2010年3月31日水曜日

近況です

昨日 入山しました。
19日に夏タイヤに交換してしまったのは やむを得ないとして
何と24日の夕方から、またまた
雪が降り続くらしいことが判明、急遽(きゅうきょ)24日朝
下山したのでした。(本来は26日の下山、夏タイヤでは危険です)

更にまずかったのは ノートパソコンを小屋に忘れたことでした。それで
昨日 小屋に帰るまでメールもブログも完全休止状態であったのです。

寒い三月はもうたくさんですね。春は今か今かという時期になると
寒さが思わせぶりに居座(いすわ)るのはちょっとツライ。
これは「三月だ 春が来たぞ」と 寒さへの覚悟(かくご)も同時に
脱(ぬ)ぎ捨ててしまったからでしょうね。

でも今日からは気温も上向くとか、
春の遅い阿武隈なればこそ、
こんどこそ暖かい四月を期待しているのですが・・

2010年3月23日火曜日

ある手紙から

兄弟、兄弟の状況のために祈っています。
さて、
この道は「今日の」イエスご自身ですから イエスの敵が黙(だま)って
この道を見ているはずはありません。かならず攻撃(こうげき)して来ます。
それは避(さ)けることが出来ません。

敵の攻撃はおもに 私達の思いや感情に対してです。
そして敵の手段(しゅだん)は二つ、ウソと死です。
彼のウソは いろいろな情報(じょうほう)を通して日夜 たくみに
私達の思いや感情にむかって送られますから 目を覚ましていなければ 
見分けがむずかしいです。その結果、敵の死が機能(きのう)して、
私達を「神と交わり」から切り離すように働きます。
「神からの切り離し」こそ敵からの死の働きです。

この敵に対抗するには 
黙示録12章11節にあるように 子羊の血と証の言葉による
以外にありません。キリスト者がよく失敗することをみこして神は 
前もって子羊の血を用意されました。ですから、私達が敵に対して常に 
この血を示さなければ、それは全く宝のもちぐされです。

また証の言葉とは神の真理のことばです。
私達は 真理のことばを声に出して敵の顔にぶつけてやるべきです。
彼らは神のことばには とても弱いのです。なぜなら
神のことばこそが本当で、敵の仕業(しわざ)はすべてウソであるからです。

当たり前ですが、ウソは真理に対しては みるかげもありません。
それは実に はかなく、つかの間の朝のキリのようなものであり、 
事実とは名ばかりの 死に満ちた「ある事実」に過ぎないからです。
それを敢(あ)えて「劣った事実」と言ってもいいでしょう。

神のことばは 私達神の子は
①今 イエスと一つである、イエスの中にある、と断言し それゆえに 
②今や 天に座している とさえ言っています。それに反し
敵どもは ヘビ達の様に地をはいまわり、日夜いたるところで
ウソと死の毒をまき散らしているだけです。それは何と下等なことでしょう。

ほかにも聖書は 私達の方が 敵のウソに対してはるかに
優位(ゆうい)である と断言する多くの真理のことばで満ちています。
私達は神の敵に対し生活の中でいつも この神の真理、
「はるかに優(すぐ)れた事実」を大いに活用するべきです。

2010年3月22日月曜日

混合栓(せん)完成、そして・・

イヤーついさきほど 午前10時、
浴室の新しい混合栓の取り付けがようやく完成しました!
今晩から ようやくお風呂に入れます。

きのう「わけは無い」と作業に取りかかったのはいいが
何と 壁に接合する偏心管(へんしんかん)に入れる「コア」という
小さな部品が見当たらないではありませんか。これは大変、
コアがなければ、混合栓はものの役には立ちません。

メーカーが入れ忘れた可能性はゼロに近いので 私がどこかに紛失
(ふんしつ)したに違いありません。ここにあるか、あそこかと家中 
捜しに捜し もしかして 大きな掃除機に吸い込んだかなと、掃除機の中の
ゴミの中までも捜したのでしたが、どうしても見つかりません。
しかしまあ こういうときは アキラメも肝心(かんじん)、明日メーカーに
注文すればいいや と夕方近くになってようやく別の作業を始めたのでした。


ところがです、夜 奇妙(きみょう)なことが起こりました。
夕食を居間のテーブルですまし、さあロフトの自室に戻(もど)ろう
とイスから立ち上がって 何心なく視線を下におろすと 広い居間の
木の床の「正にど真ん中に」そのコアが転がっているではありませんか!

