2008年5月30日金曜日

高山家に現れた復活の主(2)

たった今高山姉妹のメールが入りました。
それを直接 以下に掲載します。


昨日、病院に行くと主人は集中治療室から 
一般病棟に行くところでした。
沢山の話をすることが出来ました。まだ声がカスレておぼつか無い
状態ですが主の話をしましたので(ボイスレコーダーに録音しました)
そのままを記します。

兄弟の言葉:
昨日のことです。私は病院で壁に向かって目を閉じたところ
水色の清流が壁一体に流れていました。
不思議だなと思いながらピリピ2章27節を読みました。
(彼は聖書を取り出しこの箇所を読み上げました)
まさに聖書の御言葉です、私は救われました。私は真実生き返ったと
思いました、本当に感謝です。アーメン。

姉妹の言葉:
すばらしいでしょう。またこの日の前日は呼吸機も取れ、
目覚めた夕方の回診のときに先生と看護士に
「今日は12時まで聖書を読みます」と言っていたそうです。

会社は閉じる方向です。同時に家もなくなることになります。
すべてを主の御前に下ろします。この世の物は失いますが
私たち夫婦には神からのすばらしい宝(子供たち)があります。
これにまさる財産は無いことを今この身に実感しています。

貞三さんは、爽やかに光り輝いています。
私はそこに主の栄光を見ています。
主は本当に生きて働いておられます、主は真実です。
まだまだ伝えたいことが沢山ありますが次にします。

私たち夫婦を知らない兄弟姉妹たちが
心からお祈りをして下さっていることを聞きました。
本当に感謝します。嬉しいです。
兄弟姉妹にどうぞよろしくお伝えください。
主の御手にあることの幸いを本当に感謝します。

*(1)の私の記述が一部不正確な所がありました。
 ご了承下さい。

高山家に現れた復活の主

以下は千葉県野田市の高山家に起こった出来事です。
糖尿病の持病の上に、22日突然 心筋梗塞、心不全に
倒れられた小さな会社を経営するご主人である兄弟は
意識不明のまま病院の集中治療室に運び込まれました。その時
医師は 奥さんである姉妹に「娘達を呼ぶように」と告げたそうです。

この時以来 主のからだに連なる人々の篤き祈りと、
そして「死に対する主の勝利」への感謝と賛美が各所で
捧げられたと聞きます。
そして以下はこの一両日に起こった出来事です。

28日
呼吸器が外された。
その際 この兄弟は明確な幻を見たと言います:
病室の壁に天来の聖い水が流れ下っており、主の栄光を見た。
その時、ピリピ2の27の御言葉が彼の心に響いた。
「彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、
神は彼を憐れんで下さいました。」

29日
集中治療室から普通の病室に移された。その時 御言葉を
読みたいと言う飢え渇きを強く感じ、彼は看護士に
「今晩12時まで聖書を読むからね」と告げた。
その前後の彼の様子に接した姉妹の実感:
「そういう時 彼の顔は本当に爽やかに輝いていました!」

この一連の出来事を通して主は2人の娘さんをもシッカリと
立ち上がらせて下さったようです。
最後に高山兄弟(姉妹)の今の心境です:
「私は今 主の御前において、会社も家もこの世のものも
一切この手から下ろします。
私はこれで総てを失いますが 主は素晴らしい二人の娘を私に
与えてくださっていることを知りました。主に感謝します、
彼女達こそは本当に私達の宝です。」

ロサンゼルスから

主は最後の時代、
決して人手によらず、復活の命の「網状結合」のような
キリストの「からだ」における交わりの拡大を
全世界的に行われることでしょう。
今朝のLA(ロス)からの電話は私にそのことをもう一度
思い起こさせるのに十分なものとなりました。

40分にわたるその電話の内容は
心からのアーメンとそして歓喜と賛美でした。
要点は、主の業に人の手と汗は全く不要であること、
先ずは一人一人がシッカリと主と繋がることが土台であること、
決して人に追従してはならないこと等でした。

この姉妹の亡くなった御主人は台湾政府トップの高官で、
この姉妹自らも台湾と日本の様々な人々との交流の
パイプを持っておられる方です。
これから、台湾 そしてアメリカの聖徒達との交わりも
その豊かさを徐々に増し加えて行くことでしょう。

しかし私達のすることと言えば、あの一見貧しい
小船の中に身を置き 日々ただ主の閉じ込めの中で、
主と共に「眠る」ことだけです。

2008年5月29日木曜日

山の雨

昨日4時前 一人小屋に着きました。
あたりは一面緑の海、
小屋はその海の中に沈んでいます。

ぐっすりと眠り、4時前には起き、
今少し気だるい安堵の中、 
静かに山の雨を聞いています。
やはり山はいいです。
利根川の家も悪くはないのですが、
落ち着きの深さが全然違いますね。
今朝は寒いのでストーブを焚きましたよ。

今回はたった1週間の滞在です:
ヘビースモーカーのケンの部屋に換気扇を取り付けること、
外壁を張ること、今度来るケンのために諸準備をすること、
出来ればトイレの手洗いの故障と洗面所の給湯の故障を直すこと、
ことによったら郡山まで行くことになるのかな。これはイヤですね。

そうそう、イモクボ氏のログ小屋のトラスも見に行かないと。
トラス作り、これは実に楽しいものなのです。
ただ一人 この小屋のトラス壁を作った昔がなつかしい。

2008年5月28日水曜日

死ぬ方法

私は昨日
「この閉じ込めの中で黙って死にます、と祈ればよい」と
書きました。しかし私達は霊的な意味において
どのようにして死ぬことが出来るのでしょうか。

その意味において人は自分で死ぬことは不可能です。
ましてや十字架に自分をつける事など出来るわけがありません。
十字架刑だけは絶対に誰かに付けてもらう必要があるのです。
今21世紀に生きるあなたをも時空を超えて十字架に付けることが
出来るのは誰あろう、それは神です、神には出来ないことはないのです。

そして神があなたを十字架に付ける方法とは:
①イエスを十字架に付けること、
②あなたをイエスの中に置いたこと、この2つです。
(あなたをイエスと一つにしたこと)

イエスキリストの十字架の死は永遠の神による永遠の中での御業でした。
それはあの偉大な神がその総てを賭して達成された正に彼の一大事業の
中心点であったのです。もしもそうであるならば、そのことにおいて
どうして神が失敗することなどあり得ましょう。それは
小さな野に咲く花の完全な美しさを見るだけでも容易に分かる事です。
かように単に神の言葉による創造でさえ、どこにもその不完全さを
見つけることは出来ないのです。ましてや贖いには御子の命が
かかっていたのです。神に間違いや失敗などあろう筈がありません。

