2007年10月30日火曜日

ある老婦人(91才)の言葉 2

 眠りから覚めて
*「イエスの足元にずうっと置かせてもらったよ」
*「イエスは神々しかった、イエスの手は暖かかった」
*「私は今 観世音菩薩でなく、イエスキリストを信じている」
*長女たか代さんの もし神に召されたらどこへ行くの?
 の問いかけにとてもハッキリと「イエスキリストの所だよ」


そして 29日午後1時
九州のたか代さんからメールを頂きました:

「母は眠る様に、主の元に召されました。
とても満された表情で 今にもしゃべり出しそうな感じで。
地上での命が終わる間際に母と祈れた事が感謝でした。
これからお通夜です。」

たか代さんへ:
「驚きました。私的にはこんなに早く と言う感じです。
でも確かに今 上からの静かな平安と温かさ そして
ある種のほほえみを感じております。
多分 それはイエスとお母さんのほほえみでしょう。
それは 私にさえ向けられているようです。
不思議です、そして嬉しいです。
今 イエスを愛します。
そしてお母さんを愛します。」

2007年10月29日月曜日

愛、一つ、死、命、働き

今後世界はその暗さを更に加速して行く事でしょう。しかし神も確実にその
御業を進められます。その御業はある時期の使徒行伝に見られるような道
であり、ブドウの樹が地に近い所を横に命のツルをどこまでも伸ばして行く
様な道でしょう。そこに見られる「神のことばの増し加わり」には今日では
考えられないようなスピードと「聖霊御自身の人に先立つ準備と活動」が
見て取れます。それは実に不思議です。
その原因はどこにあるのでしょうか。

「愛と一つ」がない所で神が働かれることはあり得ません。神は全能者です
が 不思議な事に人との一つがなければどんな業をも始められません。
神は愛です。創造と贖いの御業も父と御子の愛から 即ち 
父と一つであると言う御子の喜び また父の喜びを満たしたいと言う
御子の願いから生じる力によって生み出されたものに違いありません。

そしてその創造と贖いの目的は実に 神と人との一つを
実現することであったのです。神は愛の故に 
遥かな道のりをも物ともせずあなたに近づこうとされました。
そしてイエスにある神はその愛の故に
2千年前十字架に至りあなたと結合され 霊となって
あなたに到達され 遂に神と人との一つが実現されたのです。

神の願いはあなたと一つとなる事でした。
神はそれ程までにあなたを愛され 
そして何とその命を捨ててまでしてその一つを達成されました。
これは永遠における神の御業の成就でした。
しかしながら神の愛する対象が 私達人がそれを知らなかったり
勘違いしたり まともに信じなかったりしたら 
きっと神は悲しまれるでしょう。それは正に宇宙の大いなる片思いです。
ここから神の愛の物語のパートⅡが始まります。それはあなたに対する 
次の諸段階における神の働きかけの中に見られます。

先ずあなたは「あなたとイエスは一つである」と言う永遠の真理を
知らなければなりません。聖書は随所にその事実を私たちに告げています:
ノアの箱舟、パプテスマ、接ぎ木、サウロへの御ことば、等によって。

次に大切なことはあなたの信仰です。あなたは神が達成された
その既成事実を選び取り、自分のものとして有難く頂けば
それでよいのです。これが次にあげる諸点の土台となります。

ここに「イエスと私との距離」に関する認識の問題があります。
多くのキリスト者は「主は近い」と言うあいまいな認識で満足しています。
しかし愛の神はそれでは不十分であると言われます。
「近い」だけでよいのであれば、神の御子が敢えてアダムとなり
霊になられる必要は無かったでしょう。ここで要求されているのは
「完全な近さ」なのです。「近い」とはこれまで述べて来た
「一つ」であると言う意味です。完全な近さ、極限的な近さとは、
本当に一つであること、ある意味においては
「あなたは私であり私はあなたである」と言うことなのです!
何と主は近いことでしょう。

ここで更にもう一つの要件があります。それは
「イエスと私における一つ」の主観的経験の段階、
一つであると言うことの享受の段階です。
それは具体的に言えば、あなたが実際生活においてその一つを味わい 
一つであることの恍惚とした甘美な味わいの時を日常生活の中で
しばしば持たなければならないと言うことです。

なぜでしょうか。それは「一つと言うこと」の背景には愛が
あるからです。当然のことながら愛と言うものは多分に
感情的 感覚的な側面を持つものです。
もし愛があると言うのであるならば、双方がその愛に浸りその一つを
味わう時間を最大の喜びとするはずですし、その一つが欠落する時には
大きな不安をさえ感じ、何を差し置いても直ちに
その修復に向かうものなのです。それが愛と言うものではないでしょうか。

愛があれば、二つは一つになることを欲求します。
愛しているが一つにはなりたくないと言うことなどあり得ません。
愛し一つになり相手を楽しむ、それが真にその相手を知ると言うことです。
そのようにして両者は一つに溶け合い、遂にあなた私の区別さえつかない
と言う状態にまで至ります。
これが一つであることの経験的享受の極致です。
ここまで至らなければ愛は真の満足に到達することは無いでしょう。
何と私達の神は 私たちとの間でそのような程度の愛の交感を
求めておられるのです。私達の神は正にそのような神なのです。