これにはビックリ、何これ!です。
世間の表現をかりれば、正にキツネに・・とでも言うしかありません。
コアがどうして「その時になって」初めてそこに現れたのか、全く
説明がつかないのです。ある想定をしてみようと思っても 
そもそもその想定が困難です。

なぜかというと 広々とした居間の中央は この小屋の中で最も
異物(いぶつ)が際立(きわだ)つ場所であるし、朝から必死にコアを
捜しに捜していた間じゅう、そして夕食のしたくのときも、食事の前も 
かなりの時間 私はそこにいたのに コアのカゲは全くなかったからです。
「ものかげ」から出てきた、のではありません、居間の床のど真ん中にです。
そこは その部品が忽然(こつぜん)と現れるにしては 最も現れ
にくい場所であると「私には」思われるのですが・・

しかし、事実は事実、皆さんはこのような時、
どのような推理(すいり)をされるのでしょうか。

浮遊(ふゆう)する魂

死んだわが子の「永遠の福祉(ふくし)」を思い、
既にわが子が生前、神(それは永遠そのものです)に触(ふ)れたと
思われる形跡(けいせき)によって慰(なぐさ)めを得るのは 
決して悪いことではありません。

しかし、それは 
ある危険と背中合わせの あやうい私の姿であることも知るべきです。
なぜなら、そのような時、まかり間違えば、私の魂は
「ある種の甘い感傷(かんしょう)を伴(とも)なった 深く暗い切なさ」
の中をどこまでも浮遊し続ける状態に陥(おちい)る
かも知れないからです。

「浮遊する魂」は要注意です。それこそ正に この世のものです!
それは この世界の詩人にとっては 格好(かっこう)の材料を
提供してくれるのかも知れませんが、キリスト者にとっては不健全です。

なぜなら そのような時、私は「神のことを思わずに ただ
人のことを思っている」からです。(マタイ16の23)この箇所で
取り扱われているテーマは「人の幸福対十字架(神の御心)」でした。
荒野の中を浮遊したがる私の魂は 常に直ちに あの「一点キリスト」
と言うポイントに付着(ふちゃく)着陸させられなければならない筈です。

ああ、神よ ごめんなさい。今しがた私は
あなたのことを思わずに、人のことばかり思っていました。
でも今私は「人の幸せ」でなく「あなたの願い、あなたの幸福」を思います。
あなたの願い、それは、あろうことか、
人の子をして まずは十字架に向かわせることでした。
だから今私の唯一の願いも 十字架に向かわれたあの神の子と
一つになること、それ以外にはあり得ないはずです。
だから主よ私にも今 ただその道を取ることを願わせて下さい。

息子のことをあまりに思い過ぎた時、次の瞬間 神がこの祈りを
常に私に与え続けて下さったこと、過ぐる一年 私にとって
これ以上の尊い時間は 他にはあり得なかったのではなかろうか、
と思っております。


「私の福音に言う通り、ダビデの子孫として生まれ、死者の中から
よみがえったイエスキリストを、いつも思っていなさい。」
(Ⅱテモテ2の8)
 

2010年3月21日日曜日

大きな喜び

間もなく4月18日が来ます。
それは去年ジュンが他界した日です。

最近 ゆえあって過去の自分の日記を ひもといているのですが、
04年4月19日から24日まで ジュンが山に来ているのです。

その23日の私の日記に 私が大そう喜んだ記述が出て来ました: 
今日ジュンとよい交わりがあった、彼が言った、
「お父さん、10年来の霧が晴れてきたよ」と。

一年が経過しても 私が彼を思い出さない日はありません。
しかしキリスト者の親として 最後に思うことは ただ彼の
「永遠の福祉」のことです。それと比べたら 彼が仮に この世で
どんな大成功をおさめたとしても それは決して
私の真の喜びとはなり得ないでしょう。

