2010年7月29日木曜日

今日もよい日

昼食後 突然
何と「あの平原(ヘーゲン)兄弟」が 
短い仕事の昼休みの休憩時間を取って 
この小屋をわざわざ訪問してくれたのです。
(今日の彼の仕事の現場はこの近くではないのに)

私の方はあの時以来 いつどうやって
平原若夫婦をこの小屋に招き、
牧師であった彼の父上の事などについて
伺(うかが)ったらたらよいものかと 
いろいと思いめぐらしていた所だったので 
とても積極的な 彼からの来訪にはどうしても
不思議な導きのようなものを感じてしまいます。

つい先ほどまでの ゴク短時間ではあるが
彼との胸の高鳴るような交わりの結果 
私の次回の下山のおり 私が千葉県在住の父上宅を
訪問するのがよさそうです。お父様も
私に関し 強い関心を寄せておられると聞きました。

更に 私長年の念願であった
この村における 小さなキリスト者の集まりも
ほどなく実現するのではなかろうか
と期待せざるを得ません。
何しろ彼は間もなく 今はキリスト者となられた
林産の社長の長女と共に この村の村民なのですから。

今日もとてもよい日です。


行政的には ここは今 
福島県田村市都路町なのですが、私の中では
いつまでも「都路村」なのです。

恵みと律法&都路村の国道

人が神の為に事をなすのを「律法」といい
神が人の為に総てのことをして下さるのを「恵み」と言います。
律法の時代は過ぎ去りました、今は完全に恵みの時代です。
それゆえ
私達の日々は 溢れる恵みの享受に満ちていて当然です。


今朝はさすがに皆さんのところでも 
「猛暑の一息」ではないでしょうか?
こちらは今 長袖(そで)ででないと寒いのです。

「和歌山の皆さん」はもう
嬉しい 多忙の毎日に入ったのかな。
それとも 嬉しいどころではない?
(これは、サトに帰ってもうすぐ出産する娘をかかえる
妹夫婦への声援です)

ようやく昨日
ある人の助けを得て例のレンジフードを壁にセット出来ました。
今日はそれに排気筒をつける工事になるかも知れません。
それには壁に穴を開けないと。

都路村の国道は面白い。
向こうから来る対向車が知り合いだと 
国道のド真ん中に車を止め、
窓を開けて「ヤアヤア」とばかり「車の立ち話」となります。
立ち話と言っても
二人のおじさんはモチロン運転席に座ったままですよ。

2010年7月26日月曜日

正常な交わり(礼拝)

これは聞いた話ですが あるところで
①自然に無理なく始まった(ヨハネ4の4~6)
少数の兄弟姉妹の交わりが とうとう
何とえんえん7時間に及んだそうです!
これは異常なのでしょうか。イナ むしろそれは
その交わりが正常であったことを示していると
私は考えます。

②まずその開始にムリがありません。そして次に
真の礼拝には確かに「何か内に燃えるもの」がある筈です。
だから兄弟姉妹は それを中途半端に終えることにはむしろ
かなりの難しさを覚えるのです。(この現象は
ルカ24の32にもアザやかに示されています。)

③更にそこには
「この世(物質)の話」は殆ど現われません。
「物質の水の話」を持ち出すとしても それは、そこから
「真の永遠の水の話」を誘導(ゆうどう)するためです。
(ヨハネ4の7)
そして永遠の水の話は遂に「実際の永遠の水」を
その場から湧(わ)き出させ 流れ出させるために
他なりません。(そうでなかったら意味がない)

そのようにして
物質の水の話が永遠の水の話に置き換(か)わり
ついには本物の永遠の水の潤いそのものが
④私の「手の中にぎっていたもの」(水がめ)を
自然に捨てさせる結果とさえなるのです。(4の28)

⑤更にもしかして
この命の水の流れ出は 遠く街にいる人々のカワキをも
潤してしまうことに繋(つな)がるのかも知れません。
(4の42)

