正体不明、怪しげな音が
居間のどこだろう、しかし確かに居間のどこかから
発している、コトコト、パリパリ、ガラガラと。
正にこれは怪音。
冷蔵庫の氷の音かなと思って調べて見る。
しかし違う。
それでも また一定時間の後 同じ音が居間に響く、
バリバリ、ガラガラと・・。
この正体は実は
薪ストーブの煙突の上から紛(まぎ)れ込んだ小鳥が
煙突を落下し、火の無い暖炉のなか ある間隔(かんかく)で
バタついている音だったのです。
かように いろんな鳥がマサカという方法で
この小屋の中に飛び込んで来ます。
中には
死んで初めて私に発見される小鳥も。
厳冬(げんとう)の中
それまで必死で生きて来たであろうケナゲな姿で・・。
*
昨日
下山の仕度(したく)をしていた時
一羽の小鳥が西デッキの人工芝の上 居間の中を
のぞくようにガラスごしに 居間に対して真っ直ぐに
座りこんでいます。
忙しいので 気にも留めなかったが
少したって気付くと彼はまだ 前と同じ姿勢でぼんやりと
部屋を眺め続けているのです。
こんなことが数回続き、
私もさすがに「何だろう」と近づいて見る。
それでも逃げない。とうとう大きなガラス窓を全開する。
それでも逃げない。
そして「君どうしたの?」としゃがんで話しかける。
これでも逃げないのだ。
この時 私との距離はわずか数十センチ。
そして
「いくら何でもこれは変だ、病気かな」と手を伸ばした瞬間
彼はハッと我に返ったように とても元気よく
森へと飛び去って行ったのです。
それにしても
彼の目的は一体何だったのでしょう。
7 件のコメント:
うちでは、煙突に巣を作ります。
草やワラはせっかく運んでも滑り落ちる時も多く何メートルもびっしりと詰め物をしたようにたまってしまい、秋になって開通させるのが大変です。
それで対策品やネットを架けるなどで
鳥が入ってこないようにしています。
他でも同じ事になっているのを経験してますので家では巣を作るという結論に達しました。
でもその鳥の行動パターンほんと不思議で撫でれるように感じほど動かないですよね。最近は放っておくと彼の時に飛び立ちいなくなっています。
ああ、天に飛び立つ日が楽しみ
鳥の行動、
そういうことが やはり
あり得るんですね。
煙突掃除、今度 教えて下さい。
天に飛び立つこと、
それは「天に携えあげられること」ですが
キリスト者として
それへの待望は あるべきでしょう。
鳥と聞くと、彼らを見ますと過去この地球を君臨して頂点に立ち、今の人間とは比べ物にならないぐらい長い時間地上や海に空を支配していた恐竜を常に思い出します。
そしてもちろんその以前の解明されている地球46億年の歴史を神さんに知らされて、恐竜の頃我々のご先祖は小さな小さなネズミみたいな哺乳類で、酸素も少なく二酸化炭素の多い空気の薄い世界で、細々と支配者の目の届かぬところでひっそり暮らしていた。
大きなものが小さくなり、小さなものが大きくなっているいま・・・・イエスの言っている事の中のひとつそのままといえるのではないかと。
聖書の裏づけはこのように我々のまわりにいっぱい散りばめられていて、よぉーく足元とか見ていると、しっかりそれらがあるのが面白いですね。
果たして進化なぞあったのだろうか?
生命現象は 奥深いです。
その最高の現象は
「創造されることのなかった生命」
の存在です。
その意味では神も一つの生物です。
創造された生命も目に見えないくらいに
微小な(しかし見える)生命から
巨大な生命まであまたありますが、しかし
完全に「物質ではない生命」もあります。
その物質でない生命は 気の遠くなるような
太古において創造されたことでしょう。
そして物質的生命は、遥か後代に
ある時に至って
ある目的の為に初めて創造された
のですから、
物質ではない生命の方が
遥かに根源的な生命です。
その一つの表れとして 今日でさえ
物質でない諸生命が あらゆる物質的な
生命を支配しているという事実を
指摘することが出来るでしょう。
しかし「創造されなかった生命」は
更に更に根源的な生命であることは
明白です。
その創造されなかった生命こそ
極めて重要な生命であり 私たちが
最大限に注目しなければならない
生命であることは更に明白です。
いのちはいのちによりてなり
またいのちにかえる。
そういった意味では
人ではなく
神の考えられた輪廻転生みたいな(違うけど)
輪になる
その様な壮大なドラマのなかで
いのちのもとであるかたをしり
うけ、そだて、お返しする
日々増し加わっていくいのちを見ることほど幸いな楽しみもない。
命が死の中に飛び込み
命が遂に「不死の命」とされた。
これは2000年前に 死ぬことの出来る
人を介して初めて実現されたことです。
即ち
死が命を圧倒するように見えた瞬間
それがギャクに何と
命が死を完全に飲みつくす
という永遠の勝利をもたらしたのです。
更に
その「命の勝利」の詳細が今現在
私たちの日常生活において事こまかに
再現、展開されようとしています。
そのリアリティの一つ一つに触れるとき
私達から自然でムリのない礼拝が
賛美と共に生じて来るのは
しごく当然のことと言えるでしょう。
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