たとえ彼が生前、主と触れた数秒間であったとしても 
そのホンのわずかの形跡(けいせき)でさえ、
私の大きな喜びとなるのです。

ある祈り(4)

昨日 最新の情報(じょうほう)が入りました。
何と あのB姉妹が この12日に退院していたのです。
そのさい 医師は家族に「臓器(ぞうき)は変形し、胃も働いて
いない。あと半年、あるいは一年か、二年でしょう」と
言ったそうです。しかし、一月末、その医師が「今日か あす、
長くてあと三日」と断言したことを
思えば この退院でさえ ウソのような話です。

ところが、せっかく自宅療養に入ったものの、Bさんは 強い
抗がん剤のためか、それからの数日、家族が「ボケが始まったの
かしら」と心配するくらいの困った状況が続いていたのです。 
Bさんは怒りっぽく、何を言っているかも分かりません。
(抗がん剤はいつ始めたのでしょう。)

しかし18日のことです。
A姉妹は眠られないままに 終夜(しゅうや)とりなしの祈りを
したと言います。そして よく19日、ついこの金曜日の朝の
ことです。BさんからAさんに突然 電話があったのです。

「Aさん、分かる?私だよ。昨日まで、頭がボーッとしてたのよ。
でもけさ、スッキリしちゃった。昨日までは背中も痛く 
大変だったんだけど今日はどこも痛くないのよ」それから二時間
あまりもの間、電話は すばらしい 主にある交わりへと
進んで行ったと言うのです。

2010年3月20日土曜日

ある質問(2)

AとBはどちらも事実であるという点では 全く違いはないのですが、
その二つの事実は「等級(とうきゅう)的には」大きな相違があります。
(このことは 以前にも書いたようです)すなわち
Aはとても優(すぐ)れた事実であるのに反し、Bは劣(おと)った事実です。

「私達がすでに罪に対して死んだ」というのはきわめて優位(ゆうい)な
事実ですが、キリスト者の生活においてさえも「不品行、汚れ、情欲、
悪い欲、むさぼり」が生きている、という明らかな事実Bは、
しかしながら、「劣った事実」です。

しかし その事実が劣性(れっせい)の事実であるから いい加減(かげん)
でよろしいと言うことは絶対にありません。むしろキリスト者は B現象が
もともと はかなく劣った事実であることを、情欲をいとも簡単に殺すこと
によって身をもって証明しなければならないのです。すなわち私達は 
Aの事実がBの事実に対して 圧倒的に優位である証明をするのです。
そこにこそ今 キリスト者が地上におかれている一つの大きな意義がある
と言えるでしょう。

その目的のために何と 事実Bは 敢(あ)えて神によって今現在 
取っておかれている、と言えるのです。なぜ、事実Bがあるのか、
それは Aの事実の優位性(ゆういせい)を かつては罪深かった
キリスト者が自分の「汚れを容易(ようい)に殺す」ことによって証明し、
「私は罪に対して死んだ」という事実Aを クリアに引き立たせるためです。
(これは以前書いた「コントラスト」の意味です)それは 神の敵を 私達
乳飲み子のような弱い者を用いて はずかしめる という 
今の時代における神のとても大切な目的でもあるのです。

その結果 わき上がる私達の賛美は 敵を静め
神のとりでさえも建設することになるでしょう。(詩篇8の2、原文)


この話題に関連して 他にいくつかの大切な真理が
言及(げんきゅう)されなければならないと思っております。

2010年3月19日金曜日

春のあわ雪、なごり雪

きのう午後からしんしんとして降り続いた雪が
今日の朝、阿武隈の森を、朝日に輝く銀世界に変えました。
それはそれはミゴトな光景でした。未明 あれは
確かに10センチはあったはず、
ところが、春の強い陽光に見る間にとかされ、午後1時には 
「エッあの大雪は今いずこ」なのです。
阿武隈山中 正に春の淡雪、なごり雪ですね。

