2008年2月29日金曜日

戻りました

さきほど着きました。
雪ですか、しっかりありますよ。でも大分 解けていますけどね。

到着して直ぐ 新水道管の凍結具合を点検。オーケーでしたよ。
水抜き作戦、一応は成功だったのでしょう。
ま この暖かさですからね。朝凍結していたとしても 
日中の高温で管の中の氷も解けてしまったのかも知れませんが。

それは良かったのですが 2つのトラブルが待っていたのです。
一つは以前使用していたLDKのシンクに至る古い塩ビ管の水道から
何とジャンジャン漏水していたのですよ。
おかげで地下部屋の北側が水浸しの惨状。
しかしラッキーにもその管を封鎖するキャップが偶然あったので 
直ぐに処置出来たのです。これはよかった。

もう一つは洗面の蛇口からの漏水です。(原因は内部のカートリッジ
らしい)これは今回下山する前から少量あったのですが、
今それが相当の水量になっていたのです。この水は絶対に
止めないといけないわけですが、処置は明日ですね。仕方がない、 
取り合えず今日は元栓を止めるだけの応急処置だけ。生活用水は 
外のガーデン用の蛇口からくめばいいのです。でも
さすがに 正直少々疲れましたね。

と言うわけで今ようやく「人ごこち」ついたところです。
やっぱり山はいいです。このロフトの自分の部屋に落ち着くと 
ホンと安心する。
実家の自分の部屋もいいのですが あそこは寒い!これは 
この小屋の壁の15センチ厚の断熱材の威力ですね。
このロフトの小部屋の小さなストーブを焚いたとき ホワーッと来る
暖かさの心地よさが実家とは 全然違うのです。

ブログ いつの間にかこんなに書いてしまった。
やっぱり山は 私にブログを書かせる何かを持っているのだろうか。

もう一つのロフトのあの窓のこと、開いていませんでしたよ。
あの方達 今回は来なかったらしい。

2008年2月28日木曜日

近況です

家族の必要があり、まだ下におります。

花粉症仲間の皆様、今年はいかがですか。私は 最近までそのきざしが
全くなく あれっ今年は来ないのかなと内心ほくそえんでいたのですが 
きのうあたりから一寸 鼻がおかしくなって来ています。やっぱりね。
そうは問屋が卸さない、と言うところでしょうか。

先日 野田の集まりに行くとき スゴイ風と土ぼこりのブリザード!
何とライトを点灯したのですよ、真昼間に。
5メートル先が見えないとはね。
でも集まりは楽しかった。「火、底知れない穴、水」と一寸恐ろしげな話
だったのですが、皆なぜか幸福感につつまれた。クリスチャンと言うのは
ホンとに不思議な種族です。

ケンは何とか仕事に行っているのですが(これだけでも凄いこと
には違いないのですが)少々気分のウツ状態に悩んでいます。
本来の病気のケは 殆ど去っているようなのですが、
これは一体 何なんでしょうか。

復活させられた手足を捧げよ、とパウロは言っています(ローマ書6章)。
これは キリスト者はその霊のみならず手足も復活していると
パウロは言っているわけで、よく聞く「体の復活は将来である」との教えと
一見矛盾しているようです。皆さんはこれをどう調和させますか。

明日あたり山に帰るとして 心配なのはやはり凍結です。山はまだ暫くは
全くの冬。水抜きが対凍結の抜本的方策と、このところイモクボ氏の
協力を得て頑張って来たわけです。その一つの成果が今回帰った際 
見られるかなと言うところなのです。楽しみと心配が半々です。
だから明日は早めに小屋に着くようにしないと。

2008年2月20日水曜日

カリカリ根雪便り

今朝もまた
カリカリ根雪のミズナラの林から強い朝日が昇って来た。
静まり返ったカリマンの杜の幸せ、今日は何があるんだろう。

昨日は午後から凍結防止の水抜きを正しく機能させるための
カキオポリ手直し工事。ヤレヤレ。
でも夕方からはイモクボ氏が来てくれて大助かり。
輝く2月の月が彼の帰り道を明るくした。