そのイエスの死の大成功の証があの「復活」です。それは父が大いに喜び
「子よ、よくやった、私とあなたの試みは完全であった」と言う意味です。
更にその後 御子が安心して天の「椅子」(御座)に座られたことです。
それは父と御子の「心からの安堵」を意味するものです。
神も人も完全な達成があって初めて安息することが出来るのです。
(やったね、よかった!と)
①と②は神の目に完璧に成就されたことは間違いありません。

従ってあと残るは、神の自信満々の達成である①と②を
あなたが有難く(そしてずうずうしく!)頂戴すればよいだけです。

自分で死ぬのではありません、それは絶対に不可能です。
ですからあなたは信仰によって自分をあの完全なイエスの死に
「合わせる」のです。アダムである人イエスの上に、やはりアダムである
あなたを置くのです、重ね合わせるのです。
あなたと彼は完全に符合しフィットします、あなたと彼は合同です!
何故なら何とあなたは御子の「かたち」に創造されたからです。
御子とあなたの接合、それはあたかも植物の「接木」のようなものです。
そのようにしてだけあなたの十字架上での霊的な死は可能となるのです。

この宇宙で十字架に送られそこに上らなければならない程悪いのは
私でありあなたです。だから義なる神はそれを実行されました。そこには
完全な合理性があり、宇宙の法に則してそれは全く正しいのです。
だからあの木に釘付けられている罪人(ざいにん)は誰でもない、
あなたです。しかし事実上、十字架におられたのは彼です、
完全無垢なる穢れ無き御子です。
これは天地の不合理であるとあなたは思いませんか。
しかし神はその宇宙の最大の不条理をただあなたを
愛するが故に黙って引き受けられたのです。その様にして
イエスはあなたの罪においてあなたと一つとなられたのです。
彼の死の瞬間 彼とあなたは神によって完全に一つとされたのです。
これこそ神の方法です。
確かに「君はそこにいた」のです。(君:主とあなた)

その様にして「総てのものに対する逃れの場」として極めて効果的な
あなたの死はキリストにおいて既に完全に達成されているのです。
あなたはキリストにあって死んだのです。
これこそキリスト者にとって大いなる福音です。

2008年5月27日火曜日

十字架とは「閉じ込められ」(2)

昨日Mさんからいただいたコメントをここに無断で
転載させていただきます。

我々人間の日常のあらゆる場所においても、閉じ込められ、
十字架の死の道が準備されていますね。以前Sugarさんが
例え話の中で語られた銀行のキャッシュディスペンサーの
待つ列の中の自分:
前のおばちゃんが(失礼)使い方が分からずモタモタしている時、
我々は死の中に閉じ込められているのです。この状況をどう
乗り越えるか?天然の才能、この世で鍛えた才能の「忍耐」を
適用するか、それとも十字架の死を適用するか
ハレルヤ!神はあらゆる場で我々にあなたのいのちへの道を
用意されているのですね!


Mさん有難うございます。
本当に「閉じ込め」は私達一人一人への神の明確な意志ですね。
それは私達の日常生活に日々何が起こっているかを見れば
すぐに分かることです。神は私達を自由な鳥にしたり 時空を
超えた天使にする意図は全くありません。ひたすら不自由で
弱く無能な「人の子」の中に留めたいのです。
その奥にこそ人に対して神が定められた極めて深く高い意味と価値が
秘められているのです。ですから私達には 今時空に閉じ込められて
いることへの感謝さえあるべきでしょう「主よ、今私が鳥や天使
でないことを感謝します」と。

次に大切なことは 毎時私達の日常生活に次々と送られて来る
煩雑な事象の一点一点を私がどう迎えるかです。
ポイントは先ずそれらを「神から私に丁寧に送られて来た
尊い閉じ込め」であると意識出来るか否かです。
私達はそれにフト気づき、その閉じ込めを神の手から受けとり
ジタバタせず、人を恨まず、自分の暗い穴の中でいじけず
ふてくされず投げやりにならず、奔放にならず、崩れず、
そっぽを向かず、逃げ隠れせず、
ただ単純に主を見上げ、落ち着いて「主よこのことはあなたから
私に届けられた閉じ込めです。私は今これを真正面からそのまま
あなたの手から受け入れ、私はこの閉じ込めの中で黙って死にます」と
祈ればよいのです。(でももしここまで来ることが出来れば、
たとえそれだけで終わるとしても一番楽ですよね!)

しかしその時永遠の世界では 一体何が起こるのでしょうか。
それは実に「あの原型」にあるキリストの永遠の死が時空を超えて
確実にあなたに伝達されるのです。その時キリストの十字架と
「あなたの今の十字架」は「その霊」の中で連結され
そのようにしてあなたはこの時空の中であなたへの
キリストの死の適用を直接受けることが出来るのです。
従って次の段階として「あの永遠の原型」は更にあなたを
キリストと共なる復活へともたらすのです。これは必然です。

これら一連の作業は総て聖霊の霊的な力による事は言うまでも
ありません。その聖霊の作業は「神が永遠において既にあなたを
キリストと一つにして下さっている」という「神による永遠の御業」
に基づいているのです。もし仮にそれがなかったとしたら、
私がいくら信仰を用いて熱心に祈ったとしてもそれは単なる私の
寝言に過ぎないことになります。それは大した喜劇です。
しかし事実として「あなたは既にキリストの中に置かれている
という真理」が定まっているので、
聖霊はあなたの信仰を見て安心してその真理を
あなたの時空に降ろし適用することが出来るのです。

その様な現象が霊の世界において現実となる時にのみ 
あなたが復活のキリストを地上の時空の中にもたらす事が出来る
と言えるのです。何故ならこれらは神と人の共同作業であるからです。
しかしあなたの作業とは何でしょうか。それは唯信じることに過ぎません。
 
私達が信仰によってキリストの死に真にあずかるとき、その時に
初めて復活のキリストがこの地上において事をなさることが
可能となります。その復活のキリストの活動だけが
「私達の奉仕」の実質と言い得るものです。
それ以外のいかなるキリスト者の活動も神の前においては
少しの価値も無いと言わなければなりません。

