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ここにいたり信者の欲望、願いは全く新しくされます。
彼の願い(欲望)は神の願い(欲望)と一つにされます。
この時、信者は消極的な意味で「神に抵抗しなくなる」と言う
だけではなく、積極的に主の喜ばれることを喜びます。彼は決して
自分の欲望を抑(おさ)えてムリをするわけではありません。
むしろ彼は神が求められるものを喜ぶのです。
彼は神の喜びを喜びとします。
神が もしも彼に苦難(くなん)を望まれるのであれば、彼は神に
苦しむことを求めます。そして彼はこのような苦難をも甘いと
感じるのです。
彼が傷(きず)を受けることを もしも神が喜ばれるのであれば
彼は喜んで彼の手を差し出し、傷を受けます。彼は癒(いや)される
ことよりも苦難を喜ぶのです。もし神が彼が低くあることを求められる
なら、彼は喜んで神と協力して 自らを低くします。
彼は神の好まれるものを好みます。
彼は神以外のものを求めません。
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十字架は実を結びます。
総ての十字架は神の命の実を得させます。
注:
この場合においても
彼には明確に「墓を経過した自分」があります。
「十字架を通ることのない魂」の浮遊(ふゆう)の中で
②「自分を失い」、気持ちのよい「聖なる」ムード等に
押し流されて 不用意に何かを受け入れるのとは
根本的な相違があります。
彼は自分の霊と鋭敏(えいびん)な思いを働かせて 神のみこころ、
願いを知り それを自分の意志によって明確に選び取って
いるのです。彼は自分の内面の諸部分と体を「自分への服従」の中で
機能(きのう)させ、「神との一つの中で」「彼の」人生を歩んで
いるのです。このような人には 自分の思いや感情のみならず
「地のはうもの」でさえ服従するでしょう。
6 件のコメント:
この十字架を経ずして、"自己"を確立したいのが、現在のニッポンキリスト教です。
次から次へと新たな"教えの風"が吹いております。
実に肉を気持ちよくするものが求められているわけです。
まさにウォッチマン・ニーがカルトとされる時代です。
先人の言葉感謝します。
”彼は喜んで神と協力して 自らを低くします。”
私はまだまだだなー。
”「地のはうもの」でさえ服従”
猿回しと猿を見習ってまた、出直しです。
ありがとうございます。
Dr,Luke氏の仰ることもごもっともです。
言葉によると、、
耳に心地よい言葉をほしがり、次々と自分の為の教師を集める時代とあります。
イーチングイヤーな話は警戒するべきなのでしょうね。
あっ、Lukeさんの話はまたこれかよと思わせる奥深さがありますので大丈夫かと聞かせていただいております。
重ねてありがとうございます。
兄弟達に感謝です。
テモテ書にあることは
現在に向けられた警告です。
そこでパウロによって
ひどい有様で描かれている人々は
みな いわゆるクリスチャンです。
さらに
パウロの同労者達でさえも
パウロを捨て去った事実は
胸を打ちます。
パウロの晩年の姿をを見るとき
「この道」と「繁栄」とは全く
エンもゆかりもないことがよく分かります。
>パウロの晩年の姿をを見るとき
>「この道」と「繁栄」とは全く
>エンもゆかりもないことがよく分かります。
確かに。主イエスご自身が
人の子が戻るとき、地上に信仰が見られるだろうか
と"不信仰"な懸念をされているわけですから・・・。
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