2009年5月23日土曜日

神を信じると言うこと

*新・メール感謝です*
「それ」は自分にとって
決して決して嬉しいことではありませんでした。
ところが、
主は私に迫るように語られたのです。
「あなたにそのことが与えれたこと、
それにあなたは同意してくれますか?」と。
そこには主の深い深い愛がありました。


メール感謝です。
その時の「深い深い愛」とは「あなたの感覚」をさえ超えた、
「その向こうにある」不動の主の愛なのでしょう。そうです、
ただ一言 主は私達に言いたいのです、
「たとえそうであっても、私を信じなさい」と。

一体、信じるとは「本来そういうもの」なのではないでしょうか。
嬉しいとき、悲しいとき、苦しい時、その他どんな時にでも、
それらの感覚はひとまず「かたわら」に置いて、或いは「無視して」
神を信じ主に従うこと、それだけを主は願っておられるのでしょうね。
(何故なら主は御自身にとても大きな自信があるからです!)

更に言うならば、
とても信じることが出来ないような状況や、私の「ひどい感覚」の中でこそ
「信じるという価値」が浮かび上がるのです。なぜそんな事が言えるの
でしょう。なぜなら、私達の信じる対象が「神」であるからです。
「あの偉大で素晴らしい神」であるからです。「その神」であるからこそ、
私の感覚が干からびて無味乾燥、豊かな感覚が何も無いとしても、
また仮に、神にさえ捨てられたのではないかと「感じさせられる」
ような時でさえも、信じることが出来る、のではないでしょうか。

さて本来信じるとは「自分がどう感じるているか」とは
何の関係もない筈です。人は自分の感情や感覚にどうして
それほどまでに左右されるのでしょうか。むしろその方が極めて
不思議なことである、と言わなければなりません。(多分実はこの点に
大きな深い敵の秘密・ウソが隠されている、と私は考えております。)

信じるということの「本質」は、興奮することとは全く無縁な、
①信じる対象が一体誰であるのか、またどうであるのか、
と言う「私の評価」が先ずあり、次に
②私に与えられている自由意志を行使し「そのお方or その言葉」を
選び取ると言う、ある意味で一つの「冷静な作業」である、と言える
のではないでしょうか。(当然その後に、信仰の結果として賛美や
感謝など、感覚的、感情的な世界が展開することは充分あり得る
でしょうが、それらは「信じることそのもの」ではありません。)

だからこそ、これまで、
神によって、私達に、時に与えれる感覚的でウットリとするような
「天的な日々と時間」は決して長くは続かなかった、のでは
ないでしょうか。それは、主が敢えてわざとそうなさった結果
なのでしょう。いかなる場合でも、どんな物や事によっても、
揺さぶられることなく(或いは最小限に止どめて)「ただ
神の言葉を信じ、主の御心に従うように」という神の明確な
強い意図がそこに存在していたから、に違いありません。


神はあなた方を「子として」取り扱っておられるのです。
(ヘブル12の7)

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