さて愛する時にはそこには自ずと 一つに向かうエネルギーが発生します。
ところがその時しばしば神は 何故か私達をして死を経過させるのです。
それは多分 不純物の除去のためなのでしょう。
そのようにして不純物を死に渡し 純化された真正な一つが
復活の中から出現します。そしてその時こそ
更に大きく深い不思議なエネルギーが発生するのです。
それは復活の命の中の 四方八方に天的な芳香を
無限なエネルギーとして発散する何物かのようです。

その命の中では人は最早 肉体の死を恐れる事さえないでしょう。
かつて多くのキリスト者が自分を殺す敵の為に祈りつつ輝やく喜びの中で
殉教して行ったのは 復活の中の
この不思議なエネルギーの故であったのです。

愛は一つを願い、それが死を経過して 復活の命と言う偉大なエネルギーを
発散します。これが使徒行伝の中に見られる
「神の言葉の驚くべき増し加わり」の背景です。
当然これはまた今日 私たちの日々の経験でなければなりません。

2007年10月24日水曜日

マルシアの食べよう会

さて皆さん
当山小屋で来る27日「マルシアの食べよう会」が
とり行われることに相なりました。

先回の客人はあの芋久保氏一人でしたが
今回は 私の大切な隣人カップルと一寸遠くからのお友達で
私を入れて計6名となる模様です。
マルシアが 小屋専用にと先回本格的なオーブンを置いて行ったので
料理はどうもそれを使用するものらしい。
マルシア今どき一体どんな料理を考えているのかなー。

いや「人生」分からないものである。事はこの1日2日の間に
トトーンと運び 皆さんやったやったと今期待感一杯なのであります。
しかし肝心の当日はどんな事になるのでしょうか。 
ま それは秋の山の清らかな空気の中 少しの料理と
それに本当は一番のご馳走、即ちそこにつどう人間達を、お互い 
ゆったり楽しめれば もうそれで十分なのではないでしょうか、
などと思っているのです。

マルシアよ、だから決して張り切り過ぎて 無理などしてはいけません。
皆さん、お料理もいいが、あなた達ヤングカップルと
限られた一つの空間の中 くつろいだ時間を過ごすのが 
一番嬉しいことに違いないのだから。
(突然だけど先日酒田の友達からもらった白米沢山あるからね)

私の役目はと言えば、薪ストーブと風呂の準備くらいかな。
例のシャワー用「ダマシ絵バスルーム」はどうしても一寸狭いから
隣村の かえるの温泉にでも行きますかね。
でも実は だまし絵バスも 試しにちょっと入ってもらって
感想を聞いて見たい気がしないでもないのです。

ぜひお見せしたいのは 何と言っても
太陽の光を通す 絢爛たる小屋の周りの紅葉の輝きなのだが 
当日はあいにくの曇り空らしい。これはちと残念。

さてさて この秋のマルシアの食べよう会
いかなることになりますのやら。

candy さんの証

主人を今朝
外来での化学療法のため、病院に送ってきました。
今頃は、抗がん剤治療の真っ最中です。
駐車場に向かいながら
「主よ・・」と主の御名を呼びつつ、歩いていた。

そのとき、
「私のために祈っていただけませんか・・」と
ささやく主のみ声を内側に聞き、私はただ溢れる涙。

夫のために祈る事は、主のために祈る事、
主は「私のために・・」と語られた、夫のことを。
「夫は主のものである」と宣言し祈る。

もう主のいのちの中に入れられてしまった夫、
もうインプラントされてしまった彼へ、
この驚くべき恵み。


「わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすれば、たましいに安らぎが来ます。」
とおっしゃられた主のくびき、何と甘い事でしょう。
主のへりくだりを知るとき、
喜びを持ってともにくびきを負う恵みに、
むせび泣くしかない者です。

今度は私の透析治療の時、
私は涙ながらに詩篇27の4から6を読みながら、
私の求めるものは、ただただキリストご自身であること
もはや、主人の病のことではない、それよりはむしろ
主人の内に脈々と息づくキリストを見たい、
ただその御顔を求めます、と祈りました。

☆    
candyさん(さっちゃんさん)
無断で一部を少し変え転載しました。お許しください。
皆さん、candyさんのブログは:イエスの喜びと満足のために

2007年10月23日火曜日

ひそやかな礼拝

イエスと言う「唯一人の人」の中に 
既に私が据えられている と言う事実を信じ、
「キリストの中の自分」と言うこと、 更に
「もはや分けられ得ない 区別し得ないイエスと私」
と言う事実を知り味わい、そしてその真理に 
ただ恍惚と浸り切るしばしの時間、
と言うものが今あなたにはある。