前に書いた風呂の混合栓とりかえ工事ですが、
何と新しい製品の構造上 壁の穴あけを別の場所に
し直さなければならないのです。本当にヤレヤレです。
そのために その穴あけ用のドリル(直径26ミリ)をコメリで
調達しなければなりません。

ついでに、冬タイヤを夏タイヤにかえましょう。
というわけで、これから船引の街まででかけるのです。
それでは 行ってきます。

2010年3月17日水曜日

ブジ山に着きました

さきほど、
ちょうど日没(ぼつ)ころだったでしょう、ブジ小屋に着きました。
暗くなる前でよかったです。寒くて真っ暗な小屋に一人着いて
電気のスイッチを手探(さぐ)りするなどは 
あまり愉快(ゆかい)なものではありません。

地震ですか?着いてすぐ見てみると、
被害(ひがい)かなと言えそうなことは ロフトのタナの上においた
酢(す)のビンが一個床に転がっていただけ。
下手するとストーブの煙突が曲がってやしないかな、
等と思ったのでしたが、
この被害ゼロは やはり嬉しいことでした。

このあたりの地層は深く厚い岩盤(がんばん)でおおわれているから、
地震には強い筈、という話は聞いたことがあります、
真偽(しんぎ)のほどは分かりませんが・・

2月25日の「陽子さんの証し」の続きになりますが、 
陽子さんから
「ハレルヤ!
主人が、アンパンを食べたいと
言う程に癒(いや)やされています。
神様は凄いです。」
というメールが入っていました。
主に感謝です。

下山は1週間後、26日となるでしょう。

2010年3月16日火曜日

ある質問(1)

パウロはコロサイ3の5で、
「地上のからだの諸部分、すなわち 不品行、汚れ、情欲、悪い欲、
そしてむさぼりを殺してしまいなさい。」と言っています。
キリスト者は そのような「罪に対して死んだ」(ローマ6の2等)
はずなのになぜ また殺す必要があるのですか?

私の答え:
「私達が死んだ」と言う事実は 
①「永遠において」また
②「キリストの中において」です。

これを簡単に「霊的に死んだ」のであり、肉体的には
生きているのだ と説明しても間違いとは言えません。
ただそれだけでは 多くの人は「分かったようで
分からないなー」という感想を抱(いだ)くことでしょう。

いずれにしろ 神にとっては
「万物の死」は確定的絶対的な事実(真理)です。
これを仮にAとします。

しかし、今私達が存在するこの時空の中においては
「私達は死んだ」ようには見えません。私達は明らかに生きています。
これも確かに事実です。これをBとします。

今、私達の目の前に「神のことば」と「目に見える明らかな状況」
という完全に対立する二つが置かれています。
このAとBは正に真逆(まぎゃく)の光景です。
この矛盾(むじゅん)?を私達はどう解決すればよいのでしょうか。

2010年3月15日月曜日

近況です

このところしばらく 連日あれやこれやあり、
ゆっくりパソコンに向かう余裕(よゆう)がありませんでした。
リタイヤして年月がたつと 一日にたくさんのことを
こなす気力に欠けて来ます。これも年のせいなのでしょうか。

11日には 何十年ぶりに秋田のいとこと板橋で会いました。
既に数年前に他界された秋田本荘高校の恩師(おんし)のことなどを
聞きました。私の中には いまだにサッソウと教壇(きょうだん)に立つ
若き向山先生の面影(おもかげ)しかありません。私も来年には70才、
それもむりからぬこととは知りながら・・。

おとといはケンの病院に行ってきました。今回の入院は長引いて
います。あまり楽観(らっかん)は出来ないのではないだろうか、と
思わざるを得ません。(希望的な観測だけでは だめということ)

きのう午後5時 福島県浜通りに大きな地震がありました。
あちこち どうも地震が多いですね。
けさ 小屋の隣の農家のハルお婆(ばあ)さんに電話で聞いてみたら
都路(みやこじ)は大したことはなかったとのことでした。
これには一安心です。

