2009年5月17日日曜日

「生」から「卓越した生」へ

葬事とは埋葬することです。ですから、
人の体が死を迎えたら、なるべく早くそれを地下に
埋葬するべきです。それが葬事の本質です。

さて、実は
人が死ぬことは神の御心の中心です。人にとって死は欠くことの
出来ない重要事項である、人は必ず死なねばならない、
それが神の御心です。

しかし神の御心は、それに留まりません。神は人をして
更にその「死の深い認識」に至って欲しいのです。

従って、ある人の死の事を聞いて知るだけでなく、通常人々は
その人の埋葬に立会います。それによって、言わば「死の上塗り」
を目撃しなければならないのです。今あの人は死んだ、彼はもう
この世に戻ることはあり得ない、墓にさえ入ってしまったのだから、
と深く印象づけられるのです。それこそ葬事・埋葬の意義です。


実はキリスト者のバプテスマとはその埋葬を意味します。
信じることによって、神の命を受けたキリスト者は、
自分が既にキリストと共に死んでしまった、と言う認識の後、
更に死の水の中へと自分を埋葬させることをもって初めて、
クリスチャン生活のスタート地点に至るのです。
それがなければ、キリスト者の生活(命ではなく)は
根本的に存在し得ない、と言ってもよいでしょう。

何故なら人は、徹底的な死に至って初めて、
次なる復活があり得るからです。埋葬されること、
即ち絶対に生き返る余地を残さない墓に入ってこそ、
人は初めて復活と復活の生活に至ることが出来るのです。

人は、
アダムから受け継いだ「通常の生、天然の生」を伴ったまま
必ず死の中へと入って行かねばなりません。それによって、
その古き天然の生を完全に終結させ、その上に
埋葬によってその事実を確認した後、
初めて「卓越した生による生活」の中へと入るのです。

その「極めて卓越した、完全に新しい生」、
それこそが、キリストの復活から生ずる
あの永遠の命に他なりません。

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