もしかしてその結果なのかも知れない、
その後ある時に フト突然 決してあなたではない
あのイエスの命、あのイエスの生活、あのイエスの活動が 
確かに しかしとても静かに 
あなたから或いはあなたの周辺から出現することがある。
でも一瞬「これ一体何だろう!」といぶかるあなた。

その思いがけない主の現れに改めて驚き、
「あそうか、主よあれはあなただったんですネ」と
そこで初めて 穏やかで不思議な気づきがある。

そんな時 誰に告げられるわけでもなく
密やかな でも目を見はる喜びの中にひざまずき
ただ一人 黙って主を礼拝するしかないのです。

2007年10月21日日曜日

南デッキの東のはしにある清掃コーナーです。

あるメール交換から 3

神に対する本気 無しでは何も始まらない、
に引き続き、

Ⅰ神の目的を知る
先ず私達は「主よ、あなたはどこに行こうとしておられるのですか」
と問う必要があります。
即ち 私たちは 今この時代におけるイエスの行く道、
この時代における神の目的を知らなければならないのです。
私たちはイエスの友です。もしもそうであるならば
私たちは神の僕としてだけではなく
神の友として神の目的、計画を知るべきです。
そしてそれはきっと知ることが出来る筈です。
仮にイエスが福音書にあるように 今
小さな船に乗って対岸に向かっておられるとするならば、
私たちは イエスと同じ目的意識を持ち
その小船に乗船する必要があるのです。
 
Ⅱ除去する力を用いる
イエスの中にはある極めて特異な力があります。
それは総てのものを除去する力、切り離す力です。
取り除き 切り離す最大の効力は死の中にあります。
どんな凄いものでも死の向こうまでは
追いかけて来る事が出来ないのです。
 
私達は このイエスの死の力を知り それをわが身に適用し
多くのもの(罪、肉、この世等)から
わが身を切り離すことを実際的に学ぶ必要があります。
神は私達にその死の力を用いることを願っておられるのです。
 
神の目的達成のためには
イエスの力以外の力は それがいかに品よく見えたとしても
神にとっては役に立たない所かむしろ邪魔なものであり 
遠く切り離され、取り除かれなくてはなりません。
当然 私たち自身の努力の汗、血気等も総て「邪魔」です。
 
もしも私たちの中にその様な邪魔が少しでもあるならば、
たとえ私たちが対岸にたどりついたとしても
神の敵である邪魔(邪霊達)が私達から逃げ去ることはないでしょう。
従ってそこにキリストの目的である王国がもたらされることもあり得ません。
なぜならば私の内側に 邪霊達の足がかりがあるからです。
 
更にイエスは遂に「私達そのもの」さえも除去されます!
彼は私の古い命、生活、人生、運命さえも隔絶されるのです。
それはキリストのみが私の生活の中で100%表現されるためです。
神にとってキリストは文字通り総ての総てでなければならないからです。

Ⅲキリストの復活の力を導入する
嵐の海を渡り(超越し)対岸で悪鬼を追い出し
キリストの王権を現すという彼の目的を実現するための総ての力は
ことごとくイエスキリストの中からのみ引き出されなければなりません。
それでは今現在そのイエスの力はどこに存在するのでしょう。

それはイエスキリストの復活の中にあります。
だから今でさえ私達はいつでもどこでも時空を越えて
この復活のキリストの力を引き出し導入することが可能であるのです。
 
そして遂にはそのイエスの復活の中で 
私達は一人一人個別の生活を生きると言うのではなく、
自分をキリストと言う生ける「型枠」の中に置き
「イエスキリストと言う生活と人生」をこの地上で私から生かし出すのです。
実は私たちには既に 私達の命も生活も人生も無いのです。
それは永遠の中では総て彼の死の中で除去されています。
だから私達は信仰を機能させ、私においてさえ
「イエスキリストと言う命、生活、人生、運命」がこの時空の中でも
最もリアルで実際であることを実証し証明する事が出来るのです。
☆ 
以上のことを敢えて端的に言うならば、
1イエスの死をわが身に適用して総ての邪魔な力を取り除き、
2全面的にただキリストの復活の力によって
3イエスと共にその目的に到達する
と言うことになります。
更に詰めて言えば 神の目的を認識し、
キリストでない総てをマイナスし
キリストのみをプラスすると言えるでしょう。
即ち その目的のためにそのマイナスとプラスを実際生活に
現し出すのです。

以上はホンの一つの大雑把な鳥瞰図、原理原則の提示に過ぎません。
この原則(-→+)の実際生活への適用には
当然多くの探求と交わりが必要とされます。
それは折に触れて少しずつ提示して行きたいと思っております。      

2007年10月20日土曜日

あるメール交換から 2

今日の貴方のブログの言葉から思うに、
私には今キリストを最優先することが求められています。
確かに今それが大切なことは分かり始めているようです。
所が 私の現実はと言えば・・
 