それにしても 地球に直接接しておらず、ツリーハウスに近い
(この意味お分かりでしょうか)あの山小屋は
地震になるとハデにゆれるのです。壁に立てかけただけの
大きなミラーが倒れていなければ、よいのですが・・

明日か、あさって山に向かうかもしれません。
今年は冬が長かったような印象(いんしょう)がありますが、
皆さんはどう感じられたのでしょうか。
今年は小屋から わりと近くにある「三春の滝桜」を見に行く
ことが出来るかな。

しばらく山の三月を楽しんで来ます。

2010年3月6日土曜日

ある祈り(3)

以上のように 去年の秋以来、
彼女の体の状態は死に向かって急激(きゅうげき)に悪化し、
家族や周囲の人々も その大変な渦(うず)に巻(ま)き
こまれて行きました。

ところが 
ここに一つの特異(とくい)な事実を指摘(してき)しなければ
なりません。それは 以上のような大変な病気の悪化にも
かかわらず、姉妹自身においては、全く恐怖(きょうふ)や
おびえ、うろたえなどがなく、秋以来のいかなる時点においても 
あたかもガンとは無関係であるかのような不思議な精神状態を 
一貫(いっかん)して持続(じぞく)していたと言うのです。


さて、あの1月28日を境(さかい)にして 
彼女の病に「不思議な」状況が現れ始めたのです。
・その一両日後:
恐らく、B姉妹の死を 知らされるであろうという電話で A姉妹が
告げられたことは、何と死去どころか、患者は小康(しょうこう)
状態にまで回復していたこと。
(A姉妹はこれを奇跡のように感じた。)
・2月上旬:
A姉妹が二回 お見舞いに行った頃
患者(かんじゃ)は顔色もよく、ヨーグルトを食べ、イチゴも
食べたいと所望(しょもう)したこと。
・3月2日:
Bさんは何と大部屋に移されていたこと。

ただし、この大部屋に移されたとは 一体どんな意味なのか、
今はA姉妹にも私にも分かりません。
これから どういう展開がB姉妹を待っているのか、
今のところ それも分かりません。


最後に 以下は 
ガンを告知された頃、B姉妹が見舞いのA姉妹に語った言葉です:
「Aさん、私ガンだったのよ、でもね、おかしいくらい、全然
恐ろしくないのよ。それに胸のこの辺に 
何かあったかい所があるのよね。」


Sugar 的解釈:
これは「御心の只中にあるキリスト者」の姿(強さ)
ではないかと思っております。

2010年3月5日金曜日

ある祈り(2)

B姉妹は それからの治療のために当然 さまざまな検査を
しなければなりませんでした。しかし姉妹の実際の病状には
実に容易(ようい)ならざるものがあったのです。

今年に入り状況は更に深刻(しんこく)になり始めました。
ガンが急激(きゅうげき)に進行して行ったからです。
ガンの組織(そしき)は複数の臓器(ぞうき)の間に深く入り
こんでいました。口からの食事はできず、体重は激減
(げきげん)しました。 そして 手術は到底(とうてい)
不可能、抗がん剤も放射線
(ほうしゃせん)も 全く効果がないことが判明しました。

遂に医師は 余命は今年6月までであると言ったのです。
これを知ったA姉妹は それを告げた懇意(こんい)のB姉妹の
家族と電話口で泣きました。(しかし そのA姉妹の祈りには 
どこかに平安を感じるものがあったと言います)所が状況は 
更にその上を行くように、深刻(しんこく)の度を加えて
行きました。その頃病状は正に「加速度的に」
悪化して行ったようです。

遂に病院は この患者(かんじゃ)への対応を いつでも直ちに
することが出来るようにと 特別にBさんを 看護士達の目が常時
(じようじ)届く場所(EU室?)に移しました。
これが1月28日のことです。

本人の意識はもはやなく、医師は家族に対し 今日が「その日」
かも知れない、もったとしても、あと三日である趣旨(しゅし)
を告げたのです。家族は親戚(しんせき)を病院に呼ぶ手配をし、
葬儀(そうぎ)の段取(だんどり)りのことまで
考え始めたと言います。