要点は:
①先ずは神の許しの元に送られる(それらの殆どはサタン起源)
多くはとても些細と見える「閉じ込め」にあなたが気づくこと
②信仰を用いてそれを神の手から受け取り、
その閉じ込めの中に身を置くこと
③後は何もせず、主との結合の中に留まることです。
その結果 「あなた関連の時空」に現れ、あなたの予測を超える
不思議な「キリストの復活現象」(しかし、それは決して人受けする
形では現れない)は総て働きの主であられる神御自身の御業で
あるのです。その御業において栄えるのは復活の主御自身だけであり、
決してあなたではありません。私達自身はただあの
バプテスマのヨハネの運命をたどるべきです。



実はまだ下にいるのです。あす一人で山に入ります。
今度の小屋滞在は一週間くらいでしょうか。(下山は6月5日?)
ケンは大分よくなりました、お蔭様で。    

2008年5月26日月曜日

十字架とは「閉じ込められ」

何と神の主要な意志の一つは人を閉じ込めることです。

初めに神はその一人子を閉じ込められました。
神の御子は永遠の過去から神、父と共にあり何ものにも
閉じ込められることなど無いお方でした。
しかし彼はある時、時空と物質即ち肉体と言う制限の中に
閉じ込められたのです。何ということでしょう、無限なる「神の御子」
が時空の制限の中「人の子」の中に閉じ込められたのです。

その閉じ込められは先ずマリアのお腹の中から始まりました。
そして彼はある片田舎の小さな家庭の中、約30年間と言う時間の中に
閉じ込められたのです。その間、彼はどんなに多くの人間生活の雑多で
煩雑な閉じ込めの中に御自分を制限しなければならなかったことでしょう。
それは来る日も来る日もただ閉じ込められの連続だった筈です。
にもかかわらず、その閉じ込められは一面彼の喜びでもあったでしょう。
何故ならそれは彼の天の父の彼への明確な御意志であったからです。

そのようにしてある日、時が満ち彼は御自身の意志でその小さな
家族の中の人間生活と言う閉じ込めから更に、過酷極まりない
閉じ込められへと向かって出発されたのです。その日は正に、
3年半後の究極的な閉じ込め、即ち「一片の木に」閉じ込められる
場所への出発の日となったのです。

要約すると彼への閉じ込めは
①先ずは永遠と言う領域から、時空と言う限りある
囲いの中への移動から始まり
②そして彼はある時、その時空と言う領域の中の更に小さな一点である
十字形の木片に釘付けられると言う場所へと進んだのでした。
しかし事はそれだけで終わりませんでした。
彼は更なる究極的な閉じ込めを彼の身の上に容認されたのです。
③それはその木の閉じ込めの中で死ぬことでした。
死こそ最終的な閉じ込めなのです。
それが神の「人の子・イエス」対する明確な御意志でした。

ここに人が時空と物質の中で極言に至るまで閉じ込められた
と言う事実、その原型が完成したのです。
これこそ神の御業にとって決して欠くことの出来ない土台です。

2008年5月24日土曜日

その舞台(6)

ここでどうしても取り上げなければならない問題は
「キリスト教界」にも存在する支配、統制、秩序の問題です。
しかし私はここで支配、統制、秩序は不必要なものであると
言いたいのではありません。
とても大切なのはその支配力の起源、源、出所、源泉です。
極言すれば実のところ総ての問題は起源の問題に
帰するとさえ言えるのです。
当然エクレシアにもある種の支配、統制、秩序は表現されます。ところが
その源、出所は全く違うのです。エクレシアとは正に生命体であり、一見
支配とは無縁に見える「からだ」です。そしてその頭はキリストなのです。
エクレシアの支配はただひとえにこの頭・キリストから生ずるのです。

しかし私は今この問題に深入り出来ません。なぜなら
私の今のテーマは「その舞台」であるからです。この調子では
いつまでたっても「舞台」は私の話に現れて来ないでしょう。
ですから今この支配についての話は簡単な「箇条書き」を提示するだけに
留めたいと思います。この支配する力については機会があればいずれ
取り扱いたいと思います。それは極めて大切な問題であるからです。

(さて私は今 真にせん越ではありますが、皆様お一人お一人が
自らこれらの真理・問題を携え、時間を十分に用いて真剣に、そして
虚心に神の前に出られることを切望致すものです。
なぜなら神御自身があなたに正にダイレクトな啓示の光を
送られるのでなければ、あなたが神の深遠な真理を真に知ることは
決してあり得ないと思うからです。)

態系に存在する支配力:
・その力の本質は「死と虚偽」
・その王国の王はサタン、
・それは人の人への追従、宗教セットの固守を生む
・それは「キリスト教界」にこそ顕著に出現する
この「界」も、態系にあまた存在する「~界」(王国)の一つであるが
黙示録によれば最後の時代、これは他の主要な諸「界」と緊密な関係を
持つことになるが究極的には極めて悲惨な姿を全世界にさらすことになる。

体系に存在する支配力:
・その力の本質は「十字架」から生じた復活の命、
・その王国の王はキリスト
・キリストと結合しているキリスト者達の対等な「交わり」から自然に
現れるキリストの復活の命がキリストの体の中に頭からの支配を生み出す。
(そこにはいわゆる支配、被支配の意識はとても希薄でしょう。
いや、無いでしょう。それはどんな生命体を見ても容易に分かることです。
ぶどうの枝に被支配の意識などあるでしょうか。
腕に手の指に対する優越感などあり得るでしょうか。その意識の濃淡
こそ私達の宗教性のバロメーターになり得るかも知れません!)
・この天上の支配はただエクレシアにおいてだけ見られるものである。



*十字架とは態系の王サタンを起源とする死と虚偽が
イエスを木に閉じ込めたことです。
しかしハレルヤ、その背後には人知では計り知れない神の知恵が
存在したのです。その「サタンの閉じ込め」によってこそ体系・
今日のキリストの奥義的からだ・エクレシアが生み出されました。
しかしそれを「神のオセロゲーム」と呼ぶのは
少々軽薄過ぎるかも知れません。

*十字架、復活、交わり、教会等の日本語には余りに人の宗教観念が
入り込み過ぎており、それらの用語を用いる時、論ずる以前に既に巨大な
誤解や先入観の城壁が人々の思いを取り囲んでいる場合が多いのです。
従ってこれらの主要な真理が人々の中に真に浸透して行くことは
とても困難です。これは一つのとても悲しい現実です。