トイレのウオッシュレットが壊れてしまい、おととい普通の便座に交換。
でも 昨年ドイツに持参した携帯用ウオッシュレットで
何とかなる見込みです。これ お客さんたちもよければどうぞ。

コントラストは「際立たせ」ですね。さっきこの語彙に気づきました。

マルシアとセージが沖縄行きのチケットが取れなかったとかで、
3月も来てくれるのかなと言う感じ。
5月のコシアブラ天麩羅パーティはやはりメインだとしても。

多分あしたは旅、今回の下界滞在は長くはない見込み。
でもまた何があるのだろう、やはり楽しみです。

と言うわけで、今日は留守中の対凍結作戦の仕上げです。
水を抜くのか、流れ水にするのか、当然水抜きでしょうね。

いまローマ書の「復活の手足を捧げる」に注目、
これには相当大きな宝が隠されている気配なのです。

3月初旬のお客様、
皆様に主の大きな祝福があらんことを。

2008年2月19日火曜日

コントラスト(2)

コントラストは当然
そこにあるA とB が接近していればいるほど効果的です。
さて神があるコントラストを示そうとする時は多くの場合 
A,B は極めて近い所にあるどころか 両者は一つです。

例えば、パウロは私達と同じように時空に閉じ込められた人です。
(閉じ込めこそ死の一つの機能です)そして更に 
彼の同労者達にさえ見捨てられ年老いたパウロは今再び 
牢獄と言う四角い壁の中に文字通り封鎖された「囚人」
(漢字は意味深長ですね)となったのです。
これこそ世に言う不幸そのものでなくて何でしょう。

しかし
彼はその不幸の只中で 自分はネロの囚人であるかも知れないが 
同時に「主の囚人」でもあると言う真理に気づいたのです。(2テモテ1の8)
その時パウロは「今自分が復活のキリストの中にいると言う真理」が 
「牢獄に閉じ込められていると言う現実」と比べるなら 
前者がはるかに優位な「永遠の真理」であることを改めて認識し
それを当然の事実として認めたのです。

このようなパウロの信仰を通して 神の永遠の真理が時空の中に降ろされ、
「閉じ込められと言う現実」を遥かに凌駕(りょうが)する
「時空からの超越という復活の現実」が パウロという一点において 
つぶさに観察されることとなったのです。
その結果、パウロを閉じ込めた皇帝ネロの側近達さえも この際立つ
明確なコントラストによって救われたのだと思われます。(ピリピ4の22)

パウロは多くの人々の病気を癒しました。しかし主はこの有力な働き人
当人の 常に彼を不快にしてやまない眼病や、そして最後まで忠実だった
同労者テモテの胃の病を敢えて癒すことはありませんでした。それも
ひとえに 神がこのコントラストを宇宙に展覧するためであったのです。

虚飾に覆われた古代ローマの喧騒も届かない、人が見向きすることさえない
暗い不潔な牢獄の片隅で 神の敵に対し誇示されたこのコントラストは
パウロの大いなる働きにさえ勝って貴重である と言うメッセージを 
今神は敢えて私達に伝えようとされているのではないでしょうか。
(この後パウロは程なくネロのキリスト者大量殺戮の中で殉教した。)

さて
黙示録にとても意外な事実が暗示されています(もしも私が間違って
いなければ。)それは 神の御座や神への賛美の場所が 
火の池を示すであろう「火の混じったガラスの海」と とても近い所に
存在しているということです。(4の6、15の2)

コントラストは多分神にとって 小さなテーマではないのでしょう。
或いは「正邪のコントラスト」はいつまでもそこにあり 総ての者が
それ(御座・勝利のキリスト者 対 ガラスの中の火 と言うコントラスト)を
永遠に目の当たりにし続けるのかも知れません。

2008年2月18日月曜日

コントラスト

イエスはある人について
「その人が盲目に生まれついたのは 
神の業がその人に現れるためである」と言われました。
盲目に限らずこの世界は不幸、不快、苦痛、圧迫、不自由、争い、
老化、病、肉体の死等々
大小ありとあらゆる様相の死で満ち満ちています。
人生は泣いて生まれ涙して死ぬ 正に「生老病死」なのです。