⑥このような礼拝は 
しばしばこの世の食事を忘れさせ、この交わりこそが
「真の食べ物」であることを知らせてくれます。(4の34)
その結果キリスト者は容易に「真のもの」と「単なる絵」
との相違を体感することになります。そのようにして初めて
私達は真に「霊的な認識」を得るのです。
霊的な認識とは要するに「本物を知る」ことに他なりません。

⑦最後にこの交わりは
神の「みこころの進行」と深い関係がある
と言わなければならないでしょう。(4の34)
このような礼拝は 私たちが
・神の御心とは何であるのか、そして
・御心と私との密接な関係を知り 更に
・私が実際に御心の中に自分の身を置く時に
初めて 無理なく発生する現象です。


更に付け加えるならば
ヨハネ4章において主イエスは
「この世の礼拝、宗教の中の礼拝」に関する人(女)の主張を
「真の礼拝」の話へと変え、遂には
彼女と人々を「真の礼拝そのもの」の中へと
導かれたことをも見ることが出来ます。

確かに 真の礼拝のチャンスは
「人間生活の自然な営み」の中に無数に隠れている 
と言えるでしょう。

2010年7月24日土曜日

小鳥

正体不明、怪しげな音が 
居間のどこだろう、しかし確かに居間のどこかから
発している、コトコト、パリパリ、ガラガラと。
正にこれは怪音。

冷蔵庫の氷の音かなと思って調べて見る。
しかし違う。
それでも また一定時間の後 同じ音が居間に響く、 
バリバリ、ガラガラと・・。

この正体は実は
薪ストーブの煙突の上から紛(まぎ)れ込んだ小鳥が
煙突を落下し、火の無い暖炉のなか ある間隔(かんかく)で
バタついている音だったのです。

かように いろんな鳥がマサカという方法で
この小屋の中に飛び込んで来ます。
中には
死んで初めて私に発見される小鳥も。
厳冬(げんとう)の中 
それまで必死で生きて来たであろうケナゲな姿で・・。


昨日 
下山の仕度(したく)をしていた時
一羽の小鳥が西デッキの人工芝の上 居間の中を
のぞくようにガラスごしに 居間に対して真っ直ぐに
座りこんでいます。
忙しいので 気にも留めなかったが
少したって気付くと彼はまだ 前と同じ姿勢でぼんやりと
部屋を眺め続けているのです。

こんなことが数回続き、
私もさすがに「何だろう」と近づいて見る。
それでも逃げない。とうとう大きなガラス窓を全開する。
それでも逃げない。
そして「君どうしたの?」としゃがんで話しかける。
これでも逃げないのだ。
この時 私との距離はわずか数十センチ。

そして
「いくら何でもこれは変だ、病気かな」と手を伸ばした瞬間
彼はハッと我に返ったように とても元気よく
森へと飛び去って行ったのです。

それにしても
彼の目的は一体何だったのでしょう。

2010年7月22日木曜日

とてもよい日

・朝6時40分、
たった今 
ロイヤルロード(林道から小屋までのガタガタ道、200m?)
の穴に土嚢(どのう)を埋める補修(ほしゅう)工事を
一人でして来たところです。もうスグ70歳の身
重い土嚢を運ぶのはこたえます。

このロイヤルロードは相当 粗悪(そあく)な舗装
(ほそう)工事をしたようで、激しい雨水の流れによって
たやすく穴が開(あ)いてしまうのです。
ヤレヤレ今後 何度もこのような
補修をくり返すことになるでしょう。
こんな肉体労働、日が昇ったらもうできません。

・12時50分
隣の別荘で 草刈機の音がするので
様子を見に行きました。
この別荘のオーナーの老夫婦は最近姿が見えません。
きっと 20数年前
ここの別荘地を開発して売り出した都路林産が
この夏 ルス宅の草刈作業を請(う)けおったのでしょう。
行くとちょうど3人の作業員が一プクしている所でした。