昨日もある展覧会に行ったのです。それはよいとして
帰り道に洋服にとらわれ店をうろうろと歩きまわる。
そしてとうとう買ってしまったのです。ところが買った後には
ああこれは買う必要は無かったのだと後悔するのです。
更には食べることにも心とらわれ、おいしいものが食べたいと
またまたあちらこちらと・・しかし食べた後、
少し食べ過ぎた、ダイエット出来なかったと悔やむことに。
そんなこんなの真に情け無い日ごろの私なのです。

私の内には御霊が私の霊と一つとなっておられると言うのに
私の肉は何と根強いことでしょう。
サタンが徘徊して私を食いつくそうと狙っているのでしょうか。
何でこの頃こんなに私を狙うの?と私はわめいています。
肉の思いに支配されることが多い私にとっては、
求めることが苦しみの始まりとなったようです。
私はキリストの一部だと言うのに これは変ですね。


私はあなたの問いかけに
ある気安いノウハウ等を提供することは出来ません。
何故ならあなたは神にとって実に尊い存在、
キリストの命を内に宿す真に稀有な存在、
即ちキリスト者であるからです。

「求めることが今 苦しみとなってしまった」
と言うあなたの言葉、不思議に思われるかも知れませんが、
実はこれは 神にとって 素晴らしい響きを持つ言葉なのです。
きっと今神はあなたにある接近をされているのでしょう。

だから今あなたは その神の働きかけに対して自発的に呼応し
真っ向から神に応答すべき時であると思います。
「神よ一体私の人生とは何なのですか!」と。そうです、
あなたの今回の問題は 決して単なる買い物の問題などではなく、
あなたの人生そのものの問題なのです。ですから
もしも仮にあなたが自ら 神に対して
その様な真剣な反応をするのでないならば 
あなたは何ものをも得ることが出来ないでしょう。

次に3つの方面から
この問題の背景に近づくことが必要と思います。
それは一つ一つ相当大きなテーマなのですが 
次回にその大略、鳥瞰図を少しだけ示すことが出来るでしょう。

2007年10月18日木曜日

ある交わりの回復

私たちが今 思いがけなくまた実に不思議にも 
このようにして再会するのは
早すぎても遅すぎてもきっとだめであったろう。
今この時 神は私たちを完全なそして絶妙のタイミングで
会わせて下さったのだ。神はほむべきかな。

総て事をなさるのは人ではなく神である。
イエスは言われたではないか
「私が教会を、ザ チャーチを建てるのだ」と。
神は人の余計な手出しなど全く不必要なのである。

私は今回「何かのグループ」の中に
「ある正しい教会の囲い」の中の中へ
あなたを連れ戻そうとしに来たのではない。
正当なグループとか「絶対的に正しい教会」とか、
それが一体何だと言うのか。
あなたは どこに帰るも帰らないもないのである。
どこに戻るも戻らないも無いのだ。
真にあなたは神から生まれ、今神の家族となり 
既にあのエクレシア(教会)の中にいるではないか。
私と共に 今既にキリストのからだの中にいるではないか。

私はだから ただ単純にあなたと交わりたいだけなのだ。
あなたは主にある私の兄弟である。もうそれだけで十分ではないか。
そこに何をどうプラスする必要があるのだろうか。
何もあろう筈が無い! 私たちの交わりとは
父そして私たちの長兄イエスキリストとの交わりなのだから。

私たちを今まで隔てて来たものは
何と言うことだろう「いわゆる聖書的正しさ」であった!
その「正しさ」がいつの間にか、
生けるキリストに取って代わってしまったのだ。「正しさ」が
言わば聖霊の生ける「ビリビリ」に取って代わってしまったのだ。

私たちが「聖書的正しさ」の故に盲目にされて来た長い年月
私の熱情と「正しい突進」によって
何と多くの私たちの愛する者を、主のものである兄弟姉妹を
踏み倒し、傷つけ、殺しさえして来たことであろう!

しかし生けるキリストを最優先する時、種々の「聖書的正しさ」も
そしていわゆる「教会の立場」でさえもきっと
ハーモニーの中で、そのふさわしい命にある位置づけの中で、 
その麗しい姿を自然に現してくれる筈である。
そしてその時に現れるキリストの全体は何と美しいことであろう。

だから この優先順位だけは決して間違えてはならないのだ。
どうしても無くてならないもの、それは決して多くは無い、
いや、只唯一つだけである。
それは今現在 どんな人も規定したり固定したり出来ない
実に「不思議」で自在なあの復活のキリストなのである。

私たちが若き日に見た明瞭なあの幻は実は、
決して「唯一の使徒による絶対的な神の託宣」等ではなく 
単純素朴、当たり前で普通の「これ」であった。
いかなる警戒心も無い、どんなものにも妨げられることの無い
総ての兄弟姉妹達との自由で屈託の無い普通の「交わり」であった。
それこそが「教会の実質」であり、それこそが
この時代における神の御心の中心なのである。

今後私たちが「この単純な道」を進んで行く時 
主の十字架は私をズタズタに引き裂くであろう。
それでも私は唯このためにある。
そんなに長くは無いであろう私に残された時間、
駆け抜けるべき最後のホームストレッチ
私の命は唯このためにある。

