それは
「神のみこころと調和した自分の意志」が 他の何者にも束縛
(そくばく)されず、「総て」を支配下におさめている生活です。
その「総て」とは 第一に自分の魂です。
感情:
それは 欲望・愛情・感覚に 私の中で勝手に主導させない生活です。
私の欲望、愛情、感覚に私が引きずられ ふり回されることなく
私の欲望、何かに粘着(ねんちゃく)しないではおれない愛情、
どこからともなく飛来(ひらい)し、私をふり回してしまう雑多な
感覚等々を ぎゃくに私の意志が支配すると言うことです。
これはあたかも
神の御心と調和した私の意志という上品な女主人が
欲望、愛情、感覚という荒っぽく騒(さわ)がしい女中達の上に
静かに美しく君臨(くんりん)しているような姿ではないでしょうか。
思い:
キリストを信じた後でさえ サタンの要塞(ようさい)となっている思い・・
それにしても パウロによると 救われたはずのキリスト者の思いが
すでに神の敵によって占拠(せんきょ)されずみであるとは!思いは
人の心の主要部分であるというのに、これはヒドイ話ではありませんか。
(これでは私達は「将来の永遠の地獄」からは救われているとしても
今現在 この時空の中の実際生活で 私達はサタンの手から本当に
救われていると言えるのでしょうか!キリスト者に用意されている
神の救いとは その程度のものなのでしょうか!)
さて話を元に戻しましょう。私達は
その思いの所有権は元来は私のものであるのに、いつの間にか
悪霊達が私の思いを わが物顔に占有(せんゆう)し 翻弄(ほんろう)
していると言うトンでもない現実に先ずは気付かなければならない
でしょう。現実を知り、強い危機感を感じて初めて
その問題が解決される可能性が出てくるからです。
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