2008年5月22日木曜日

その舞台(5)

★第二態系の生き物の意志と特徴★の続きです。
④番目の特徴は強力な支配力、統制力です。

第二態系の生き物はおそろしい悪鬼や堕落天使だから彼らどうし
いつもケンかが絶えず 統率など取れていないだろう、とするのは
全くの誤解です。彼らの知的レベルは人間の比ではないのです。
第二態系における彼らの国はやはり王国であり、イエスも指摘された
ように そこには強い統率、統制そして秩序さえあるのです。
民主主義国家とは違い、本来王国とはそういうものではないでしょうか。

ここで非常に大切な点は
なるほどそこには態系、組織、統制はあるが 当然のことながらそれは
神の永遠の命、キリストの復活の命とは全く無縁であると言うことです。
いずれ述べる機会もあるかも知れませんが、統率の内容、本質、性質が
全く違うのです。この点の識別は極めて重要です。今要点を言うならば
神の国の体系は正に「体」であり、それは真の復活の命・
今日のキリストそのものです。その細胞、組織、器官、肢体一切は
キリストの命の表現そのものです。そこにいかなる他の成分・
キリストでないものが混入する余地は全くありません。なぜなら
キリスト以外の一切は二千年前最後のアダムにおいて
完全に処理されてしまったからです。

これまでをまとめると:
「態系」にはキリストとは全く無縁な強力極まりないまとめる力が
作用しており、それは一見「体」に見えます。
しかし真の「体系」は即ちキリストの「からだ」そのものです。
つまり「体系」はキリストであり「態系」は断じてキリストではありません。

神の敵は神がなさることと一見とても似通ったものを造り上げる名手です。
彼は天才的「似て非なるもの」メーカーです。彼らの態系そのものが
「立派な体系に見える」態系であり、そして彼らは人の目には見えない
彼らの態系を 目に見える第一態系を通して表現しているのです。
即ち彼らは第一態系の中に長い年月をかけて大小様々な無数の
キングドム(~界)を造り出し、更に現在それらをグローバルな
キングドムとして一つにまとめ上げようとしているのです。
(彼らの「一つにまとめる」も似て非なるものの一つです)

そこにある本質はサタンの本質である死と虚偽でしょう。そこにも
ある種の「命の様なもの」があるのかも知れません。しかし彼らの態系の
かさ張った大きな「タマネギ」の皮を剥いてゆくと最後に出てくるのは
死とウソです。そしてそのタマネギ自体のどの部分の本質も死と虚偽です。
だから彼らの所有する一見命と見えるものもやはり「真の命」の
「似て非なるもの」に過ぎません。つまりそこには永遠性のもの、
キリストの復活性のものは全くないのです。

ただし彼らにも「蘇生性」はあるかも知れません。反キリスト者
(間もなく第一態系の中に現れる全世界統一の頂点をなす人物)も
蘇生するからです。正に彼の蘇生はキリストの復活の似て非なるものです。
(ただしおそらく蘇生は彼らの能力の頂点をなすものでしょう。
それが彼の力の限界点です。)だから私達は「奇跡」を
あまりにあり難がってはならないのです。あり難いのはキリストの復活と
今信仰によってキリスト者の人間生活に出現するキリストの復活だけです。
しかし程なく訪れるかの時、必ず「地に住む者達」はその人物の「復活」を
容易にそして直ちに信じ彼を全世界の「救い主」として礼拝するでしょう。
なぜなら人々の心を究極的に掴むものは「もの、物質」の
最高の姿であるからです。(この④は続きます)

*これまでの「体系」と言う用語を「態系」に変えました。
これは多分私の造語でしょう。(もっといい言葉があったら教えて下さい)
体系と言うとき、それは真の「からだ」を連想してしまうからです。

2008年5月19日月曜日

小屋に来ております



上の写真はカリマンの里:
遠くの葛尾村の山(五十人山は間違いでした)と
カリマンのことなら何でも知っている本松お爺さんの家、
その手前はかつての桑畑です。

少し落ち着きを見せているケンと小屋に来ております。
ケンの為の作りかけの地下の部屋が
こんなに早く役に立つとは不思議。
まだここは十分新緑の候、
緑と言うよりも明るく薄いイエローワールドかな。

多分23日 山を下ります。

2008年5月14日水曜日

その舞台(4)

さて今しばし「その舞台」(1)を振り返る必要があります。
そこでは目に見える地上の人間の態系(第一の態系)と目に見えない
超自然的な能力を持つ生物達の態系(第二の態系)を見ました。

第一の人の態系は見えない第二の態系の表現です。それは
第一の態系は完全に第二の態系の支配下にあると言うことです。
それはあたかも 空を飛ぶ目に見えるラジコン飛行機の動きが 
実は目に見えない所で操作する者の完全支配下にあるような
ものです。状況をシッカリと見、把握しているのはラジコンを
操作する者であり、今空を飛び交う私達が五感で容易に認知出来る
目に見えるラジコンではありません。
第一の態系・今日のラジコン・地上の人類の動向を
すべて掌握し操っているのは第二の態系に属する
超自然的目に見えない生物ども、そしてその頭(サタン)なのです。

★第二態系の生き物の意志と特徴★
かつてのルシファーを頭とするその態系には幾つかの特徴が
あります。それは悪の本能とでも言い得るものです。それは先ず

①彼らは自らの運命の究極が大いなる破滅であることを知りながら
悔い改め、引き返すことが全く不可能であることです。
人にはまだ悔い改める(方向転換する)チャンスが残されております。
しかし、第二の態系の生き物達にはその機会は最早ありません。
多分彼らとて かつては引き返す機会は与えれていたのでしょう。
しかし彼らに与えられたその時代、その日、その時、彼らは真に
愚かな選択をしてしまったに違いありません。即ち神への反逆です。
彼らは彼らの運命を自ら決定したのです。

②次に 破滅に近づけば近づくほど、彼らはその悪の加速度を
増さざるを得ないと言うことです。それは彼らの本能です。
これはこれからの人類が行こうとする方向性、その状況を観察すれば
容易に分かることです。これからこの地上の人の心は加速度的にその悪の
程度を増して行くことでしょう。それは全く不可避です。何故なら
その背後にはサタンの加速度する悪の本能が明確に働いているからです。