見ると
その内の一人は明らかに
この辺では珍しい西洋人ではありませんか。
聞くと 彼の血はスイス人で
何とおじいさんがその昔 日本に帰化した伝道者であった
と言うのです。

更に嬉しいことに 彼のお父さんも もとは組織の
伝道者だったのですが今は「ただの一キリスト者」として 
福音を伝える使命を感じておられる とのこと、
このお父さんは千葉県におられるようです。
それでその子供 即ち目の前の彼に いきなり
「所で あなたもイエスキリストを信じているのですか?」
と聞くと「ハイ 信じています」というハッキリした
返事が返って来ました。

彼の名前は平原(へーゲン)で 
何と既に林産の社長の娘と結婚しており
間もなく彼もこの「都路村」に移り住むというのです。
きっと彼ら夫婦は近い将来
この小屋に遊びに来てくれることでしょう。

私がこの地に 
「いつまでも完成することのない山小屋」を建て始めて
はや20数年 ようやくこの「村」で 
正真正銘(しょうしんしょうめい)のクリスチャンに
出会えたようです。(私はそのことをズウッと
祈って来たように思います。)
だから今日はとてもよい日です。

2010年7月16日金曜日

命と死

聖書的にいうならば
サタンが「生きている」ということは
あり得ないことです。

なぜなら「神の標準」から見るとき
「死を経過した命」によってのみ初めて
「生きる」ということがあり得るからです。
当然サタンと復活とは全く無縁(むえん)です。
(注:この場合の復活とは「キリストの復活」です)

現在サタンは生きてはいませんが
しかし「活動している」ことは確かです。
ところがその活動と彼の語りの本質は
死であり 死に向かう腐敗そのものです。
本質的に彼に「真の命」はないからです。

彼の唯一の目当てはひたすら 人をして
腐敗経由(けいゆ)で 命の対極である
死(彼の本質)の中へと誘(いざな)うことです。
死にも力があるのです。

命の究極は神ご自身であり
腐敗と死の究極はサタンです。
この二者は極端な対極に位置し
その交流は絶対にあり得ません。

私達は サタンが私に何を語り、何を見せ、
何を感じさせるとしても
彼が見せる「現実」の本質は 私たちを
「腐敗から死」(即ちサタンの本質)へと
至らせようとするものである
ことを私達は知るべきです。

この事実を私たちが
信仰と確信をもってサタンに告げるとき 
初めて彼は退くでしょう。


主は「その死によって、悪魔という
死の力を持つ者を滅ぼされた。」
(ヘブル2の14)

2010年7月14日水曜日

ある会話

昨日、ある場所で一人
強く主のご臨在を感じました。
しばらくの間
大きな幸福感と喜びに浸(ひた)されました。
しかし間もなく 興奮はスーッと消えました。
とても不思議な経験でした。


よき証しを感謝します。
そのスウーッと消えた方の経験が 
すばらしいと思いました。

まるで2000年前 主の復活後の 
弟子たちの生き生きした経験を
直接あなたから聞くような思いです。

幸福感や臨在感を
与えるのも 取り去るのも主です。
どうであれ 
事実として主は「常に」臨在され、そしてまた
全く信頼にたるお方であるという真理は
微動(びどう)だにしない、
ということですね。


マタイによる福音書は
「見よ、私は世の終わるまで、
いつもあなた方と共にいる。」
(マタイ28の20)
というイエスの言葉で完結しており、
その後には 何も書かれておりません。
即ち
この福音書の最後においては
(実はヨハネもそうですが・・)当然あるべきはずの
「主は天に昇って行かれた」という記述はないのです。
ですから これは確かに 
無限なキリストにおける「事実の一面」です。
従って彼は
(当然 復活のかたちにおいてですが)
地上にいる私たちと 
今も共におられることは確実です。

