*メール、有難う*
2年前に父が亡くなった時、私が大声で泣いたのは、
その体が、家から火葬場へ運ばれる瞬間だけでした。
しかしその後家中に、深い安息が満ち、
穏やかな雰囲気と変わって行ったことを今思い出します。
生前父が戦っていた長く大変な病の終結と、そして何と、
父のキリストへの不信が死の直前に至り、初めて逆転されたことが、
これほど大きな安息に繋がるとは思いもしませんでした。
死の間際に、やっとキリストを受け入れたのですから、父は
(上からの、力の)聖霊も受けておらず、復活の味わいも
知らないままでこの世を去りましたが、父親っ子だった私が、
人として薄情なのではないかと思われるほど
「悲しみ」に浸ることがなかったのです。
むしろ、父を思い出すとき今も、キリストによって
「隔ての壁」を取除かれた安息が心を満たすのです。
我が子の死は、親の死とは比べることもできないほどに
深い痛みに違いありません。それでも愛する者の死さえ、
キリストの中では安息である、とは何という事実でしょう。
「死は勝利に飲み込まれた」・・・
ほんとうにそうなのですね。
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