2007年10月17日水曜日

あるメール交換から

おたよりありがとうございます。
繋がることもいらない、もうキリストと一つなので、
その中に安息していればよかったのですね。
どうも落ち込んだりすると、自分の状態を見つめてしまっていけません。
そのときどうであっても、神が完成された事実を信じることですね。
私は十字架でキリストと共に死んで墓の中でした。
今生きているのは私ではなくキリストでした。

キリストをどの程度私に与えられたかは、イエスと私の区別がないほどに。
これ あまりにも恐れ多くてうそみたい!
でも神が達成されたということを信じる事でした。
愚かな自分に言い聞かせます。
すぐ引き出されていまい どうしようもない私の信仰を、
強めてくださいと祈ります。

☆ 
今回あなたのメールに大感激です。
実際神の真理はその殆どが「恐れ多くて嘘みたい」です。
だからこそ信じることが要求されるのです。
少し意志を用いて信仰と言うあなたの能力を機能させて下さい。
神はそんな嘘みたいな素晴らしいことを完成し、
私達に ただで貰うようにと言われるのです!
だからこそ恵みなのです。

そうです。言われるように 
その事実からから引き出されなければいいのです。
でもホンとの所 私たちはとてもたやすく引き出されます。
人間とは一日中 様々なとんでもない感覚に
ホンロウされているのが常だからです。
だから気がついた時 引き出されたと感じたら、
再びすぐに神の真理に戻ることです。
方法の一つとしては 口で神の事実 真理を宣言することは有効です。
そして時には敢えてサタンにその真理をぶつけてやる、
「嘘つきサタンよ、私はもうキリストの一部なのだ!」と。

そして更にその主と一つである事実に
「しみじみと浸る」ことが出来れば最高です。
これがいわゆる恍惚の時!
しかしそれは一寸した上級段階です。
これは徐々に練習して見てください。これたとえ すぐに出来なくとも
ガッカリしてはいけません。決してそれが敵に利用されてはなりません。 
感覚がなくとも事実は事実なのです。
天的感覚は時に応じて上からくるのです。

あくまで 神が達成済みの事実→信仰→感覚です。
この順番がくつがえることはあり得ません。

2007年10月16日火曜日

末期がん、ある老婦人(91才)の言葉1

がんは胃がん、今肝臓にも転移し貧血がひどくいわゆる絶望的状況。
九州は300年の歴史を持つ禅宗のお寺の住職夫人。
夫と死別後も気丈にお寺を守ってこられた。

ところが長女が8年くらい前に
何とキリスト者になってしまったのである!
その日以来、この長女(たか代さん)に対し、
つらく当たる日々が続いたと言う。
それでもたか代さんは折に触れイエスのことを
お母さんに語り続けたのだと言う。
当然お母さんのそれに対する反応は全くけんもほろろであった。

平成13年がんが発病した。
にもかかわらずお母さんのたか代さんに対する態度は軟化する所か 
むしろ その嫌がらせはエスカレートして行った様である。
徐々に病状は進行し今年6月14日入院された。

そして遂に時至り、
お母さんの心に徐々に確実な変化が見られ始めたのだ。
医師が
「正直去年の12月まで持てばと思っていた。
存命されているのも不思議なのに今 このような状態に
保たれているのは到底考えられないこと」と語る中、

今年の夏のある日:
たか代さん「お母さん、イエス様のこと分かる?」
お母さん「6割くらい分かるよ」
後日「今日は8割分かる」
そしてとうとうある日 
たか代さん「お母さんイエス様 分かる?」
お母さん「完全に分かったっ!」

8月7日:
何とベッドで両手を高々とさし上げ、声高く宣言されたと言う。
「全国の皆様ーっ、私はイエス様を信じますー!」
これらのお母さんの発言は誰にも教えられない
完全に自発的なものである。

後日:
「この方しか神はいない。この方の右に出る者はいない!」
お孫さんに対して「今イエス様だけが神だと分かるよ」

2007年10月15日月曜日

主がされる

山川ご夫妻が 
先ほど 明るい朝の光の中 紅葉に見送られるように
帰って行かれました。

とても不思議でした。
「確かに今主が何かをされようとしておられる」
昨晩と今朝 その実感が3人の間を去来しました。
彼はもう一人の関西に住む 主にある兄弟のことに触れ、その兄弟が
「私のこれからの人生は主によってズタズタにされるだろう」と
言われたそうです。ズタズタにされるとは 主に従うことによって
彼が負わなければならない十字架のことです。
この兄弟も近く山川ご夫妻と共にこの小屋に来られると言います。
これらは総てつい最近 
立て続けに彼らの間で起こったことのようです。

「私は・・私の教会を建てよう」(マタイ16の18)
この最後の時代
このことについて私は 人がここに入り込む余地は殆ど何も無いと
感じさせられるばかりです。

2007年10月14日日曜日

3つのメールから


H さんへ:
・・・敢えて平明に言うと それは自分から抜け出し、
キリストを自分とすること、キリストに自分を置くこと、
この時空にある自分を天におられるあの人の中に移す、置き換える
とも言えるでしょう。(平明には行かないか!)
「神はキリスト全体を私に与え、私とキリストを一つに連ねた」と
ある人は言います。つまり、神にとってはキリストと私の間に区別は
ないのです。一つとは区別がないことです。それは 
ブドウの枝と木に区別はないのと同じでしょう。

