2011年11月21日月曜日

「聖書を持ってきてくれないか」

糖尿病が相当悪化したある方について書きました。
その人の、キリスト者である奥様は何とか
夫の心が真剣に神と神の言葉に向かうようにと
メッセージのテープとか本とかをいつも一生懸命、
病床の彼に勧めたのでした。
「そうなってくれないと私は困るのです。
たくさん恩を受けた夫に申し訳ないから。」
これが中国出身の奥様の切実な思いでした。

しかし彼は全く聞き入れてくれません。
彼の言い分こうです:
「あなたの信仰は趣味みたいなものでしょう。
今日人の病気は医学が直すのです。」

このことに続くのが
11月4日→14日→15日の記事でした。

ところがその後17日彼は再び入院します。
家で意識がもうろうとし、口がきけなくなり
遂に意識を失い、病院にかつぎこまれたのです。
これはかなり深刻な事態です。

しかし何と幸いなことに
きのう20日に至り意識を取りもどし、彼は
枕べの妻を見たのです。

正にその瞬間
彼の口から最初に発せられたことばが
今日のタイトルのことばだったと言います。

「このことだけはお知らせしたい」
これが奥様であるE姉妹の今日午前の
せっぱつまった電話の内容でした。

皆様にも、お祈りくだされば幸いです。
実は東京渋谷区在住の飯田太郎、英子ご夫妻です。

2011年11月15日火曜日

千年間の救い

天に帰られたイエスはパウロに対して
「私は、この民と異邦人との中からあなたを
救い出し・・」と言われました。(使徒26の17)

ここでイエスは
救いとは「地獄からの救い」だけでなく
「この民と異邦人からの救い出し」であると
宣言されたことになります。

「この民からの救い」とは
「ユダヤ人からの救い」であり
それは当時の「正当な」宗教からの救いを
意味していたはずです。
パウロの生涯にわたるユダヤ教との戦いは
このイエスのことばに極めて忠実に従った結果です。

私たちも
地獄からだけでなく
今日の「正当な宗教」と異邦人(この世界)からも
救われなければなりません。
なぜなら

地獄からの救いとは「異邦世界の人々が」
無代価で与えられた永遠の命によって
永遠の時代において、永遠に
享受(きょうじゅ)するものですが、

この民と異邦人からの救いとは「キリスト者が」
自分の魂(自分自身)をいかに処(しょ)すかによって
永遠の前の千年の時代において享受されるからです。
(そこにはまだ「時間」があります。)

どう見ても千年間は短い時間ではありません。

「神の芸術」でしょうか

11月4日の続き。

中国出身の奥様からのメールです↓

感謝します!ハレルヤ~ 主人は今日退院しました。
完治ではないけど、今のところ安定してます。
本当に皆さんご心配おかけしました。
何度も病院行ってくださった事、これから、主の道歩み、
礼拝賛美 福音信仰 ハレルヤ~
(11月14日 月曜日 午後10:07)

2011年11月14日月曜日

水道凍結対策

相変わらず山小屋の一人暮らしです。
見る人影は郵便屋さん一人と言う日は「にぎやか」
な方で、全く人の声を聞かない日が一番多いのです。

薪小屋の屋根は、そまつな合板の上に安い
波トタンを張っただけです。だから、雨モりは
必ずあるだろうと覚悟していたのですが、先日
ザーザーぶりの中を見に行ったところ
アマモリは何と完全ゼロでした。
改めて、波トタン屋根というのはいいものだと
感心したのです。なにしろ金があまりかからない!

