2009年5月16日土曜日

息子の葬事(1)

遺族は肉親の死をただ悲しんでいればよい、と言うわけには行きません。
その死に関わる様々な状況に私達は迅速に、そして極めて具体的に応じて
行く必要があるのです。それはとても過酷ですが、私達は自分の明確な
意志に基づき、シッカリとそこを通過して行かなければなりません。

具体的に言うと、
①誰に知らせ、誰に来てもらうのか、
②遺体に関して葬儀屋さんに何をどう頼むのか、
③葬事をどうするのか、等です。
こう言うと簡単そうに聞こえますが、実際は以上の三点は非常に複雑で、
かなり厄介な問題を含んでいるのです。


ここで最も大切なのはあなたの意志です。これら全般をどういうふうに
行って行くべきか、についての私の意志です。
それでは「私のその意志」は一体どこにあるのでしょう。

それは、私の心の中にあります。それは、
「今この事態の中で、今の我が家にふさわしい、穏当で、無理の無い、
自然な形はどうであるべきか」について、私の最も深いところに存在する
「本当の私」がどう感じているのか、と言う「私の真の態度」です。

それは、私やあなたの最も深い「直覚」(今は「聖霊からの直覚」と
限定しません)と言ってもよいものでしょう。即ち、直覚と言うからには、
あなたはどうすればよいのか、についてあなたはもう既に知っている、
と言うことです。即ち、考えるまでもなく、どうするならば真の私は
平安を感じるのか、それをあなたは、少なくも
「あるイメージとしては」深い心の中に既に持っているのです。
それこそ、あなた自身の真実な声です。

次に、あなたは上の3点について「その真にあなたがよしとすること」
に基づいて一点一点、アーメンを言いながら、その詳細を紙にでも
書いて見るとよいでしょう。それらが上の三点に関する、あなたの意志
ということになります。ですから、あとは、あなたはそれに基づいて
シッカリ実行して行けばよいのです。


しかし実際問題、事はそんなにヤスヤスとは行きません。
何故なら、人の死にまつわるこのような事態に関しては世の中の、
特に葬儀屋さん等の主張する常識、やりかた、通念等が、
その背後に存在する強力な力を伴って、
「あなたの直覚」にジワリと対抗して来るからです。

しかし、もし私が、私の真の声をどこかに押しやり「いわゆる常識」に
何となく屈するとするならば、それはあとあとまでも残る不快感として、
私を苦しめることになりかねないのです。

これは我が息子に関わる、私の人生の大事な一こまです。
それなのに私は人の言いなりになって、自分を放棄することなど、
決してあってはならないはずです。

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