*先人の言葉(2)*
神の御心と「神が与える喜び」の間には大きな相違があります。
神の御心は、いつでもどこにでもあります。何故なら、私達は
それを、私に対する神の按配・配剤の総てに見るからです。
しかし
「神が与える喜び」はいつもあるわけではありません。
それはある状況の中で、時々経験され得るものでしょう。
もしも信者が神の喜びのみを追い求めるのであるならば、彼は
独自に、自分自身を楽しませてくれると言う「神の御心の一部」
だけを願うことになります。
彼は「神の御心の全体」を望みません。神が彼を幸いにする時だけ、
彼は神の御心を喜び従います。しかし神がいったん彼に苦しみを与える
ならば、彼は神の御心に反抗します(従いません。)
しかし、
もしも信者が「神の御心を命とする」なら、神が彼にどのように感じ
させようとも御心に従います。何故なら、彼は幸いにも悲しみにも、
彼に対する「完全な神の按配・配剤」を認めるからです。
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