③もう一つは他の者を自分の運命に引き込み、共に破滅に
引き連れて行こうとする悪の本能です。
ルシファーはかつて、数多くの神の御使いの中の三分の一とそして 
太古に地上に住んでいた体と霊を持つ高度な生き物を 
自らの運命に同行させることに成功しました。
今サタンのターゲットは完全に人類に向けられており、
その目標は唯一つの例外を除いて、ほぼ達成されつつあるのです。
(この項 続く)

*補足説明*
アダム以前の太古に地上にいた体と霊を持つ高度な生き物は
サタンに追従したが故に裁かれ体を失いました。それ故に今
その体を失い地上に存在するおびただしい数のその邪霊どもは
水中や人体その他の中に常に自分の宿り場を求めているのです。
それは私達が福音書において明らかに知ることが出来る事です。
彼らは空中の堕落した天使達とは全く別の生物ですが
共に結託して今なお神の主権に対抗しているのです。

2008年5月13日火曜日

その舞台(3)

さて宇宙の歴史の中で
ある日ある時、まずはありそうもないこと、
先ずは「あってはならない」ことが現実となりました。
それは一体何でしょう。

それはある一つの被造物が、あの創造主と命において
結合した事です。つまり創造主とある被造物が
ある性質において一つとなったのです。
総ての被造物の中で物質に過ぎない体、また肉の弱さを持ち、
時間と空間の制限の中に縛られ、最も無能ではかなく見える存在が、
創造主である神と命において一つとされたのです。
そんなことがあっていいのでしょうか。殆ど信じられないことです。
しかしそれは現実となったのです。
それは決して 神が「創造物の中で最も価値あるもの」を人に与えた
と言うのではありません。被造され得ないもの、
創造されないもの、永遠の過去から自ずと存在していたもの、即ち
何と創造者の命そのもが、ある被造物の命と一つとなったのです。
あなたはこれを信じるでしょうか。


この世で最もあり得ないことは何でしょうか。
この世界でも絶対にあり得ない様なことが時に現実となる例は
あるのかも知れません。しかし、
その中で最たるものが正に「これ」に違いありません。

それは、神の天使達は元より あの偉大な天使達の頭ルシファー
にさえ決して起こらなかったことです。
それは例えば あなたが日ごろさげすんでいる同僚の
一人がある日 突然ある国の王子になるよりもあり得ないことです。
それは明日、宇宙が崩壊するよりも起こり得ないことと言えるのです。
(宇宙崩壊は必ず起こる)

あるキリストにある姉妹が、或る時 突然この事実に
気づきました。その姉妹は「自分が今何を持っているのか」にその時
初めて気づいたのです。びっくり仰天した姉妹は、それから暫くの間、
毎日うわごとのようにこれをつぶやき、時に茫然とたたずんたと言います。
しかしこれはむしろキリスト者としてとても正常な反応である
と言うべきです。何故なら、あり得ない余りに素晴らしいことが
現に彼女の身の上に起こったのですから。

私達は驚くべき神の真理を、何でもないことのように
平凡に自分の前を通り過ごさせてはなりません。
私達は毎日、神の事実を発見し驚き、その不思議さの感動の中で
日を過ごすべきです。真のクリスチャン生活とは「自分が何であるのか」を
キリストの中にある「自分が一体何を持っているのか」を
日々発見する生活に他ならないからです。

2008年5月12日月曜日

その舞台(2)

人には或る際立った特徴があります。
それはその弱さと能力の低さです!
人の様々な能力を他と比べて見るならば、
サタン、堕落天使はもとより、
小さな悪鬼にさえ かなう要素はありません。
真に人の能力は極めて低く人はあまりにも弱いのです。

しかし今一つのことを考えて見ましょう。それは
これらの強く超越した能力を持つ生物どもと人間との共通点です。
「サタン、堕落天使、悪鬼、そして、人間」を
一くくりにする言葉はないのでしょうか。

ありますよ。
それは「被造物」と言う言葉です。
私達も彼らも被造物に過ぎないのです。人も天使も総て
被造物と言う共通項で一くくりにされるのです。


ですからあのルシファーでさえ当初はきっと
「自分は造られたものに過ぎない」
と言う意識をしっかりと持っていたことでしょう。
とても意外なのですがこの意識は極めて重要です。
元よりこれは当然なことであり、これこそ健全なこころです。

しかし、奇妙なことに今現在サタンと人の意識の奥底には 
あわよくば神になりたい、神に対抗したいと言う
とんでもない奥深い欲望がある事は確かです。
これは実に不思議なことではありませんか。
しかしその欲望の根にあるものは一体何なのでしょう。
それは「神からの独立」です。この微細な一点「独立、自立」が
神に対する サタンと人にある根源的な罪なのです。
何たることでしょう、そのとても「罪」とは見えない
ささやかでしかも美しくさえ見える「神からの自立」こそが、
宇宙の全歴史における巨大な諸々の悲劇と惨劇の
開始となってしまったとは!

おそらくはルシファーの全盛期のある日、
その様な「ささやかで美しくも見える」その思いがフト
彼の内面に到来したのでしょう。
その様にしてあの「明けの明星」は
神への反逆の第一歩を印してしまったのです。
(イザヤ14の12~15)


本論に戻ります。
しかし人と彼らにとって神は当然、驚異であり、
また脅威です。被造物にとって創造主はあまりにも
偉大過ぎるのです。神はあくまでも神なのです。

神は元より絶対者です。だから
彼だけが誰にも創造されなかったものであり、
その命は永遠であり、彼は総ての父であり源です。

ある時神は「ことば」によって時空をも創造されました。
それは彼だけが「真の存在」であるからです。
その「存在」と比べるならば、一切の他のものは
「存在」の名に値しないのです。だから神以外の誰にも
「私は在る」と名乗ることは許されません。

誰がおのが身の丈を背伸びさせて「いつか私は
神に到達出来る」などと言い得ましょう。
一体誰が神に抗し得ましょうか。
創造主と被造物、その格差はあまりに大きいのです。
どんなに優れた詩人でさえ その差異を的確に表現する
言葉を見つけ出すことは難しいのです。
ああ神は余りに偉大です。

*「私は在る」の意味:私は存在する、私が真の存在者。
逆に言うと、私以外は「在る」ではない。即ち「私だけが真の
リアリティである」。

その舞台(1)

いつの時代も世の注目を受ける人々がいるものです。
どういう人達でしょうか。それは重要な人、ユニークな人
特殊な人、ほおっておけない人、鍵を握る人でしょう。


さて、聖書で世界・世と言う時、それは「この地上の人々が
構成する人間の態系」だけを意味するのではありません。それは
総ての人を、そしてその人間の態系を裏側から真の意味で組織、支配
しているある強力なパワーの態系をも暗示している場合が多いのです。

