2008年5月28日水曜日

死ぬ方法

私は昨日
「この閉じ込めの中で黙って死にます、と祈ればよい」と
書きました。しかし私達は霊的な意味において
どのようにして死ぬことが出来るのでしょうか。

その意味において人は自分で死ぬことは不可能です。
ましてや十字架に自分をつける事など出来るわけがありません。
十字架刑だけは絶対に誰かに付けてもらう必要があるのです。
今21世紀に生きるあなたをも時空を超えて十字架に付けることが
出来るのは誰あろう、それは神です、神には出来ないことはないのです。

そして神があなたを十字架に付ける方法とは:
①イエスを十字架に付けること、
②あなたをイエスの中に置いたこと、この2つです。
(あなたをイエスと一つにしたこと)

イエスキリストの十字架の死は永遠の神による永遠の中での御業でした。
それはあの偉大な神がその総てを賭して達成された正に彼の一大事業の
中心点であったのです。もしもそうであるならば、そのことにおいて
どうして神が失敗することなどあり得ましょう。それは
小さな野に咲く花の完全な美しさを見るだけでも容易に分かる事です。
かように単に神の言葉による創造でさえ、どこにもその不完全さを
見つけることは出来ないのです。ましてや贖いには御子の命が
かかっていたのです。神に間違いや失敗などあろう筈がありません。

そのイエスの死の大成功の証があの「復活」です。それは父が大いに喜び
「子よ、よくやった、私とあなたの試みは完全であった」と言う意味です。
更にその後 御子が安心して天の「椅子」(御座)に座られたことです。
それは父と御子の「心からの安堵」を意味するものです。
神も人も完全な達成があって初めて安息することが出来るのです。
(やったね、よかった!と)
①と②は神の目に完璧に成就されたことは間違いありません。

従ってあと残るは、神の自信満々の達成である①と②を
あなたが有難く(そしてずうずうしく!)頂戴すればよいだけです。

自分で死ぬのではありません、それは絶対に不可能です。
ですからあなたは信仰によって自分をあの完全なイエスの死に
「合わせる」のです。アダムである人イエスの上に、やはりアダムである
あなたを置くのです、重ね合わせるのです。
あなたと彼は完全に符合しフィットします、あなたと彼は合同です!
何故なら何とあなたは御子の「かたち」に創造されたからです。
御子とあなたの接合、それはあたかも植物の「接木」のようなものです。
そのようにしてだけあなたの十字架上での霊的な死は可能となるのです。

この宇宙で十字架に送られそこに上らなければならない程悪いのは
私でありあなたです。だから義なる神はそれを実行されました。そこには
完全な合理性があり、宇宙の法に則してそれは全く正しいのです。
だからあの木に釘付けられている罪人(ざいにん)は誰でもない、
あなたです。しかし事実上、十字架におられたのは彼です、
完全無垢なる穢れ無き御子です。
これは天地の不合理であるとあなたは思いませんか。
しかし神はその宇宙の最大の不条理をただあなたを
愛するが故に黙って引き受けられたのです。その様にして
イエスはあなたの罪においてあなたと一つとなられたのです。
彼の死の瞬間 彼とあなたは神によって完全に一つとされたのです。
これこそ神の方法です。
確かに「君はそこにいた」のです。(君:主とあなた)

その様にして「総てのものに対する逃れの場」として極めて効果的な
あなたの死はキリストにおいて既に完全に達成されているのです。
あなたはキリストにあって死んだのです。
これこそキリスト者にとって大いなる福音です。

0 件のコメント: