです。
(かように私のように 彼から車を買った人が皆 頼まれもしないのに
いつの間にか彼の「営業マン」になってしまうのです。ですから、彼は
「車が売れて売れて時間がいくらあっても足りない」と嬉しそうに
毎日ボヤいているのです。)
家内が自動車事故の当事者になってしまいました。
詳しいことは今言いませんが
まー何と幸いなことに、被害者、加害者とも人身への
損傷は全く皆無だったのです!
ま、話はそこまでは極めて「めでたし」だったのですが、
しかし結局 妻の愛車・パジェロミニは哀れ廃車となって
しまったのです。
「かかりつけの」地元の業者は 次の車の値段について、
手練手管で、随分高いことを言います。私は一寸腹が立ちました。
車両保険にも入っていなかった妻は「もうパジェロミニには
乗れない、更に安い軽自動車を買うしかない」と
覚悟を決めたのです。
そこで私は
遠い福島から車を買うなんてとてもムリ、とは思いつつも
念のため、山で車のお世話になっている郡山はカタソネマイカー
の社長に 相談だけはして見ようと思い立ったのでした。
ここで面倒な話は総てハショリます。結局どうなったか:
何と何と極めてリーズナブルな値段で、社長は妻の為に
ワインレッドの パジェロミニをお世話して下さったのです!
実家の妻の歓喜は言うまでもありません。それは今社長の
奥さんが乗っているパジェロミニを事もあろう 私の妻に回す
という裏業を彼は発揮されたのでした。
このカタソネマイカーの社長が どうして
世界一の中古自動車屋さんであるのか、それを
ここで詳しく述べる煩に私は今耐えません。しかしとにかく
結論として この社長は世界一の車屋さんなのです。
人生 私は新車なるものを一度も買ったためしがありません。
何故なら、この社長に一言頼むだけで、車について私は
一切何も考える必要がないからです。
こんな楽チンことはないではないですか。
私が中古車購入について、
どうしようもない偏見を持っていることは明らかでしょう。
しかし今回もまた、私はこの社長こそ、間違いなく世界一の
車屋さんであるとの確信を一段と深め、強めたのでした。
それは あなたも一度だけでいい、彼から車を買って見れば
直ちに分ることです。
(かように私のように 彼から車を買った人が皆 頼まれもしないのに
いつの間にか彼の「営業マン」になってしまうのです。ですから、彼は
「車が売れて売れて時間がいくらあっても足りない」と嬉しそうに
毎日ボヤいているのです。)
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