2010年3月4日木曜日

十字架を経(へ)ていない霊は危険です

よく「教会」や本で言われる、御霊によって歩むというのも、
結局は十字架と復活が無ければ
絵空事(えそらごと)の様な気がしますがどうでしょうか。


言われるとおりです。父なる神は
御子キリストの「十字架と聖霊の一つ」
の中で働かれるのであり、
聖霊と十字架を切り離すことは全く不可能です。
(以上の中に「三で一の神」の一つの働きが見られます)

すなわち、
①十字架は人を復活のなかの聖霊に導き、
②その聖霊は間違いなく再度 人を十字架にもたらすのです。
神は この①②による「上下の循環(じゅんかん)」によってだけ、
人に対する働きかけをしているのであり、例外はあり得ません。

もしも今日 この循環の外にある「超自然的な不思議」がある
とすれば それは聖霊ではない「別の霊」の働きによるものです。
人が真に死(十字架)を経過(けいか)したかどうかは その働きが
聖霊か悪霊かの識別(しきべつ)に有効(ゆうこう)です。

人の耳目(じもく)をひきつけ「感動」させる
不思議な能力、未来の予知、いやし、夢、幻、恍惚感(こうこつかん)、
熱狂、「第三の天」の超越(ちょうえつ)した経験、さまざまな
パフォーマンス、ある種の霊のバプテスマ等「光の天使」の働きのように
見える現象(げんしょう)に キリスト者は十分警戒(けいかい)するべき
であり、私達はそのような経験を あまり有難(ありがた)がる
べきではありません。なぜなら それらの不思議は
悪霊達にも十分可能であるからです。

間違いなく
この傾向(けいこう)は今後 徐々にエスカレートし そのターゲットは
むしろ真のキリスト者達に向けられるでしょう。今もう始まっている
その巧妙(こうみょう)な「だまし」は 反キリストの「よみがえり」等を
最終章とし、そのピークの雰囲気(ふんいき)の中で、全世界はこぞって
「物を言う彼の偶像」をさえ 伏(ふ)し拝むでしょう。(黙示録13章)

私達は今シッカリと、ただ十字架の中にふみ留(とど)まり、今
既に始まっているこのような暗黒の潮流(ちょうりゅう)に抵抗して
立ち上がるべきです。確かに 私達を守るただ一つの神の
備(そな)えは キリストの十字架以外にはあり得ないからです。

2010年3月3日水曜日

ある祈り(1)

キリスト者のあり方は、先ずは一人が
「独立的に」シッカリ神と相対(あいたい)するすることです。
これが基本中の基本です。
そのことを土台として次に キリスト者が神からいただいた
同じ尊い命のゆえに 彼は自然に 他のキリスト者との交わりを
求めることになります。もしその食欲がないとするならば、それは
深刻(しんこく)な霊的病の兆候(ちょうこう)かも知れません。

この2、3人での交わりや祈りは 
「神の働きor 動きの基点、原点」となります。それが聖書に
「2、3人という単位」が数多く記されている理由です。

さて
以上のことに目が開かれた都内に住む姉妹Aさんは 
一人のクリスチャンBさんを見出しました。
この比較的年配の姉妹Bさんは、不思議にも その頃から
急速に 聖書の基本的な真理に目が開かれ始めたのです。
その結果B姉妹は それまでの「人間に依存(いぞん)する信仰」
から 神に依存する「人から独立した信仰」へと変えられた
のです。Bさんはよく「皆さん このことが分かると
楽になるのに」と言われておりました。
このBさんに起こった変化は本当に目を見はる出来事でした。

そのようにして この二人は
神の働き、動きのための「一ユニット」として 喜びの内に
歩み始めたのです。それはホンの去年、
初秋のころの出来事でした。

ところが何とその時既に Bさんの体は
きわめて重いガンに犯されていたのです。


ここで言う「神の働きor 動き」とは「神の命の流れ出」
のことです。もしそこに本物の命があれば、その命は決して
停滞(ていたい)したりよどんだりすることがなく、必ず外に
流れ出るでしょう。それが聖書に水の流れ、また河や川が多く
記されている理由です。
(水をためこむ池でなく川です)そして水の流れには必ず
「無理のない自然な美しさ」があるはずです。命の基本的な
表現は「自然さと美しさ」であるからです。