その力の活動の場は今「地を中心とするある範囲」の中に限定されては
います。しかしその力の持ち主は確実に真の意味での超能力者であり、
その力は人の目には見えないが、極めて知的で超自然的な
パワーなのです。(私は最近しばしばそのような力を含む全世界を敢えて
宇宙と呼んでおります)その力こそが、この世の悪の真の黒幕です。

世界、世、宇宙:
先ず「この地上の部分」には普通「世界」と呼ばれる人間の
態系があります。これは誰の目にも見える分かりやすい第一の態系です。

しかし更に目には見えない第二の態系が存在します。
この第二の態系は三つの層からなっております。
先ずこの地上では おびただしい数の見えない生物(悪霊)が
総ての人間をあやつり牛耳り、今日日夜休むことなく人を
不潔、堕落、死の中へと強力に誘導しています。
彼らはあたかも言わばハエの様な存在ですが
その中の一匹の邪悪で執拗な力にさえ真に抗し得る人はいないでしょう。

それだけではありません。空中には更に高度で強力、
極めて知的な生き物(堕落した天使達)が存在し全世界の動向、風潮、
潮流を確実に支配しており、空中から地上に人をして神に反逆させる
空気を絶えず送り続け、人類を自分達の運命である
究極的な破滅に同行させようとしております。
彼らのリーダーは強力な力を持つ「支配達、権威達」です。

しかし更に、
海と地そして空中の総ての力を統括する最大のパワーがあるのです。
その力の持ち主は今なお天にも存在しているのですが(信じられますか)
彼こそ太古の時代 天使長として神のそば近くで仕えていた
あのルシファー・明けの明星、現在のサタンなのです。

この三層からなる第二の態系には「内輪もめ」などなく
その国はサタンの威厳と統制力の故に「立ち行く」(マタイ12の26)のに
十分です。このことは この世 宇宙・コスモスの「神」である
サタンの超大な権威と能力を示すものに他なりません。

第一の、人の態系は第二の態系の完全支配下にあります。
この「全世界は邪悪な者の中に横たわっている」に過ぎないのです。
(Ⅰヨハネ5の19、ダービー訳)それは正にまな板の上の
死んだ魚に過ぎません。それ故に私達は今 目に見えるこの世
にもまして 上記の三層からなる見えないパワー、第二の態系に
十分に注意を払う必要があるのです。
「私達の格闘は血肉に対するものではない」からです。(エペソ6の12)

2008年5月9日金曜日

集まりのための基礎知識

 *永遠と時空の関係がキー*


①先ず源として神の愛があります。
②その愛の対象は人・人間性です。
③愛とは相手との一つを願うものです。だから 万難を排して
神は人との一つに向かわれたのです。
人との一つ、確かにそれが神の目的です。

④神はその目的に向かわれたのですが、しかし同時に彼御自身の
義の要求の故に 父は御子を木に釘付けなければなりませんでした。
それにしても これは何という神の実行でしょう!
しかし このキリストの死の時点において 贖いのための 
キリストと人との結合が 永遠において完成したのです。
またこの時点における神と人の結合は
次の⑤における積極面の為の結合の準備ともなったのです。 
ただこれは「キリストの中の神の永遠の領域における真理」です。

⑤次に復活があります。これは「死の粉砕」であり、
死の力を持つ神の敵に対する完全な勝利です。
しかし更に復活は積極面において 無制限のキリストが人の中へと
入られ、また人がキリストの中へと入ったと言う
永遠の「神の側の真理」をも意味するのです。復活は
永遠の領域において、神と人の1つが成就された
「宇宙最大級の事件」であったのです。

その上に立って今度は 人がキリストの復活を信じる時 その人の
時空の中に「彼がキリストと真に一つとされたと言う真理」が初めて
言わば「降りて来る」と言えるのです。言い換えれば、キリストを
真に信じる時 彼はこの永遠の神の真理が時空の中においても
正に事実であると実証することになります。

⑥更に言えば、復活に続きキリストの昇天と御座があります。
これによって敵に対する キリストとキリストの中にいる人々の
圧倒的な権威が確保されたのです。


以上が既に完成された神の御業のおおよそです。
繰り返しますが これらは総て「キリストの中の永遠に属する真理
(真のリアリティ)」です。従って人はこれらの真理を個人的に求め、
啓示によって知り、そしてキリストの中へと信じ入り、
キリストと実際的に一つに結合されなければなりません。

そうでなければ、即ちあなたがキリストの外にあるならば、
これらの真理は引き続きあなたとは全く無縁です。
なぜならあなたは未だにキリストの外、即ち神の敵の領域である
古きアダムの中にいるからです。アダムの中に真理はありません。
真理とはキリストそのものであり、真理はキリストの中以外の
ところには絶対にあり得ないからです。(ヨハネ14の6、8の44)

しかし真に信じるならばその時 あなたは神によって新しい第2の人・
キリストの中に移されるのです。(コロサイ1の13、Ⅰコリント1の30)
それが現実となる時あなたはもうキリストとの一つの中にいるのですから
これらのキリストの中の永遠の真理は総てあなたのものとなり、
それをあなたは、この時空の中においても、とても自然に
自分の経験とすることが出来るのです。


以上が集会の為に私達が基本的にどうしても知らなければ
ならない霊的な知識です。それはまた前述した「神の2つの
ストーリー」をあなたがこの時空と言う舞台上で演じる為の
基礎知識であるとも言えるのです。


*補足説明*
1.ギリシャ語の「信じる」には「入り込む」と言う意味が
含まれているようです。つまり それは
信じれば、一つとされるということです。

2.まとめると「神と人の一つ」は
①キリストの受肉において準備され、
②キリストの十字架において、人の贖いの為の結合が完成し
③キリストの復活においては積極面の為に完成され、そして
④人が信じる時に以上の①から③の永遠の真理が時空に降りて来る、
即ち時空において立証される、と言えるのではないでしょうか。

①から③は全部 時空の中でなされたことではありますが、
それらは永遠の御子によって達成されたが故に
その性質は総て完全に永遠性のものです。

④は神が対サタンを意識して、敢えて「今サタンが不法に占拠している
時空と言う一時的な舞台」で演じられる所の
「①から③の真理」の証明、実証、再現、誇示と取ることが出来ると
思われます。今のこの時代、そのステージの上では 
時空とその中の様々な事象に比して復活における永遠がいかに
卓越しているかが万物に向かって表現されつつあるのです。