それではキリストの贖いが完了しているにもかかわらず、
なぜキリスト者にさえ 生老病死があるのでしょうか。そして
イエスの言われた神の業とは一体 どのような業なのでしょうか。

それは ひとえに
神の敵が恥辱をこうむる為に
「サタンから来る死を起源とする不幸」の只中から、 
正に不快そのものの真ん中から、復活を出現させ そこに鮮やかな
死と復活のコントラストを見せるためなのです。
不幸の度合いが強ければ強いほどコントラストは
その鮮やかさを増すでしょう。コントラストとはそう言うものです。
神は 彼の万能のさじ加減を用いて日々総てのキリスト者の
状況にちょうどふさわしい色々な「不快」の到来を敢えて許すのです。
(人が 全知全能なる愛の神の手によるそのさじ加減に対し
何らかの異議を申し立てることはなかなか難しいことです。)

様々な顔を持つ死のあなたへの到来 それはひたすら
私達の人生のあらゆる場面において あのキリストにおける
「死と復活と言う宇宙最大のコントラスト」を 正に「あなたの現場」
において再現させ それによってサタンをもう一度驚愕させ もう一度
彼に恥をこうむらせる為なのです。いわゆる世に言う不幸、それは
とても短いこの時代と人生において 神の明確な意図のもとに 敢えて
わざととっておかれた「第一の死」なのです。
当然のことながら 水によって象徴されるこの第一の死は キリストの復活
によってたやすく悠々と征服され得ることを神は十分にご存知です。
(問題はその神を信じることが出来ない私達にあると言ってよいでしょう。)

神は 未だに残されている時空の中
キリスト者にさえ降りかかるこの第一の死の只中から
悠然と出て来ることが出来るキリストの命の偉大さを 
この世のありとあらゆる場所において鮮明なコントラストとして
全宇宙に対して 何度でも何度でも展覧しようとされるのです。
その際、その背景としてどうしても必要とされるもの、
それがこの時代における「情けない引き立て役ども、ささやかな不幸達」の 
どうにも割に合わない役どころです。

神の業 それは単に「死のど真ん中から復活の命を悠然と生じさせること」
に他なりません。

2008年2月16日土曜日

水と火

神には完全な徹底があるだけで
改善、改良、リフォームと言うものがありません。
正真正銘の無から有を、全きゼロから無限を生じさせるのが
神の妥協することのない原則です。
キリストにおける十字架と復活が正にそれです。

そしてそれは お情けで私達においては多少割り引かれて適用される
と言うことも決してありません。
私におけるキリスト以外のもの(神の為の何かであったとしても)が
一切死の水の中に完全に没し、溺死することがなければ、言い換えれば
私の総てをキリストの十字架と言う原型の中で100パーセント
処理させるのでなければ、そこには無がありません、ゼロがありません。
だから神は決してそこに有と無限(復活)を発生させることはないのです。
このことに例外は全くありません。クリスチャン生活の初日において 
神はこの厳粛な現実を深く印象付けるために 
敢えて私達を 象徴的に物質の水の中に溺死させたのです。

徹底的な死以外 復活に至ることはありません。そこに残ったキリスト
以外の残骸は必ず将来火によって完全に焼却されます。
そこにも妥協は一切ありません。
これはキリスト者にとっても決して免れることの出来ない現実です。


あかしするものが三つあります。御霊と水と血です。(ヨハネ)

2008年2月11日月曜日

カナダから

シュガーさん 薪ストーブ持っているのですか?素晴らしい、それ一番です。
人里離れたフレイうザー川のそばの小屋に住み、砂金取りで
生計を立てているカナダ人と私は知りあいです。今68歳。彼は真冬でも、
真夏でも、暖房、料理、ごみ処理に薪ストーブを使っています。
彼の小屋の中はススで真っ黒ですが、なかなか良い雰囲気です。
何と彼はまだランプ生活です。彼の所持品の中で、古い60年代の
日本製の携帯ラジオだけが、唯一のハイテクの武器です。
彼によるとストーブは長期間 薪を燃やすと内側から薄くなってしまって、
いずれは穴が開く、それを防ぐには内側のストーブのメタルに
耐熱レンガを貼り付けるのだそうです。