私は今 死・水の中なのですから、私と言う存在、私の命、生活
私の人生も運命も死の中です。そして今この宇宙にある真の存在は復活の
キリストだけなのです。(I AM)
だとすれば私はどこにいるのか、
そのキリストの中にいるだけでしょう(彼と私は共に蘇らされたから)
誤解を恐れずに言えば、私達は今日の奥義的天地のイエスとさえ
されているのです。
「サウロ なぜ私を」とイエスは言った(使徒行伝22の7)
この御言葉の「私」とは明らかにクリスチャンを意味しています。


このことを内的に知るには 私の強い願いとそして
神の啓示がどうしても必要です。原則的には私たちが門を叩かなければ
神は開けてくれることはないでしょう。
この点で 宇宙の中で H さんと神だけの二人きりになり
H さんが 個人的に神に強く迫って行くことが基本だと思います。
祈っています。

☆ 
A さんへ:
本当は「繋がろう!」とすることさえ要らないのです。
なぜなら 神によってもうあなたはキリストと一つにされているからです。
(Ⅰコリント1の30)
実はそのことに感謝し、その事実に安息していることが
「私に繋がっていなさい」なのです。
「あなたは今東京にいる」は事実、だから
「主よ私を東京におらせてください」と祈るのは変です。
「ああ、私は東京にいる、有難うございます」でいいのです。
神の言葉によれば もうあなたはキリストと一つとされている、 
キリストの中におらせられているのです。
単純に神の言葉を信じるのが一番です。
神が唯の一回とて いいかげんなことを言われる可能性があるでしょうか。


おはようございます。
自分の状態を見つめるのではなく、先ずは
「せっかく神が私たちのために完成された事実」を信じるべきです。

それによると、
そのような「いやな私」は今はもう墓の中です。
イエスが十字架にかけられた時、「君もそこにいたのか」(聖歌)
そう確かに君もそこにいたのです、イエスの中に、イエスと一つの中に。
(唯見ていたのではありません、十字架の影に、でもありません、
イエスのそばに、でさえありません)

「神がどの程度にキリストを私たちに与えられたのか?」:
それはイエスとあなたの区別がないほどに
二人を一人としたほどに、その程度までに
神はイエスをあなたに与えられたのです。
実はよく聞く「主にあって」とはそう言うことなのです。
(このフレーズをクリスチャンの間の殆ど意味のない挨拶言葉に 
してはなりません。)
完全で本質的なイエスとあなたの一つ、
それは神が既に達成された基本中の基本の真理であり
このこと無しにキリスト者が前進して行くことは殆ど不可能です。

御子がせっかく命を捨ててまでして A さんの為に用意された
このようなプレゼント(キリストとの1つ、の事実)を もしも 
見つめることさえせず無視し、もらってくれないのであれば 
神の悲しみはどんなでしょう。

私たちは先ずは それに手を伸ばし
「有難う」と言って無邪気な子供のように貰えばよいのです。 
神が私たちにして欲しいこと、
それは唯 信じてその事実を頂くことだけなのです。


下の写真:
クリックすると大きくなりますよ。

この写真のように この間まで一面緑だった木々も
今朝小屋の周りは「紅葉3分咲き」とでも言った所です。

今正に 落葉広葉樹の葉を透かしにして
朝の光が 舞台の照明ライトのように
華やかに輝いています。

和室から 今日よりも更に進む紅葉を眺めるであろう
山川ご夫妻の為に 
明日の朝も晴れてくれないかなー。
お二人 新潟から今日の夕方小屋に着かれます。 

2007年10月11日木曜日

ある提言

神はキリストと言う宝の箱の中から、人々の祈りに応じて
ルビーやらダイヤモンドやら愛やら忍耐やらを
Aさんには忍耐を Bさんには愛をと言うふうに小分けして 
1つ1つプレゼントしてくれるのではない。

これは人の生来の宗教心からたやすく生じ得る観念であり 
神の方法からはハルかに遠い。
これは多くの熱心なキリスト者の間にさえ
広く行き渡っている極めて大きな誤解である。

神はキリストご自身と言う唯一つの答をあなたにそっくりと与えられる、
と言う手段のほか他の方法を取る事はあり得ない。
ヨハネ3の16の前半に言うように
神は「キリスト全体」を私個人にさえ惜しげもなく与えて下さったのである。
この意味では 神はもうやるべきことを全部やってしまわれたのだ。
なぜなら私に「総ての解答とその実質であられるキリスト」をもう既に
「私の内に」与えてしまわれたのであるから。
(だから「私に愛を与えてください」と言う祈りに神は
応えようがないと言えるのである!)


