2009年5月22日金曜日

息子の葬事(4)

今回、
私の「直覚」の中に「息子の葬儀は家族だけでよい」と言うものが基本的に
あったように思われます。ですから、その基本にそって他の総てが無理なく
付随的に決定されて行ったのです。
かように、どんなことをする場合でも、先ずキリスト者の「直覚の中に
何があるのか」はとても大切なことではないでしょうか。

「葬儀」はいつ行われるべきか:
それは、やはり、ひつぎ(棺)を保管場所から火葬場へと搬送する直前の
ひと時がいろいろと都合がよいと思われます。
(むろん火葬後に、日を改めて行うことも可能でしょう)

次に考えるべき極めて大切なことは、
「いわゆる葬儀という集まり」に何が必要なのか、と言うことです。
私はそれを、イエスキリストとキリスト者達 と考えました。
即ち、それはそのような場合、どうしてもそこに必要なものは、唯二つの
もの「主イエスとキリスト者達だけ」であると言う意味です。

これ以外に一体何が必要なのでしょう。
もしもこの二つ以外に何かが必要であるとすれば、それは、
その場の雰囲気を盛り上げる為の何かでしょう。

しかし、生けるキリストとキリスト者にとって、その場のムードを掻き立てる
ための専門家とか、大道具、小道具など本当に必要なのでしょうか。
それとも、そのようなものがどうしても必要とされなければならない程、
キリスト者の中に生きるキリストイエスの存在は小さいものなのでしょうか。
そして、肝心かなめである私達の主キリスト御自身は、
そのような「者や物」を本当に必要と思われるのでしょうか。

そうです、
本当に必要なものは、生けるキリストの真の存在であり、
キリスト者達が「故人をしのぶ心」を背景とした、神への感謝と賛美だけ
でしょう。もしもそれさえあるならば、そこにはもう既に「葬儀に必要な総て」
が準備されているのです。しかし、
もしそれらが本当にないのであれば「真実なる何物」もそこには
存在していない、と言うことになるのではないでしょうか。

(余談ですが、このように考えると、葬事の集まりも「普段のキリスト者の
集まり」と、その本質的な意味では何も変わらないように思われます。)


と言うわけで、当日その時、そこにあったのは、
一切の装飾のない和室、息子の簡素なひつぎ、そして私達遺族4人
だけであったのです。式次第も事前の準備も何もありません。
キリスト者が顔を合わせる時、何がどう進んで行くべきかは、
その時になれば、「無理なく自然に」分ってしまうのです。
そうであってこそ「人の意志を尊重される聖霊」も、その場への介入が
可能となるのです。そうでなければ、人は本当に聖霊なる主を戸の外に
締め出してしまう、ことになりかねません。

そのようにして、あの時 そこには
祈りと賛美、ジュンをしのぶ交わりと少しの涙、そして上からの
「暖かいとさえ言えるほどの慰め」だけがあった、と言えましょう。
不思議に、誰の目にとっても、そこに存在したはずの
「唯一つの小道具」、「ひつぎの上の美しい花束」も
僅かの印象さえ残すことがなったのです。

今確かに言えること、それは
あのささやか極まりない「葬儀」におけるシーンの一こま一こま、
それを私は、一生決して忘れることはないであろう、と言うことです。


☆          ☆
注「私の直覚」:
この場合、それはいわゆる聖書の真理における「聖霊からの直覚」
と言う意味ではなく「人がその最も深い存在において、無理なく真実に
感じているもの」と言う限定された意味で使用しました。


多くの場合、当然、
キリスト者達が、やむなく関わらなければならない葬儀には
その出席者達の多様性に伴い、多くの難しい人間関係が付きまといます。
ですから、私の裁量に総てが任せられた今回の、
「とても小さな葬儀」と言うケースは一つの参考に過ぎないでしょう。

とにかく「一切が無理なく自然に行われる」のであるならば、それが
どんな葬儀であったとしても、よしとされるべきです。
何故なら葬儀がどう行われようと、キリスト者である故人の霊は神によって、
完全な守りの元にシッカリと護衛されているのですから。

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