2008年2月9日土曜日

薪ストーブはウルサイ

薪ストーブは薪が燃える輻射熱で人が暖まる と言うのではなく、
先ず鋳物のストーブ自体を熱の塊(かたまり)とし、次に家全体を
熱の塊とする、つまり家をストーブ化すると言うのが本来の姿です。
ですから本当は秋に点火したら後はずうっと燃やし続け、
春に消火する、というのが理想です。でも現実はなかなかね・・
その条件を満たすには家の断熱性、薪作り、その保管等 
数個のハードルがあるのです。
でもそれらの条件さえ何とかなるのであれば確かに こんなに素敵な
山暮らしのパートナーはいない、と言えるでしょう。

2008年2月7日木曜日

祝辞

おめでとうございます。地面で凍結でしたか?それでは、いくら
真夏にしても、無理でしたねー。とにかく、色々な事を学びましたですね。
ゆっくり、お風呂にでも入ってお休み下さい。

ブログを読んでビックリ です。
ほんとうにシュガーさんがおしゃっていた通りにこんなふうに 
どんでん返しが起きちゃったのですね。
もっともっと いろんなところでのどんでん返し 期待します。

本当に問題は「解けて」しまった!!

いやー良かったですねー。別系統の配管には恐れ入りました。

WOW、何だかスゴイですね。人生ならぬ、山暮らしはアドヴェンチャー!
それにしても別の配管があったって・・???

よかったですね。思わず投稿してしまいました。
・・ワクワクして来ます。

実況中継、有難うございた。

あなたのブログは生き生きしていますよ。ホンと戦いの記録ですね。
素晴らしかったです。残念ながら?最後には解決してしまいましたが、
クリスチャンの奮闘記としてはやはり、水道無し生活1ヶ月
ぐらいのものは書いて欲しかったですね!はは これは勝手過ぎました。
とにかく素晴らしい山奥の生活ですね。
(これカナダの友人からです。これ祝辞?)


「小屋に住まれるお方」、そして皆様、
本当に有難うございました。

2008年2月5日火曜日

突然ですが 全面解決でーす!

皆さん今 水ちゃんと出るんですよ。
それでは
全面解決に至る「幾つかの今日の不思議」を書いて見ましょう:

不思議1
「或いは春まで下の暮らしなのかな」と思っていた私が 
今日の10時頃ですよ、突然「いや、やはり山に留まろう。この際 
山で不便この上ない昔の生活の一端を経験して見るのも悪くないかも
知れない。水が出ないのならそれなりに創意工夫をして頑張って見るのも
また面白いではないか」等と180度考えが変わったのでした。これには
幾つかの要因もあったのですが 我ながらそれでもやはり不思議です。
不思議2
仕事を終えてから来てくれる筈のイモクボ氏が彼の勤務中の!昼前に
来訪、そして現場の地下室に入り ヘッダーと言う装置の上部の栓を
外して調べ、鮮やかにも「多分水はこのポイントよりも前で
凍っているだろう」との見解を示したのです。
不思議3
そうこうしている内に、外を見ると何と今日は来ないはずの業者の
黒塗りの車が小屋に到着したではありませんか。そして降り立った業者氏、
イモクボさんの判断を聞くやいなや直ちに 外に飛び出しスコップを
手に持ち 埋設された配管の凍結部分の「探索」をする為に 凍結して
硬くなった露天の地面を掘りかえし始め、そして彼ようやく現れた
パイプの一箇所を切断しその内部状態をじかに調べたのです。
何とそこにも水は来ていなかった。
その意味は 凍結はこの地点よりもまだ遠くのどこかに隠れている、
と言うことです。いずれにしろ ここで凍結の所在が他ならぬ
土の中にあると言うことが遂に突き止められたわけです。
不思議4
しかしまあ その判明はよいとしても、これ以後の
作業は決して楽なものではないことが容易に予想されます。もしもそれを
実行していたとすれば 或いは大変な労力と時間を要したかも
知れません(運が悪ければ数日も)。しかしその時です、
地下室の諸設備の真下に 全く別系統の水道パイプの存在が
サッとばかりに浮上したのです。更にその上 それは小屋の「縁の下」
部分を走っているが故に 非常に凍結に強い水道系であったのです。
これならこれからの冬も、多分凍結などどこ吹く風でしょう。
これは正にラッキー以上のラッキーに他なりません。
この発見でもう 勝負の態勢は決まったも同然なのです。