2010年7月11日日曜日

パン裂き

感謝です。昨日 
ある小さな家で行われた「パン裂き」にあずかる
ことが出来ました。

さて今日 
あのキリストの「物質の体」は遥(はる)か御座にあり、
もはや地上にはありません。
ですから当然 私達はイエスの肉体に 今この手で
触れることは絶対に不可能です。

しかし敢えて言えば
キリストの体の物質の面が今地上に全くない、
わけでもないのです。
それは現に 今日私たちの間に イエスが設立された
「パン裂き」における「物質のパンとぶどう酒」が
存在するからです。イエス自身が「これは私の体である」
とまで言われた深い意味を私達は
軽視(けいし)するべきではありません。

私達はまず 時間をかけ
テーブルの上に置かれた「静かで物言わぬ」
あのパンとぶどう酒をジッと見つめるべきです。
そのパンの焦げめの微妙さに至るまで!

それから おもむろに一人一人が自分の指で
そのパンに触れ、砕(くだき)き その香りをかぎ 
舌で味わうのです。

そのようにする時、私達は確かに
私たちの五感を通して啓示される驚くべきイエスの
さまざまな面を実感することでしょう。

聖書さえ持っていなかった初代の兄弟姉妹が
所有していたものはゴクわずかでした。その中に この
パンとぶどう酒、そして互いの交わりがあったのです。

(昨日ある兄弟がくしくも言われたように)
神はそのような、日常生活のレベルで行われた
単純な集まりを通して イエスキリストの
十字架と復活 昇天の意味を 深く深く
兄弟姉妹の霊に啓示されたであろうことは
疑いの余地がありません。

2010年7月9日金曜日

トラツグミ

暗いキリが降る梅雨の朝です。

何と今、南の森でトラツグミが啼(な)いています。
普通 トラツグミは真っ暗な夜に
「静かで長く尾を引くものさびしいシノ笛」
のような音を発します。
ある人にはこれは 極めて不気味に感じられるでしょう。

ですからこの夏
この小屋に泊まられる皆さん、
夜トラツグミの声におびえてはなりません。

十字架の釘跡(くぎあと)

今私たちの手に
十字架の釘跡がどれだけあるでしょうか。
十字架の釘跡がなければ、
聖霊の注ぎ油はあり得ません。

主イエスの死とは実は 
「アダムにある総ての人」に対する神の判断と結論です。
それは即ち 
「文句なしに 総てのものは死ななければならない」
ということです。

ですから どうしても
神は 主イエスが死なれるまで
待たなければなりませんでした。
その死を見届けられた後で
神は初めて聖霊を遣(つかわ)すことが出来たのです。

従って
私達の経験における「聖霊の満たし」もやはり 
私たちが明確に十字架を担(にな)った後に
やって来なければなりません。

それ故
こんにちの私たちの生活とは 神の手から
十字架の釘跡をいただく為の日々である筈です。
そのためにはまず 今日この日 私の心が
他のものにではなく 
真にキリストと彼の十字架に向かっていなければ
ならないのです。

あなたが そのような心を持つならば間もなく
他の人々とあなたの環境が
あなたを「キリストの十字架」に付けに来ることでしょう。
それこそが「日々のあなたの十字架」に他なりません。
(先人の言葉より)


「これは・・私のための聖なる塗り油となる。
それを人の肉に注いではならない。」
(出エジプト30の31~32)

2010年7月7日水曜日

ただ神からの光によって

前の記事の「一切」☆というのは その時点で
「私が意識させられているもの」に限ります。

私は 今に至るも「まだ私の知らない多くの罪」を
持っていることでしょう。それは当然のことです。
それは「無限な聖の光」の中を歩まれる神の目から
見るならば 当たり前過ぎる事実です。

ところが、それらの罪は
「今の私」には責任がないのです!
(しかしそれらの罪でさえ キリストの血の適用を
受けていることを神に感謝します)

