2010年7月5日月曜日

畳のカット

きのう「畳みたいなもの」のカットはうまく行きました。
カットしてみたら その畳の内容物は スポンジでした。
だからこれは「たたみ見たいなもの」ということになります。

今日はその下に 
ハッポースチロールの断熱材を敷く予定です。
もしそれが早く終われば、
例のフィックス窓の段取りにかかります。


人には極めてユニークな機能・霊があります。
人の特殊性と価値は正にその点にあります。
人は「人の霊」によらなければ「神のこころ」を
「知る」ことは決して出来ません。
神に関わることを「知る」には 
「聖霊が人の霊に知らせる」こと
によって初めて可能となるのです。

神に関わる総ては自然界を超えたものですから
自然的、物質的な人の知る機能(肉体、知性、魂、感情、
思い等)によって知ることは全く不可能です。 
(創世記1の24の「生き物」と訳された原語は
何と「魂」です。だから人の魂も知性も物質に属するのです)
聖書にある「知識」という言葉は、全部そういう手段・霊を介して
聖霊が与えた「霊的な知識」のことです。

ただし
キリスト者は霊の中で「知った」ことを 後に思いを用いて
その内容や意味を「理解する」ということはあり得ることです。
しかし
   ①「霊で知る」(深い所で何かをつかむ、という経験)
  →②後に思いによって以前「知った」意味を理解する
という順序は決して変えることができません。
ですから「キリスト者のすべての認識」のスタートは
完全に霊だけによらなければなりません。
人は「聖霊が人の霊に神の事柄を知らせられる」ときにだけ
初めて「神の事柄を」を「知る」ことが可能となるのです。
それはまた「啓示」或いは「油塗りの教え」と表現しても
いいでしょう。

聖霊が「霊に語る語りかけ」は必ず
魂の従順や静けさの中で行われます。
従ってあるキリスト者達が好む「圧倒的、火のような聖霊経験等」
は 実は聖霊ではない、他の霊による可能性が多分にあります。
特に「肉体に関わるそのたぐいの経験」は極めて危険である
と言えるでしょう。

4 件のコメント:

電気屋 さんのコメント...

すみません。
ふとした思いの質問になってしまうのですが、、。

”山小屋作り始めて、もうかれこれ15年、
キリストをここに迎えて 今年で5年”

前半はわかるつもりですが、もしよろしければ後半を教えてくださいませんでしょうか。

Mr.Sugar さんのコメント...

電気屋さん、
よくぞ聞いて下さいました。
有難うございます。

もうあれから数年経過しました。
だから今はもう

”山小屋作り始めて、もうかれこれ20年、
キリストをここに迎えて 今年で10年”

ですね。

エシュコル さんのコメント...

書き直した方が宜しいかと・・・。

Mr.Sugar さんのコメント...

そうですね。有難う。
でもどうやって その部分を
書き直すのかなあ。

最初 ブログを始めたとき
ある人に
完全に「おんぶにだっこ」だったので
私は 分からないです。つまり
その部分もやってもらったと
いうことです。

エシュコルさん、やり方分かりますか。