あとはこの水道系に 小屋全体の各所に分岐するパイプの大もとを
繋げばよいのです。そのようにして実に目出度く 夕方も待たずして
工事はほぼ完了の運びとなったと言う顛末なのです。
今日に関する限り不思議にも 総ては見事にサササッと進んで行きました。
これがこの日の明らかな特徴でした。

今晩にも私は自分のお風呂に入れるのです。どう見てもこれは 
つくずくと「不思議だ」と言わなければならないことの様です。

報告します

完全な静寂につつまれたカリマンの
何とも美しい 雪と氷と光の夜明けです。

さて皆さん、
今 翌朝6時、残念ながら水は全く出てくれません。
これでストーブでの水道管の暖めがほぼ丸一日経過したわけです。
きのう朝7:40からストーブ4台、午後からは3台、夜は2台で
暖めました。最高温度は40度、夜も10度は下らなかったのでは
ないでしょうか。(今見てきました、26度でした。7:30現在)
従って地下室内の新水道管の凍結は いくらなんでも解けた
のではないでしょうか。
仮にそうなると他に考えられる原因は2つ:
(1)土の中か 或いは(2)土から出て外気に触れ地下室に至る
部分です。(ここには電熱ヒーターを巻いたのであるが
或いは巻き方に問題があったのか?)

今晩イモクボ氏が来てくれます。
それでも駄目なら明日業者を呼びます。
しかし業者が来れば解決、とは必ずしもなりません。
その場合は山小屋、この冬はこれで店じまいとあいなります。
そうなれば7日か8日に私も下山ですネ。(少なくも3月末までは)

とりあえずはこれにて 厳冬の凍結水道との戦い、
その実況中継は終了とさせていただきます。
日本全国の皆様、そしてカナダの皆様
真にご清聴有難うございました。

2008年2月4日月曜日

いざ勝負

夜明けの逆三日月が白い林の梢に掛かる。
快晴、外気は氷点下7度。

促すものがあり、早々7時半作業開始。
7:40、灯油ストーブ4台を地下室に持ち込み、点火。
間もなく室温は25度に。外用の冬の作業着姿だと暑くてたまらない。
あちこちのすき間に目張りをして地下室を退散。
注意するべきは火災である。十分配慮した積もりではあるが・・。
しかし、凍結解除が長引いた場合、何時間、何日まで頑張るべきなのか。
その意味:それは一旦勝負に出たら途中でやるわけには行かない
と言うことです。もしも夜ストーブを止めてしまったらそれは
モトのモクアミ、水道管は夜明けにしっかりと再凍結してしまうからです。
正に黒白二道、勝つか負けるか、ですね。うん、それで試合は
今日の日中いっぱいか、それとも夜中も4台のストーブを
付けっぱなしにして寝てしまうのか。更に2日間、3日間?
ま、せいぜい2月6日までの3日間くらいでしょうね。

8:30、少し様子を見てこようか。やはりこの際 気に掛かるのは火。
地下室、異常なし。室温は25度、あれっ、さっき25度だと思ったのは
15度だったのかな?
曲げが可能なこの水道管は一寸触れると中の氷がカチカチッと
音を出すのだが 今回その音が無かった。これをどう考えるべきなのかな。
50分が経過したが水の出る気配は全く無し。

9:20、室温30度、暑い。排水の塩ビ管なども相当熱を持っている。
新水道管が解氷したとしても もしも地下の部分で凍結していたら水は
絶対に出ないのだ、と言う考えが浮かぶ。ま しかし今回はそれは無い、
と腹を決めるべきであろう。新水道管内が解氷すれば水は出るのだ!
これもある意味「信仰」見たいなものかも知れない。
ここで休憩を取ろう。洗面くらいはしないとネ。

12:35、室温38度。ほぼ5時間経過。しかし変化は全く無し。
多分 勝負はせいぜい24時間ですね。
カナダの友人からのメール:
「34度とはまた、真夏じゃないですか、それくらいでしたら
もう時間の問題でしょう。」この励ましに思わずすがりつく我が心よ。
2月の明るい空が ロフトの窓から。ああ、散歩にでも行きたいなー。