その「今の私が知らない罪」に関しては 私は
ムリな内省などは むしろするべきではありません。
内省とは自分の心を掘り下げ、見つめ観察することです。
またキリスト者は 決して人まねや
他人の霊的なことばのサルマネをしてはなりません。あくまで
「神から直接受けた光」に従って今 捨てるべきであると
感じさせられるものを捨てるだけで十分です。

5才の子供が 50才の大人の口ぶりをマネるとか、
知ったかぶりをしたり 大人の道徳のマネをして、大人の
フリをするのは とてもヘンであり むしろ見苦しいことです。
5歳児は5歳児らしく自然にふるまうべきです。

しかし来年になって
私が神から「新たな 更に強い光」を受けるならば その時
その光の中で 私は初めて「私の視界」に飛び込んで来る 
より小さなゴミを見るのです。そのようにして初めて
私の中にあった新たに今 落とすべき罪やこの世が示され、
私は「それは私にとっては」罪であり世であると言う
「霊的な知識」を得るのです。

その時から 私は「現に見させられた」が故に それ以後
私は その「見たという事実」から逃れることは出来ません。
その見たという事実に対して 私がどうふるまうのかは 
それ以後 神の御前においては 明確に私の責任となります。
もしも聖霊が 私の「霊の中の 良心によって語る声」に
従わないとするならば それは明らかに私の罪となり、
それは深刻な事態である と言わなければならないでしょう。 

そのような命(この場合は「視力」)の成長や変化は 
キリスト者として当然 あるべき姿です。
そのようにして キリスト者は無理なく自然に、より円熟へと
向かうのでしょう。きっとそこには(どんな霊的な年齢層に
おいても 即ち 霊的赤ちゃんにも、若者にも、壮年にも)
それなりの自然な美しい命の現われがあるはずです。

私たちが受けたのは命であり、決して「霊的」徳目の
遵守(じゅんしゅ)や文字の道徳や善悪ではありません。
自然さと美しさこそ命の特徴です。

従って私たちはただ 互いの
「霊の命の成長や 聖霊からの語りかけ」の為に励ましあう
べきであり 他のキリスト者に「私の標準」から ある規定を
押し付けることなど決してするべきでないことは明らかです。 


しかし今日は別件としてですが・・
もしも長い間 神からの生ける「語りかけや光」がないと
言うならば それは より重大な問題です。
人が体だけ大きくなっても 精神がいつまでも五歳児で
あるならば それは極めて異常であるのと同様です。
これは別の大切な問題として 
改めて考えなければならないことです。

いずれにしろ、
日々 キリスト者の霊の中で語る静かな
「聖霊の生ける語りかけ、神の生けることば」
(即ち「文字」ではなく 神からのレーマのことば)が
キリスト者にとって 
極めて根本的な必要であることは明らかです。

山暮らしのキリスト

感謝なことに 私は既に二十歳前に 
「神の永遠の命」をいただきました。

しかし、
ある団体(「教会」)から離脱した後 何と
十年以上も「私にとってとても魅力的に見えた 
この世を愛することに専心した」時期があったのです。

無論 新しく生まれた者は永遠ですから 
それでも私はキリスト者でした。
だから あの当時でさえ 私の意志とは関係がないように
時々「主よ」という「ため息」がわいて出て来るのでした。

その頃の私の勝手な 祈りとも言えないような祈りは
「主よ 私はまだしばらくこの世を愛したいのです。
だからどうか大目に見てください。だから今 
私を突然 殺すことだけはどうかカンベン願いたいのです。
なにとぞ この点だけはよろしくお願い致します。」
というものでした。だから
私はいつの日か 主のもとに戻るであろうことは 私の霊の
中では当然のように感じていた と言えるでしょう。

しかしその十年余 それは真に真に愚かな日々でした。
その愚かさをレンメンと書きつづるならば、面白おかしい
小説の1つ2つはスグにでも書けるような気がしますよ。

しかしついにその時が来ました。と言うのは
私は「本当の心の安らぎ」(絶対にそれはこの世にはない)を
得たかったし、私自体が「永遠の存在」であることは十分に
分かっていたからです。そのことを、私はとても愚かではあったが
「神の何か」を損するほどには愚かではなかった、 
と表現してもよいかも知れません。 