2010年3月2日火曜日

あるシナリオ(2)

さあ そのような祈りをしていたら、ある日ある時「それらしき
チャンス」が突然(とつぜん)訪れたのです。その時あなたは 
これは主がアレンジされた状況(じょうきょう)であるとすぐに分かり
ました。ですから このチャンスを逃(のが)すわけには行きません。
あなたは遂(つい)にミスターKに話を切り出すのです、
「ミスターK、私は実はクリスチャンです・・」と。

①その結果しかし、仮(かり)に
ミスターKが 何らかの理由で怒りだし、そのよく日から
あなたをあなたの部署(ぶしょ)内で いじめ迫害(はくがい)し始め、
遂にはクビにしたとしても それはそれですばらしい
ことではないでしょうか。

なぜなら、
・一面、あなたはミスターKを愛し、彼の「永遠の福祉(ふくし)」
をねがい、彼の益のために、キリストを紹介(しょうかい)しようと
したからです。しかし、実はもう一面が必要です。
それは
・あなたの行動が 生まれながらのあなたから出た 
単なる人の熱心さからの「伝道」でないことです。

すなわち、あなたは先ずは何よりも神の御心を尊重(そんちょう)し、
その御心の中で導かれ、そして 忍耐(にんたい)の中で神が動かれるのを
待った結果 神ご自身がその状況(じょうきょう)を「創造」され、そして 
それに呼応(こおう)することによって あなたは初めて行動したのです。

もしもそうであったとすれば、今回のあなたの行為は100%
「神から」であったことが分かります。そのように
神の前において さきほどの条件(愛と御心)を経過(けいか)した
行動こそが「人がなし得る最高の行い」と言えるのではないでしょうか。
なぜなら、そこには既(すで)に あなたの隠(かく)された
十字架(すなわち あなたの死)さえあるからです。

もしもその結果、それがあなたに対する迫害(はくがい)であったとしても
それは 神とあなたにとって 大いなる益(えき)であり、何らの損失
(そんしつ)ではないはずです。(それは1%も「肉のかり取り」では
ありません。)それこそは 真の「あなたとキリストの」十字架です。
だからこそ、イエス様も言われたのです・・

「私のために」ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしない
ことで悪口雑言(あっこうぞうごん)を言われたりするとき、
あなたがたは幸いです。喜びなさい、喜びおどりなさい。天において 
あなたがたの報(むく)いは大きいのだから。(マタイ5の11、12)


私の個人的な感じでは、彼が怒りだす可能性(かのうせい)は
とても低い のではないかと思います。

2010年3月1日月曜日

あるシナリオ(1)

あなたの上司ミスターKは そうとう難(むずか)しい人です。
あなたは彼の下で 大変な毎日を送り、日々あなたは
絶望(ぜつぼう)しそうになっています。
しかし、確かに言えることが一つあります。それは あなたを
ミスターKのもとに連れて行ったのは主であった、と言うことです。

ミスターKは今 ひどく追いつめられ、彼のプロジェクトは
存亡(そんぼう)の危機(きき)にあります。聞くところによると、
あなたがキリスト者であるとも知らず、ミスターKは「冗談(じょうだん)
めかして」よく「神様、助けてください」などと言っているとか・・。

そこで私は一つのシナリオを思いついたのです。
今 実はミスターKの心は どうしても 神を受け入れなければ
ならないくらいに追いつめられている、今がチャンス。これは実は
主が彼のために準備された環境(かんきょう)です。

ですから、あなたは今 祈りによって準備しなければなりません。
すなわち、
主よ、ミスターKにキリストを紹介(しょうかい)するチャンスを
私のために作って下さい、いや「創造して」下さい!