少数のと言えようか 更に主を追い求める人々は
内住の生けるキリストを言う。
そしてひたすら自分の魂が造り変えられ 
自分が聖化することを望むのである。
当然この願いは間違っているとは言えない。
否、それは新約の標準に迫って行くものでさえあり
彼らの水準は前述のキリスト者達とは比べるべくもない。

しかしとても不思議なことに その願いは簡単にはかなわないように見える。
いや、間違いなく殆どその成果は見られない
と言う方が当たっているであろう。
目標は明確なのだが、そのゴールはどこまでも行っても
要するにあの高嶺の花なのだ。
このキリスト者の一般的傾向は容易に、
その高嶺の花によじ登ったかに見えるある少数の人間を崇拝すると言う
恐るべき結果に繋がって行くのである。
これは確かにどこかおかしい、何か変だと言えそうである。


そこで私の提言とは:
「神は私にキリストをどの程度に与えておられるのだろうか」
と言う問題が真に意識され追求されなければならない
のではないか、と言うことである。
(この点、敢えてここでは詳しくは触れない)

そのようにして
「自分が変えられたい、自分が聖くなりさえすればと言うワナ!
その自分が、私が、私が、と言う落とし穴!」
(イザヤ14の13、14)
に気づいて行く必要があるのではなかろうか。
日々そんなにまで自分を見つめる、或いはぼんやりと他人に羨望を抱き 
見るのは毎時自分だけ、そのようにして何らかの力によって真に巧妙に
私たちの視線の先はたやすく天のキリストから
「地の自分と人間達の渦巻き」に移されてしまうのである。

それが本当の新約なのであろうか、真に私のあるべき姿なのであろうか、
私たちに対する本当の神の願いなのであろうか。

2007年10月10日水曜日

御子の中で万物は創造された

事実、御子において万物は創造された。天にあるものも、
地の上にあるものも、見えるものも見えざるものも、
王座であれ主権であれ・・万物は御子を通して、
そして御子に向けて創造されている。(コロサイ1の16)


今日キリスト者にとって
「万物の創造は御子の中で行われた」という真理の影はとても薄い。
多分 創世記1の1の強い印象のせいであろう。
そしてそもそも人の生まれながらの観念も
この真理に強く反発せざるを得ない。岩波訳の脚注、
そしてダービー訳の脚注でさえ
「正直に」この「御子の中で」にとまどいを見せている。
さもありなん。確かにそれは同情出来ることではある。

しかし、コロサイ書は神の言葉なのだ。従って、単にその理由の故に
この聖句はそのまま単純に受け入れるのが最も賢いと私は考えている。
確かに万物は「御子の中で」創造されたのである。

するとどうなるのか。
万物宇宙というものは御子の中に存在していたのである。従って
御子がアダムとして神によって死の判決を受け、水中に没したとき、
万物(物質の宇宙とその中の総て)も死の判決を受け 
そして実際 死と言う水の中に没したのである。

そして御子が、アダムの次なる人(第二の人)として復活した時、
イエスと言う箱の内に信じ入った者は誰でも「新創造、全く新しい生きて
愛のある宇宙、復活と言う超越した永遠の領域、
拡大した天地の奥義的イエス、新しい人、神ご自身」と一つとなり 
その生ける構成要素とさえされたのである!


父は私たちを闇の権勢から助け出し、その愛の御子の王国的支配の下へと
移しいれてくれたのである。(コロサイ1の13)
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。(ヨハネ15の5)

2007年10月9日火曜日

カントリーな明かりが欲しい

間もなく14日ころ、はるばる北の国から
古くからのお友達 山川ご夫妻が泊まりに来られます。
嬉しい、でもどうやってお迎えしようかなというわけで 先ずはきのう
柏のリサイクルショップから買ってきたばかりのライトを
居間の2箇所と洗面の鏡の左上に取り付けて見ました。

どういう明かりをどこにどう置くのか これ結構難しいのです。
実際取り付けたあと 離れた所からフト眺めて見なければ
その場所にその明かりが本当に似合っているかどうかは
分からないのです。せっかく吊るしては見たものの
どうもここではしっくり来ないなーと
不安定な脚立にフラフラと上ってはまた取り外す、
と言うわけで とにかく大変なのですヨ。
結局どうなったかと言えば、洗面のあかりはセージとマルシアからもらった
黒い傘のスタンドの脚を取り外し上から下げることにとあいなりました。

居間は 蛍光灯から白い傘の白熱灯に変えて見ました。
案の定 白熱灯の明かりは雰囲気はいいのだが どうしても赤っぽく暗い。
蛍光灯の明るさを持つ、カントリーな明かりはないものでしょうか。
メーカーさん そんな照明 早く作ってくださいな。
(これ蛍光灯の白い明るさに慣れ親しんでしまった私が悪いのかな)