ある日ある時 私は完全に主に戻りました。
そして私はその時「主よただ今私はあなに戻りました」と
言うだけではなく
私に関して父なる神が ハッピーと感じられないであろう
物や事 即ち 私が主に背を向け 密(ひそ)かに心の深くに
大切にかかえて来た「一切」☆を主の足元に投げ出したのです。

正にその日からです。 
主はこの小屋にも住み始められ、私は
日々その表れを次々と見ることになりました。
ですから私の「不思議だ」と言うツブヤキは その日から
今日に至るまで 毎日のように口をついて出て来るのです。
「これは不思議だこれは主だ」というフレーズが
毎日絶えず 私の口からわき出て来るのです。

イザヤ書によれば 
キリストは「ミスターワンダー(不思議)」です。
従ってクリスチャン生活が
ワンダフルであるのは当然のことでしょう。
(ワンダフル=不思議でいっぱい)

キリストは
都会だけでなく山奥にも そして「たった二人っきりでも」
十分に暮らすことがお出来になります。
「山暮らしのキリスト」は本当に「すばらしい」!

2010年7月5日月曜日

畳のカット

きのう「畳みたいなもの」のカットはうまく行きました。
カットしてみたら その畳の内容物は スポンジでした。
だからこれは「たたみ見たいなもの」ということになります。

今日はその下に 
ハッポースチロールの断熱材を敷く予定です。
もしそれが早く終われば、
例のフィックス窓の段取りにかかります。


人には極めてユニークな機能・霊があります。
人の特殊性と価値は正にその点にあります。
人は「人の霊」によらなければ「神のこころ」を
「知る」ことは決して出来ません。
神に関わることを「知る」には 
「聖霊が人の霊に知らせる」こと
によって初めて可能となるのです。

神に関わる総ては自然界を超えたものですから
自然的、物質的な人の知る機能(肉体、知性、魂、感情、
思い等)によって知ることは全く不可能です。 
(創世記1の24の「生き物」と訳された原語は
何と「魂」です。だから人の魂も知性も物質に属するのです)
聖書にある「知識」という言葉は、全部そういう手段・霊を介して
聖霊が与えた「霊的な知識」のことです。

ただし
キリスト者は霊の中で「知った」ことを 後に思いを用いて
その内容や意味を「理解する」ということはあり得ることです。
しかし
   ①「霊で知る」(深い所で何かをつかむ、という経験)
  →②後に思いによって以前「知った」意味を理解する
という順序は決して変えることができません。
ですから「キリスト者のすべての認識」のスタートは
完全に霊だけによらなければなりません。
人は「聖霊が人の霊に神の事柄を知らせられる」ときにだけ
初めて「神の事柄を」を「知る」ことが可能となるのです。
それはまた「啓示」或いは「油塗りの教え」と表現しても
いいでしょう。

聖霊が「霊に語る語りかけ」は必ず
魂の従順や静けさの中で行われます。
従ってあるキリスト者達が好む「圧倒的、火のような聖霊経験等」
は 実は聖霊ではない、他の霊による可能性が多分にあります。
特に「肉体に関わるそのたぐいの経験」は極めて危険である
と言えるでしょう。

2010年7月4日日曜日

部屋の真中に電柱が立っている

また 舞い戻って地下の客室をやっています。
今日は タタミを敷(し)けるでしょうか、
ちょっとムリかな。
部屋の形が「超いびつ」なので 
タタミをさまざまにカットしてから敷(し)く必要が
あるのです。

これは本当の話なのですが
この地下部屋のところどころに 
何と古電柱が立っているのです。このわけは
説明がめんどうなので今日は割愛(かつあい)しますが 
皆さんはこれをどう推理されるでしょうか。