それだけでなく、
私が「むりなく、自然に」 ミスターKに その話を切り出せる
場と雰囲気(ふんいき)をあなたが「私にもハッキリ分かるように」
演出(えんしゅつ)してください。
もしあなたがそうして下さらないのであれば、私は語りません。
私は「取ってつけたようなこと」はしたくありません。
私は総てを自然に美しく行いたいのです。そうでなければ、
語る責任は私にはありませんから!

礼拝は行為でなく 霊の態度・状態です(2)

*父が求めておられる礼拝*

それでは、
幾つかの「異種類の礼拝」を見てみましょう。 
①悪霊達による礼拝(マルコ5の6、ヤコブ2の19) 
何とサタンの手下・悪霊達も真の神キリストを礼拝するのです!
②イスラム教徒の礼拝 ③ユダヤ教徒の礼拝
④「命の書」(黙示録20の12)にその名を記されていない、
即ち 実のところは救われていない「キリスト教徒」の礼拝 
⑤大艱難時代に 天使によって宣べられる「永遠の福音」を聞いて 
殺されることもいとわず「獣」(けもの・反キリスト)を拝むことを
拒否し、真の神を拝む人々の礼拝(黙示録14の6、7)です。

以上5種類の礼拝はおもに「絶対者である神の裁きを恐れるので
何とか神をなだめようとする」行為であるとも言えるでしょう。

以上の5者の中では⑤がベストであり、それは神が是認(ぜにん)される
礼拝です。なぜなら その礼拝者達は神によって「ある救い」の中へと
もたらされるからです。(しかし恐ろしいことに①から④の礼拝を
神は決して是認されることはなく、また
神のいかなる救いとも関係がありません)

しかし、聖書によると この⑤の礼拝者達とて 神聖な命をいただき
「神の子達」とされるわけではありません。その礼拝でさえ
「霊の中のキリストによる礼拝」とは異なります。従ってこの「ベストな
礼拝」もあの「父が求めておられる礼拝」には該当(がいとう)しません。

従って
真の礼拝、父が求めておられる礼拝とは 神と人にとって
実に貴重なものであり、それは「神の裁きを恐れ 神を伏(ふ)し拝む行為」
を遥(はる)かに超(こ)えたものであるはずです。

私達は①から④の礼拝を見て、自らを慰(なぐさ)め、
彼らと同類の礼拝を捧げるべきではありません。私達の礼拝は
完全にあくまで「霊と真」によらなければならないのです。

礼拝は行為でなく 霊の態度・状態です(1)

*父が求めておられる礼拝*

「この山でも エルサレムでもなく・・
真の礼拝者達が・・霊と真によって礼拝する時・・今がその時です。
父はこのような人々を礼拝者として求めておられる」(ヨハネ4の23)

キリストによると、
キリスト者の礼拝は「霊と真(真実)」によらなければなりません。
ところが人に真実はなく、真実とは実はキリストです。
ですから、「礼拝する要素」は人の霊の中の復活されたキリストです。
従って「キリストと一つにされた人の霊」を用いずして
礼拝をすることは不可能です。

キリストは今日復活の中にあるのであり 時空を越えます。
ですから「真の礼拝」は「場所と時間を定めた
ある方式や行為(こうい)」ではありません。そうではなく
礼拝は 神に対する「霊の ある態度や状態」です。

従って体のある行為によって「礼拝を済(す)ませ」たり
「礼拝を守ったり」することは不可能です。少なくも
それらは、今日父が求めておられる礼拝ではありません。

それでは そのような「世に言う礼拝」とは一体何なのでしょう。
それは いわば「異種類の礼拝」とでも言うべきであろうと
私は考えております。

そうです、「異種類の礼拝」というものがあるのです。 
その礼拝は決して 異なる神や悪霊を拝む礼拝ではありません。
人々がその礼拝を評価する理由は それが「絶対的な唯一の神」を
拝する「厳粛(げんしゅく)で立派な」行為であるからです。
しかし、問題は 神ご自身も そのような礼拝行為を真に
評価されるであろうか、と言うことです。