きのう「畳みたいなもの」のカットはうまく行きました。
カットしてみたら その畳の内容物は スポンジでした。
だからこれは「たたみ見たいなもの」ということになります。
今日はその下に
ハッポースチロールの断熱材を敷く予定です。
もしそれが早く終われば、
例のフィックス窓の段取りにかかります。
*
人には極めてユニークな機能・霊があります。
人の特殊性と価値は正にその点にあります。
人は「人の霊」によらなければ「神のこころ」を
「知る」ことは決して出来ません。
神に関わることを「知る」には
「聖霊が人の霊に知らせる」こと
によって初めて可能となるのです。
神に関わる総ては自然界を超えたものですから
自然的、物質的な人の知る機能(肉体、知性、魂、感情、
思い等)によって知ることは全く不可能です。
(創世記1の24の「生き物」と訳された原語は
何と「魂」です。だから人の魂も知性も物質に属するのです)
聖書にある「知識」という言葉は、全部そういう手段・霊を介して
聖霊が与えた「霊的な知識」のことです。
ただし
キリスト者は霊の中で「知った」ことを 後に思いを用いて
その内容や意味を「理解する」ということはあり得ることです。
しかし
①「霊で知る」(深い所で何かをつかむ、という経験)
→②後に思いによって以前「知った」意味を理解する
という順序は決して変えることができません。
ですから「キリスト者のすべての認識」のスタートは
完全に霊だけによらなければなりません。
人は「聖霊が人の霊に神の事柄を知らせられる」ときにだけ
初めて「神の事柄を」を「知る」ことが可能となるのです。
それはまた「啓示」或いは「油塗りの教え」と表現しても
いいでしょう。
聖霊が「霊に語る語りかけ」は必ず
魂の従順や静けさの中で行われます。
従ってあるキリスト者達が好む「圧倒的、火のような聖霊経験等」
は 実は聖霊ではない、他の霊による可能性が多分にあります。
特に「肉体に関わるそのたぐいの経験」は極めて危険である
と言えるでしょう。
4 件のコメント:
すみません。
ふとした思いの質問になってしまうのですが、、。
”山小屋作り始めて、もうかれこれ15年、
キリストをここに迎えて 今年で5年”
前半はわかるつもりですが、もしよろしければ後半を教えてくださいませんでしょうか。
電気屋さん、
よくぞ聞いて下さいました。
有難うございます。
もうあれから数年経過しました。
だから今はもう
”山小屋作り始めて、もうかれこれ20年、
キリストをここに迎えて 今年で10年”
ですね。
書き直した方が宜しいかと・・・。
そうですね。有難う。
でもどうやって その部分を
書き直すのかなあ。
最初 ブログを始めたとき
ある人に
完全に「おんぶにだっこ」だったので
私は 分からないです。つまり
その部分もやってもらったと
いうことです。
エシュコルさん、やり方分かりますか。
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