今回の私の息子の場合、
彼の葬事の為の備えは、既にその死の数日前には、
神によって用意されていたように私には思われるのです。
先ずは
上からの促しによって、息子のために祈って下さるようにと言う
父親の求めに応じ、エクレシアの中に、広く、緊急で切実な
祈りが突然として起こされたのです。
ですから、彼の葬事は、そのエクレシアにおける祈りから
既に始まっていたのではないでしょうか。
間もなく(二日後or三日目)彼は、人の全く予期し得ない方法で、
アブラハムの懐に迎えられ、
そして次に、葬事は、それを聞いた「エクレシアの驚き」と、
次第に明らかになった様々な事実の証しを通し、大きな深い
神への感謝と賛美となって、進行して行ったのです。
今まだ続いている「余韻のような やさしい慰めの調べ」は
いつその終わりを迎えるのでしょうか。
以上のことこそ、
「息子のための葬事の実質と価値」であったのであり、
「家族4人だけによる、祈り、語り合い」と言う「いわゆる葬儀」は、
そのささやかな「一部分」に過ぎなかったのです。
*
「本当に大切で価値あること」は、
人間生活の中の、喜びと悲しみが織り成す普通の出来事の中でこそ、
粛々として行われ、現わされなければならないはずです。
いにしえの日、
その人間生活の、むしろ苦しみと悲しみのただ中に敢えて介入され、
その中でこそ、御自身の真の姿を現わそうとされたのが
「あの福音書のイエス」だったのではないでしょうか。
今日、見えざるそのイエスの出現そのものこそ、
「葬事」における「真の価値」に違いない、
と私は考えております。
0 件のコメント:
コメントを投稿