「神は人を通して働かれるという事実」は明らかです。
ですから、人は神の御心を求め、知り、そして立ち上がって
神の御心、神の意志を自分の意志として選択するべきです。
ところがここに、今日
これとは微妙(びみょう)に異なったキリスト者の観念が
広く観察(かんさつ)されるようです。それは:
「人が自分の意志までも捨て去り 神に総てをゆだね、聖霊が来るのを
心を空っぽにして待っていると いつの間にか聖霊が、私の変わりに
選択してくれる。これこそ理想的なキリスト者の従順である」と
いうものです。結論から言って これは美しくは聞こえますが
極めて危険です。なぜなら これは「最も基本的、かつ重要な
神の原則」に真っ向から違反するからです。
当然 私達は聖霊の働きに信頼するべきです。神は私達が聖霊に
服従することを願われます。しかし決して聖霊は 私に代わって
神の御心・神の意志を選択することはなさいません。聖霊は 人が神の
意志を取るように人を促(うなが)すことは明らかです。しかし、最後の
決定は人がしなければなりません。この差異(さい)はとても重要です。
神は絶対に 人が神のあやつり人形になることを願われません。人は
人であり、木石ではありません。(それにしても神はそれほどまでに人の
自由意志を尊重されるとは何たる事実でしょうか!)
以上のことは 既にエデンの園で見られる 神、サタン、そして人の意志
と言う「三つの独立した自由意志」の間にある一大原則であり、
神ご自身がこの原則を固く守られます。なぜならそれは神によって
定められたからです。ですから、その巧妙な悪だくみの中、ヘビの意志を
エバの「受身的薄弱(はくじゃく)な意志」が選択しようとした時でさえ、
神は沈黙(ちんもく)を守らなければならなかったのです。
当然、その時エバは 神の言葉、すなわち「人への愛を源とした神の明確で
真実な意志」を信じ、それを自分の意志として選択し、ヘビの「虚偽と死に
満ちた意志」を敢然(かんぜん)として退(しりぞ)けるべきでした。
宇宙にある二つの巨大な意志、神とサタンの意志の間(はざま)にあり、
あなたの意志決定は今日でさえ 極めて重要な人の行く末(すえ)を
左右しようとしているのです。
私達は薄弱な意志を捨て、断固「神の御心を行おうと決心する者」
(ヨハネ7の17)でなければなならない事は明らかです。
6 件のコメント:
「繁栄の福音」もそうですが、敵の誘惑は、常に「美しく」見え、聞こえ、感じ、ますね。
この「受身的薄弱な意志」は、女性化幼稚化した現代のキリスト教の大きな「実」ではないでしょうか。
特にこの「心を空っぽにする」というニューエイジ的欺きは、御言葉を学び、御言葉で思考する、という聖書信仰よりも安易ですし、自分の目にも、他人の目にも「霊的」に映りますので、容易に浸透してしまいます。
個人的には、昨今の心地よい音楽に重点を置いた礼拝形式で、感覚重視のキリスト教が蔓延している事も、この欺きの下地となっているように思います。
良記事を感謝します。励ましを受けました。
神がここまで回りくどい方法をとって御自身をお示しになっているのは、どこまでも人の自由意思を尊重されるからだと信じています。
あくまでも自分の意思でイエスを選ぶことにこそ信仰の実質があるのだと思います。
とてもアーメンです。
それにしても このテーマの背後に
存在する状況は 相当根深く深刻なもの
であることは明らかです。
人は神を信じ、全き服従にその身を置くとき、もっとも主体的で個性的であると思うのです。信仰の創始者であり完成者であるイエスがそうであったように・・・・
神の栄光をあらわす中でも
地上において唯一神に似せられて造られた人、
ダビデも語っています「人とはいったいなにものなのでしょう。あなたが、、」
人として造られた事
ありがたいです。
驚くべき事であり
恐れる様な事実
キリスト者でさえも
出来ないことが無いという神の懐深さ
結婚はその自由をささげる契約でもあります。
人として創られたこと、本当に
ありがたいです。
ソルトさん 電気屋さん
ただ一緒に神を賛美したいです。
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