2010年4月17日土曜日

ある証し

誰でも信じるならば、肉の罪から解放されます。
ぼくは これを経験しました。

止めたくても止められなかった罪。
自分でルールを作っても、絶対に守れなかった。
どんなに頑張っても
罪はまた ぼくを虜(とりこ)にして来ました。

しかし
十字架に釘づけられた「キリストの内に自分を見た」時、
「私は、罪に対して死んだ」ことを悟(さと)りました。
すると、どうでしょう!
もう罪に傾(かたむ)くことがありません。
信じられない!(いや、信じます)

十字架には
信者をして、罪から解放する本当の力があります。
自分は何もしていないのに 罪が力を失い、
たとえ私は誘惑されても、もはや罪に陥(おちい)りません。
これは十字架の力の一端(いったん)に過ぎないでしょう。

ぼくは その一端を体験しました。
だから、宗教ではなく 命の力として、
キリスト・イエスを信じます。

今、そのような十字架の力を知ったからには
どうして、主を愛さずにいられるでしょうか。

2 件のコメント:

電気屋 さんのコメント...

うわー、これは耳に心地よいどころではありません。

私も信じています。

”もう罪に傾(かたむ)くことがありません。”

と宣言出来るのか。
もちろん私の中の内なる方はそれ以外の何者でもありません。
でも、っと付け加えたいのは
外側に自分がいる、すこし苦しいです。

Mr.Sugar さんのコメント...

正直で真面目な電気屋さんに
感動しております。

この証をした方は 長年のキリスト者
なのですが、まだ青年であるとも
言える年代です。この経験はつい
3、4ヶ月前のことです。ということは
いわゆるキリスト教の中では この真理が
語られることも経験することも
極めて少ないと言うことです。
しかしローマ書などによれば 
これはとても常識的な事実です。

十字架の殺す働きは多面あります。
殆どのキリスト者がよく知っているのは
血潮による複数形の罪の清めです。

もしこの経験さえない と言うならば
その人がキリスト者かどうかも
疑わしいのかもしれません。(そうとも
断定はできないかもしれませんが・・)

その次に経験するべきキリストの死の面が
この「肉的な罪」からの解放のための
キリストの死です。

これは信じるだけで 劇的に経験が
出来るので、それへの励ましは
もっとあっていいと私は考えています。

それは罪を犯す源である私そのものが
キリストとの一つの中で死んだ、という
霊的な歴史的事実にかかっています。

罪はそこにあるとしても
事実として私が死んだとすれば、
私はもはやその罪とは関係がありません。
罪は私に達することが出来ません。

しかし、これはその事実を信じなければ
その霊的効力は決して私に及ぶことはなく その経験もできません。

その前に
神が私をキリストの中において下さった
と言う事実があります。
もしもこの事実を
受け入れることが出来れば、
キリストが死んだことは事実ですから
キリストの中にいる私もキリストと共に 
その罪に対して死んだわけで 
その罪の力は私に及ぶことはないのです。


しかし誤解してはならないのは
もしもこの面の罪からの解放を経験したと
しても その人は何も「罪無き完全」に
到達したわけではない、と言うことです。

しかし、この経験は霊的死の力の経験の
第一歩と言えるかも知れません。もしもこの経験がないというキリスト者がいる
ならば、なるべく早くこの経験に入る
ために真剣に神の前に出るべきです。


しかし十字架の死の効力はこの面
だけではありません。私たちが経験するべき
キリストの死の面は他にたくさんあります。

その多くの面の体験を 一つ一つ
個人的に深めて行く、ということが
キリスト者としての成長であるとも
言えるのではないでしょうか。