2007年10月29日月曜日

愛、一つ、死、命、働き

今後世界はその暗さを更に加速して行く事でしょう。しかし神も確実にその
御業を進められます。その御業はある時期の使徒行伝に見られるような道
であり、ブドウの樹が地に近い所を横に命のツルをどこまでも伸ばして行く
様な道でしょう。そこに見られる「神のことばの増し加わり」には今日では
考えられないようなスピードと「聖霊御自身の人に先立つ準備と活動」が
見て取れます。それは実に不思議です。
その原因はどこにあるのでしょうか。

「愛と一つ」がない所で神が働かれることはあり得ません。神は全能者です
が 不思議な事に人との一つがなければどんな業をも始められません。
神は愛です。創造と贖いの御業も父と御子の愛から 即ち 
父と一つであると言う御子の喜び また父の喜びを満たしたいと言う
御子の願いから生じる力によって生み出されたものに違いありません。

そしてその創造と贖いの目的は実に 神と人との一つを
実現することであったのです。神は愛の故に 
遥かな道のりをも物ともせずあなたに近づこうとされました。
そしてイエスにある神はその愛の故に
2千年前十字架に至りあなたと結合され 霊となって
あなたに到達され 遂に神と人との一つが実現されたのです。

神の願いはあなたと一つとなる事でした。
神はそれ程までにあなたを愛され 
そして何とその命を捨ててまでしてその一つを達成されました。
これは永遠における神の御業の成就でした。
しかしながら神の愛する対象が 私達人がそれを知らなかったり
勘違いしたり まともに信じなかったりしたら 
きっと神は悲しまれるでしょう。それは正に宇宙の大いなる片思いです。
ここから神の愛の物語のパートⅡが始まります。それはあなたに対する 
次の諸段階における神の働きかけの中に見られます。

先ずあなたは「あなたとイエスは一つである」と言う永遠の真理を
知らなければなりません。聖書は随所にその事実を私たちに告げています:
ノアの箱舟、パプテスマ、接ぎ木、サウロへの御ことば、等によって。

次に大切なことはあなたの信仰です。あなたは神が達成された
その既成事実を選び取り、自分のものとして有難く頂けば
それでよいのです。これが次にあげる諸点の土台となります。

ここに「イエスと私との距離」に関する認識の問題があります。
多くのキリスト者は「主は近い」と言うあいまいな認識で満足しています。
しかし愛の神はそれでは不十分であると言われます。
「近い」だけでよいのであれば、神の御子が敢えてアダムとなり
霊になられる必要は無かったでしょう。ここで要求されているのは
「完全な近さ」なのです。「近い」とはこれまで述べて来た
「一つ」であると言う意味です。完全な近さ、極限的な近さとは、
本当に一つであること、ある意味においては
「あなたは私であり私はあなたである」と言うことなのです!
何と主は近いことでしょう。

ここで更にもう一つの要件があります。それは
「イエスと私における一つ」の主観的経験の段階、
一つであると言うことの享受の段階です。
それは具体的に言えば、あなたが実際生活においてその一つを味わい 
一つであることの恍惚とした甘美な味わいの時を日常生活の中で
しばしば持たなければならないと言うことです。

なぜでしょうか。それは「一つと言うこと」の背景には愛が
あるからです。当然のことながら愛と言うものは多分に
感情的 感覚的な側面を持つものです。
もし愛があると言うのであるならば、双方がその愛に浸りその一つを
味わう時間を最大の喜びとするはずですし、その一つが欠落する時には
大きな不安をさえ感じ、何を差し置いても直ちに
その修復に向かうものなのです。それが愛と言うものではないでしょうか。

愛があれば、二つは一つになることを欲求します。
愛しているが一つにはなりたくないと言うことなどあり得ません。
愛し一つになり相手を楽しむ、それが真にその相手を知ると言うことです。
そのようにして両者は一つに溶け合い、遂にあなた私の区別さえつかない
と言う状態にまで至ります。
これが一つであることの経験的享受の極致です。
ここまで至らなければ愛は真の満足に到達することは無いでしょう。
何と私達の神は 私たちとの間でそのような程度の愛の交感を
求めておられるのです。私達の神は正にそのような神なのです。

さて愛する時にはそこには自ずと 一つに向かうエネルギーが発生します。
ところがその時しばしば神は 何故か私達をして死を経過させるのです。
それは多分 不純物の除去のためなのでしょう。
そのようにして不純物を死に渡し 純化された真正な一つが
復活の中から出現します。そしてその時こそ
更に大きく深い不思議なエネルギーが発生するのです。
それは復活の命の中の 四方八方に天的な芳香を
無限なエネルギーとして発散する何物かのようです。

その命の中では人は最早 肉体の死を恐れる事さえないでしょう。
かつて多くのキリスト者が自分を殺す敵の為に祈りつつ輝やく喜びの中で
殉教して行ったのは 復活の中の
この不思議なエネルギーの故であったのです。

愛は一つを願い、それが死を経過して 復活の命と言う偉大なエネルギーを
発散します。これが使徒行伝の中に見られる
「神の言葉の驚くべき増し加わり」の背景です。
当然これはまた今日 私たちの日々の経験でなければなりません。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

>愛は一つを願い、それが死を経過して 命と言う偉大なエネルギーを
産出します。

全くもってアーメンです!

私自身、今回の主人の病を通して、最も教えられた事、それこそが、この「ひとつである」ということでした。
それこそ、求めて止まないものであるのです。結婚の奥義ですね。
イエスとの関係の影である事を感じます。
影である結婚の素晴らしさを知るにつけ、主イエスが求められている満足、喜びを感じずにはおられません。

Mr.Sugar さんのコメント...

主が「私の為に 祈ってくれないか」
と語られた時、その「私」とは
ご主人のことであった。

「サウロ何故 私を迫害するや」と
言われた主。その「私」とは
十字架においてご自身と接合
された地上に残されたキリスト者達
のことであった。

主よ、あなたとの一つを信じます。