*先人の言葉から*
「健康の喜びなどの外側の身体上の幸い」や
「この世の楽しみ」に対して私達が死ぬ時、私において既に
十字架の最も完全な働きはなし遂げられた、と私達は思うかも
知れません。
しかし、
私達の旧創造を取り除く神の働きの中には、まだ
十字架のより深い働きがあることを、私達はあまり知りません。
神は私達が「神が与えて下さる喜び」にさえ死に、ただひたすら
「神の御心」に対して生きることを願っておられるのです。
肉的な事や世的な事よりも、神と神を近く「感じるならば」
私達は幸いを覚えるかも知れません。しかし、神の目的は
神が下さる喜びを私達が享受することでさえなく、
ただ彼の御心に従うことです。
「神が喜びを与えて下さること」だけを願い、苦難を嫌うのであれば、
私達はまだ、十字架のより深い働きを経過しているとは言えません。
「私達は・・信仰によって生きている。」
(ガラテヤ2の20、ローマ1の17、Ⅱコリント5の7)
☆
この文においては、
十字架の第一と第二の働きについては全く述べられておりません。
僭越ながら、ここに十字架の働きについて、その一部を
敢えてまとめようとすれば、以下のようになると思われます。
第一はキリストの御血による複数形の罪の洗いです。
第二は「罪、肉」に対する私の死です。
第三は「健康の喜びなどの外側の身体上の幸い」や
「この世の楽しみ」に対する死です。そして、
第四は「神が与えて下さる喜び、例えば燃えるような愛や
主の臨在の実感、昇天の超越した感覚等」に対してさえ、死ぬことです。
第三で述べられていることの多くは決して「悪」ではありません。
しかし、確かに旧創造には属するでしょう。
第四は、普通キリスト者の到達するべき最高の高嶺、
とされているものです。
第三は十字架の深い働きであり、第四は十字架の更に深い働き、
であると言えるでしょう。
これらは禁欲による達成などとは全く無縁です。
先ず私に対してそれらの達成に関して強い願いが与えられ、そして
その真理について天からの①啓示、そして②信仰を通して、
「永遠の領域におけるキリストの十字架」の効力が、真に時空の中に
伝達される時、初めて私においてさえ③経験 となるはずです。
3 件のコメント:
「健康上の喜びなどの外側の身体上の幸い」
や「この世の楽しみ」を主からの祝福として
自分の喜びを正当化している人を見ると「変」「おかしい」と思います。なぜなら「霊の訓練のほうがもっと益になる」という次に書かれている御言葉を無視しているからです。自分の都合の良いように聖書を解釈し、しかも人にも教えるとは、恐ろしいことです。「神の国を第一にするなら、必要なものは全て与えられる。」と書かれています。
健康やこの世の楽しみはあとからついてきるもので、第一に求めるべきではありません。
でも、私の義を振りかざすことにも平安がありません。神の僕を裁いてはならないとも書いてあるからです。
信仰によって、すなわち神様を信じることによって、私たちは、この世界と天体の全てが神様のことばによって造られ、しかもそれらはみな、無から創造されたことを知るのです。 へブル11:3
新創造の今の時代においても、神の創造の業は神のことば「御こころ」によらなければなりません。毎日の生活の中で、私たちを煩わせる多くの問題の中で、神に聞き、尋ね、語り合い、神のことばを待ち望むことがどうしても必要なことです。この一点に信頼してマリアのように主に聴くことを行って行かなければなりません。主は必ず答えて下さると信じて待ち望むならば、必ず答えてくださいます。そのときいただいた「ことば」は生きた
キリストそのものであり、その命のことばによって信仰の歩みが喜びの道に変えられます。このとき、シオンの大路を歌いながら歩むことばできるのです。そして、箸にも棒にもひっからないどうしようもない私たちに起こるすべてのことが益に変えられてゆくのを
見て行くのです。ハレルヤ!主は情け深く、恵みと真実に満ちておられますから、感謝します。
はじめまして。
興味深く読ませていただいています。
十字架の第三、また第四の働きを紹介してくださって感謝します。
同様のことを感じながら、また考えていながら漠然としており、ハッキリしていませんでした。記事を拝読し、すっきりしました。
ありがとうございました。
「鷲のように翼を張って」さん、
コメント感謝です。
神のことばが私達に直接語られること
によって
私に対する御心を真に知り、
御ことばに対して信仰を
働かせ、信じ、そのようにして
ただ神の御心の中を
進んで行きたいものです。
☆
武州乃鳩さん
有難うごさいます。
今後ともよろしくお願いします。
神が最も大切にされていること、
それを誤ることなく、
確実に知りたいものです。
共に前進して行きましょう。
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