★ 
夜 ロフトの寝室の南の窓辺に 
ジョイフル本田から300円で買ってきた
小さなカラーライトを灯して見た。

光とは不思議なもの、
紫のフィラメントが 窓の向こうの森の闇を背景に
微細に揺れるように輝く。
それは私の心の目さえ 奪うようだ。


イエスの十字架は実の所 
誰でもない私の死、私の水没。

復活のイエスこそ私の中の 
他でもない まことの唯一の存在。

2007年10月6日土曜日

ある仮説

ノア・・その日に巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、
水の水門が開かれた。・・ちょうどその同じ日に、ノアは・・一緒に箱舟に
はいった。・・水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、
それは、地から浮かび上がった。(創世記7の11、13、17)

わずか八人の人々が、この箱舟の中で水を通って救われたのです。
このことは今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。
(Ⅰペテロ3の20、21)

水は・・後を追って海に入ったパロの全軍勢の戦車と騎兵を覆った。
残された者は一人もなかった。・・イスラエルは海辺に死んでいる
エジプト人を見た。(出エジプト14の28、30)

キリスト・イエスの中へとバプテスマされた私たちはみな、その死の中へと
パプテスマされたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかる
バプテスマによって、キリストと共に葬られたのです。・・もし私たちが
キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているなら、
必ずキリストの復活とも同じようになるからです。(ローマ6の3、4、5)


この4箇所の聖句から分かること:


キリストの死は正に復活への門であること、また
キリストと人との結合の時、即ち人がキリストの中へと入らせられた時期は
キリストの死の時点であることです。
*バプテスマとは「何かの中に入らせられること、浸し込ませられること」
と考えれば以下の話は分かりやすいでしょう。

私たちは既にキリストと共に葬られたこと。更に神の創造の
中心である人・アダムのみならず、人が創造のフォーカスであった故に
神の創造の中の悪しき要素を含む総てはことごとく水葬されてしまっており、
それらは今神の動かし難い死の審判と執行の中に沈んでいること。

しかしこの大海原の死の判決とその執行(キリストの十字架の死)の中に
沈んでいるものは 決してその存在が消滅したわけではなく
今後それに続く、あの大判決に基づく追い討ち的な複数の執行、
遂には究極的な執行へともたらされなければならないことです。これが
神の敵とその追随者どもの今日の姿であり、またそれは
終局的な滅亡へ至らせられる神の敵の運命です。
その運命は段階的に進む 苦痛と恥辱の
増し加わりであり、終局的にはその苦痛と恥辱は
彼らのエンドレスの時間の中に存在することになるのです。

キリストの死において今 大洪水は全世界(時間と空間からなる全宇宙)
を覆っており、総ては死の水面下です。その中では
今生きている人も「死んだ人」も等しく死者です。
*この場合の「死んだ人」とは肉体と霊魂が分離した人。


この時空の中の全宇宙を覆った暗い死の水(この光景は
創世記1の2をも想起させないでしょうか)の上に浮かび上がったのは
唯一あの小さな一つの箱舟、つまり復活のイエス・キリストのみでした。
この意味する所は 神の目にとっては唯イエスのみが合格であり
他のいかなるものも 総て不合格であるということです。
6  
この復活のイエス・キリストこそが新しい世界、新しい創造、
新しい宇宙、新しい時空です。
この創造に比較するならば物質的古い創造など
その性質と地位から見て真に取るに足らないものであると
言わなければなりません。この物質的宇宙はキリストという宇宙の中に
存在する一つのある小さな範囲に過ぎないと言えるでしょう。
この新しい宇宙であるキリストの中・箱舟の中こそが
復活と永遠の中にある総てを超越した
制限の無い完全な安全地帯なのです。
当然 神の敵がこの領域に触れ得る筈がありません。
それは正に復活した人性と一つになられた神ご自身でさえあるのです。

しかし今 その復活のキリストという箱舟の中に入ろうとせず 
死の中に沈んでいるものは総て
いずれ更にひどい死、つまり更なる「命なる神からの究極的な隔絶」
の中へと段階的にもたらされて行きます。
その真の命からの絶対的な隔絶、死以上の死が第二の死であり、
火のバプテスマなのです。(マタイ3の11)

★ 
海はその中にいる死者を出し、死もハデスもその中にいる死者を出した。
・・それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。
これが第二の死である。(黙示録20の13、14)

また私は新しい天と新しい地とを見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り
もはや海も無い。(黙示録21の1)

2007年10月5日金曜日

小屋に戻りました

夕べ一人 真っ暗な小屋に戻ってまいりました。
その時ちょっと「なつかしいなー」と。
今回は随分下界に長逗留(ながとうりゅう)した感じです。
なぜでしょう。
この2週間いろんな素晴らしいことがあったんですよ。
その積もる話はおいおいと。

山はもう寒い。
今何と下に2枚上に3枚着込んでこれを書いています。
これだと程なくストーブがいりますね。
自分の健康の為にも この秋は薪割りでもしましょうか。

これからまたひと月、大工をしパソコンに向かう山の暮らしです。
そうそう山歩きにもこれからはいい季節です。

もう10月なんだ。
今ロフトから南の森に目を移すと、陽光の中 
色づき始めた木の葉がチラホラあちこちで輝いています。
やっぱり山はいいですね。