前の記事の「一切」☆というのは その時点で
「私が意識させられているもの」に限ります。
私は 今に至るも「まだ私の知らない多くの罪」を
持っていることでしょう。それは当然のことです。
それは「無限な聖の光」の中を歩まれる神の目から
見るならば 当たり前過ぎる事実です。
ところが、それらの罪は
「今の私」には責任がないのです!
(しかしそれらの罪でさえ キリストの血の適用を
受けていることを神に感謝します)
その「今の私が知らない罪」に関しては 私は
ムリな内省などは むしろするべきではありません。
内省とは自分の心を掘り下げ、見つめ観察することです。
またキリスト者は 決して人まねや
他人の霊的なことばのサルマネをしてはなりません。あくまで
「神から直接受けた光」に従って今 捨てるべきであると
感じさせられるものを捨てるだけで十分です。
5才の子供が 50才の大人の口ぶりをマネるとか、
知ったかぶりをしたり 大人の道徳のマネをして、大人の
フリをするのは とてもヘンであり むしろ見苦しいことです。
5歳児は5歳児らしく自然にふるまうべきです。
しかし来年になって
私が神から「新たな 更に強い光」を受けるならば その時
その光の中で 私は初めて「私の視界」に飛び込んで来る
より小さなゴミを見るのです。そのようにして初めて
私の中にあった新たに今 落とすべき罪やこの世が示され、
私は「それは私にとっては」罪であり世であると言う
「霊的な知識」を得るのです。
その時から 私は「現に見させられた」が故に それ以後
私は その「見たという事実」から逃れることは出来ません。
その見たという事実に対して 私がどうふるまうのかは
それ以後 神の御前においては 明確に私の責任となります。
もしも聖霊が 私の「霊の中の 良心によって語る声」に
従わないとするならば それは明らかに私の罪となり、
それは深刻な事態である と言わなければならないでしょう。
そのような命(この場合は「視力」)の成長や変化は
キリスト者として当然 あるべき姿です。
そのようにして キリスト者は無理なく自然に、より円熟へと
向かうのでしょう。きっとそこには(どんな霊的な年齢層に
おいても 即ち 霊的赤ちゃんにも、若者にも、壮年にも)
それなりの自然な美しい命の現われがあるはずです。
私たちが受けたのは命であり、決して「霊的」徳目の
遵守(じゅんしゅ)や文字の道徳や善悪ではありません。
自然さと美しさこそ命の特徴です。
従って私たちはただ 互いの
「霊の命の成長や 聖霊からの語りかけ」の為に励ましあう
べきであり 他のキリスト者に「私の標準」から ある規定を
押し付けることなど決してするべきでないことは明らかです。
*
しかし今日は別件としてですが・・
もしも長い間 神からの生ける「語りかけや光」がないと
言うならば それは より重大な問題です。
人が体だけ大きくなっても 精神がいつまでも五歳児で
あるならば それは極めて異常であるのと同様です。
これは別の大切な問題として
改めて考えなければならないことです。
いずれにしろ、
日々 キリスト者の霊の中で語る静かな
「聖霊の生ける語りかけ、神の生けることば」
(即ち「文字」ではなく 神からのレーマのことば)が
キリスト者にとって
極めて根本的な必要であることは明らかです。
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