タタミをカットしないとあの部屋にタタミは入らないのですが
要するに、素人(しろうと)が大工さんのマネごとをする
と言うことは、まーいろんなことをやるはめになる、 
と言うことなんですね。

さて
一階の客間が少し暗いので 東側の何もない壁に
明り取り用のフィックス(はめごろし)の窓
(90cm×60cm、寒冷地なのでペア・二重)
を入れたいと思っております、出来ればこの夏中に。
開閉可能な窓を作るのは結構めんどうでしょうが
フイックスならば 簡単でしかも 極めて安価に出来ます。
それは素材が ガラスでなくプラスチックだからです。
多分 窓枠も入れて全部で3000円くらいで済むでしょう。


突然ですが
人にとって最も大切なもの:
それはまず
「神のこころ」であると思っております。それは
「みこころ」と言ってもいいのですが
「みこころ」という使い古された言葉には
宗教がしみこんでいるように思います。だから私達は
ついウッカリ この超重要真理「神のこころ」を
何気なく通過させてしまうのではないでしょうか。
(新約聖書には非常に多く出てくる言葉なのに)

もう一つは「人の霊」です。
人の霊によらなければ 人は神のこころを
「真に知る」ことは決して出来ないでしょう。

更に付け加えます。
多分当時 大工としての主イエスの仕事も 
煩雑(はんざつ)でさまざまな筋肉労働、肉体労働を
含んでいたはずです。
要は 当時の大工は「何でも屋」なのです。人々のいろいろな
要求に応える「何でも屋」ほど大変な仕事はないでしょう。
(私のように 自分の好きなものをマイペースで作る
要するに「遊び」とはわけが違います。)

彼は 父ヨセフが若くして世を去った後、本業の他に
残された母に孝養を尽くし、妹、弟をかえりみるという 
極めて過酷な日常を送られていたと推察されます。

それゆえか
年齢的には30歳くらいの青年イエスに対し
「まだ50にもなっていないくせに」と悪口を
言った人がいます。多分イエスには
「この世がしたうような美しさ」はなかったことでしょう。

2010年7月1日木曜日

近況です

はやもう七月。
今 ちょっとした梅雨(つゆ)の晴れ間、
気持ちのいい青空がロフトの窓からのぞかれます。
これ二・三日 続くといいけど。


この夏 或いは 
一度に多くの来客があるかも知れないと、
地下室にボードを張り始めたのですが、どうも今回は
その必要はなさそうです。

ですから 実家の近く 千葉ニュータウンの
ジョイフルホンダから買ってきた9ミリのボードは
ロフトの客間、ななめ天井部分の低い所に張りましょう。
でも、相当高いところに182cm×92cmの重い
ボードを一人で張るのはとてもムリなので、後日そこには 
板を張ることにします。
(でもこんなボード 一人で張るいい方法があるのかな?)

以前、ピアノ室?の壁と天井に板を張って見たら
一束1000円もしない、超安物の板なのに 
縦張りにして見ると意外にキレイに見えるのです。
工事はラクだし 天井に板もまたいいものです。
それにしても 
一つ天井にボードと板を両方張るという
なんとも横着(おうちゃく)なこのやりかた!

(小さく見えるこの小屋も 実は意外と大きく、
地下にも泊まってもらえれば夏だと8人、9人は可能です。
しかし私自身、この小屋 総床面積が何坪あるのかは
いまだに分からないのです。
なぜでしょうか、計算して見る気にもならないのですよ)

奥歯がうずくので医者に行って見たら 歯周病だそうです。
え、それ昔聞いた恐ろしい歯槽膿漏(しそうのうろう)でしょ。
ああ、私もついに!これも加齢(かれい)の兆候
(ちょうこう)かと すこしガッカリして、
これからどんなスゴイ治療が始まるのかと身構えていたら 
何のことはない、ちょこちょこっと歯の周りを消毒して
総てが終了です。恐ろしいような、よかったような、
なんだかもの足りないような、昨日の歯医者さんなのでした。