「今天にある支配達と権威達(敵)に対してエクレシアを通して神の
多種多様な知恵が示されるためです。」エペソ3の10


タイトルは基礎知識でしたが、案に相違でやや込み入った
内容になってしまいました。それにしても
神の真理の奥深さに 改めて驚嘆するばかりです。

2008年5月7日水曜日

集会、「会いたい」から会いに行く

集会の源、それは神の愛です。
この愛は普通の愛ではなく,人との一つを求めて十字架に
向かわれたキリストの愛です。
それは決して人を起源としたものではありません。

何故 私達は集まるのでしょう。集会とはミーティングです。
ミーティングとは会うことです。何故 ミーティングするのか、
それは単純に会いたいからです、他のキリスト者に会いたいからです。
それは衝動的とさえ見える単純素朴な動機です。私達は会いたいから 
何者かに導かれて何故か わざわざ出かけてしまうのです!
他の理由はありません。これが この世の多種多様な会合と
著しく異なる点です。
(この世の宗教の集まりの動機と比較して見て下さい。)

しかし私達は何も そこにいる「生まれながらの人々」と
会いたいわけではありません。実は「キリスト者達の命の交流
の中に存在する復活のキリスト」に会いたいのです。

これらのことを思い巡らして見ると とても不思議です。
「会いたい」と言う私達の不思議な衝動、その命の衝動に私達の誰しもが
自分ながら極めて奥深いものを感じざるを得ないのです。
不思議です。ホンとに何故なのでしょう。

敢えて言いましょう。それは一つの奥義だからです。
それは神の奥義であるからです。
更に言いましょう。
その私達の衝動の背後には どんなフィクション作家も想像すら出来ない
あなたや私を巻き込んだ 稀有壮大かつ あまたの不思議に満ち満ちた
神御自身のラブストーリーと戦勝ストーリーがあるからです。
そして何と その2つのストーリーを演じている主役は誰あろう、
キリストとあなたなのです!

*ごめんなさい、大分書き直しました。
 でもこれでスッキリしました。

集会の要素

キリスト者の集まりの源には神の愛があります。
その愛の対象は人・人間性です。そして
神の愛はその人と一つになることを願われたのです。
愛は必ずその対象と一つになることを欲求するものです。
そこで神は「人との一つの実現」の為に、
どうしても通らなければならない
あのイエスの十字架を経られたのであり、
結果、それが復活として結実したのです。
要約すれば
集会に欠かせない絶対的な要素は5つでありそれは 
神の愛、人間性、一つ、十字架、復活です。

だからキリスト者の集まりについて考える時 
常に これらの5つを念頭に置くならば
私達は多くの混乱を避けることが出来るでしょう。

2008年5月3日土曜日

ホストはセージとマルシア

今日午後から山小屋でキャンプが始まります。
総勢12名ですがその中にMr.Sugar はいません。
私は今 まだ下・実家なのです。

事の始まりは4月25日、
あろう事かケンが不調になってしまったのです。
それまでの数日、今思うと「あれっ」と思う場面が無かったわけでは
なかったのですが・・。さすがにやはり少しあわてましたよ。

28日には何とかダマし説得して病院に連れて行き、
薬を増やしてもらいました。
落ち着きを見せて来たのが昨日あたりからです。
この病気の天気予報は難しいのです。長期予報はなおさらです。

「一旦山に戻り小屋で客を迎えたら、トンボ帰りで下りて来たらいい」
等と思ったりもしたのですが 30日の夕方に至り決心しました。
今回はもう若夫婦、セージとマルシアにホスト役を頼もうと。
マルシアに電話をしたら、本当に何だかホッとしたのです。
あ、これでいいんだ、と。

今回の客は 千葉の吉田さん夫婦に小学生の子供が2人、
奥さんはメキシコの方です。
そして吉田さんの敬愛する姉妹・メキシカンお婆ちゃんと
その娘さん、これで6名。
あとは吉田さんの静岡のお友達夫婦と、やはりその子供2人で、
奥さんはペルー出身です。

今回、小屋はこれで一つの新しい段階に入りましたね。
私がどうのこうのでなく皆さんが喜んでくれて、あの小屋で
何かの素晴らしい出会いが自然に与えられたらそれでいい。

3時44分、吉田氏からメールが入る:「先ほど無事着きました。
皆で主にあってシュガーさんの家族の平安を祈っています。」
よかった。

2008年5月2日金曜日

集まりに見る復活のキリストVS.固定化

もしもキリスト者の集まりの実質が「今天地にある復活のキリスト」
であるならば、当然現在のキリスト者の集まりにも復活性がなければ
なりません。復活とは無死、無制限、超時空です。もしも
そうであるならば、復活ほど固定しにくいものは無いのです。
復活を固定し、規定し、縛ることなど出来ません。ですから
キリスト者の集まりに固定化、規定、縛り等は全くそぐわないのです。

キリスト者と言えども今この時代、当然「時空の制限」を受けます。
しかし、彼らは その制限を越え制限(その中に死をも含む)を
打ち破る復活をも持つのです。キリスト者がこの相反する2つの要素を
併せ持つのは明確に神の意志によります。
そのためにこそ キリスト者は今この時代 敢えて時空の制限と
その中にある様々な困難や圧迫の中に置かれているのです。

それは そこにある2者(制限と無制限)のコントラストを
宇宙に対して鮮やかに展覧するためです。これ以外に神の意図は
ありません。その神の意図とはキリスト者が「時空とその中の諸物」
に対する復活の圧倒的な優越性を「制限と圧迫の究極」即ち
キリストの十字架を経由して顕現することです。換言すれば
キリストの復活における「閉じ込められと死」に対する打破・勝利は 
今時空の制限の中に置かせられているエクレシア(教会)においても
全く同様の事実であることを明らかに証明する為です。かように
十字架(制限と死)は復活(無制限と不死)の門として
今も有効に機能しているのです。


復活の対極に固定化、規定化、セット化、物質化があります。
人は何故か キリストの復活と正反対のことを企てます。
どうしてでしょうか。
それは集会をしっかりと物質的に安定させ固定し、その上集会の根を
この世の地下に深く張らせ 更に上に大きな木として枝葉を繁茂させ、
それを天下に誇示したいから、ではないでしょうか。