最近は暖かい日が続いていますが、11月の後半から
小屋をルスにしますし、ここは寒冷な阿武隈高地、
12月に入ればいつ寒波がおそって来るか分りません。
(今年はじめマイナス15度にもなったのです。)

それでどうしても
水道の凍結対策を急がなければなりません。
長期にルスにした場合
台所の水道が最も凍結しやすい。それは多分、
地下室をはっている水道管(カキオポリ)が凍結する
からなので、今、長期ルスにしても地下室の気温が
あまり低くならないように対策を取っております。

とは言うものの、これも「ソマツな地下室」の壁の
スキマ風を完全シャットアウトするというのは、そんなに
楽ではありません。断熱材でうめ、板をはり、コーキングで
仕上げるのですが、結構手間がかかるのです。

2011年11月9日水曜日

義弟の死

ごく最近
私の大阪在住の妹の夫が、心筋梗塞で突然他界しました。
なんと56歳の若さでした。

まじめそのもの、何ごとにも集中過ぎるほど集中する人
だったので、大学での研究生活等がかなり過酷であった
のだろう、と想像しております。

彼は真にキリスト者であり、既に
神の永遠の命をいただき、完全な救いを得ている
とは言え、正直やはり
「何でその若さで、かわいそう、気の毒」
と言う感慨はイナむことが出来ません。

私は葬儀には出ませんが
ただ妹と数日を過ごすために、月すえ大阪に行きます。

今回きっと神ご自身が、
エクレシアにある真実な交わりを、私たちに与えられる
ことでしょう。
その交わりにこそ、
今は主のもとで安息する彼女の夫の霊をも包む
永遠に滅びることのない天地の交流があるのです。

2011年11月7日月曜日

すばらしい祈祷書(きとうしょ)

神は、人が
心の最も深い所(人の霊)から
真理や自分の正直な感覚を
①「総ての存在」(宇宙)に向かって
声に出して発すること(宣告と言ってもよいでしょう)を
とても喜ばれます。しかしそれがツブヤキにならないように
気をつけましょう。

「総ての存在」を個々に言えば
②まず第一に神です。(当然これが一番多い)
③次に神の敵に、です
④第三に自分、⑤さらに人間に、
⑥そしてあるいは「下等な生き物や無生物に対して」も
含まれるかも知れません。
(⑥のヒントが聖書に無いわけではないのです。しかし
それは多分その背後にいる悪霊に対してでしょう。)

③は「悪霊への糾弾(きゅうだん)」或は
「証しのことば」と呼ばれます。
またせまい意味では②だけを「祈り」と言いますが、
イエスは⑥を「祈り」に加えたことがあります。
しかしその点はどうでも「自分の霊から正直に、
ハッキリと外に向かって声を発すること」が肝心なのです。

詩篇とはこの①から⑥の書であり、詩篇は全編とても
すばらしい「祈祷書」であると言えるかも知れません。
詩篇のどの部分が何番であるかを調べるのは楽しい作業ですが、
その境界がハッキリしないことも多いです。
(その部分は①であると言えば間違いないでしょう。)

それにつけても、詩篇のほとんどの部分が、神の敵を意識し、
悪霊に強く対抗していることには驚くばかりですが
そのようなダビデ達の「明確な意識と声」こそが、当時に
おける時代を転換(てんかん)してしまったのです。
今日と言う時代における神の最大の必要も、
そのようなキリスト者達のハッキリとした「意識と声」
であることは明白です。

2011年11月4日金曜日

神の芸術

若き日の飲酒がたたり、
ある方が相当重い肝臓病になられました。
最近彼の体内に、ある最新の機械をうめこむ治療もした
のです。医師は
「もうやるべきことは全部やった」と言ったそうです。

とてもやせ細ってしまった彼が、しかし、
この31日、病床でキリスト者のすすめに従い
とてもすなおに、声に出し、神に祈ったのです。
この方の奥様である姉妹も「彼が声に出して祈るのを
初めて聞いた」ととても喜ばれました。

さて、たった今、
彼の病床に共に立ち会ったY姉妹がメールをくれました:

その後も、彼はお祈りをして、
解放されているそうです。
神様は彼を
待っていて下さったのですね!
神は本当にすばらしいです。

sugar:
今、
「山の祈り」から帰って来たところでした。
全山・真っ赤、正に神の芸術です。
この秋、彼の家にも、神が
「美しくもすばらしい芸術」を描いて下さいますように。