1:40、室温40度。ストーブ一個を消す。
ジタバタしてもしょうがない。私はやるべきことを淡々とこなすだけ。
それしか出来ない。人の分限を超えたことに触れようとしてはならない。
今楽しいコメントが。これを称して「水道実況中継」とのこと。

3:38、
どうも形勢は不利だ。雰囲気としては負けの予感。何しろ気配の全体が
全くウンでもスンでもないのだから。諸条件を合理的に考えるに、
総ての温度が、つまり土の下の温度でさえ高くならないと駄目らしい、
要するに春にならないとどうにもならないんじゃないか
等と言う考えがよぎる。
しかしね、でもね、まだ分からないよ。どんでん返しがあるかもよ。
そう、淡々と行こう、少なくとも明日の朝までは。
 

2008年2月3日日曜日

問題二つ

まず凍ることは無いと言うふれこみにも関わらず
留守の間に完璧に凍結してしまった例の新水道管、
それもこの小屋の中総て:

昨日、外気にさらされる部分に電気ヒーターを巻く作業が終わり、
今日は 新水道管が集中している地下室の密閉作業です。そしていよいよ
明日、その地下室の空気を4台の石油ストーブでガンガン加熱するのです。
そうすれば 水道管内の凍結もさすがに解けてくれるはず。
しかしここに問題があります。それはウッカリこの水道管を一昨日私が厚い
断熱材でおおってしまったことです。従って地下室の気温が上がった
としても断熱効果の為に管の内部に熱が達せず 氷は解けないという
可能性があるのです。(これは本場カナダの友人からの情報)
しかしこれはやって見ないと分からない。とにかく明日が勝負です。
仮にもし明日それでも水が出ないとなると 
この冬 残念ながら春が来るまで 小屋は閉店の運びとなるのです。

さてさて今 もう一つの困った事態が浮上。
それは今朝から降り続いている雪です。問題はこれが今日の真夜中まで
降り続く予報であると言うこと。その場合、もしも明日の朝 車の
バンパーを超える積雪になっていると車が小屋から出られなくなり、
それも大いにヤバイのです。

さてどうするか。
これから4台のストーブの用の灯油を買いに行き、
そのついでに村のお風呂に行って来ます。
その時に空模様を見て最終的な判断を下すつもりです。
だから最悪のケースは、今日の午後にも荷物をまとめて下山!
(その場合は 下で山の様子の情報を集め、もし見通しが
良ければこの冬にも再「登山」し
例の加熱作業に取り掛かる、と言うことになるのでしょう。)

*今 車のエンジンをかけに外に出て見たら、
雪は非常に細かく その上湿度が高いのです。
ですから積雪の見通しは さほどでないかも知れません。
とにかく 先ずはゆっくりとお風呂です。
それでは。

*風呂帰りです。
大丈夫ですね。道路を走って見れば分かります。降り続くでしょうが
大雪になること等ない雪だと思います。従って今日の下山はありません。
残るは 明日の地下室加熱の成り行きやいかに。

2008年2月2日土曜日

出発点

パウロの文書を見ると 彼は「真面目に」
キリスト者は「今既に 死んでいる、復活している、天にいる」
と言う。
だから、彼は「キリスト者をキリストと同一視している」と分かる。
これ以外にこの途方もないパウロの言い分を説明する手段はない。

従って当然これらの事実は(多く誤解されているように)
キリスト者の目標として提示されているのではない。
(こんなことをどうやって目標とすること等出来ようか。)
それは出発点や前提であり 当たり前のこととして随所に
さりげなく示されているのである。
(「主にあって」と言う表現もその一つ)

しかしながら
これらのことは「永遠と復活に属するもの」として見る
のでなければ理解は到底不可能である。だからこそここに
信仰と言うものが不可欠となる。

信仰によってそれらを当たり前のように私達の生活の前提、出発点
とするとき初めて それらの永遠と言う次元の事実を
この時空の中においてさえ 徐々に体験することとなるのである。

今日 私は何度 この出発点に立つことが出来るのだろうか。