それは元々一年生の野菜に過ぎないカラシダネが「敵の仕業」
(マタイ13の28)によって異常にも大木となり 遂には空の鳥
(堕落した空中の生き物)を木々の間に無数に宿す結果となるような
ものです。(マタイ13の31、32)
この「野菜の大木への進化」は創世記にある「種類に従って」と言う
「神の命の法則」に反します。これは不法者(マタイ7の23)の
不法の働きです。「不法・lawlessnessの秘密は既に働いているのです」
(Ⅱテサロニケ2の7)

人間生活の延長線上にあるべき素朴で伸縮自在なパンを裂く集まりを
人は 聖餐「式」として固定します。自在な兄弟姉妹の関係を変えて、
ある人にある「権威」を付与する事により
兄弟姉妹の関係を2分し、そこに固定化を導き入れます。  
自由な発想から命が流れるべき集会に 固定的な「式次第」を導入し
「厳粛な」かたちを創作し主日の集会を日曜礼拝として権威づけるのです。
これらは総て「犯してならない権威」を伴った「宗教セット」
として機能し、人々を散逸から防ぎます。
これは要するに「宗教的な神への恐れ」を導入し、人々を効果的に縛る
と言う敵の算段です。これらは復活性の対極の場所に、いつの間にか
巧みに導入され そして密かに構築されてしまったのです。


さて 物質の肉体を取られ時空の制限下におられた時のイエスでさえ 
彼を何らかの枠の中で捕らえるのは至難の業です。ましてや総ての制限
から解放された復活のキリストを「こうだああだ」と規定することなど
もとより人に出来る仕事ではないのです。

今仮に復活のキリストを「伸縮自在なキリスト」と呼んで見ましょう。
(敢えて言えば千変万化のキリスト、神出鬼没のキリストでもある!)
さて、この伸縮自在なキリストの現れであるキリスト者の集まりも
伸縮自在性を持っている筈である事は前述しました。それ故に、
新約聖書をいくら読んでも見ても 当時の集会はこうであったと
具体的に語る事は極めて難しいのです。

所が正にその事にこそ 神の意図が暗示されているのです。
聖書は敢えてそのように書かれていると言ってもよいでしょう。
即ちそれは私達をして「聖書の事例から それらに従って歩むべき
様々な規定等を引き出させたい」のでは無く あなたをして集会の
リアリティ・内容であるべき「復活の伸縮自在なキリストの実際に
真に触れさせたい」と言う事なのです。
「集会に関する正しさ」を守らせることではなく、キリストと言う
「とても魅力的なお方そのもの」を本当にあなたのものとさせたい、
のです。実は人が文字によってたやすく規定できるような
底の浅いものに永遠の魅力はあり得ません。神はあなたをして「この
永遠の魅力を有するお方」を自発的に熱心に探し求めさせたいのです。

さて 彼らの集まった場所はどんな所だったのでしょうか。
今分かることは 彼らはユダヤ教の会堂から追い出され 日常集まる
場所は普通の家々であったと言うことです。これはとても自然な事
ではなかったでしょうか。それに反し 彼ら独自の固定した礼拝堂が
あったとか、パウロが教会堂建築の陣頭指揮を取った等とするヒントは
どこにもありません。また彼らはどういう時に集まったのでしょうか。
主日(日曜)に、と言う記述と日々に、と言う記述は見出されます。
彼らは主日にそして日々集まったのです。明白なことは彼らの集まりは
彼らの普通の生活の延長線上にあったことです。
彼らは日常生活の合間に無理なく自然に集まった筈です。
(だから2,3人と言う数字はとても重要な意味を持つのです。)

また 今日の「日曜朝の礼拝」のような「メインの集会」と言うものは
あったのでしょうか。もしあるとすれば「パンを裂く集まり」が
それでしょう。しかしそれは、家々で行われたのです。また
より大きな集会として複数の家々の人々がより大きな1つの家に
集まってパンを裂いた記録はあります。いずれにしろ、
日常における彼らの集会所は彼らの家々であったことは明白です。

復活のキリストの表現としての当時のエクレシヤと集会の姿は 
現今のキリスト教に見られるようなあり方とは全く
似ても似つかないものであった事は誰の目にも明らかです。
しかし、私達が決して看過出来ないポイントは その両者は 極端な対極に
さえ位置していると言う事実にあるのです。今日 大手を振ってまかり通って
いる「固定化現象」はどうでもよい問題ではなく、神と復活のキリストに
真っ向から対立する何物かである、と言うことです。
私達は今神の御前において これは極めて深刻な問題であると
言わなければならないでしょう。


それでは「どう集まるべきか」と言う問題において
私達はそれとどう向き合えばよいのでしょう。それは単純です。
ただキリストに直行し、自分が「今日のキリスト」と一つにされている
と言う素晴らしい事実を信仰を用いて受け入れ、しっかりとそこに踏み留まる
以外にありません。ですから 当時の具体的な集会の様子を調べること
によりそれらを私達の集まり方に「取り入れる」と言うよりは、先ずは自分が
普段の生活の中で十字架を経過することによりキリストの復活を生き生きと
体験することが先決となるのです。

2千年前 御言葉が日々増し加わっていた頃 彼らを魅了して
やまなかったのは「キリスト者の集まり方」などではなく「あのお方」
「私の主」「復活の生けるキリスト御自身」であり またそのキリストを
内に持ちそのキリストが伸縮自在に、千変万化にそして神出鬼没に
行き交っている兄弟姉妹との交わり、そういう聖徒達と共に集まること、
正にそれ自体であった筈ですから。

アブラハム、イサク、ヤコブの神は、死んだ者の神ではなく、
生ける者、即ち「復活の中に生きる者」の神です。
神にとって「生きている」と言う意味は「復活の命に中に生かされている」
ということ以外ではあり得ないのです。(マタイ22の29から32)

キリストは決して古い着物や皮袋に合致することはありません。
伸縮自在の復活のキリストは常に 硬直した固定を「破り」「張り裂く」
ようにあなたの中で、そして集まりの中で作用するのです。
(マタイ9の16、17)それが固定を常に打破する復活のキリストであり、
またエクレシアの姿であり、彼らの交わりの実態であり、
キリスト者の集会の様なのです。

*神出鬼没のsugar 流解釈:キリストの十字架によって鬼は水没。
             復活としてのキリストが出て来る。