人は神を信じ、全き服従にその身を置くとき、
もっとも主体的で個性的であると思うのです。
信仰の創始者であり完成者であるイエスがそうであったように・・
*
アーメン、私も「完全な信仰と服従」があって初めて
「完全な自由と主体性」が現れ出ると信じております。
このことは一見矛盾するように見えるかも知れませんが
とても不思議な大いなる事実です。ある人がこのことを真に知り
経験しないとすればそれこそ 正に大損(おおぞん)ですよ!
さて 神の意志を自分の意志として選び取った人は
基本的に必ず自由で個性的です。
なぜなら神はこの上もなく、人の自由を尊重されるほか、
多様性の中の統一性、統一性の中の多様性を「神の豊かさ」として
表現されたいからです。
当然 その統一性とは思想の統一性等ではなく、命から現れ出る
統一性です。だからそこには必ず「命の美しさ」が現れ出るのです。
そのことは 神の創造である自然界を少し観察するだけで
容易(ようい)に発見できることです。自然界は多種多様
(たしゅたよう)きわまりないのに そこには美しい統一性が
何と見事に存在していることでしょう。それは正に神業です。
しかしその自然界は神の豊かさを真に表現するための「一幅(いっぷく)
の絵」に過ぎません。神の本当のネライは別のところにあるのです。
実の所、神はまず人類において 真の多様性の中の統一性によって
神の限りない豊かさを表現されたいのです。
この場合 個性と多様性は 人が神によって本来与えられている
人の魂の個性と多様性から出現します。
そして統一性、
これは聖書では「一つ」と言う言葉で表されていますが、
それは 復活されたイエスキリストにある永遠の命
によって初めて人類にもたらされるのです。
(本当から言って、それは単なる統一性を超えた
本質的とさえ言える「一つ」を意味しております。)
そして遂にはそれが
「万物一切が、キリストの中で一つに帰せしめられること」
(エペソ1の10)に繋(つな)がるのです。
そこには画一的な醜悪(しゅうあく)さなど
一カケラも存在しないことでしょう。
3 件のコメント:
肉の思いほど自由がないのを思い知らされてます。
特に恐れにおいて、これほど人をナーバスにさせるものはありません。
がんじがらめです。
御霊には自由がある、ですね。
霊の思いにもっと敏感になりたいです。
神の御心を自分の意志で選択するなら
自由で個性的なキリスト者になる、と言う
今日の記事は極めて大づかみな描写です。
実際生活において 私達から自由を奪う
敵に対抗し
本当の自由を獲得するレベルのことは
全く述べられておりません。
言われるように「思い」が最終的な
争点になるでしょう。
パウロは永遠に救われているキリスト者の「思い」であってもそれは既に
敵の要塞となっているとさえ
言っています。
霊は 神から生まれ、ある程度の浄化は
あるかも知れません。
しかし、特に「思い」は殆ど手付かずの
状態です。
従ってパウロはエペソ書で、
「思いを新たにする」必要を述べています。
しかしそこには
要塞という言葉が暗示するように
激しい戦いは避けられないはずです。
多くの霊的な知識と祈り、そして何よりも
神に対して門を叩く気概が
強く要求されると思っております。
共に求めて行きましょう。
しかしそれは殆ど敵の陣地のなかに
ある状態です。
上の 最後の二行は 余計です。
御注意ください。
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