2009年5月15日金曜日

妻のある文書から

・・当然のことながら
その日、私達 家族の受けたショックと動揺は極めて大きなものでした。
一晩中、泣き明かすばかりであった、ジュンと同じ病を抱える
長男ケンの体調が大いに気遣われたのです。・・・

さて
葬儀の日、葬儀所の和室に遺体を安置してもらい、遺された私達四人は、
神に祈った後(私達は実はクリスチャンなのです)それぞれが、
ジュンについて思うことを率直に語り合うことが出来ました。

実は一年前、私の母が他界した際、牧師さんが聖書から、
「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。・・・しかり、彼らはその
労苦から解き放されて休むことが出来る。」と言う言葉を読まれたのですが、
その時の母の顔を見て私は正にその聖書で言う安息を感じたのです。
そして、今回ジュンの時も本当に
「ああ、ジュンは今ようやく苦しみから解きはなされたのだ」と言う実感が
あり、私は大きな安らぎと慰めを得たのです。

その和室での時間は短いものでしたが、それは正直で、飾り気のない、
何か慰めに満ちた、とてもよい時間となりました。
それでそのあと、私達は元気を取り戻し、火葬場へと向かったのでした。

さてその日一切を終えたあと、私の心が「あるところ」に収まって行くのを
感じました。そしてそれを境に、日一日と私の心が軽くなって行くのを
覚えたのです。そしてそれまでは決して見えなかったものが、
次第に見えて来るようになって来たのです。

とても不思議なのは、ジュンのことを思い出だすとき、心に浮かんで来る
のは決まって、とても爽やかで安心し切っているジュンです。何と
それは家族全員が共通に感じているジュンについての
思いでもあったのです。

彼の生前の苦しみは、それはそれは大変なものでした。
ですから今私が正直感じるのは、よくもあの体(様々な弱さを持っていた)
そしてあの病を抱え、35年も生きてくれた、と言う思いなのです。
また、私達家族も彼と一緒に、決して晴れることの無い大変な
苦しみの中に日々いたのだ、とも思わされました。


聖書に「主が与え、主が取られるのだ、主の御名は褒むべきかな」
と言う言葉があります。人生には、私達には理解出来ないことが
山ほどありますが、神にとっては、総て一切がつじつまが合うように
なって行くのだなあ、と今つくずく思わざるを得ないのです。

生前、皆様から与えられたジュンへの沢山の愛と慈しみ、そして
ジュンがこれまで頂いてきた暖かい交流を思うとき、
私はただただ感謝するばかりであります。

皆様の上に、神の祝福が豊かにありますようにと
心からお祈り致します。
本当に有難うございました。

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