*新・メール感謝です*
「それ」は自分にとって
決して決して嬉しいことではありませんでした。
ところが、
主は私に迫るように語られたのです。
「あなたにそのことが与えれたこと、
それにあなたは同意してくれますか?」と。
そこには主の深い深い愛がありました。
☆
メール感謝です。
その時の「深い深い愛」とは「あなたの感覚」をさえ超えた、
「その向こうにある」不動の主の愛なのでしょう。そうです、
ただ一言 主は私達に言いたいのです、
「たとえそうであっても、私を信じなさい」と。
一体、信じるとは「本来そういうもの」なのではないでしょうか。
嬉しいとき、悲しいとき、苦しい時、その他どんな時にでも、
それらの感覚はひとまず「かたわら」に置いて、或いは「無視して」
神を信じ主に従うこと、それだけを主は願っておられるのでしょうね。
(何故なら主は御自身にとても大きな自信があるからです!)
更に言うならば、
とても信じることが出来ないような状況や、私の「ひどい感覚」の中でこそ
「信じるという価値」が浮かび上がるのです。なぜそんな事が言えるの
でしょう。なぜなら、私達の信じる対象が「神」であるからです。
「あの偉大で素晴らしい神」であるからです。「その神」であるからこそ、
私の感覚が干からびて無味乾燥、豊かな感覚が何も無いとしても、
また仮に、神にさえ捨てられたのではないかと「感じさせられる」
ような時でさえも、信じることが出来る、のではないでしょうか。
さて本来信じるとは「自分がどう感じるているか」とは
何の関係もない筈です。人は自分の感情や感覚にどうして
それほどまでに左右されるのでしょうか。むしろその方が極めて
不思議なことである、と言わなければなりません。(多分実はこの点に
大きな深い敵の秘密・ウソが隠されている、と私は考えております。)
信じるということの「本質」は、興奮することとは全く無縁な、
①信じる対象が一体誰であるのか、またどうであるのか、
と言う「私の評価」が先ずあり、次に
②私に与えられている自由意志を行使し「そのお方or その言葉」を
選び取ると言う、ある意味で一つの「冷静な作業」である、と言える
のではないでしょうか。(当然その後に、信仰の結果として賛美や
感謝など、感覚的、感情的な世界が展開することは充分あり得る
でしょうが、それらは「信じることそのもの」ではありません。)
だからこそ、これまで、
神によって、私達に、時に与えれる感覚的でウットリとするような
「天的な日々と時間」は決して長くは続かなかった、のでは
ないでしょうか。それは、主が敢えてわざとそうなさった結果
なのでしょう。いかなる場合でも、どんな物や事によっても、
揺さぶられることなく(或いは最小限に止どめて)「ただ
神の言葉を信じ、主の御心に従うように」という神の明確な
強い意図がそこに存在していたから、に違いありません。
*
神はあなた方を「子として」取り扱っておられるのです。
(ヘブル12の7)
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